石ころ

霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)

 

夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。(16~17)

 

マタイではイエスが彼らを舟に乗り込ませたとあり、このことは主から出たことであるとわかる。しかしヨハネの書き方には彼らの心細さが現れている。

 

強風が吹いて湖は荒れ始めた。(18)

 

暗い湖で風と波が出て来ても漁師であった彼らには経験があったろう。落ち着いて操作出来たと思うが、彼らはもう漁師の経験によって生きる者ではなく、イエスに依存する弟子であったのだ。

 

そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。(19)

 

水の上を歩くイエスを彼らは未だ経験して居なかった。弟子たちは、自分たちと同じ肉体に閉じ込められたイエスを知るに過ぎなかったのだ。

 

しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。(20~21)

 

イエスが乗った舟は風も波も手を出すことは出来ない。弟子のかっての能力を引き出すのは主であり、舟はあっさりと岸にたどり着いた。

弟子たちは、すべてにより頼むイエスを舟に迎えて喜んでいる。幼子のように・・。彼らは目で見て、手で触れて、御声を近しく耳で聞いて従って来たのだ。そのように人となられた神に育てられていたのだ。

 

彼らの霊の状態はまだ聖霊と悪霊を見分けることが出来ずにいたので、マタイに書かれているように、恐れに付け込む悪霊に惑わされイエスを幽霊と思った。
肉によってキリストを知ることは無く、聖霊の守りがなければみこころを行うことは出来ない。みこころを導く神の霊と、妨害する悪霊を見分けるさえ出来ないからである。

 

キリスト者となると世の生き方に不器用になる。また、それまで気付かなかった罪に心を刺されたり、一人でみことばを選択し世に逆らって立つ時もあるので、時には恐れと戦うことになる。

 

主を知らない時は、多くの意見の後に付いて行けば一々考える必要も無かった事を、みことばに照らし主を選び取って生きるようになると、信仰が本物であるかが主の光の中に曝される。でも、それは甘いお交わりを経験する時でもあるのだが・・。

みことばを生きる時に自分に合った模範が無いのは、一人ひとりの賜物も違えば、環境も違っているからであり、それは主にたまわっている働きがみな同じではないからである。

 

その時に平安を経験するのは、日々の些細な事柄から馴染んでいるキリストとの関係に拠ることである。朝も夜も恵みのみことばによって生きており、必要の全てを満たす知恵や力もたまわって、キリストの平安のうちに在る喜びである。

 

弟子が体を持つイエスと共に働ける時はわずかであり、彼らにとって最悪と思われる十字架の後は、聴いて来たみことばを思い出させてくださる聖霊に拠って、みこころを完成しながら、ある人々は殉教までみ旨を生きた。

神は霊なので神を知りみこころを成すには、常に霊の目で聖いものを見分け、霊の耳でみことばを聴きつつ御足跡を辿って行く。天の御国にゴールインする日まで・・。


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