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わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。(ヨブ記9:21)口語訳
私は自分のいのちをいとう。私は自分の不平をぶちまけ、私のたましいの苦しみを語ろう。(ヨブ記10:11)新改訳
主はヨブに多くの言葉を語らせなさる。試練の中で彼の言葉はなを神さまへの信頼と、無実の訴えと、哀願と絶望が交差する。信仰は激しく揺れている。
その中で彼は「命をいとう(嫌う)」と何度も言った。彼の悲しみを増すものは、理解する人が居らぬ孤独であったろう。
このことは、イエスさまの十字架を思い出させる。イエスさまこそは無実であり、御父にさえ捨てられ弟子は逃げ去った。
誰も理解することのない主の孤独な生涯のなかでも、十字架は極限の孤独を現している。
しかし、イエスさまが重なるとき、キリスト者にはその試みさえも何か甘く思える。事実彼はイエスさまを求めて叫んでいる。
彼の嫌う命は、神さまがサタンの手から守られたものである。それは広い意味で神さまをのろうということに通じている。
ヨブはこの試練がなければ、自分の中にこのような不信仰が潜んでいることに気づかなかっただろう。本当に彼は「自分を知らない」そうしてそれは私も同じである。
まことに人は自分で自分をわきまえることが出来ない。それを可能にするのは御霊によるのだから。
でも、御霊によってわきまえる望みがあることに感謝。それはいつでも私の避け所である。自分自身に絶望していても、御霊による望みは常にあるのだから・・。
自分をわきまえる敬虔な信仰の深みにヨブを導くために、神さまはサタンを用いて、彼の古い祝福を剥がされた。それは彼を新しく祝福するためである。
神さまの霊の言葉によって、ヨブは目を開かれて自分自身をわきまえることができた。そうして深い悔い改めに導かれ、真に神を知ってのちに新しく倍の祝福を得た。
それは祝福の量ではなく、その質がすばらしいのだ。
私たちが十字架で新しくされるとき、御子の、血の汗の叫びと、忍耐と屈辱と痛み、水と血が流された。
そうして御父の、愛する子を切り捨てる痛みがあった。
何時までも古い祝福の中にぬくぬくとしているなら、そこに神さまの子供の成長はない。古いものを脱ぎ捨てて、自分を知ること、いや、主に自分自身をさらけ出して導きのことばを恐れずに聴きたい。
また神さまの良き計画の故に、古いものを引きはがされることを恐れないでいたい。
ヨブはあのように主に訴えることなく、心にのろいを秘めて黙って座っているだけでは、神さまと言えども彼に何も出来ない。
神さまと人が打てば響くように応答する関係こそは、イエスさまが十字架を経て私たちに与えてくださったもの。
その中で格闘しているようでも、神さまの言葉を聴いて居る身は安らいでおり、それこそ濃密な家族関係にあるのだから・・。
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブ5:11)