石ころ

ラザロのよみがえり ①(ヨハネの福音書11章)

 

さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。(1~2)

 

マリヤはイエスが来られると、お側に座ってみことばに聞き入る人であった。彼女はイエスの葬りを察して高価な香油を捧げるほどにイエスを愛していた。

 

姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(3~4)

 

マリヤたちはイエスに知らせることで、すぐにラザロは癒やされると信じていたことであろう。イエスがラザロを愛しておられることを良く知っていたからである。

確かに主は彼らを愛しておられたので、キリストのしるしとしてラザロを用いられる。人にとって生きてであろうと死んでであろうと、主に用いられることほどの光栄なことはない。

 

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(5~6)

 

イエスを愛する者を主は愛しておられる。それゆえ、どのような形であろうとその命を最善に用いてくださる。イエスは神の良きご計画によってラザロを癒されず、その死を二日放置された。

 

祈りが聞かれない時がある。それは「時」の問題であり、主の良きご計画に拠ることであって、関係の問題ではないことを知っているなら、平安を得ることが出来る。
キリストに繋がれている者は、たとえ命を失ったとしても手遅れになることは無いのだ。

 

それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」(7~8)

 

マリヤたちはイエスが危険な立場にあることを知ってか知らずか、弟の命の危機にイエスを呼び求めるのは、脆い命を持つ人の普通の姿であった。
弟子たちがイエスの言葉に驚いたのは、イエスが石打を恐れて身を避けたと思っていたからであろう。

 

イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」(9~10)

 

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。すべての命は造り主なる神のみこころにあり、雀の一羽さえも知られずに地に落ちることは無く、此処にキリスト者の平安があるのである。


安全な場所に居るから命が守られるのではなく、何処に居てもどの時代に在っても、すべての命は主のご計画に在って守られている。

命の在る間にキリストを信じ、滅びることの無いいのちをたまわるなら、その人はもう永遠を生きているのである。キリストのいのちの光りの中に居るからである。

 

イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。(11~13)

 

死のことを永眠と言う。それは永遠の穏やかな眠りを言っているようで、慰めの言葉でもあるようだけれど、サタンが活躍する世の言葉であり、真実とは程遠い恐ろしい嘘である。命のある間にキリストに身を寄せて、永遠のいのちを求める必要から目を反らさせるための言葉である。

 

悪魔は仮初めの慰めによって真実から目を背けさせ、残されている貴重な時間を世のことに奔走させる。キリストの救いを無視させて、御子をたまわるほどに神に愛されている者を妬んで、滅びの道連れとするのである。

 

そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(14~15)

 

ラザロの死はイエスの意図せぬことであると分かるが、神はご存じである。創造主なる神の許しなしには「スズメの一羽さえも地に落ちることはない」とあるからである。それゆえ此処には神のご計画が在り、イエスはみこころを行われる。

 

神に知られている身の平安が此処にある。癌にも、怪我にも、癒やしを祈りつつ生きようとする時も、永遠の望みにある者の平安は揺るぐことはなく、パウロのように「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」このように命を用いることを願うのである。

 

そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(16)

 

今なら彼らも逃げ出さずに死ぬことが出来るかも知れない。イエスが側に居てくださるからである。
しかし、今私たちは三位一体の神が霊のうちにいてくださるのである。

 

イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。(17)

 

すべてのことには神の定められた時がある。その時を、問題や困難の中で主に信頼して待つなら神の御わざが現される。
何をすることではなく聴いたみことばに信頼し、キリストに身を寄せる平安の中で待つことである。

 

ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。
マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。(18~20)

 

大勢のユダヤ人が来ていても、マリヤは彼らに見せるために墓に泣きに行くこともせずひとり座っていた。イエスの足元に座ってみことばに聞き入っていた時のように・・。

 

訳のわからない悲しみに会うことがある。暴虐を見ることがある。そのときはただ主に信頼して静まり、祈りの中で義なる神のさばきを待つのがキリスト者である。


マリヤは人々に「主が来てくださらなかった」ことを訴えて、不信仰を曝すことをしなかった。ひとりで座って主に留まりサタンの手に落ちることをしなかった。

 

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(21~22)

 

マルタもイエスにだけ悲しみを訴えた。最悪の状況の中で心のうちのすべて主に申し上げることは最善である。それこそ主との親密さに在ってのことであるから。

 

イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(23~24)

 

兄弟の死と言う心が乱れる悲しみの中で、マルタはやっと来てくださったイエスにみことばを語った。彼女は聴いていたみことばに望みを託して立っていたのである。

 

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25~26)

 

このみことばは、すべてのキリスト者の死の悲しみを越えさせる確信であり、悲しみの中にあってしっかり拠って立ついのちの約束である。
大切なことは「生きてわたしを信じる者は」とあり、生きている間にイエス・キリストを信じることの大切さである。

キリスト者は親しい者の死を迎える度に宣教の必要を心刻んで、自分に出来ることを主に祈るのである。悲しみの中で、未だキリストを知らない人々の死を思って痛むからである。

 

彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」(27)

 

彼女の信仰告白はどれほどイエスを喜ばせたことであろう。悲しみの中、思うようにならない現実の中での信仰告白である。この言葉は主との信頼関係の確かさを現わし、みこころに従順して口にすることが出来る言葉である。


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