石ころ

互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章) 是正

 

イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。(12~13)

 

イエスは世の初めから終わりまでを知る唯一の先生であり、すべての造り主である。主は裏切るユダの足さえ洗って、仕えるために来てくださった愛を示された。ただ、裏切る者を排除するなら、誰の足も洗うことが出来ないのだが・・。

 

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。(14~15)

 

互いの足を洗い合う必要は、世を生きて行く弟子にとって、その道筋が足を汚すもので溢れていることを示している。その汚れを日々洗い合う必要があるのは、自分では気付かない汚れだからである。互いの罪の重荷を祈りと言葉によって洗い合い、共にキリストの平安に生きるためである。

 

足を洗う命令は「互いに」とある。キリスト者は誰であっても、聖霊によって示された人から洗ってもらう必要があり、また足を洗わせてもらう必要があるのだ。

 

まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。
これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(16~17)

 

天にも地にもイエスを教える人は居ない。イエスに拠らずに生きている命もない。イエスこそすべての命の造り主だからである。すべての命はイエスの憐みによって今を生きるのである。
この命の与え主に勝ろうとするのは、善悪知識の木の実を食べた賢さであり、それこそ永遠の滅びに引き込む悪魔の罠である。

 

イエスが父なる神によってすべての必要を備えられたように、イエスも信じる者の従順のために、すべての必要を備えてくださっている。
主に信頼して生きる者のうちにはキリストの愛が満ちていて、永遠の望みに安らぎ、それぞれのタラント分の働きを喜び合う平和がある。

 

わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。(18)

 

神が人となられたイエスに直接みことばを聞き、顔と顔を合わせて過ごしたことは人としてどれほどの光栄であろうか。しかし、そのイエスを売るユダの霊の鈍感さに、金に目がくらむ時それ以外のものが見えなくなるとわかる。

 

「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうが易しい。」(マタイ19:24)この言葉は、人を支配し人がひれ伏しているものが、創造主ではなく経済であることによって分かる。此処で人類を支配している金銀は、わずかな間の命に過ぎず、永遠の滅びに至るものだからである。

 

世では、創造主にひれ伏すことに激しく抵抗する者は多いが、金銭に抵抗する者がいないのは、神と繋がるべき霊が仮死状態だからである。ユダのように・・。

 

事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。(19)

 

もうすぐ弟子が思いもしなかったこと、いくら聞いても理解できなかったイエスの十字架の時となる。一瞬にして手のひらを返した人間の「十字架に付けろ」という声を聞くのだ。

すべてを捨てて従ったのは王になられると信じていたからであり、神のわざを行って死者をよみがえらせた方が、捕らえられて無実の十字架刑によって彼らから取り去られることは、弟子にはあまりにも意外な結末であって、そのようなイエスの弱さはあり得ないことなのである。

 

その時にイエスは「わたしはある」という方であり、すべての初めであり終わりまでを知る方であり、イエスに永遠の望みを置いていることで関係は守られるのだ。

 

私たちがイエスのことばを聴き続けるのは、その日その日の出来事に支配されることなく、良い時も悪い時も、ほめられている時も責められている時も、キリストの平安によって御国に行くまで守られ、たまわったタラントを用い続けて働くためでもある。

 

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(20)

 

父なる神と子なるイエスは一体の創造主であり、聖霊はキリスト者を初めから導いてイエスの言葉を解き明かし、みことばに拠って生きる力を与え助けてくださる三位一体の神である。

 

ユダはイエスのお側に居て御手で触れられて、汚れを洗われいている間もイエスを受け入れることは無かった。イエスを受け入れた者は霊の真ん中にお迎えして、みことばと祈りによって親しくもてなし続ける。そう、あのザアカイのように嬉しくてたまらないからである。

 

イエスを受け入れることが出来るのは聖霊の助けに拠ることである。決して欺くことの出来ない聖霊は、弱い者ではあっても真実な求めに応じて助けてくださる。

みことばに聴き続けるうちに神の愛を経験させて、良き働きを成させてくださるまでに成長させる。それこそがイエス・キリストを受け入れた者にたまわる神の祝福である。


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