石ころ

世界宣教命令は不信仰の中で命じられた(マルコ16章)

 

さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。(9)

 

病や障害、悪霊につかれることを自分から求めた者はいない。それゆえイエスさまは深く同情された。それが安息日であろうと、罪の赦しを宣言して癒された。赦しと癒しを受けた者は深い感謝と喜びの中で、生涯イエスさまについて行くようになる。

 

それらの問題はイエスさまに出会ったときに、神の愛を知る祝福となった。もし、癒しが表に見えなくても、魂の深いところを癒されているなら、感謝や喜びがあふれることによって、赦しと癒しを知ることができ、キリストの愛によって生きるようになる。

 

何の問題もない環境ですくすくと成長して、すべてに恵まれて善き人生を終えることは、赤ちゃんが生まれるたびに、親はみな願うことであるが、
マグダラのマリヤにはイエスさまは特別であり、イエスさまにもマグダラのマリアが特別なのは、癒しに深い交わりがあったからである。

 

別の追加文〔さて、女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間の人々にさっそく知らせた。
その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。〕(9)

 

福音はイエスを解き明かす聖霊によって、使徒たちを通してキリストが語られ、世界に広がっていった。
神のご計画のままに今時が満ちて、東の果てから西の果てまで、みことばによってイエスご自身が送り届けられている。

 

マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。
ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。(10~11)

 

聖書には、信仰によって受け入れる他ない箇所があり、それは理屈で捻じ曲げることも、否定することもできる。

みことばによってキリストを悟ることは、賢さには拠らず、幼子のような愚かさによって、ふるいにかけられることを免れる。

 

イエスと一緒に居た人たちが泣き悲しんでいたのは、みことばを聞いていなかったからである。彼らの悲しみがキリストを失った嘆きなのか、自分たちの望みが失われた嘆きなのか・・、希望があるのは、みことばを思い出して泣くときである。

 

その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現された。
そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。(12~13)

 

この弟子たちの不信仰はイエスさまの忍耐によって、後に彼らの教えとなり謙遜となる。信じられなかった者が信じる者とされ、伝える者とされたからである。

 

しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。(14)

 

人は信じたいことを信じる者なら、イエスのよみがえりは彼らが一番に信じるはずである。
それでも信じ得ないのは、彼らがイエスのことばを受け入れていなかったからである。みことばの確信が無い時は、恐れに信仰が飲み込まれてしまうのだ。

 

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(15)

 

イエスさまが大宣教命令を出されたのは、信じることが出来なかった弟子たちにであった。

それが可能なのは、主が彼らと共に働かれるということにある。事実、キリストは今もキリスト者のうちに居てくださり、より頼む者にキリストの信仰を分け与えてくださる。

 

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(16~18)

 

短い祈りで悪霊を追い出した時、縛りから解放された人は「イエスさま、イエスさま」と聖い喜びにあふれて、とても明るくなられた。彼女を愛する聖霊によることであった。
新しいことばはいつも祈りの中にある。

 

でも・・私は蛇がこわい。今日、ウォーキング中にとぐろを巻いた蛇に出会った。死んでいることはすぐにわかったが、心臓はドキンと鳴った。
また、毒ではないか・・と感じるとそれを避ける。しかし、ウイルスは人に仇名すことからそういう類であろう。完全に避け得ないものでもあり、このみことばの意味が深い。

 

癒しは自分のことに関して、この歳なので不具合はモグラ叩きのように出て来て、祈るたびにいつの間にか癒され、不具合があったことさえ忘れている。
滅多に病院に行くまでにはならず、多くの癒しの経験によって生きていても、他人さまの病気が癒せるなんて思えない・・。

 

でも、みことばをそのまま信じることを恐れてはならず、今マルコ16章に導かれたタイミングを思うとき、幼子のような信仰がどれほどにか必要なのだと知らされた。

 

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(19~20)

 

みことばをそのまま受け入れる信仰を願う者のうちに、天の神の右に座しておられる力あるキリストが居られる。神と共に働くならみこころの通りに成る。

 

使徒たちを通してキリストに出会った弟子たちが、全世界にイエス・キリストを宣べ伝えた働きは、伝えたことばをキリストが確かなものとされる。恐れずに、みことばをそのまま語ればよいのだ。

 

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。


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