石ころ

限界の中に主を迎える マルコ16章




御父は御子のためには一度もみわざを成さらなかった。イエス・キリストを神と証しされたのは十字架で息を引き取られ、救いのためのすべてが完了した後であった。

そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。(マタイ27:50~54)


 十字架の初めから、イエスさまから目を背けずに見ていたのは弱いはずの女たちであった。彼女たちは良いときも悪いときも一緒に居て、葬りまでも「よく見ていた」。

また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。(マルコ15:40~41、47)


彼女たちに絶望は見られない。彼女たちには愛する方に対してまだ出来ることがあったからである。
イエスさまの墓を塞ぐ石をどける算段があったわけではないが、イエスさまの体を保存するための香料と香油を用意して、石を転がしてくれる助け手の現れることに望みをつないでやって来た。

それまでの彼女たちの行動はとても冷静で現実的で、すべてを慣わし通りに行おうとしていた。これらは今までも、身近に見聞きし経験してきたことであったのだろう。
しかし墓は開いており、そこにイエスさまの体はなく、見たのは天使であり、よみがえられたと伝えられた時、彼女たちはすべてが理解できずに動転してしまった。

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)

彼女たちこそ、イエスさまが死なれたことの証人である。はっきりとその目で見たのだ。
それゆえこのような非現実的なことに出会った時、それまで十字架も恐れず、死も葬りも恐れず、立ち塞ぐ石の壁にも望みをもって出て来たのだが、未知の事に会っては弱さが暴露された。


 しかし、マタイの福音書にはこう書かれている。
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。(マタイ28:5~8)


記述が違うのは、4福音書が人の手によって摺り合わされていないからである。聖書は一見不都合と思えることがそのままにされている。人の手にあればもっと賢く取り繕うであろうが・・。しかし、それぞれの違いにあるメッセージを読み取ることもできる。

此処では彼女たちが、天使に伝えられたことを理解した様子が書かれている。そうして喜びに満ちて知らせに走ったのである。
このことから、私たちが力を得るためには、分かるまで主に留まって聴くことが大切であると分かる。知ることで喜びに満ちて、勇気を持って行動することが出来るからである。

 弟子たちの限界においても、イエスさまは人が塵に過ぎないことを知って居られ、そのような不信仰の真ん中に来てご自身を証ししてくださった。
それから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。(マルコ16:14)

信仰によって生きているはずでも、不信仰を暴露されることがある。しかし、不信仰が暴かれ、恥をかき、時に逃げ出してしまうけれど、イエスさまはすべてを祈りの内にあらかじめ備えて覆っていてくださる。今、助け主である聖霊が共に居てくださり、聴く者にはみことばをみことばによって解き明かし、確信を与えて導いてくださる。
それゆえ弱さの暴露されることも恐れず、主に信頼してみことばを語り、みわざを証しして一歩一歩み足跡を行くのである。

「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(マルコ16:16~18、20)

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