石ころ

イエスは来る者を決して追い出さない ①(ヨハネの福音書6章)


しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(36~37)

 

「父がわたしに与えてくださる者」とあり、初めに救われるべき者を選んだ神が、イエスに渡されたのである。人が神を見い出したのではなく、人の熱心が神の救いに至らせたのでもない。選ばれていた人は、神の良い計画に応答して救われるのである。

 

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)

 

父が与えてくださった最高のプレゼントは、イエス・キリストに拠る永遠のいのちである。また、イエスの御名によって祈るとき、限りある世での命の必要も、みこころを行うための必要も備えてくださる。

 

人が神の選びを依怙贔屓だと怒ることは間違っている。誰でもイエスに来る者は受け入れられるのだから。福音に触れたときに理屈を言わずに、救いを求めてイエスに来れば良い。「どうしてほしいのか」と主に訊かれたなら、心にある願いを申し上げればよい。私は選ばれていないとどうして言うのか。

 

福音にふれたことは選ばれてのことであり、救いはみことばに応答してキリストを礼拝する時に実を結ぶ。「来る者をひとりも追い出すことはない」とあり、悪行によって十字架刑を受けている強盗でさえ、死の間際になってイエスに身を寄せたとき、追い出されることなく救われのである。彼が一番早く福音による恵みに浴したのである。

 

しかし、死の間際に救われることは憐れである。キリストに愛される喜びを持って世を味わうことを経験せず、神の良いご計画に感動して天に憧れて死を迎えることもなく、人生で主のご真実を経験することが無かったからである。

 

天地創造の神は、ご自身のかたちに造られた人にいのちの息、神の霊を吹き込まれた。反抗して御許を追い出された後も、御子をたまわるほどに愛された。御子を遣わして罪の結果である死から救い出し、アダムの初めのように、永久まで御許で主を喜ぶ救いを完成してくださった。

 

世に在る今も、みことばを通して神の愛を日々に語り続け、主に聴く者に祈りと賛美とみことばによる交わりと、日々の悩みや嘆きを聞いて語り合おうと、絶えざるお交わりを喜んでくださるお方である。

 

「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)

 

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。(38~39)

 

イエスはご自分のためには何ごとも計画なさらず、ご自分を語ることもなく、神を悟るためのみことばを語り、神のわざをなさった。
このことはキリスト者の成すべきこと、語るべきことを教えていてくださる。御足跡を辿ることを願う時に、聖霊によって成就してくださることである。

 

イエスは「わたしに与えてくださった者を一人も失うことなく」と言われた。イエスにとって一人ひとりは神から託されたいのちであり、ご自身の十字架の身代わりの死を経て、新しくよみがえらせるいのちである。痛みと屈辱の十字架で聖い血潮を流されたいのちである。

 

そのいのちには、高価で貴いキリストの代価が支払われている。しかし人はそれほどの事実を悟ろうとはしない。自分のいのちの重さがわからず、永遠から比べれば朝露のように儚い命のことばかりを求め続けているのである。


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