石ころ

イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)

 

「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53~54)

これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60)

 

イエスは来る者を追い払わないが、自分を捨ててイエスのことばに従順する弟子は多くはない。奇跡への興味や、宗教家に反発してイエスに来る者もあったろう。

 

真理に飢え渇いてみことばを求め、謙って主に聴こうとする者なら、わからない言葉に出会った時すぐに立ち去ることは出来ず、なを留まって聴き続ける。渇きを癒やして下さる方を悟ってのことであり、それは初めの神の選びに応答する霊の働きである。

 

しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。(61~62)

 

イエスに留まることは、この世の欲求には拠らず真理への飢え渇きから出たことである。みことばがその渇きを満たすために、イエスのことばの通りに働き、備えられたシチュエーションでそのことばを選び取り、聴いたことばを反芻しつつ腹に治めて肉が造り変えられて行くのだ。

 

それはみことばの理解ではなく、イエスご自身に信頼して経験したことに拠る。
絶えず霊においては主に触れており、みことばに拠って今日を生き、寝ても覚めても主を経験している者の平安である。

 

ただ命の必要を求めるだけの信仰と、イエスが与えようと準備してくださっている永遠のいのちは、まったく質の違うものである。
主は地の王として君臨するために来られたのではなく、神に背いた人類の罪を負って十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえって天に昇られるお方であり、

使徒でさえ、何度もこのことをイエスから聞いても理解出来なかったのである。しかし、この事実に耐える弟子は、聴いたことばを覚えて主に留まって復活の主にお会いするのである。

 

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。(63)

 

誰であっても神のことばのすべてが理解できるわけがない。人は肉であり神は霊である。人はこの世で肉の目で見えることしか知らず、その範囲で選択して生きる者であり、神は人の思いもつかない永遠を語られるからである。

 

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。
そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」(64~65)

 

聖書の言葉は解説を聞いて分かったと思っても、自分自身で食べて反芻し味わったキリストでなければ、いのちとはならない。


祈りとみことばによる交わりの中で生きで、危急の時に貯えたみことばが生きて働くことを経験し、信頼を増して自分の命を主に委ねるときに、永遠のいのちの実を結ぶのである。
聖霊はその時間を支えていてくださる。これが神の選びによる備えである。

 

理解できないみことばがあることは当然であり、そのままに霊の倉に納めておけばよい。やがて実際にそのみことばを経験する時が来るからである。そのとき、倉にあるみことばを指し示してくださる聖霊がおられるから。

 

しかし、聖霊がいてくださっても倉が空っぽなら、指し示すべき言葉がなく、聖霊は働くことも出来ないのである。わからないままであっても貯えたみことばは生きており、出番を待っているのだ。

 

理解できないままにも沢山のみことばを貯えているなら、世の嵐にも慌てる必要はなく、その時こそ生きて働くみことばを経験する。危急の時にパラリと目の覆いが取り去られて、みことばの働きを目の前で見るような経験をすることは、キリスト者の醍醐味である。

 

人はすぐにわからないと苛立って去って行く。しかし直ぐに分かる事は直ぐに消えて行くものであり、この世に在って目で見ていることにどれほどの永遠性があるのか。それらはすべて過ぎ去って行くものである。

 

主が与えようとしておられるのは、人が未だ見たことも聞いたことも無く、思い描いたことも無い永遠である。みことばの理解はその位置で悟るものであり、それは黙って聴いてうちに貯えてゆくことから始まる。

 

神は一冊の聖書を用いて、一人ひとりに永遠への道筋を教え永遠に導くことが出来る。それは自から渇いて主を求め、聖霊による親密な交わりの中で一日一日それまで経験したことの無い、愛の神を知る深みに導かれて行く。
しかし、世のものを求める者は滅び行く世に取り残されるのだ。

 

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。(66)

 

人の選択の自由意思のために、イエスは十字架に掛からなければならなかった。神が人を創造された時に備えられた自由である。
神だけを愛する者として造られていたら、人は自分を神以上に愛することをせずみことばに従順する。

 

しかし、その人は自分で選び取る愛を知らず、あらゆる選択肢の中から自分自身を捧げて、神の愛に応答する喜びを経験することもない。
イエスに留まる者はイエスの愛を経験していて、信頼しているから応答して留まることが出来るのだ。

 

それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(67~69)

 

ペテロはイエスを経験して告白したのだ。主を知るのは、良い時も悪い時もあらゆる場合に、近しく御許に居て弱さのうちに神の愛を経験し続けている者である。
この時のペテロの答え、「あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます」は、冷静にイエスの最大の恵みを、すべての人に伝えて行くべき福音を語っていて素晴らしい。「知っています」は「経験しています」である。

 

私たちも「あなたを離れて何処に行けましょう。あなたはいのちのことばです」と、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病んでいても、ほめられている時も謗られている時も、死の床に在っても、いよいよ望みに満ちて告白する者であり、それはキリストの平安を味わっていての言葉である。


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