コリー・ウェルズ Cory Wells
【出生名】
エミル・レヴァンドフスキ/Emil Lewandowski
【パート】
ヴォーカル、ギター、ハーモニカ
【生没年月日】
1941年2月5日~2015年10月20日(74歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国ニューヨーク州バファロー
【経 歴】
ジ・エネミーズ/The Enemys(1965~1966)
コリー・ウェルズ・ブルース・バンド/Cory Wells Blues Band(1967)
レッドウッド/Redwood(1968)
スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night(1968~1976、1981~2015)
コリー・ウェルズは、スリー・ドッグ・ナイトの創設メンバーで、リード・シンガーのひとりである。
ウェルズは婚外子として生まれた。実父は母以外の女性と結婚しており、ウェルズが幼い頃に死去している。
出生名はエミル・レヴァンドフスキ。これは母の姓を受け継いだものである。
エミルは子どもの頃から音楽が好きで、ゴスペルやブルース、ソウル・ミュージックにのめりこんでいた。
彼が育った家庭は貧しく、養父からは虐待を受けていた。過酷な環境の中にいたエミルは、高校を中退して空軍に入隊する。
エミルは空軍ではバンドを結成して音楽活動を始めており、除隊後はバファローに戻って「ヴィブラートス」というバンドに参加。ヴィブラートスは音楽界での成功を目指し、「ジ・エネミーズ」と改名してカリフォルニアに移る。
エネミーズはロサンゼルス、サンディエゴ、サクラメント、ラスヴェガスのクラブで演奏を始め、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーのハウス・バンドとなった。彼らは1965年から1966年にかけて4枚のシングル・レコードをリリースしたほか、いくつかのテレビ番組のほか、ポール・ニューマン主演の映画「動く標的」に出演している。
この時期からステージ・ネームとして「コリー・ウェルズ」と名乗るようになる。これはエネミーズのマネージャー、ジーン・ジェイコブスからの提案である。ウェルズは実父の姓「ウェルズリー」を短く縮めたものであり、「コリー」はジェイコブスの息子の名前であった。
この頃、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでエネミーズのステージを観たシェールは、たちまちウェルズの歌に惚れ込む。シェールに声をかけられたウェルズは、これがきっかけでソニー&シェールのツアーに参加することになったが、そのツアーで前座を務めていたのが、のちにスリー・ドッグ・ナイトで苦楽をともにするダニー・ハットンであった。ウェルズとハットンはさっそく意気投合する。
1967年、ウェルズはフェニックスに移り、「コリー・ウェルズ・ブルース・バンド」を結成する。このバンドのベーシストがのちスリー・ドッグ・ナイトでバンドメイトとなるジョー・シャーミーであった。
ウェルズは1968年にハリウッドに戻り、ダニー・ハットンとのセッションを開始。この時に、ハットンのシングル・レコードにバッキング・ヴォーカルで参加したことのあるチャック・ネグロンを仲間に引き込む。
ウェルズ、ハットン、ネグロンの3人は、1968年に新たなグループを結成し、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)の提案でグループ名を「レッドウッド」とした。レッドウッドはデビューを目指し、ブライアン・ウィルソンのプロデュースで同年「Time to Get Alone」と「Darlin'」の2曲を録音したが、マイク・ラヴ(ビーチ・ボーイズ)は「Time to Get Alone」をビーチ・ボーイズのアルバムに収録したかったため、レッドウッドの音源はお蔵入りすることになり、デビューには至らなかった。
レッドウッドは現状を打開するべく、改めてバンドとして活動することを決め、以前から交流のあったジム・グリーンスプーン(keyboard)、ロン・モーガン(guitar)、ジョー・シャーミー(bass)、フロイド・スニード(drums)に声をかけた。(モーガンはファースト・アルバムの録音前に脱退し、代わりにマイケル・オールサップが加入)
こうしてヴォーカリスト3人とインストゥルメンタリスト4人というユニークな編成のバンドが誕生した。このバンドは「スリー・ドッグ・ナイト」と名付けられた。
1968年5月、スリー・ドッグ・ナイトはハリウッドの「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」でデビューする。ロサンゼルス周辺のライヴ活動で手ごたえを掴んだバンドは、トルバドールでのライヴのあとダンヒル・レコードと契約を交わし、1968年10月に「ワン」でアルバム・デビューを果たした。
1968年11月にリリースしたデビュー・シングル「ノーバディ」は、ビルボードのシングル・チャートで116位に終わったが、続く「トライ・ア・リトル・テンダーネス」はビルボード29位のスマッシュ・ヒットを記録した。この曲はオーティス・レディングのヴァージョンを踏襲しているが、リード・シンガーを務めているウェルズがオーティスに勝るとも劣らない熱唱を繰り広げている。ちなみに、オーティスはウェルズのアイドルであった。
