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イエスさまのこの世での孤独が胸に迫ることがある。罪の無い方が罪の人々の中で、人として生きることがどういうことなのかと・・。群衆はもちろん、家族も人であって罪を持っており、生まれてから十字架までイエスさまを本当に知る人はいなかった。だから幼い頃から御父との祈りの中に居られたのだ。
するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)
イエスさまは弟子を離れて一人で山に登って祈られた。御父との交わりだけがイエスさまの休息の場であったのだ。けれど、十字架ではその身に負われた人の罪故に、御父にさえも捨てられなさったのだ。激しい痛みは裂かれた体の痛みだけではなく、御父と引き裂かれた孤独だっただろう。
イエスさまが深い淋しさをご存じなので、世で淋しさを抱えている者は、イエスさまが良く知っていてくださることに安らぐ。主の十字架の打ち傷によって癒されるのだ。
人は誰でも多少なりとも世では孤独を抱えているものだ。造り主なる御父のもとに帰るまでは・・。
イエスさまはゲッセマネで十字架にかけられた時も、罪なき方が罪人と共に処刑されなさった。最期まで罪人と共にいてくださったのである。
今も、罪人を十字架の血で洗い清め永久までも共にいてくださる。
淋しい時はイエスさまの孤独に思いがゆく。その度、主にどれほど愛されたのかを知ることになるので、感謝いっぱいになってつぶやくような祈りとなる。
そのような中に在って明日で主人が召されて3年になる。