撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

ドナウ河岸歩き(13)ヴコヴァル in クロアチア

2019-10-16 18:37:49 | 海外生活

 前回に引き続いて、オシィエクから更にドナウ川を30 kmほど下ると、今度はヴカ (Vuka)川が 

ドナウ川と合流する街、ここはバルカン半島で最悪な悲劇の街であった。

                  ... 以下の貼付画像はすべて Oct. 09 2019に撮影        

 聖フィリップ&ジェームス教会から見たドナウ川とヴコヴァル市街

 

 ヴカ (Vuka)川河口は現在、河川工事中

 

<ロケーション>

 

2.ヴコヴァル (Vukovar)

   第2次世界大戦と1991年のクロアチア独立戦争では完璧なまでに破壊された最前線の地

  であり、未だにその傷跡が街の至る所で見受けられる。

 ● 給水塔 ... 第2次世界大戦後の1963~68年に建てられた物で、600 発もの砲弾を浴びても

      生き残ったことにヴコヴァル市民の感動を呼び、1991年の悲劇を忘れない為にも

      永久保存を決めた。

       高さ50.3m 

 

 ドナウ川はすべてを見ていた。

 

 ● 紛争の傷跡が残るメインストリート

   何故、建物が半分づつなのかと首を傾けてしまう。

 

   1991年11月18日の街                 私立博物館のパネル写真を拝借

  街に住むクロアチア人とセルビア人は5:3の割合で、仲良く暮らしていたが、1991年の

 8月25日~11月18日までの80日間、隣人が敵同士となって戦う結果となった悲劇の独立戦争

 であった。 当時の人口から2万人ほど減って、現在は約3万の人口であるが、クロアチア人と

 セルビア人の割合は当時と変わっていないが、隣人(異民族)への不信感という心のシコリは

 未だに氷解していないらしい。

 ユーゴスラヴィア人民軍のセルビア人勢力36,000人と2,000人のクロアチア軍では、結果は

 明らかであった。  加えて、11月20日のクロアチア人虐殺事件(264人の殺害)は消し去る

 ことの出来ない事件であった。

 

 ● 聖フィリップ&ジェームス・カトリック教区教会(フランシスコ会修道院)

 1723~1732年に建てられたが1991年の戦闘で破壊、現在の教会は2000年に再建された。

   

 

 1991年のクロアチア独立戦争で破壊 (教会内で展示されていた写真を拝借)

 

 ● 聖ニコラス正教会 (Church of St. Nicholas)

  1733~1737年に建立、記録は見つけられなかったが独立戦争では当然破壊されたであろう。

  

 

 ● 街の中心にある古い給水塔と放置されたままのホテル ... 保存するのか、廃却か?

  右の近代的な建物は、市役所、区役所、銀行等が入ったモール

 

 ● ヴコヴァル市立博物館/エルツ (Eltz) 城

 

 内部はヴコヴァルの歴史博物館になっている。

 

 クロアチアのお札 20Kuna 裏面にエルツ城が描かれているほどの有名建造物である。

 

 ● 戦時病院博物館 (Place of Remembrance Vukovar Hospital)

  街の中心、ヴカ川から Zupanijska 通りを西へ1km ほどの所にあるヴコヴァル病院の中に

 あり、ちょっと判り難いが目安は近代的な病院の玄関をすり抜けて行く。

                         .... 写真はSNSのWikipedia から拝借

      Bolnica はクロアチア語で “病院” である。 下の写真は博物館入口。 

 <お薦め>

    Youtube にて「Vukovarska bolnica 5.10.1991」を入力すると、当時の病院の状況を

  観ることが出来る。 戦争は知らないけど、テレビなんかでは赤十字には攻撃をしない事に

  なっていたような? 同じ国民でも民族が違うだけで、そんなにも非人道的になれるほど

  憎み合うのだろうか? 何が戦争を駆り立てるのだろう?

  世界がどんどん小さくなっている昨今、まだ何処かで戦火の炎が無くならないのは、人類、

  民族、宗教、国境の壁はまだまだ越えられないほど高いのだろうか?

 

<参考> ちょっと紙面を借り、この先のドナウ川を下る旅を続ける為にも、「バルカン半島の

    火薬庫」と呼ばれるこの地域の経緯を、小生の俄か学習のメモを残しておきたく......

            どうぞ個人的な所業ゆえ、ご拝読は割愛してください。

  旧ユーゴスラヴィアの成り立ちは次回以降のセルビアの地で行なうとして、ここでは紛争について

のみ時系列的に触れてみたい。   

  ● 1989年3月;セルビア共和国は憲法を修正し、セルビア政府が自治州(コソボ等)に対して   

                       自治権を大幅に制限させるようにした事よりユーゴスラヴィア連邦を作っていた

        6つの共和国の間に大きな亀裂を生んだ(紛争の火種)

  ● 1990年1月;第14回ユーゴ共産党臨時大会において、スロヴェニアとクロアチア共産党代表

        は施政方針の相違より席を蹴って会場から姿を消した。

                    ...ベルリンの壁崩壊からわずか2か月後であった。

  ● 1990年12月;スロヴェニアで

  ● 1991年5月 ;クロアチアで国民投票が行われ、ユーゴからの分離独立(6月末~)が可決。

  ● 1991年6月 ;ユーゴ人民軍(セルビア人主体)は独立を阻止するため両国に向けて派兵。

  ● 1991年10/5;初代クロアチア大統領になったトゥジュマンの徹底抗戦の呼び掛けで戦闘開始

  ● 1991~95年;紛争は続いた。 これをクロアチアでは独立戦争と呼び、日本を含めた外国の

         メディアでは Civil war(内戦)と呼んでいるが、クロアチア人にとっては

        「ユーゴの内戦」という表現はタブーとなっている。

  ● 1992年1/15;ヨーロッパ共同体(EU)によって独立は承認された。

  ● 1998年1/15;最後まで占領されていた東スラヴォニア州(オシィエク、ヴコヴァル等)が返還

 

 この後の1998年に起こったコソボ紛争は、前述した自治権問題で別の紛争であるが「火種」は

同じ、更には2001年に起こったマケドニア紛争もクスぶり続けており、まさに「バルカン半島の

弾薬庫」と呼ばれる所以である。

  

   これにて「ドナウ河岸歩き(13)ヴコヴァル in クロアチア」は、お終いです。

   本ブログのご拝読をありがとうございました。

 

 

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