石ころ

記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)

 

群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24)

 

満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。
イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。

 

みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。


肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。

 

そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。(25~26)

 

主ご自身の聖と義を求めさせるのは、聖霊の導きに拠ることであるが、彼らは神の御わざを経験した証人であり、目の前で成された恵みのパンを食べてもイエスを悟らなかった責任は彼らに残る。

 

しるしはその現れを見て神を思うためであり、御前で経験していながらパンにのみ心を奪われて滅びる命に釘づけにされているなら、どのようなわざを見続けても永遠に生かすいのちに至ることは無い。

 

イエスは「わざを見て信じなさい」と言われたが、イエスのわざを経験した者はみことばの約束に留まり、永遠のいのちを得なさいということである。

 

群衆はイエスのわざから神の恵みに感謝することもなく、永遠のいのちのパンを準備してくださる方の前で、食べても食べてもまた空腹がやってくる一瞬の幸せ、結局は死に至る命の養いを求めた。

 

なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(27)

 

彼らは今キリストを経験したばかりである。「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」とは、限りある命をみことばを知るために用いて、それを蓄えて主を経験し永遠のいのちを自分のものにしなさいである。


キリストが十字架で準備してくださった永遠のいのちを得るのは、信仰を告白することが出来る今である。誰も明日の命を知らず、キリストを告白することなく死ぬなら、天地創造の神の御座の前ですべての罪が暴かれ、永遠の滅びの宣告が待っている。

 

死ぬことの無い神が人となって、十字架の死を経て実現してくださった罪のあがないと、永遠のいのちの言葉が真実であることは、学者の知識ではなく幼子のように聴いて知ることなのである。

 

すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(28~29)

 

まことにイエスをキリストと信じて、自分の命を御前に置き、負いきれない罪から解放された感謝と喜びに満たされることは奇跡である。そのようなことを人の知識や知性で知ることなど誰にも出来ないからである。

 

それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」(30~31)

 

今彼らは神のわざを行われたイエスから、マナを頂いて満腹になったではないか。12かごも残る主の豊かな養いを見たではないか。しかし、彼らの目は見えてはおらず記憶にも無かった。

 

これがこの世の状態である。神は天地にあらゆる恵みに満たし食べ物を与え生かしてくださっているが、神の愛を知らせるキリストを悟ることがなければ、奇跡を経験しても記憶に残らず、創造主の存在を信じることも無い。

 

それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。(32)

 

彼らはモーセを信じることは出来ても、モーセがより頼み、彼を通して恵もうとされた神を知ろうとはせず、モーセの哀願を聞き入れられた神の憐みによる命であることも知らない。

 

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」(33)

 

イスラエルにキリストを経験させるために来られても、彼らの頑なで肉を養うことに囚われた心は、溢れるいのちのパンを見ても味わっても、イエスに在る真理に気付くことはなかった。

 

事実、聖書を読んでキリストを悟ることは、聖霊の導きに拠るほかないのである。人はあらゆる理屈を言って主の証を否定することが出来る、善悪知識の実を食べて得た賢さを持っている。


しかし、天地創造の神が五つのパンを無限に増やすことなど、いとも簡単なことである。これは人の頭で理解できることではなく、神を知る聖霊と共に計算することなのだ。

 

そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(34~35)

 

主の与えるパンは永遠までのいのちを与える。そのパンは神の御子イエス・キリストである。神は愛するひとり子を彼らを愛して遣わされた。そうしてイエスは惜しみなく彼らに御わざを成してご自身を証された。

 

そのパンはいのちのすべてを満たして余りある豊かな愛に溢れている。彼は何も要求せず、来る者にいのちをお与えになるために下って来てくださったのである。
イエスを知る者は天地創造の神を悟る。御子の命を与えるまでに愛し、十字架の血潮で罪から聖め、「もうあなたの罪を思い出さない」と義として、御許で永遠をたまわる愛である。


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