石ころ

イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)

 

さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(1)

 

イエスの愛は永遠に変わることがない。それは七の七十倍の赦しの中にあってのことである。イエスの十字架に感謝して救ってくださった愛に応答しようとする者には、彼らの失敗や成功には拠らぬ真実な神の愛がある。

 

弟子はキリストの御わざを宣べ伝える証人である。主は彼らの必要を満たされる。キリスト者にも働きを受け継がせるために、欠けを覆って罪を洗いきよめられる。思いが汚れているならサタンに支配されるのだ。

 

夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。(2)

 

イエスに満ち足りていない心に悪魔が足台を備える。すっかり主に信頼して安息する者に悪魔は近づくことが出来ない。
ユダの体はイエスの近くにいてもみことばに耳を傾けることはないゆえに、彼は満ち足りることはなかった。

きっと聴いてはいなかったのだろう。財布の中身ばかり覗いていたのは、自分の将来や世の思い煩いのゆえである。この不信仰が悪魔を招き入れるのである。

 

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。(3)

 

イエスは父なる神の命令を成し遂げて天に在る神の右の座に帰られる方である。無力さと嘲り敗北の死に見える十字架は、すべての死に勝利して神の栄光を現わす永遠への凱旋門なのだ。

イエスは未知の罪を負う恐怖と、救いのわざを成し遂げる愛の狭間に在って、残されている時の間に、最も必要な弟子への備えをされる。

 

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(4~4)

 

弟子たちがイエスの言葉のままに、汚れた足を差して洗って頂く様子が目に浮かぶ。奴隷のように跪いて足を洗う主人に、弟子たちは自分自身をお任せして汚れをきよめて頂いたのだ。

 

そう、イエスに出会った時に、生きるための遣り繰りをして世を歩いて来た泥だらけの足を洗って頂いたのだ。罪を申し上げてもっとも汚い部分ごと御前に差し出し十字架の血潮で洗って頂いた。
イエスは、天地創造の神を「アバ父」と呼べるほど完全に洗ってくださった。

 

こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(6~7)

 

神のなさることは大概はその時は人には訳がわからない。神は永遠をご存じであり、そのための必要を備えてくださるが、人は過去によってのみ将来を量る者であり、まったく新しいことには戸惑う他ないのだ。

 

弟子のように、ただ信頼して将来をお任せする恵みにも、災いと思える事柄の中にも、従順してみことばを受けとりそのままを生きるのである。

 

ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」(8)

 

ペテロは汚れのままに自分自身をイエスに委ねることを恐れた。
人は清くなってから・・もう少しマシになったら・・イエスに会おうと思うが、それは自分の罪深さを知らないから思うことである。

そんな日は永遠に来ない。そのように御前から去った瞬間、その人はイエス・キリストとの関係は失われる。誰も明日の命を知らないからである。

 

きよくされるのはイエスの心に拠るのであり、人は主に従順してのみきよめられるのである。神の御前に出られる聖さは、人の何か拠って得られるようなものではなく、一方的なキリストの恵みによってたまわるいのちである。

 

ペテロがイエスから世の汚れを洗われ、神の子とされるきよさを受けていなければ、これからの試練の日にサタンは彼の心を責め立てて支配し、彼は主に留まり続けることは出来ないのである。

 

シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(9~10)

 

イエスはユダの足も洗ってくださった。この時、ユダはこれまでの盗みの罪も、不信仰の罪も、汚れた思いの罪も洗いきよめられたのである。
ただ、彼はイエスに足を洗われている間も恐れも感謝もなく、キリストを悟ることはなかった。心が変わることが無ければ、たとえきよめられても罪はすぐにユダに帰って来て彼を汚し続ける。

 

イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。(11)

 

イエスの愛は全てをご存じの中で最後まで変わることはない。その愛は、ご自分を十字架にかけて嘲る者に対して、御父に執り成して赦しを祈られたほどにすべての人を愛するものである。神は愛なのである。