1969年4月、サード・シングル「ワン」がリリースされたが、これがビルボード最高位5位を記録し、スリー・ドッグ・ナイトはブレイクする。デビュー・アルバムもビルボード・アルバム・チャートで11位まで上昇してゴールド・ディスクを獲得し、スリー・ドッグ・ナイトはデビューからわずか1年で成功を収めたのである。
左から チャック・ネグロン ダニー・ハットン コリー・ウェルズ
スリー・ドッグ・ナイトは、隠れた名曲を取り上げて大ヒットにつなげることが多かった。彼らのレコーディング曲は、ウェルズ、ハットン、ネグロンの3人による合議多数決で決めていたという。
ウェルズの歌声は野性味にあふれ、その歌にはブルージーかつソウルフルな魅力があふれている。彼がリード・ヴォーカルを務めた曲は「トライ・ア・リトル・テンダーネス」「イーライズ・カミング」「ママ・トールド・ミー」「シャンバラ」「ネヴァー・ビーン・トゥ・スペイン」「愛のセレナーデ」などが挙げられる。
「ママ・トールド・ミー」はスリー・ドッグ・ナイトにとってビルボード1位を獲得した初めての曲である。この曲の大ヒットによって、作者のランディ・ニューマンが「子供たちを大学に行かせてくれてありがとう」と電話をかけてきたという。
スリー・ドッグ・ナイトは、その後も「イージー・トゥ・ビー・ハード」「イーライズ・カミング」「喜びの世界」「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」「ブラック・アンド・ホワイト」などヒット曲を連発し、1970年代のアメリカン・ロックを代表する人気バンドに成長した。
しかし1975年にダニー・ハットン、フロイド・スニード、マイケル・オルサップが脱退するとバンドの勢いは急速に失われ、1976年に解散した。
スリー・ドッグ・ナイトは1968年から1975年までの間にシングル・レコード23枚をリリースし、「ママ・トールド・ミー」「喜びの世界」「ブラック・アンド・ホワイト」の3曲の全米1位を生んだ。そしてその3曲を含めた21曲が全米トップ40入りしている。
スリー・ドッグ・ナイト解散後のウェルズはソロ活動を始め、A&Mレコードと契約して1978年春にファースト・ソロ・アルバム「タッチ・ミー」をリリースする。翌年制作したセカンド・ソロ・アルバム「アヘッド・オブ・ザ・ストーム」は発表されることなくお蔵入りしたが、2002年になってリリースされた。
1981年にはスリー・ドッグ・ナイト再結成に尽力し、その後終生にわたってメンバーとして在籍した。
1985年、人間関係が原因でチャック・ネグロンが脱退するが、その後はウェルズとハットンが中心になってマイク・オールサップやジミー・グリーンスプーンらを含むメンバーとともにスリー・ドッグ・ナイトを維持、定期的にツアーを行うなど活動を続けた。
2015年3月11日、転移性黒色腫のためグリーンスプーンが死去したが、ウェルズも激しい背中の痛みのためこの年9月に活動を中断する。血液ガンの一種である多発性骨髄腫と診断されたウェルズは治療を続けていたが、グリーンスプーンの死から約7ヵ月後の10月20日、ニューヨーク州ダンケルクのブルックス記念病院で睡眠中に死去した。74歳だった。
スリー・ドッグ・ナイトは、年内の公演をすべてキャンセルしてウェルズの死を悼んだ。
ウェルズは当時の他の多くのミュージシャンとは違い、アルコールや薬物をきっぱり断っていた。そしてスターになって大金を手にしても、浪費することなく質素に暮らしていたという。マリー夫人とは50年連れ添い、2人の娘と5人の孫に恵まれた。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ>
1978年 タッチ・ミー/Touch Me UK210位
2002年 アヘッド・オブ・ザ・ストーム/Ahead of the Storm ※録音1978年
<スリー・ドッグ・ナイト>
1969年 ワン/Three Dog Night US11位
1969年 融合/Suitale for Framing US16位
☆1970年 白熱のライヴ/Captured Live at the Forum US6位
1970年 イット・エイント・イージー/It Ain't Easy US8位
★1971年 ゴールデン・ビスケッツ~スリー・ドッグ・ナイト・アーリー・ヒッツ/Golden Bisquits US5位
1971年 ナチュラリー/Naturally US14位
1971年 ハーモニー/Harmony US8位
1972年 セヴン・セパレート・フールズ/Seven Separate Fools US6位
☆1973年 アラウンド・ザ・ワールド/Around the World with Three Dog Night US18位
1973年 サイアン/Cyan US26位
1974年 ハード・レイバー/Hard Labor US20位
★1974年 喜びの世界/Joy to the World : Their Greatest Hits US15位
1975年 カミング・ダウン・ユア・ウェイ/Coming Down Your Way US70位
1976年 アメリカ回顧録/American Pastime US123位
1983年 It's a Jungle US210位
☆1988年 Three Dog Night : Live
★1993年 セレブレイト~スリー・ドッグ・ナイト・ストーリー-Celebrate:The Three Dog Night Story, 1965-1975
