ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。(4)
人は誰でも妬む心を持っている。サウル王は配下のダビデを妬み、味方なのに殺そうとまでした。人は創造主の完全な愛を見失ったことで、満ち足りることのない飢えと渇きに悩む者なのである。
人の愛には常に条件が付き纏うので平安がなく、無条件に百パーセント愛する神の愛に渇いている。
アダムが愛された神の愛を、人は魂の深い所で記憶していて、おなじ愛を人に求める。
私たちを完全に満たす愛は、ここにしかないのに・・。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)
さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」(5~7)
ヨセフはありのままに語ることが使命である。預言は神に知らされたことを、時も相手もわきまえずに語らなければ役に立たない。
「預言のたまものを求めなさい。」とあるが、それはヨセフの災難の覚悟が必要であろう。なぜなら神からの預言の言葉を語るのは、それを喜ばない者に向かってであり、聞きたくもないことを語るからである。
再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。(9~11)
父は言葉を心に留めていたとあるが、それは神の導きによることである。気に入ろうと要らなかろうと、聞いた言葉を心に留めて置くことによって、最悪の状況から守られ、絶望と思える状況にも望みを失わずに済むからである。