しかし、ユダはキリストを求めることはなく彼が求めたものは悪魔の金であった。神は私たちの求めているものをくださる。ユダはイエスの命の代金銀貨30枚を得たのだ


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コメント一覧

ムベ
デ某さんコメント感謝します

紅葉が鮮やかになるには明確な寒さが必要らしいですが、今年は寒くなったと思ったら暖かだったりややこしい日が続いて、紅葉も迷いの中で疲れ果てて落葉して行くようです。
何時も写真をほめて下さってありがとうございます。
私もデ某さんと同じことを言っていました。今年らしいと・・。

何時ものコースで楽しんでらっしゃるのですね。京の秋のお写真を見たいです。以前に、紫陽花の味わい深いお写真を見せて頂いたことを思い出しました。
紅葉はデ某さんの想いとは違っていたのですね。代わりのご馳走があって良かったです。私はその方が興味津々です。

それだけ・・って、言いますね。

炬燵はシマジロウさんの居場所ですものね・・それは思い出しますね。
お気持ち御察しします。
実は、座椅子にホットマットを敷いただけのものです。このままでは句になりませんので・・ふふ

シマジロウさんはさと姫でもあったのですね。本当にその家ならではの想いの深いストーリィがありますね。
黄金の蕾は開花して、家族を愛し愛されて完全燃焼して、凛と命を全うしましたね。

ご両親の美しい早贄はデ某さんの心をどれほどに引き付けるものか・・少しはわかります。
私は今回、自分で設計(簡単な間取り)した家で子育てをし、主人を看取って後に殆ど空にしてお隣さんに買い取って貰って処分しました。
最後には長男夫婦が手伝ってくれたのですが、嫁さんが「おかあちゃん助かるよ。よくやったよ。」と評価してくれて嬉しかったです。

まあ、ミニマリストの走りみたいに物を持たない者ですので、デ某さんとは大違いですが・・。それでも50年間のゴミ類を出し続けて右腕が動かなくなりました。二度と御免です。それゆえ、天国への旅立ちは簡素にと願っています。ふふ・・

高橋紗都さんのカノンありがとうございます。清楚な装いでのまま心に響きました。
聴覚に障害をもっておられるのですね。素晴らしいギターでした。また、聞かせていただきます。
デ某
ブログ記とは重なりませんが
ご子息が撮られたお写真‥いつも感嘆しつつ見ています。
"紅葉" を求めて方々にカメラを向けられたことと思います。
しかし何処の紅葉も いつもの年よりはるかに遅れ 秋を通り越し冬へ‥。
やはり被写体も やや燻んだ観がありますが
それもまた "今年の秋"‥見事に写し撮っていらっしゃいます。

私も 昨日 肌寒く小雨降るなか カメラを提げて和知(京都府)に参りました。
山野草苑、道の駅「和」、自然食レストラン「菓歩菓歩」と いつもどおり(笑)
紅葉はすっかり諦め 道の駅での農産物の買い出しと食!に専念?しました。

それだけ? と言われそうですので 「今日のうた」について‥。

> 鈍色のうすら寒きにドア閉じて 出したばかりの炬燵に戻り
「鈍色」‥ まさに今年の秋は鈍色ですね。
わが家は 炬燵こそ未だ出していませんが
居間にはガスヒーター、布団にはアンカを入れないと眠れません。
炬燵は ほんとうはすぐにも出したいのです。
でも この5月に旅立った愛猫が 炬燵を出すと歓び勇んでもぐりこんだ姿を思い
つい 二の足を踏んでしまいます。

> アスパラ菜姫の如くに守り来て 黄金の蕾今朝見つけたる
「姫の如くに」。かけがえなき娘、珠玉の如くに!ですね。
私たち夫婦には娘がいませんので いっそう!娘の可愛さを思います。
娘が生まれれば「さと」と命名することに決めていたのですが‥。
それにかわる "黄金の蕾" が愛猫シマであったように思います。

