今日からマルコ書を読む。
ツァラアに冒された病人がイエスさまに願ったとき、イエスさまは深く憐れんで手で触れて癒され、直ぐにツァラトが消えた人にイエスさまは厳しく戒めて、「誰にも何もいわないように」と命じられた。
癒し主のあかしが禁じられるような、不思議な箇所だと思っていた。
聖書の中でイエスさまの癒しは沢山書かれているが、その方法も癒された人の身の振り方もひとり一人に違う。
ある時は付いて行くことをゆるし、ある時は家に戻るように言われる。ある時は証しを用いられ、ある時は禁じられる。
神様が人を同じようには造られなかったように、私たちに持っておられるご計画はそれぞれなのだと思う。
また、モーセは初めに杖で岩を打って水を出すことを命じられたが、次は言葉で水を出すようにと言われたことを思いだす。彼は経験に頼って再び岩を打て失敗をしている。(出エジプト17:6。民数記20:11)
みことばは経験に拠らず思い込みを捨てて、何時も初めてのように聞く必要がある。「今、私に何を命じておられるのか」と・・。
このように聖書を読むとき、繰り返し繰り返し同じ箇所を読んでいても、その度に新しいいのちにふれることができる。このようなことを聖書以外で経験することはない。
しかし、癒された男はふれ回り言い広めた。
人が、憐れみを受けたとき何かを差し出したい、何かをしたいと思うのは「ただ受けるだけ」ということに重圧を感じるからでもある。
主は時に、「黙って受ける」ことに人を閉じ込められることがある。長い時をかけて受け続け、自分には主からたまわったもの以外は何も無いことに気づくのだ。
押しつぶされた葡萄がぶどう酒として熟成するのを待つように、人にそれをさせなさることがある。
水を一瞬にぶどう酒に変えることの出来る方が、ゆっくりと待ってくださることがある。
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