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そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26~27)
神様は人を創造されたとき、ご自身に似たものとして造られたのだ。今となってはそれを自身に置いて見るとき、信じがたいほどの驚きである。
人のためにすべてを備え、その富のすべてを与えてくださるほどの祝福!彼らには何一つとして欠けたものはなく、エデンの園は充ち満ちた幸いの地であった。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)
ただ、神と人の間には決定的な一線があり、造られた者は造り主の意に沿って存在し、造り主に従属するものである。
だから、すべてが許され与えられているエデンの園にあって、唯一の戒めが置かれた。「善悪の知識の木からは食べてはならぬ」
それは神と人を区別するためのものであった。蛇の言葉のように「神のようになる・・」ことへの戒め。
それを犯したとき、アルファでありオメガである方との区別のために、人の命を限りあるものとせざるを得なかったのだ。
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)
人が神のようになるとはどういうことか・・。その結果何が出来るようになったのか・・、それは善悪を知ったことだという。
つまり、完全であったときの人は善も悪も知らず、すべては造り主にあったのだ。
正しい方はただひとりであるから、人は人を正しいとすることもなく、悪とすることもなかった。判断はすべて神の愛の中であった。人は無条件に喜びの対象であって「それは非常に良かった」のである。
しかしその実を食べた時から、エバは蛇を、アダムはエバを悪として訴え、自身を主張するようになってしまった。それは今世に蔓延している。
唯一正しいお方の権利を奪って、自分たちのものとして思いのままに用いている。
しかし、今は恵みの日、イエス・キリストといういのちの木が人の前に置かれているのだ。誰でもその実を、ただ信仰によって食べることが赦され、神と共に生きるいのちの道が開かれて居る!
今は、御子の十字架によるあがないによって、御子の血に洗われ真に「アバ父」と呼ぶ子として頂いた。
創造の初めに勝る幸いを得て、エデンの園での豊かな交わりが私たちの内に再現される望みがある。エデンのあの園に帰ろう。