さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(1)
イエスの愛は永遠に変わることがない。それは七の七十倍の赦しの中にあってのことである。イエスの十字架に感謝して救ってくださった愛に応答しようとする者には、彼らの失敗や成功には拠らぬ真実な神の愛がある。
弟子はキリストの御わざを宣べ伝える証人である。主は彼らの必要を満たされる。キリスト者にも働きを受け継がせるために、欠けを覆って罪を洗いきよめられる。思いが汚れているならサタンに支配されるのだ。
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。(2)
イエスに満ち足りていない心に悪魔が足台を備える。すっかり主に信頼して安息する者に悪魔は近づくことが出来ない。
ユダの体はイエスの近くにいてもみことばに耳を傾けることはないゆえに、彼は満ち足りることはなかった。
きっと聴いてはいなかったのだろう。財布の中身ばかり覗いていたのは、自分の将来や世の思い煩いのゆえである。この不信仰が悪魔を招き入れるのである。
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。(3)
イエスは父なる神の命令を成し遂げて天に在る神の右の座に帰られる方である。無力さと嘲り敗北の死に見える十字架は、すべての死に勝利して神の栄光を現わす永遠への凱旋門なのだ。
イエスは未知の罪を負う恐怖と、救いのわざを成し遂げる愛の狭間に在って、残されている時の間に、最も必要な弟子への備えをされる。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(4~4)
弟子たちがイエスの言葉のままに、汚れた足を差して洗って頂く様子が目に浮かぶ。奴隷のように跪いて足を洗う主人に、弟子たちは自分自身をお任せして汚れをきよめて頂いたのだ。
そう、イエスに出会った時に、生きるための遣り繰りをして世を歩いて来た泥だらけの足を洗って頂いたのだ。罪を申し上げてもっとも汚い部分ごと御前に差し出し十字架の血潮で洗って頂いた。
イエスは、天地創造の神を「アバ父」と呼べるほど完全に洗ってくださった。
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(6~7)
神のなさることは大概はその時は人には訳がわからない。神は永遠をご存じであり、そのための必要を備えてくださるが、人は過去によってのみ将来を量る者であり、まったく新しいことには戸惑う他ないのだ。
弟子のように、ただ信頼して将来をお任せする恵みにも、災いと思える事柄の中にも、従順してみことばを受けとりそのままを生きるのである。
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」(8)
ペテロは汚れのままに自分自身をイエスに委ねることを恐れた。
人は清くなってから・・もう少しマシになったら・・イエスに会おうと思うが、それは自分の罪深さを知らないから思うことである。
そんな日は永遠に来ない。そのように御前から去った瞬間、その人はイエス・キリストとの関係は失われる。誰も明日の命を知らないからである。
きよくされるのはイエスの心に拠るのであり、人は主に従順してのみきよめられるのである。神の御前に出られる聖さは、人の何か拠って得られるようなものではなく、一方的なキリストの恵みによってたまわるいのちである。
ペテロがイエスから世の汚れを洗われ、神の子とされるきよさを受けていなければ、これからの試練の日にサタンは彼の心を責め立てて支配し、彼は主に留まり続けることは出来ないのである。
シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(9~10)
イエスはユダの足も洗ってくださった。この時、ユダはこれまでの盗みの罪も、不信仰の罪も、汚れた思いの罪も洗いきよめられたのである。
ただ、彼はイエスに足を洗われている間も恐れも感謝もなく、キリストを悟ることはなかった。心が変わることが無ければ、たとえきよめられても罪はすぐにユダに帰って来て彼を汚し続ける。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。(11)
イエスの愛は全てをご存じの中で最後まで変わることはない。その愛は、ご自分を十字架にかけて嘲る者に対して、御父に執り成して赦しを祈られたほどにすべての人を愛するものである。神は愛なのである。
しかし、ユダはキリストを求めることはなく彼が求めたものは悪魔の金であった。神は私たちの求めているものをくださる。ユダはイエスの命の代金銀貨30枚を得たのだ。