神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」(29)
イエスを知らずに神を知ることはない。天地創造の神はご自身を知らせるために、ひとり子イエスを地に遣わされた。
ひとり子のいのちを与えることに拠って神の愛を知るようになり、罪が贖われたことを知った者はキリストへの感謝に溢れて、「アバ父」と呼ぶ神の家族とされるのである。
神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。
それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4~5)
イエスを通らずに神を知る者はおらず、イエスに拠らずに神に受け入れられる者もいない。イエスを否定する者に在るのは永遠の滅びである。御子をたまわるほどに愛しておられる、神の和解を受け入れなかったからである。
その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。(30)
「あの方は私の目を開けてくださった」この事実はみことばに従順した結果である。神のわざはみことばに拠って成り、その時私たちは嬉しさのあまり、自分の行いを忘れて「目を開けてくださった」イエスだけをほめたたえて、価なく愛される神に安息して恵みに浸るのである。
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。(31)
罪人とは誰か、造り主である神を知ろうとしない者ではないか。近しく来てくださり、力あることばとわざを持って父なる神を告げ知らせるイエスを否定して殺す者である。彼らは神のわざを受けても感謝はなく、むしろ高ぶって神を悟ることはなく、呪いを受けて永遠のいのちを損なっている。
彼らがモーセの弟子と名乗っても、律法を完全に守っていると言い張っても、盲人の目を開けることは出来ない。それなのになぜイエスを否定することができるのか。
彼らがモーセの弟子であり神の民であると言うが、キリストを否定する彼らを神は「知らない」と言われるだろう。
人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。(マタイ10:33)
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。(33~34)
彼らはイエスを経験した人から教わるべきである。それが神が求めておられる謙遜であり、何よりの主を知るための熱心である。
目上の人に教わることは誇りとなるが、目下と侮っている者に教わることは、自分自身を神に捧げなければ出来ないことである。
それゆえ主は、高貴な人ではなく先生と呼ばれる人でもなく、侮られ虐げられている人を用いられる。
彼らに教わる勇気は信仰のバロメーターであり、その謙りは神への熱心を現し、高ぶっていた心はきよくされて、新しく生まれた自由を得るのである。人を恐れなくなるからである。
イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」(35~36)
誰でも救われたのは、主がその人に来て足を止め、また探し出してくださったことによる。生まれながらにキリストを知る人はいない。
主が来てくださった時に、「主よ。私が信じることができますように」と願う弱さを知っていることは本当に幸いである。
イエスの御わざをありのままに告白する者を、神の子に相応しく育ててくださる。だから自分のことを心配しないで、経験した主を語ることが出来るのである。
救った者のすべての必要を主はご存じであり、永遠まで面倒を見て下さる。それは神がご真実だからである。
イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。(37~38)
彼は恵みを受けて開かれた目でイエス・キリストを礼拝した。なんと素晴らしい場面であろう。
私たちもやがて新しい目で主を見上げて、喜びに胸を震わせて礼拝する日が来る。すべてのことが明らかに解かれ、恵みに拠ってたまわったきよさが、どれほどのものであるかを味わい知る時が来る。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」(39~40)
イエスを礼拝する元盲人を見ていても、その喜びも感動も共有することはなく、神の愛から断絶されてみことばに反発するのである。神のさばきは此処にある。
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(41)
神は彼らにご自身を見せようとして御子イエスを遣わされた。彼らが目が不自由で見えないのなら癒やすことが出来る。
しかし、彼らは自分たちこそ神を知っていると言い張ることで、イエスによって癒されることも贖われることもなく、神を悲しませて滅びることになる。
彼らのプライドは、神の選びの民でありモーセの子孫であることだが、神がどのようなお方で何を喜ばれ、何を嫌われるかには興味も無く無関心であった。それは神を愛したことが無いからである。