★1999年 20th Century Masters - The Millennium Collction:The Best of Three Dog Night US109位
2002年 Three Dog Night with the London Symphony Orchestra
★2002年 ジョイ・トゥ・ザ・ワールド~ベスト・オブ・スリー・ドッグ・ナイト/Joy to the World -The Best of Three Dog Night
★2004年 The Complete Hit Singles US178位
☆★2007年 Super Hits Live
☆★2008年 Three Dog Night : Greatest Hits Live
グレン・フライ Glenn Frey
【本 名】
Glenn Lewis Frey
【パート】
ヴォーカル、ギター、キーボード、ハーモニカ、ドラムス、パーカッション
【生没年月日】
1948年11月6日~2016年1月18日(67歳没)
【出身地】
アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト
【経歴】
マッシュルームズ/Mashrooms(1967)
ヘヴィ・メタル・キッズ/Heavy Metal Kids(1967)
ロングブランチ・ペニーホィッスル/Longbranch Pennywhistle(1968~1969)
リンダ・ロンシュタット&ハー・バンド/Linda Ronstadt & Her Band(1970~1971)
イーグルス/Eagles(1971~1982)
イーグルス/Eagles(1994~2016)
グレン・フライは、アメリカ合衆国のヴォーカリスト、ギタリスト、コンポーザー。
アメリカン・ロック史上屈指の人気バンド、イーグルスの創設メンバーにしてリーダーである。
フライはデトロイトで生まれ、近くのロイヤルオークで育った。
5歳からピアノのレッスンを受け、その後ギターに転向する。
1966年にドンデロ高校を卒業したフライは、オークランド・コミュニティ・カレッジに通いながら、地元のバンド「ザ・フォー・オブ・アス」に加入して、デトロイトのロック・シーンで活動するようになる。
フライは、ザ・フォー・オブ・アスで演奏しながらハーモニーを付けて歌うことを学び、1967年に「マッシュルームズ」を結成する。マッシュルームズのシングルのプロデュースを担当したのは、当時デトロイトのロック・ヒーローとして活躍していたボブ・シーガーである。フライとシーガーはこの年に出会ったのだが、彼らの友情は終生続くことになる。
1967年後半には、ジェフ・バロウズ(piano)、ジェフ・アルボレル(bass)、ポール・ケルコース(guitar)、ランス・ディッカーソン(drums)とともに「ヘヴィ・メタル・キッズ」を結成。
1968年、ボブ・シーガーの初期のヒット曲「Ramblin' Gamblin' Man」にアコースティック・ギターとバッキング・ヴォーカルで参加。これがフライの初めてのレコーディング・セッションだった。
この年ロサンゼルスに移ったフライはJ.D.サウザーと知り合い、ルーム・メイトとなる。ふたりは「ロングブランチ・ペニーホィッスル」というデュオを組み、1969年にアルバム「Longbranch Pennywhistle」を発表したが、まったく売れなかった。フライはこの時期ジャクソン・ブラウンとも知り合っている。
1970年、フライはドン・ヘンリーと知り合う。エイモス・レコードに所属していたふたりは、レーベルのオフィスやウェスト・ハリウッドのクラブ「トルバドゥール」で時々顔を合わせるようになった。
1971年、リンダ・ロンシュタットのツアー・バンドを編成することになった。フライは、歌えるリズム・ギタリストを探していたロンシュタットのマネージャーのジョン・ボイランから声をかけられ、ヘンリーを誘ってこのバンドに参加する。このバンドのために集められたのは、フライとヘンリーのほか、ランディ・マイズナー(bass)、バーニー・レドン(guitar, banjo)である。ただし、ツアーでこの4人が揃ったのは1回だけだった。
フライとヘンリーは一緒にバンドを組むことを相談するようになり、マイズナーとレドンをメンバーに加えた。
フライは、友人のジャクソン・ブラウンにアサイラム・レコードを設立したデヴィッド・ゲフィンを紹介してもらい、新バンドは1971年9月にアサイラム・レコードと契約した。
このバンドは、1971年10月にアスペンのクラブ「ザ・ギャラリー」で最初のライヴを行ったが、この時のバンド名は「ティーン・キング&ザ・エマージェンシーズ」であった。その後バンド名は「イーグルス」となった。
1972年5月1日、イーグルスのデビュー・シングル「テイク・イット・イージー」がリリースされた。この曲は、ジャクソン・ブラウンと共作したものである。
フライとブラウンは当時同じアパートに住んでいた。ブラウンの部屋はフライの階下で、フライは床の下から聴こえるジャクソンの楽器の音で曲作りを学んだという。ある日ブラウンの部屋に遊びに行ったフライは、その時ブラウンが演奏していた曲を気に入り、即興で歌詞を付けて歌った。それを聴いたブラウンは、その曲をフライに提供することに決めた。その曲「テイク・イット・イージー」はビルボード12位まで上昇し、イーグルスは幸先の良いスタートを切った。
