テマン人エリファズが答えて言った。
知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。
彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。
ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。(15:1~4)
祈りとは何だろう。口にしてもしなくても、自分の中で生まれた言葉はすべて神に聞かれているのであり、信仰者にはすべてが祈りではないのか・・。言葉を、これは神への祈り、これは自他に向ける言葉と分けることなどできない。
ヨブは祈っている。延々とはらわたまで曝け出すようにして・・。
それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。
あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。(15:5~6)
それは、そっくりそのまま後にエリファズに返される言葉ではあるが・・
ヨブは答えて言った。
そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。
むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。
私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。(16:1~4)
ヨブは強い人である。その強さは彼の欠点であろう。試練の時に責める者と論争する強さは無駄な力であり、試練を長引かせるばかりである。
試練の時は主を恐れて、人には沈黙するべきである。正しく裁かれる方に裁きを委ねるなら、平安を味わうことができる。仮に万民が正しいと言っても、神から義とされなければ、人には決して安息はないのだから。
神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。
彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。
神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。
私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き、私の首をつかまえて粉々にし、私を立ててご自分の的とされた。(16:9~12)
もし、ヨブが安らかな身であったのなら、このような試練は無用であった。彼は確かに思い煩っていたのだ。神は正しい方であり、私たちに良いことだけを計画される。
ヨブは安らかに在るために、砕かれる必要があったのだ。
その射手たちは私を巡り囲み、神は私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した。
神は私を打ち破って、破れに破れを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。
私は荒布をはだに縫いつけ、私の角をちりの中に突き刺した。
私の顔は泣いて赤くなり、私のまぶたには死の陰がある。
しかし、私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。(16:13~17)
神はあらゆる人の言葉に忍耐してくださっている。私たちは神の御前ではなくても、心の底の深い闇でつぶやき、時に言い逆らう。
赦しは、ただキリストの執り成しによることである。ヨブには十字架の先取りによる赦しであった。
大切なことは、ヨブがその方の存在を知っていることである。私たちも試練の時にはキリストに身を避けて、御前に留まらなければならない。私たちの望みはただ、キリストにあるのだから。
今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。
私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(16:19~21)
どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(17:3)
キリストをたまわらなかったなら、人はとっくに滅びている。過去に現在にも未来にも、誰一人救われる者はいない。
神に忍耐された者は幸いである。そのことによって、罪を悔い改めることができるからである。
罪ある者が神の赦しの御声を聴いた時、言葉を失ってくずおれ、真に神を恐れる終わりのない礼拝に入るのである。