> 鈍色の空に群れるはヒヨドリか 百舌は今年も早贄残す
ここでも "鈍色"。そして "早贄"。
先日 両親なき郷里の家に帰り 遺品などの片付けをしました。
もう3度目ながら まだまだ到底!片付きません。
ひと二人が生きた長い年月は そう容易に片付きませんね。
衣類も 書も 父の手作りの石印や茶器(楽焼)百数十点も‥
母の刺繍も 書画も 数十年の家計簿も 手書きの料理レシピも‥
貴重であり愛しく思いつつ それでは永遠に片付きません。
そうした思い深い品々も 言わば "早贄"として遺されたものではあります。

帰省中の朝日新聞「俳壇」に載った一句に
 『露の世をみな懸命に生きてをり』『ほどほどに衣食足りて夜長月』。
同じく「歌壇」に載った一首に
 『物忘れ探し物続くいつの日か私が私でなくなる不安』。
戦前戦中戦後を懸命に生きた父と母。
97歳、101歳の生涯 ‥ 晩年は「衣食足り」る日々に感謝しつつ
「私が私でなくなる」不安にかられていたのかもと‥ 心がちぎれます。

娘が生まれれば命名する筈だった「さと」の名。
障碍をもつ同じ名のギタリスト 高橋沙都さんの「カノン」をお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=PToaMND2L8E&t=19s
ムベ
てっちゃんさんコメントのお励ましをありがとうございます。

このブログは、主がどなたかの御用のために、無学な私を忍耐によって用いてくださるものです。このようにコメントで教えてくださることは嬉しいです。

はい。keiさんに読んで頂いていることも感謝です。主の祝福をお祈りしています。

主のご真実によって、求める者に良い将来を備えてくださいます。しかもそれは家族に及び、永遠まで続く約束です。
すべてはイエスさまの一方的なお恵みです。本当になんと幸いなことでしょう。
hirooka-tetsuya
今の私の状況にぴったりの記事でした。心から感謝いたします。またkeiさんのコメントを読ませていただき、感動しました。本当に主は素晴らしい!感謝です。
ムベ
keiさんコメントありがとうございます

思い巡らせつつコメントをくださったご様子を拝察してありがたく思いました。
繰り返し読んでくださったとのこと、本当に感謝と慰めをたまわりました。

誰も生まれながらに創造主を知っている人は無く、また、自分の賢さに拠って知る人もいません。
イエス・キリストに出会うことは、私たちの造り主である神のご意志そのご縁に拠ることを実感しています。

天地創造の神が遣わせてくださったイエスさま以外に救いは無いと、私は聖書のことばの通りに率直に書き続けていて、それは人の心を時に逆なでする言葉であることも知っています。
それゆえ今回keiさんのコメントを頂いて、イエスさまに導かれて書くブログの意味を知ることができました。
このような知恵もなく拙い伝え方であっても、私だけが伝えることが出来るイエスさまが在るのだと感謝に思いました。

お義母さまに良く仕えて働いてこられたkeiさんに、無学な私をも用いてくださるイエスさまの熱心によって、死を越える永遠のいのちをお伝え出来ることを光栄に思います。

これからもどうぞ宜しくお願い致します。お感じなったままを教えてくださいませ。私もわからないことばかりですので、その時はイエスさまにお祈りしてお導きを頂き、新しいことに目が開かれる恵みによってお話することが出来ると思います。
kei
こんばんは。
繰り返し拝読しては、どう言葉にしたらいいのかな…と思いますとうまく言えそうになく、ためらいもあります。
私は在家から浄土真宗の寺に嫁ぎました。
何もかも義母を手本にしていたものです。
信心とか信仰って人に言われてどうなるものでもなく、ただ何度も何度もお話を聞く、聞法を重ねてまいりました。
一生この繰り返しだろうと思うのです。
「おかげさま」に気づかされる日暮らしを心がけたいと思っております。

ムベさんのかつてのエッセイ、また詠まれるお歌に触れ、しみじみとした慈愛に包まれるます。
これまでキリスト教に親しんだことがありません。
この頂いたご縁を機に、ムベさんを通して近づいてみたいと思ったりしております。
よろしくお願いしますね。
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