イーグルスの最初の2枚のアルバムはグリン・ジョンズがプロデュースしたものである。ジョンズはザ・フーやレッド・ツェッペリンとの仕事で、すでにその手腕は広く認められていた。初期のイーグルスはカントリー色が強く、その路線を進めようとしたジョンズと、ロック・サウンドへシフトしたいバンド側とは意見が合わなくなってゆく。このため3枚目のアルバム「オン・ザ・ボーダー」からプロデューサーはビル・シムジクに代わった。しかしフライはジョンズから「アレンジ、プロデュースのほか、プロとしての心構えなど多くのことを学んだ」と後年述懐している。
カントリー色が濃厚だった初期のイーグルスを音楽面で支えていたのはバーニー・レドンであった。バンドが生み出す音楽には彼の音楽性が深く投影されていたが、レドンは、フライとヘンリーの高圧的な態度とロック色が強まるバンドの音楽性を次第に受け入れられなくなり、1975年12月に脱退する。
レドンがバンドから離れると、フライがイーグルス・サウンドの中心として活躍するようになる。フライは、実質的なリーダーとしてイーグルスを牽引、ギター、キーボードを担当し、「テキーラ・サンライズ」「過ぎた事」「いつわりの瞳」「ニュー・キッド・イン・タウン」「ハートエイク・トゥナイト」など数々の名曲でリード・ヴォーカルを取った。
フライと、もう一方のバンドの柱であるドン・ヘンリーはバンドの重要なコンポーザー・チームでもあった。おもにヘンリーが作詞、フライが作曲を担当し、ふたりでバンドの代表作の多くを作った。
レドンの後任としてイーグルスに参加したのが元ジェイムス・ギャングのジョー・ウォルシュである。ウォルシュのギターは、ブルースやサザン・ロックをベースにしたもので、当時のアメリカン・ロックを代表するギタリストのひとりに数えられていた。彼の加入でイーグルスはさらにロック色を強めることになった。
1976年、イーグルスはロック史上に残る傑作アルバム「ホテル・カリフォルニア」を発表する。演奏力、曲の完成度など、内容は非常に充実しており、アルバムは世界的な記録的大ヒットとなった。フライはこのアルバムの9曲中7曲の作曲に携わっている。
しかしこの時期のフライ(とヘンリー)は、バンド内でますます高圧的になってゆき、その矛先はランディ・マイズナーに向く。その結果バンド内のストレスに加え、ツアーに次ぐツアーによる疲労が重なって、マイズナーは1977年のツアー中にバンドから離脱した。
その後、フライとドン・フェルダーの関係の悪化や、創作面でのスランプなどを理由に、イーグルスは1980年に活動を停止(1982年正式に解散)する。
1980年のイーグルス活動停止後、フライはソロ活動に入る。
1984年、フライはハロルド・ファルターメイヤーとともにエディ・マーフィー主演の「ビヴァリーヒルズ・コップ」のメイン・テーマ「ヒート・イズ・オン」を共作、これが映画ともども大ヒットする。
1985年には人気テレビ・シリーズ「マイアミ・バイス」のサウンド・トラックが全米アルバム・チャートで11週1位となっている。サウンド・トラックの中の「スマグラーズ・ブルース」はビルボード12位まで上昇した。
フライは、ソロ活動のなかで全米トップ100に12曲送り込んでおり、ソロ・キャリアでも大成功を収めたと言える。
また1980年代からは俳優としても活動し、テレビ・シリーズ「マイアミ・バイス」や「ナッシュ・ビリッジス」「アーリス」、また1986年の映画「レッツ・ゲット・ハリー」「ジェリー・マグワイア」などに出演している。
1994年、イーグルスは1982年の解散時のメンバー(グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ジョー・ウォルシュ、ドン・フェルダー、ティモシー・シュミット)で再結成し、アルバム「ヘル・フリーゼス・オーヴァー」をリリースした。アルバムのタイトルについて、フライは「イーグルスが解散した時、わたしとドンはいろんな人たちに『イーグルスはいつ再結成するのか』と尋ねられた。わたしたちは冗談で『地獄が凍ったときだね』と答えたものだ」と述懐している。
またフライは、1994年の最初のコンサートで聴衆に向かって「念のために言っておきますが、われわれは解散したことはありません。14年間の休暇を取っただけです」と語りかけている。
1990年代後半、フライは弁護士のピーター・ロペスとともに「ミッション・レコード」を設立する。しかしフライ自身はこのレーベルからレコードをリリースすることはなく、その後ミッション・レコードは解散した。
1998年にはイーグルスとしてロックの殿堂入りを果たした。
2007年、イーグルスは約13年ぶりのアルバム「ロング・ロード・アウト・オブ・エデン」発表する。アルバムは全世界で大ヒットを記録し、バンドは人気健在ぶりを見せつけた。
2009年、ミシガン・ロックンロール・レジェンドの殿堂入り。
2012年5月、フライは20年ぶりのソロ・アルバム「アフター・アワーズ」を発表したが、これが彼の生前最後の作品となった。
2012年5月、フライはヘンリー、ウォルシュ、シュミットとともにバークリー音楽大学から名誉博士号を授与される。
2013年から2年間にわたり、イーグルスは「ヒストリー・オブ・ザ・イーグルス」のワールド・ツアーを行った。ツアーは2015年7月29日にルイジアナ州ボージャー・シティのコンサートで幕を閉じたが、これがフライがバンドとともに公の場に姿を現した最後の公演でとなった。
フライは2000年に関節リウマチと診断されていたが、2016年1月18日にリウマチ性関節炎、急性潰瘍性大腸炎、肺炎による合併症によりニューヨーク市で死去した。67歳であった。
フライは、生前イーグルスのメンバーとしてグラミー賞を6回、アメリカン・ミュージック・アワードを5回受賞したほか、ビルボードのトップ40に、イーグルス名義、ソロ名義合わせて24曲を送り込んでいる。
