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11月のメッセージの「貧しいやもめの献金」「賢い建築家」「終末の預言」(ルカ21章)は、それぞれ関係を持ってつながっていることに、気が付く読み方をするようにと教えられた。
「イエス様の目にとまったものは、貧しいやもめのレプタ2枚の献金の姿であり、弟子達の目にとまったのは荘厳な神殿であった。
聖書は日本にあふれているが、霊的には飢餓状態であって、教会はなまぬるく、自分が飢えていることにさえ気が付かない状態です。」その言葉が心に残った。
エリヤが遣わされたシドンのサレプタのやもめ(1列王記17:8~16)は、かめの残りの一握りの粉でパンを作り、息子と食べて死のうとしていた。そこに遣わされ、そのやもめに養われるエリヤ。「そのパンを私に食べさせよ」というエリヤも辛い。信仰を導く指導者の辛さを思った。しかし、エリヤを養うことによって、かめの粉は尽きない。
やもめは、エリヤにパンを焼く時、「死ぬ前に息子を喜ばせること」を捧げて主を第一にした。そんなやもめだとご存じだから、神様はエリヤをおくって下さった。望みをこの世には置いては居ないから、だからやもめたちはすべてを投げ出せたのだろう。この世のものは神殿でも崩れる時が来る。
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私は、勇気をふるって献金箱に財布ごと投げ入れても、「貧しいやもめの献金」とは違うと思う。主は侮られるお方ではないから、イエス様が目を留められたということは、真実この貧しいやもめには、もう何も残っていなかったのだと思う。
人生で1度きりのチャンスに、また、ピンチに、世の目に見えるものには拠らず、すべてをみことばに賭けて、イエス様を選び取る時、主は必ず御目を留めてくださることを知っている。それは、飛び込む前には一寸先も見えない闇のようでも、飛び込めばそこには、甘いイエス様のお褒めのことばがある。世では決して味わえない、いのちを養う甘いみことば。聖書には貧しいやもめのその後は書かれていないけれど、彼女もイエス様のお褒めの言葉で、もう何も要らないほどに満足したのだろうと思った。
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見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。 アモス8:11