エサウは、イサクがヤコブを祝福したこと、またパダン・アラムから妻を迎えるために彼を送り出したことを知った。イサクが、ヤコブを祝福して送り出したときに、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じ、
ヤコブが、父と母の言うことに聞き従って、パダン・アラムへ行ったことも。(6~7)
エサウは、ヤコブが手段を択ばず神と父母の祝福を受け、父の言葉に従っていることを知った時はショックであったろう。誰でも愛されたいと思っているのだから。
さらにエサウは、カナンの娘たちを、父イサクが気に入っていないことを知った。
それでエサウはイシュマエルのところに行き、今いる妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻として迎えた。(8~9)
エサウは父母に気に入られようと遣り繰りをするが、その選びは的外れとなる。彼は父母の愛より先に、神を求めるべきであった。主の愛を得ることに執着するべきであった。始めに神を軽んじてしまったら、必ず方向がずれて行くものだ。
ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。(10~11)
しもべが、リベカを迎えに行ったときは夕には到着していたが、父母はヤコブの祝福を祈った後は、乗り物も無く身一つで家を出したのだろう。徒歩ゆえに途中で日が暮れたのだ。
イサクもリベカもヤコブを主に捧げて、すべての庇護から手を引いたのだ。
すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。」(12~13)
祝福の時は主が綿密に備えられる。ヤコブが主の御約束を聴くことができたのは、この時この地で眠ったからである。
彼が願った神の祝福は、天と地を繋ぐためにやがて来られるキリストを、夢の中で天と地をつなぐ梯子という形で見せてくださった。
神が示されたこと、語られた言葉は必ずそのとおりに成る。だから、ヤコブに語られたみことばによって、やがてはすべての人類にまで救いの恵みが及ぶようになった。
大切なことは一つである。みことばを受け取ること。それには時があり備えが必要である。主を求め続けていることである。ヤコブはそのことに対して、手段を選ばないほどに熱心であった。
世の事に対して熱心であるなら人がほめてくれる。それは直ちに報いを得ることもある。しかし、神を求め続けることは人知れずにすることである。それは誰にほめられることもない。
ただ、赦しの十字架に感動して、神さまの平和に安息する喜びのゆえに、愛するキリストをもっともっと知りたいとみことばに聴き続け、祈りの交わりを求め続けるのである。祈っても応えられるのは何年も後であったり、何十年も後のこともある。
私は、信仰に入る前に「イエスさまに祈っても助けてくださらなかった」と気落ちして、信仰に追い込まれるまで何十年も彷徨った。
しかし最近「これがあの祈りの答えだった」と、主に安息する恵みの中で思い出させてくださった。
神はご真実ゆえに私たちが忘れても、その生涯を通じて備え、導き続けていてくださったのだ。
信仰の初めの頃は訓練されることも多くて、世との不器用な戦いも多いもの。忍耐をもって主を待ち望むことを教わる時でもある。
信仰が進むにつれて、主とのコミュニケーションが響き合うようになって行く。また、待つことにも、「主の助けが遅れることは無かった」という経験によって、信頼し落ち着いて待つことができるようになるのだ。
人は誰でも一番大切なものを一番に選び取る。神は一番に選ばれるべきお方である。二番ならエサウになってしまう。神の愛は完全であるゆえに、ねたむ神とも書かれてある。