<ロケーション紹介>
ハンガリーの西端に位置し、オーストリア領土に盲腸のように小さく突起している。
その理由は、第一次世界大戦後の1921年12月14日の住民投票でハンガリー国に帰属することを
選んだことが、このような変形的な国土になった。 これにより雄大なリゾート湖であるフェール湖
(Fertö...ö のスペルちょっと違う) の一部もハンガリー国に帰属するところとなった。
当時のショプロン市民の心情は定かではないが、ハンガリー国民の愛国の証であったような気もする。
同時期に他の近郊4つの郡でも住民投票が行われ、ブラチスラヴァのみチェコスロバキアに帰属する
ことを選び、他はハンガリーへの帰属を選んだ。
ショプロンは9~11世紀には、ローマ帝国の州のひとつとして、司教区であり、交通の要衝として栄えて
来た。 そこにはハンガリー人はもとより、イタリア人、ドイツ人、スラブ人と共栄共存してきた。
1989年の8月19日に東ドイツ人600人が、Pan-European-Picnic と称して、オーストリア/ハンガリー
国境を越え西側に逃れた事件が、同年11月9日にベルリンの壁崩壊への道を開いたという話も遠い昔の
事である。
2012年現在、人口は61,000人、ドイツとハンガリーの両文化と言語を使うバイリンガルな街として、
世界中から多くの観光客を集めている。 その客の中には、安くて技術の優れた歯科医を訪ねてくる人
も多く、ショプロンには300余のクリニックがあると云われ、別名 “Dental capital of the world” と
称せられているようだ。
ここからは、多分に私見かも知れないが、ショプロンの街は「日本の京都」と呼べなくはないだろうか?
歴史の古さから教会が多く、市街地には立派な教会が、郊外には質素な美しい教会が、中には尼寺
もある。 地形的には山に囲まれた盆地で琵琶湖のようなフェール湖に面している。
最新技術(歯科分野)も持っているし、なんといっても年中、観光客で賑わっている。
以下、教会ロケーションは、すべて徒歩で行ける旧市街地内のため省略します。
<七十九番札所; Kecske (山羊)教会>
教会の名前からかショプロンで最も親しみがあり、誰もがまず最初に足を運びたい名所旧跡である。
13世紀にベネディクト派の信者であった山羊飼いのGeisel (ガイゼル)が、山羊で掘りあてた埋蔵金
を教会建設の為に寄付したという逸話がある。 当初は初期ゴシック様式であった。
14世紀には、高さ48mの塔が追加された。
火の見塔から見た山羊教会
教会正面 これほど美しい塔は他に類をみない
入口門とゴシック様式の窓 真っ直ぐ積み上げた壁に葉紋様彫刻と
Geisel 家の家紋(山羊)等もある。
門飾り(左側)
門飾り(右側)
側門(通常は南門だが?) 側門入口
ゴシック様式の単内陣構造で、何度も改築された(不運にも今回も改築中)が、ゴシック様式が
うまく保存され、煌びやかバロック様式が教会のムードとよく調和している。
左側翼内陣 主内陣(改築中)
内陣入口側 祭壇脇の内陣の壁に残る中世のフレスコ画
内陣の壁窓から眺めた隣の礼拝堂の天井(天井は典型的なゴシック: ここにも山羊家紋が)
天井を支えている内陣の支柱を飾る彫刻(山羊、ライオン、人等)
煌びやかなバロック様式の説教台 支柱に飾られた神と山羊の彫刻
<八十番札所; Szent György (聖ジョルジ)教会>
Tűztorony (火の見塔)からみた聖ジョルジ教会
1380~1430年にゴシック様式、単内陣構造で建てられた。1685年にはバロック様式で拡張。
一風変わったイタリア風の正面で、ゴシックの彫像を嵌めこんでいる。 門の上の透かし彫り。
正面の彫像 内陣(祭壇側)
内陣入口側 内陣の飾りは、1705~1706年の Pietro Antonio Conti の作。
次回、Sopron の教会(2)に続く。
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