私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。(1)
「キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者」ペテロのこの告白は確信に満ちて誇らし気であり、それはキリスト者の最悪の中にある、最高の望みを教えている。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(2~3)
すべてのことはキリストに従って成ることであり、あらゆる場合に祈りの中で主に聴き、聴いたことばを語り、ただ、みことばにより頼む生き方によって、キリストの御足跡を共に辿ることである。
そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。(4)
此処には失敗はない。永遠をご存じの主に導かれてゴールに向かっているからであり、すべての問題は、みことばの望みから生まれる忍耐によって、成長に導いて栄光の冠に至らせるのだ。
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(5~6)
私たちが誰にでも謙ることができるのは、それが主に対してであり、主の正しい裁きに信頼してのことである。
ダビデがサウル王に従順し通したのは、神の選びへの従順であり、サウル王の執拗な迫害にも耐えたのは、神が定められた時に対する従順である。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(7)
自分の事を自分で心配するときは、自分でなんとかしなければならないけれど、神さまにお委ねするときは、全能の神が心配してくださる。
大して信仰が無くてもわかることである。それでも自分で心配してしまうのは、神を知らないからである。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。(8~9)
悪魔には立ち向かいなさいとある。しかし、戦ってくださるのは主である。私たちはみことばの約束に在ってキリストの内にいるのであり、主を離れては何もできないのである。
悪魔であってもキリストの中に居る者には、指1本触れる事はできない。みことばに従って歩む者には、ただ、神の御計画が成るのみである。
ユダを誘惑して、イエスさまが十字架で死んで墓に葬られた所までは、悪魔は勝利したと思ったであろう。
しかし、イエスさまはよみがえって、弟子たちに神であることを証して天に昇られ、今は神の右の座に着いて、キリスト者のためにとりなしていてくださる。
また、助け主なる聖霊が来てくださり、キリスト者にみことばを導いて守っておられる。
すべては、神の初めの御計画が完成したに過ぎず、サタンは利用されたのである。
一つひとつの出来事によって悪魔に脅される者ではなく、試練の時はみことばを反芻してキリストを待ち望む時である。敵は神の良きご計画を邪魔しようとしているが、それは新しいことが起ろうとしている証拠であり、キリスト者に成るのは神の良き御計画である。
キリスト者に在る約束は、すでに完成されている永遠のいのちである。私たちの立っている所は真実な神のことばであって、神との平和を持っており、永遠ののぞみに安息する者である。
キリスト者が恐れるのは悪魔ではなく、「今日、みことばに立っているか」ということである。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(10~11)
すべては、初めからの神の恵みによることで、行いではなく、恵みによって永遠の栄光に導き入れるために、血潮によって完全にし、苦しみの時は側に居てみことばを通して導き、折々の助けを見せて強め、揺るぎない信仰を育んでくださる。私たちはその神の御支配に安息している者である。