確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。(マタイ26:24~25)
「生まれてこなかった方が良かった」と言われたのはユダにだけである。その言葉はユダの目の前で語られた。彼はその言葉の重さに罪を告白して、御前にくずおれるチャンスであった。
しかしユダは、後に負いきれなくなる罪の警告にも「まさか私が」ととぼけて聞き流し、はっきりと「いや。そうだ。」と言われてもなを反応しなかった。彼はイエスさまの言葉を、一度も恐れを持って聞くことはなく、だから罪なき神のキリストを売るという、とんでもない役割を果たしていることに気付かなかった。
イエスさまを捕らえる群衆を連れて来たユダは、口づけという親しい挨拶を合図にイエスさまを引き渡した。そのユダへ最後に「友よ。何のために来たのですか」とイエスさまは言われた。まだ、彼を待っていてくださったのである。
しかし、彼が自分のしたことに気付いたのは、イエスさまを殺す者の前でであった。
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。(マタイ27:4~5)
ユダより重い罪はないだろう。イエスさまはご自分を殺す人に対しても、悔い改めの言葉を待っていてくださるお方である。
十字架上のイエスさまの祈りは、十字架にかけた者のとりなしのためであり、すべてのユダのためでもある。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
イエスさまは裁くためにこられたのではなく、救うために来られたお方である。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)
救いの十字架のためのいけにえは、全く罪の無いイエス・キリストおひとりである。ユダではない。ユダが滅んだのは、みことばに耳を傾けることがなかった故である。
今日、主は何を語っておられるのだろう。今私たちの、みことばに聴く耳を開いてくださいますように。
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