気の重い検査を受けるために、病院に向かって単車で走っていると、目の前にぽっかりと飛行船が浮かんでいた。もちろん浮かんでいるのではなくて、桜見物の遊覧のために飛んでいるだけれど、そののんびりとした姿にふっと緊張が解けた。
先日から続いていたわずかな出血は誤魔化しもできたけれど、ついに下血がありさすがに私もこれ以上放っておくことはできなくなってしまった。それでも「検査は嫌なんです。」と祈っていた時、いつも「みこころのままに」と言いながらも、決して手放さないで自分自身のことを握りしめていると気づかされた。家族の健康管理は気しているつもりだったけれど、自分のことにはなをざりにしていた。それなのに握りしめているとしたら矛盾しているなぁ・・・。私たちの体は聖霊の宮と知っているのに。
病院にひとりのおじいさんが大きなリュックや鞄を提げて入ってこられた。入院でもされるのかなぁと思ったとき、「主人がこんなふうに、たったひとりで入院をするようになったら・・・」と思うと胸が詰まって、「主よ。私を生かしてください。そして主人の最後を看取ることができるようにしてください。ちゃんと自分の体を管理することができるように助けてください。」と素直な祈りが出てきた。
心を決めて何事にもジタバタしないと看護師さんのやさしい言葉に身を委ね、言われるままに従った。確かに苦痛だったけれどそれは体の上だけのこと。主に従うことを選んだ時の平安が検査を待つ5日間ずっとあり、それは本当に大変幸せなことなんだと思う。
姉妹からあらかじめ検査の様子を聞かせていただいていたので、痛みが治まったとき「ガンがあったら教えてくださいね。」気軽にお医者さんに話すことができた。お医者さんと看護師さんが笑い声で液晶画面を指して「これはポリープです。後日取りましょう。」と教えてくださった。
今週は祈りについてのメッセージ。子供達のためにとおっしゃいながらも、決して子供だましなどではない、丁寧に準備をされた中身の濃いメッセージだった。自分の祈りについて吟味できるようにプリントも準備してくださって、さすがに教育的配慮は完璧。いつもこんな先生に教わることができたら子供たちは幸せだろうに。
霊は息のよう、だけどふつうに呼吸をするという以上の意味があり、「神様の霊と私の霊が循環している。」なんかとてもよくわかる。すごいこと!祈りはそういうもの。呼吸は吐いてから吸う、自分の中の苦いものを吐きだすことで神の霊を受け入れることができる。みこころを本当に求める祈りを導いてくださる。
何か事が起こるときそのことによっていつも主に新しくお出会いする。気づかなかったことに気づかされ、委ねていなかった部分を指摘される。そうして、少しずつ主のいのちを受けてゆっくり成長させてくださる。だから私は、失敗だらけでも主のいのちによって必ず成長できるいという望みがある。
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石ころ
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