フライの死去翌日の1月19日、マネージャーのアーヴィング・エイゾフが、「大腸炎と肺炎は関節リウマチの薬の副作用だった」と言及した。この日、ジャクソン・ブラウンは自分のコンサートで「テイク・イット・イージー」を歌ってフライに弔意を捧げた。
同年3月10日、ドン・ヘンリーによってイーグルスの解散が発表された。
フライには2度の結婚歴がある。
1990年に結婚した2度目の妻シンディ・ミリガンとの間には3人の子がいるが、第二子で長男のディーコンは2017年にイーグルスに加入、2022年まで在籍。いったん脱退したが、2023年に復帰している。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)
◆アルバム
<ソロ>
1982年 ノー・ファン・アラウド/No Fun Aloud(US32位)
1984年 オールナイター/The Allnighter(US22位, UK31位)
1988年 ソウル・サーチン/Soul Searchin'(US36位)
1992年 ストレンジ・ウェザー/Strange Weather
☆1993年 ライヴ/Glenn Frey Live
★1995年 ソロ・コレクション/Solo Collection(US82位)
★2000年 ベスト・オブ・グレン・フライ/20th Century Masters – The Millennium Collection
2012年 アフター・アワーズ/After Hours(US116位, UK92位)
★2018年 アバーヴ・ザ・クラウズ : ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・グレン・フライ/Above the Clouds:The Collection
<イーグルス>
1972年 イーグルス・ファースト/Eagles(US22位)
1973年 ならず者/Desperado(US41位, UK39位)
1974年 オン・ザ・ボーダー/On the Border(US17位, UK28位)
1975年 呪われた夜/One of These Nights(US1位, UK8位)
★1976年 イーグルス・グレイテスト・ヒッツ 1971-1975/Their Greatest Hits (1971-1975)(US1位, UK2位)
1976年 ホテル・カリフォルニア/Hotel California(US1位, UK2位)
1979年 ロング・ラン/Tje Long Run(US1位, UK4位)
☆1980年 イーグルス・ライヴ/Eagles Live(US6位, UK24位)
★1982年 イーグルス・グレイテスト・ヒッツ VOL.2/Eagles Greatest Hits Volume 2(US52位)
★1985年 ベスト・オブ・イーグルス/The Best of Eagles(UK8位)
☆1994年 ヘル・フリーゼズ・オーヴァー/Hell Freezes Over(US1位, UK18位)
★1994年 The Very Best of the Eagles(UK4位)
★2000年 Selected Works:1972-1999(US109位, UK28位)
★2003年 The Very Best Of/The Complete Greatest Hits(US3位, UK9位)
2007年 ロング・ロード・アウト・オブ・エデン/Long Road Out of Eden(US1位, UK1位)
☆2010年 ライヴ・フロム・ザ・フォーラム/Live from the Forum MMXVIII(US16位, UK26位)
★2024年 To the Limit:The Essential Collection(US30位, UK43位)
◆シングル
<ソロ>
1982年 サムバディ/I Found Somebody(US31位)
1982年 恋人/The One You Love(US15位)
1982年 Don't Give Up
1982年 Partytown
1983年 All Those Lies(US41位)
1984年 セクシー・ガール/Sexy Girl(US20位, UK81位)
1984年 The Allnighter(US54位)
1985年 ヒート・イズ・オン/The Heat Is On(US2位, UK12位) ※映画「ビヴァリーヒルズ・コップ」挿入歌
1985年 運び屋のブルース/Smuggler's Blues(US12位, UK22位) ※TVドラマ「特捜刑事マイアミ・バイス」挿入歌
1985年 ユー・ビロング・トゥ・ザ・シティ/You Belong To The City(US2位, UK94位) ※TVドラマ「特捜刑事マイアミ・バイス」挿入歌
1988年 トゥルー・ラヴ/True Love(US13位, UK84位)
1988年 ソウル・サーチン/Soul Searchin'
1989年 リヴィン・ライト/Livin' Right(US90位)
1989年 Flip City
1991年 パート・オブ・ミー、パート・オブ・ユー/Part Of Me, Part Of You(US55位) ※映画「テルマ&ルイーズ」挿入歌
1992年 アイヴ・ゴット・マイン/I've Got Mine(US91位)
1992年 River Of Dreams
1993年 Love In The 21st Century (US:Bubbling Under12位)
