これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。(2)
ヨセフが神に選ばれたのはこの性格によってであろう。彼は見たこと聞いたことを隠して置くことは出来ず、身の安全のために忖度するという器用さも持たなかったのだ。これは父に対する信頼から出たことでもあろう。
ヨセフは備えられた祝福をそのままに受けて、与えられたたまものを用いて行動し神のご計画を遂行した人でもある。
イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。(3)
神はえこひいきする方ではないというが、信頼する人に対して無茶苦茶なほどえこひいきだと思う。
他の人と比べても何一つ良いものが無いにも関わらず、日々にたまわっている赦しと、あらゆる備えの恵みを味わって、そう思わずにはいれらない。
神はキリストを信じる者に義の衣を着せて、罪の報いである死から解放し永遠の望みを与えてくださった。罪をきよめてキリスト者の霊のうちに住み、みことばと祈りのうちに全能の神が親しく交わってくださる。このことは、どれほどのえこひいきであろう!
世にある間も聖霊の導きによって危険から守り、望みと平安のうちにいのちを養って、あらゆる時に元気づけてくださる。
悩みをすべて話して主の助け受け、失敗も困った問題も、人に良くしてもらったことや助けられたことも、世界の問題も、些細な「洗濯物を乾かしてください」なんてことまで話して平安を頂いている。
それゆえ、キリスト者には何時も喜びがあり、絶えざる祈りがあり、すべてのことに感謝が尽きないのである。
しかし神はすべての人を贔屓したいのだ。そのために御子イエス・キリストを世につかわして、十字架で罪の代価を支払ってくださった。
キリストが人を滅ぼす罪を憎んで、聖い命を身代わりに差し出して、罪の報いである永遠の滅びから解放してくださったのは、命のある間にすべての人が信じて救われるためである。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)