ヨブ記は色々な思い出がある。厳しく取り扱われた箇所だから・・。でも、確かな望みを与えられた箇所でもある。
ヨブ記を読み始めてまずヨブに「変だなぁ」と思った。
これほどに神様の祝福を受けているのに、神様から子供達を守ろうとしているように思えたからであった。
もう立派な大人である子供達が「あるいは神を心の中で呪ったかも知れない」と代わりに捧げ物をして罪を購おうとした。
その動機が「神様は罰する方」として認識しているように感じたから・・。彼は見えることにおいても非常に愛されていたのにである。
神様を信頼しているなら、子供たちを安心して御手に委ねて導かれ育てられ、自分自身で捧げ物をするようになるのを待つべきである。
ヨブの3人の友人は素晴らしい。それはヨブがそういう人であったのだろう。とても出来ない忍耐と犠牲を持って側にいて、一緒に苦しんでくれた。
彼らの言葉に誤りや勘違いがあっても、そのような事に出会ったら私も彼らのように話すかもしれないと思う。人は自分の理解できないことが愛する人に起こるとき、自分の考えの中でなんとか解決しようとするものだから・・。
でも、こういうことにもし出会ったら黙って友の言葉に耳を貸し、祈りつつ主を待つべきなのだと教わった。聞いてあげることしかできないのだ・・でも、忍耐が必要だろうなぁ。
しかしそのようにできたら、一緒に神様を味わい喜ぶことが出来るだろう。
エリフにはなりたくないと思った。彼は年長者を立てているようでも直後に否定している。此処で「物言わぬは腹ふくるるわざ」と同じ言葉が書かれてあるのに驚いた。
私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。
今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。
私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。(ヨブ記32:18~20)
言って気分をはらすというこの霊はなんだろうと思った。そうして彼は「私に聞け」と正しい言葉を語り出す。神様のことばを話すことで自分の腹がすっきりすることはない。自分の言葉を話すから自分の腹がすっきりするのだ。
神様に聞いた言葉を話す時は、腹の奥から絞り出すような痛みと、いたたまれない恥ずかしさが伴う。当たり前である。人が神の言葉を話すのはそもそも無理がある。
それでも・・蓄えてしまった言葉は話し出さない限り次に聴くことができないので、もっと聴きたくて・・仕方なく話してしまうのである。
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(マタイ10:27)
神様はヨブに親しく話してくださった。納得の言葉なんかいらない。ただ、神様が話し出される言葉を聴いていることが、うっとりと幸せなのである。それだけで充分なのである。
主は、友人を叱りつつも関係を回復してくださった。私は無視されるよりは叱られる方がはるかに嬉しい。そのように私も何度も叱られたけれど無視されたことは一度もない。
エリフを神様は無視された。勝手に正しいのは空しい。
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ムベ
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