1995年 ハッピネス/This Way to Happiness
<イーグルス>
1972年 テイク・イット・イージー/Take It Easy(US12位)
1972年 魔女のささやき/Witchy Woman(US9位)
1972年 ピースフル・イージー・フィーリング/Peaceful Easy Feeling(US22位)
1973年 テキーラ・サンライズ/Tequila Sunrise(US64位)
1973年 アウトロー・マン/Outlaw Man(US59位)
1974年 過ぎた事/Already Gone(US32位)
1974年 ジェームス・ディーン/James Dean(US77位)
1974年 我が愛の至上/Best of My Love(US1位)
1975年 呪われた夜/One of These Nights(US1位, UK23位)
1975年 いつわりの瞳/Lyin' Eyes(US2位, UK23位)
1975年 テイク・イット・トゥ・ザ・リミット/Take It to the Limit(US4位, UK12位)
1976年 ニュー・キッド・イン・タウン/New Kid in Town(US1位, UK20位)
1977年 ホテル・カリフォルニア/Hotel California(US1位, UK8位)
1977年 駆け足の人生/Life in the Fast Lane(US11位)
1978年 二人だけのクリスマス/Please Come Home for Christmas(US18位, UK30位)
1979年 ハートエイク・トゥナイト/Heartache Tonoght(US1位, UK40位)
1979年 ロング・ラン/The Long Run(US8位, UK66位)
1980年 言いだせなくて/I Can't Tell You Why(US8位)
1980年 セヴン・ブリッジズ・ロード/Seven Bridges Road(US21位)
1994年 ゲット・オーヴァー・イット/Get Over It(US31位)
1994年 ラヴ・ウィル・キープ・アス・アライヴ/Love Will Keep Us Alive(UK52位)
1994年 ザ・ガール・フロム・イエスタデイ/The Girl from Yesterday
1995年 ラーン・トゥ・ビー・スティル/Learn to Be Still
2003年 ホール・イン・ザ・ワールド/Hole in the World(US69位, UK69位)
2005年 明日はきっと晴れるから/No More Cloudy Days
2007年 ハウ・ロング/How Long(US101位, UK110位)
2008年 享楽の日々/Busy Being Fabulous
2008年 戻れない二人/What Do I Do with My Heart
2009年 もう聞きたくない/I Don't Want to Hear Any More
マイク・ハリスン Mike Harrison
【パート】
ヴォーカル、キーボード
【生没年月日】
1942年9月30日~2018年3月25日(75歳没)
【出身地】
イングランド カンバーランド州カーライル
【活動期間】
1963~1975
1997~2018
【経歴】
ディノ&ザ・ドナウズ/Dino & The Danubes
ザ・ダコタス/The Dakotas
ザ・ラムロッズ/The Ramrods(1960~1963)
V.I.P.'s(1963~1967)
アート/Art(1967)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1967~1970)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1972~1974)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1998~1999)
ハンブルグ・ブルース・バンド/The Hamburg Blues Band(2001)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(2004)
マイク・ハリスン・トラスト/Mike Harrison Trust(2005)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(2008~2009)
マイク・ハリスンは、イングランド出身のキーボード奏者、ヴォーカリスト。
スプーキー・トゥースのリード・シンガーとして知られている。
1960年、学校で友人だったグレッグ・リドリー(当時はギタリスト)らと「ディノ&ドナウズ」を結成したのがハリスンの音楽活動の出発点である。その後、リドリーとともに「ザ・ダコタス」で活動したのち、同年マイク・ヘンショウ(guitar)、アラン・マーシャル(drums)とロカビリー・スタイルのバンド「ザ・ラムロッズ」を結成する。
1963年後半、リドリーがラムロッズに加入すると、それをきっかけとしてバンドは「The V.I.P.'s」と名を改めた。
その頃、当時キンクスのマネージャーだったラリー・ペイジがV.I.P.'sに注目するようになった。ペイジの尽力によって、V.I.P.'sはRCAと契約を交わし、1964年10月にデビュー・シングル「Don't Keep Shouting at Me」をリリースする。この曲は本国イギリスで注目されることはなかったが、フランスではシングル・チャート2位を記録する大ヒットとなった。
