神の定めは20章か始まって31章にまで及ぶ。21章では十戒はさらに詳細に語られた。
「あなたの父と母を敬え」とは、
自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。
自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。(15~17)
とあり、人が人と争って傷を負わせた時は、
重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、
目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、
火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。(23~25)
罪は償わなければならないことを命じられている。最も思い罪科のために支払うものはいのちであった。
それゆえ、罪無きキリストのいのちが、罪びとの身代わりとして支払われたのである。
その贖いによって今私は生きており、この命が尽きた後も霊のからだが与えられ、主と共にいつまでも生きる恵みをたまわる。
キリストのいのちは傷も染みもなく聖く完全なので、その贖いはどのような罪をも完済するのである。汚れのない者だけが、他人の罪の汚れを完全に拭い去ることが出来るからである。
神は愛であり義である。そこに矛盾があってはならないので、イエス・キリストのいのちが支払われた。
御父に忠実なひとり子を十字架に差し出すほどに、神は聖なるお方であり、罪を見過ごすことが出来ないお方だからである。
そうして神はすべてのわざを終えられた御子を墓からよみがえらせ、天にあるご自分の右に座を設けて、今もより頼む者を弁護するキリストの御声に、耳を傾け続けていてくださるのである。
この父の御姿を知って、「あなたの父と母を敬え」と命じられるとき、誰も理屈をもって口を挟むことなどできず、心から「アーメン」と言うようになる。
「目には目を、歯には歯を」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:38~39)
罪に対して人が贖いを求め律法をもって要求することに対しては、イエスはそれを愛する機会とするようにと言われた。そうして十字架でその愛を見せてくださったのである。
天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。
ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(マタイ5:45~46.48)
神の御前にすべての律法を完成し、完全な愛を成し遂げた方はキリストのみである。キリストに覆われているならそれらは可能となろう。
キリストのうちに住んでいるなら、神の家族であり似ているのだ。思うところ、成すところのすべてがキリストから出て来て、すっかり依存して生きる時に、私たちは天の父の前に完全なのである。聖霊がそのことを助けてくださる。