その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(1)
そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(5~6)
死が待つだけの世で苦闘している者に、「良くなりたいか」と近づいてくださるイエス・キリスト。御救に与った者もかっては彼と同じように、思うようにならない状況の中で命をすり減らし、生きる望みに渇いていた。
彼の現状をご覧のイエスは、とても簡単な質問で交わりのときを用意された。ただ「はい」と答えれば良いのである。
望みをなくしている者には、主を見上げてみことばに「アーメン」と答えるだけで、み旨に飛び込み関係を築くきっかけとなる。
病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7)
この泉の癒やしは先着の者だけであった。彼はイエスのことばには答えず、自分の置かれている立場を訴えた。体の癒やしよりも、38年間の不遇を聞いて欲しかったのだ。病んだ体よりも愛を求めて心が痛んでいた。
イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(8~9)
渇いた魂に沁みるみことばは全身を癒やし、38年間も寝たっきりの体に流れる神の力は、彼を立ち上がらせ床を取り上げて歩き出させた。このことは信仰には拠らぬ一方的なイエスの憐みであった。
しかし、癒やしはキリストとの出会いに過ぎず、みことばを聴き続けて成長し、神の栄光を現させて頂くことこそ、本当に命の喜びを知るのである。
ペテロの姑は熱病を癒やされると、立って食事を作って主をもてなした。これが主に仕えみこころを行わせる癒やしの力であり、此処に癒やされた命の価値がある。
そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」(10~11)
癒やされた人が、彼らの律法ではなく癒やし主のことばに聞き従うのは当然である。みことばの真実を経験したのだから。
律法に従順するとき人は自分を悟ってキリストを求めるようになる。しかし、宗教家たちは律法に従順するのではなく、支配するための道具とした。
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)
神のご性質とは真逆に律法を用いる彼らに憐みはなく、それゆえ神の愛のわざを喜ぶこともない。
自分たちの権威に従わず、淡々と愛のわざを行って神を指し示すイエスは、彼らには不都合な存在であった。彼らにとっての安息日は、知識と権力を振り回し神に成り変わって裁く日であった。
彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。(12~13)
癒やされた人は癒やしを経験したが、まだイエスの御名を知らなかった。確かに彼はいのちを与える御名を知らず、求めてもいなかったのだ。それほどに彼の癒しはイエスの一方的な憐みであった。
キリストを伝えた時に、その方の癒やしや願い事、問題の解決などをお祈りする。その方がまだイエスを知らなくても祈りが叶えられることは、幾度も経験している。主が憐み深いお方だからである。
でもこれだけでは、キリストが与えようとしておられるいのちを受ける関係には居ない。それは自身の信仰によって主を知るときにたまわることである。
後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14)
彼が罪によって病み不遇な環境に置かれていたことがわかる。イエスは正しい者を癒やされたのではなく、病人を憐れんでくださったのである。
キリストに従順して身を寄せるなら、罪はキリストに拠って贖われるが、たとえ癒やされても、彼が再び吐いたものに戻るように罪に戻るなら、恵みを蔑ろにした罪の裁きが待っている。
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。(15~16)
「このようなこと」とは神のみこころのことである。此処にはっきりと彼らが神の敵となったことが示されている。
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。(17~18)
奇跡を目の前で見ながら、彼らはイエスと共に働かれる神を無視した。
人は真実を捻じ曲げることが簡単に出来る。集まって見ていても見なかったことにし、みことばも聞かなかったことに出来る。
それは、神を恐れることを知らないからであり、彼らを救うために来られたキリストを殺そうとしている。宗教家が固執するのはいのちではなく、自分たちの身分を保証する権威だけであった。