その後ペイジはV.I.P.'sから離れ、代わってアニマルズのマネージャーであるマイク・ジェフリーズがマネージメントを行うようになる。ジェフリーズの紹介により、バンドは1965年にドイツへ渡り、ハンブルグのスター・クラブに出演。1966年初頭にはCBSに移籍する。
1966年、西ドイツから帰国したV.I.P.'sは、アイランド・レーベル創設者のクリス・ブラックウェルの知己を得る。バンドの将来性を高く評価していたブラックウェルはV.I.P.'sと契約し、この年「Vipps」名義を含む3枚のシングルをリリースした。なかでも同年10月にリリースされたシングル「I Wanna Be Free」は、フランスや西ドイツなどまたも本国以外で大ヒットした。とくに西ドイツではチャート1位を獲得している。
1966年秋から冬にかけてV.I.P.'sは大幅なメンバー・チェンジを行い、ラインナップはハリスン(vocal)、キース・エマーソン(keyboard)、グレッグ・リドリー(bass)、マイク・ケリー(drums)の4人となる。1967年初頭にはルーサー・グロヴナー(guitar)が加わって5人編成となるが、間もなくエマーソンは「ナイス」を結成するためバンドを脱退する。
V.I.P.'sはサイケデリック全盛期にさしかかった当時のロック界の状況を意識して、1967年4月に「Art」と改名する。アートは同年7月にアルバム「Supernatural Fairy Tales」とシングル「What's That Sound?」を発表。
スプーキー・トゥース(中央マイク・ハリスン)
1967年10月、留学のため西ドイツに滞在中だったアメリカ人のキーボード奏者兼ヴォーカリスト、ゲイリー・ライトがバンドに加わり、それを契機にバンドは「スプーキー・トゥース」と名を改めた。
スプーキー・トゥースの特色のひとつは、ハリスンとライトのふたりのヴォーカリスト兼キーボーディストを擁する、そのユニークな編成である。彼らが生み出すサイケデリック色の濃いヘヴィなサウンドは、のちのハード・ロックの源のひとつとも言われている。また、ザ・バンドの名曲「ザ・ウェイト」のカヴァー・シングルをリリースしていることからも分かるように、アメリカン・ロックへの憧れと接近を明確に打ち出しており、ブルージーでアーシーな音楽性を培って好意的な評価を得た。
ハリスンの「白いレイ・チャールズ」とも言われる、やや哀愁を帯びたブルージーな歌声は、そのスプーキー・トゥース・サウンドには欠かせないものであった。
ハリスンとライトはともにリード・シンガーであったが、しばしばお互いのヴォーカルを重ね合うというスタイルを創りだしており、その点ではブルー・アイド・ソウルの名デュオ、ライチャス・ブラザーズから影響されていると考えられている。
第1期スプーキー・トゥースは、バンド史上最高傑作と言われている1968年の作品「スプーキー・トゥー」をはじめとして、1969年までに3枚のアルバムを発表したが、ハリソンとライトが主導権を巡って争うようになり、それに端を発する感情的対立が原因となってライトが脱退する。
残ったハリソン、グロヴナー、ケリーは3人は、ジョー・コッカーのバック・バンド「グリース・バンド」のメンバーを補充し、「スプーキー・トゥース Featuring マイク・ハリスン」名義で4枚目のアルバム「ザ・ラスト・パフ」を制作したが、アルバム発表前の1970年夏にバンドは解散してしまった。
しかし解散後間もない1970年の秋に、ハリスン、グロヴナー、ケリー、元ナッシュヴィル・ティーンズ~ルネッサンスのジョン・ホウケン(keyboard)、元ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズのスティーヴ・トンプソン(bass)というラインナップで、ヨーロッパ・ツアーのためにだけいったん再結成し、ツアー終了後の1970年10月に改めて解散した。
スプーキー・トゥースとしての活動に区切りをつけたハリスンは、同郷カーライルのバンドで、V.I.P.'s時代にバンド・メイトだったフランク・ケニオン(guitar)が在籍する「ジャンクヤード・エンジェル」を起用して、1971年にファースト・ソロ・アルバム「Mike Harrison」を発表する。
翌72年には米アラバマ州のマッスル・ショールズでセカンド・ソロ・アルバム「Smokestack Lightning」を制作した。
1972年秋、ハリスンはゲイリー・ライトと再会する。ふたりの関係は修復の方向へ進み、同年9月にスプーキー・トゥースの再結成が実現した。ラインナップは、ハリソン、ライトのほか元ワンダーホィールのミック・ジョーンズ(guitar)、元ジャンクヤード・エンジェルのイアン・ハーバート(bass)、元メインホースのブライソン・グラハム(drums)である。(ベースは間もなく元ロニー・レーンズ・スリム・チャンスのクリス・スチュワートに、ドラムスはのちマイク・ケリーに代わる)
新生スプーキー・トゥースは「ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ」と「ウィットネス」の2枚のアルバムを発表し、一部では「全盛期を思い起こさせるサウンド」と好意的に評価された。
しかし1973年頃には、またもハリスンとライトはバンドの主導権を巡って対立するようになり、ハリスンはケリー、スチュワートとともに1974年2月に脱退した。
