御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、(1~3)
水晶のように光るいのちの水の川・・跪いて掌に掬って飲むとき、聖いいのちが喉を潤し、霊のからだを流れてゆくのだろう・・、そのとき足の指先まで力強いいのちに満ち足りるのだろう。
アダムが罪を犯して以来、遠ざけられてしまったいのちの木。今、此処では木のすべての恵みを受けて生きるのだ。
川岸でたわわに実るいのちの木の実を見るとき、その毎月変わる実に春の喜びを味わい、夏の喜びを味わうのだろう。
その実は誰にも大好きな心地よい味わいで、感謝がいっぱい溢れて来て、食べるたびにその幸せが賛美となり、幼子のように喜んで、カナリヤのような声で歌うのだろう。それは、大合唱となって共に喜びを分かち合うだろう。
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(4~5)
額につけられた神の名は彼らのプライドである。もう決して彷徨うことのない神のもののしるしなのだ。
また、闇がない故に光を意識することはないだろう。彼ら自身が神の子であり、光の子どもだからである。そうして、彼らはその名に相応しい働きをする。もう、誰の奴隷のようでもないから、自ら神に仕えて働く満足を味わうようになる。神の喜びのために・・。
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。(6~8)
19:9の記事が繰り返されているようである。
今、黙示録を読む者にプレセントされている祝福。世で汗を流して生きる者への、素晴らしいお知らせである。
この預言のことばをそのまま受け入れる全員がたまわる、およそ最上最高の永遠の住宅のパンフレットである。
あまりの素晴らしさにヨハネはひれ伏したのだ。そう、きっとこの福音のすばらしさにひれ伏してしまったのだろう・・。
すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。(9~10)
黙示録をそのまま受け取るとき、この世のもろもろに対して心が折れることはない。ゴールがどれほど栄光に満ちたものであるか、こんなにも美しい永遠の住まいを知るからである。
私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(Ⅱコリント4:17)新改訳2017
黙示録は世の闇の中に、神からの褒章をライトアップしているのである。それをみことばから見るなら、力に満ちていのちをどのように用いるのかが明確になり、道に迷うことがなくなるのである。
私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。(Ⅰコリント9:26)