ドナウ川はこれまで南へ南へと流れ下っていたのが、ヴコヴァル (Vukovar) を過ぎると真東に
(地図上では水平に) 進路を取り、セルビア国境の街バチュカ・パランカ (Backa Planka) で
パスポートチェックを受け、セルビア第2の街ノヴィ・サド (Novi Sad) に向かう。
... 貼付画像はすべてOct. 11 2019に撮影
1.ドナウ川とノヴィ・サドの橋たち
● 自由橋 (Most Sloboda)
ベオグラードからの幹線道路22号線がノヴィ・サドの市街地に入る橋。
1991年のコソボ紛争時にNATO軍の空爆で橋は破壊され、2005年に再建された。
破壊前の橋は1981年に造られたものであった。
画像はSNS Wikipedia より拝借
<ロケーション>
● ヴァラディン橋 (Most Varadin)
NATO軍の空爆により、橋ゲタのみ残っている旧ヴァラディン橋、この脇に2005年まで臨時
の浮動式の橋が設けられていたらしい。(古い写真より判断)
2000年に再建された今のヴァラディン橋(要塞に行く時の橋)、幹線道路100号線が通る。
● チェジェリ橋(Zezeljev most)
2018年に再建された最新の橋で、クルマ用道路と鉄道線路を並行に走らせている。
2.ノヴィ・サドの街
ドナウ川を挟んで左岸のバチュカ地方(市街地)、右岸のスレム地方(要塞)を結ぶ橋は
3つあったが、1999年4月にコソボ側支持のNATO軍による空爆を受け、ドナウ川に架かる
全ての橋は破壊されたが、現在はすべて再建された。
実は当時、勤めていた職場の上空を、静謐な真っ青の空を突き裂くようにNATO軍の爆撃機
が通り過ぎて行った事を思い出し、あの時の爆撃機が狙った先はここだったのかと、片やノホ
ホンと空を見上げ、片や生死の狭間だったのかと複雑な思いに陥ったこの日であった。
● 左岸の市街地
対岸のペトロヴァラディン要塞側は入植制限もあり、セルビア人達は左岸側に新しい街を作
ったのが1694年からである。 市街地の人口は29万人でセルビア第二の都市となった。
ノヴィ・サドの名の由来は、Novi(新しい)Sad(住まい、入植地)である。
最も高く突き出している尖塔が、ノヴィ・サドのランドマークでもある聖母マリア聖堂。
3.ペトロヴァラディン要塞 (Petrovaradin fortress)
この地には石器時代(紀元前4,000年頃)より人は住んでおり、紀元前4世紀にはケルト人
が、紀元前1世紀よりローマ帝国が支配するが、その時期には既に、この場所にクスム (Cusm)
という要塞が築かれていた。現在の要塞はハプスブルグ家のマリア・テレージア女帝が1699~
1780年に同じ場所に造り替えたものである。
● 時計塔
この時計は短針と長針が逆になっているそうだが、確かにそうであった。
● 展望テラス
右の建物はホテル「レオポルト」
● 市立博物館
● イエズス会聖ジョージ教会
1701~1714年に創建された。 教会の脇の階段を登って行くのが要塞へは近道。
<参考メモ> .... ここで複雑過ぎる旧ユーゴスラヴィアの成り立ちをメモっておきたい。
この地は紀元前より、いろんな民族、帝国が領土を求めて戦乱に明け暮れてきた訳であるが、
第二次世界大戦の終わりが見えてきた1943年11月にユーゴスラヴィア共和国として独立を宣言
した。 当時のこの地域はナチスドイツの占領下にあり、ユーゴ共産党率いるパルチザンが抵抗
運動を繰り広げていた。 そのリーダーであったのが後にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国
の初代(終身)大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーである。
この抵抗運動はナチスを敗戦に導くほど苦しめ、最終的には自力で勝利、独立を勝ち取った。
ナチスから解放されるや、ソ連は東側ブロックの一員に迎えるべくユーゴに触手を伸ばしてきた。
しかし、ソ連の目指す中央集権型政治運営とユーゴ共産党の目指す分権型政策とは相容れない
ものがあった。
このことがスターリンの逆鱗に触れ、1948年6月に共産党国際組織であるコミンフォルムから
ユーゴは追放されてしまったのである。
当初、ユーゴは東側ブロックに属すると考えられて、西側からの援助も受けられず孤立し、経済
的にも窮地に陥ってしまった。 そして分権型の社会主義体制を推し進め、労働者の自主管理
「工場を労働者の手に!」をスローガンに東西対立の狭間にあって生き延びるしかなかった。
... 実は後に、この分権型社会主義がハンガリー動乱(1956年)、プラハの春(1968年)と
いった東欧革命に繋がって行ったのは世の中の皮肉なのか。
1950年以降のユーゴスラヴィアは青息吐息で、時には分裂の危機を孕みながらも1991年まで
統一を持ち堪えてきたのは、チトー大統領が民族間の対立を抑えていたせいだったのであろう。
チトーが1980年に世を去るとユーゴスラヴィア共和国の統一に暗雲が差し込んで来た。
そして1991年からの一連の「ユーゴの紛争」に繋がるのである(前回のメモの通り)
ここでよく用いられるユーゴの多様性を物語る言葉遊びを...... ユーゴスラヴィアは;
・1つの国なのに、
・2つの文字(ラテン文字、キリル文字)を使う。
・3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)が混在して
・4つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)で国語がない。
・5つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人)
・6つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、
モンテネグロ、マケドニア)が連邦している。
・7つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、
アルバニア)と接している。
この事実がユーゴスラヴィア統一の困難さを物語っているのだろう。
これにて「ドナウ河岸歩き(14)ノヴィ・サド in セルビア」はお終いです。
次回はベオグラードへ、本ブルグのご拝読をありがとうございました。