ダビデの姦淫によって産まれた息子が死に病に罹った時、彼は主の御前に一週間も断食をして、地に伏し、泣いて息子の命乞いをした。
ダビデにとって、自分の姦淫の報いを受けて息子が死ぬということは、どれほどの苦痛であったことであろう・・それは一週間もの断食に現れている。
しかし息子の死を知った時、彼は即座に食事を取り日常に戻っていった。それは、主の裁きに対する完全な服従である。
神の裁きが終わったとき、彼はその意志によって主に従順したのである。神の裁きに完全に満足することを選び取ることによって、ダビデはソロモンを産んだのだ。
息子が死んだことによって絶望するであろうと判断した家来と、ダビデはまったく違っていた。
王が家来と同じではならない。主に在る王は完全な従順によってのみ職責がまっとうできるのであるから、主のご計画の成るためにダビデはソロモンを産まなければならない。
ソロモンを産むのは神さまの時のみである。
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(伝道3:14)
今も、キリスト者が命に関わるとき、すべての命を握っておられる神様を知って居るという事において、世とはまったく違うのである。
どれほど尽くしても人の力によって、その命の終わりに満足することはないだろう・・。けれども、その命の主が裁かれることにおいて満足することは祝福である。
人は主に哀願することはできる、しかし、主に命じる者ではない。主に信頼するとき、すべてを通して神さまが良い方であることを、新約の今はなおさら知っているはずである。
ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。
しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛された(Ⅱサムエル12:22~24)
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