ライトはメンバーを補充して1974年にアルバム「ザ・ミラー」を発表したが、セールスは低迷した。その結果ライトもソロ活動を志向するようになり、バンドを離れた。そのためスプーキー・トゥースは1974年11月に解散した。
スプーキー・トゥースを脱退したハリスンは再びソロ活動に入り、1975年に3枚目のソロ・アルバム「Rainbow Rider」を発表する。
ところが、ハリスンのソロ・アルバムの印税が「スプーキー・トゥースのアイランド・レコードに対する負債の返済」として、ハリスン本人の同意を得ることなくアイランド・レコードに渡っていることが判明した。そればかりではなく、スプーキー・トゥースのメンバーは、アイランド・レコードから受け取る週給以外には、印税等受け取るべき利益を受け取っておらず、そればかりか「アイランドに対する負債」という名目の借金が累積していたのである。これが原因でハリスンは音楽業界から離れることを決めた。
1975年から1997年までのハリスンはほとんど音楽活動を行っておらず、バーテンダーやトラックの運転手として働いていた。
この後カナダに移るなどして音楽業界から遠ざかっていたが、1990年代に入るとハリスンは再び音楽活動に対して意欲を持つようになり、いずれもスプーキー・トゥースのオリジナル・メンバーであるマイク・ケリー(drums)、ルーサー・グロヴナー(guitar)、グレッグ・リドリー(bass)とレコーディングを行う。これがきっかけとなって1998年にはこの4人でのスプーキー・トゥース再結成が実現、1999年には25年ぶりとなる新作アルバム「Cross Purpose」をリリースした。オリジナル・メンバーのうち4人がそろったのは1969年以来であった。
1999年、ハリスンは「ハンブルグ・ブルース・バンド」からオファーを受け、ドイツを拠点にブルース・ロック主体の演奏活動を活発に行った。このバンドはクリームやジャック・ブルースなどと仕事をしてきた詩人ピート・ブラウンの歌詞をフィーチャーしたものであった。
2004年6月、ハリスン、ゲイリー・ライト(vocal, keyboard)、マイク・ケリー(drums)は、新たにジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えて3度目のスプーキー・トゥース再結成を果たし、ツアーを行う。
2006年、ハロー・レコードのオーナーであるマイケル・マスレンが、ハンブルグ・ブルース・バンドのライヴでハリスンの歌に大きな感銘を受ける。スプーキー・トゥースのファンでもあったマスレンはハリスンにソロ・アルバムを制作するよう説得し、レコーディングに漕ぎつける。こうして2006年にリリースされたのが、ハリスン31年ぶり4枚目のソロ・アルバム「Late Starter」である。
2008年2月、ハリソン(vocal, keyboard)、ライト(vocal, keyboard)、ケリー(drums)の3人のオリジナル・メンバーをフィーチャーし、スティーヴ・ファリス(guitar)とシェム・フォン・シュローク(bass)を加えた5人で4度目のスプーキー・トゥース再結成が行われ、ヨーロッパでツアーを行った。
2009年5月29日、ハリソン(vocal, keyboard)、ライト(vocal, keyboard)、アルブレヒト(guitar)、ベッカー(bass)を[、そしてケリーの代わりにトム・ブレフテリン(drums)を加え、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたアイランド・レコード50周年記念コンサートで演奏した。
ハリスンはその後も時折り演奏活動を続けていたが、2018年3月25日に故郷のカーライルで死去した。死因は不明である。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)
◆アルバム
<ソロ>
1971年 Mike Harrison
1972年 Smokestack Lightning
1975年 Rainbow Rider
2006年 Late Starter
<The V.I.P.'s>
★2007年 The Complete V.I.P.'s
<Art>
1967年 Supernatural Fairy Tales
<スプーキー・トゥース>
1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two(US44位)
1969年 セレモニー/Ceremony(US92位) *with Pierre Henry
1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff(US84位) *「Spooky Tooth featuring Mike Harrison」名義
1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road(US152位)
1973年 ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ/You Broke My Heart So I Busted Your Jaw(US84位)
1973年 ウィットネス/Witness(US99位)
1999年 Cross Purpose
★1999年 The Best of Spooky Tooth:That Was Only Yesterday
☆2001年 BBC Sessions
<Hamburg Blues Band>
2001年 Touch (Mike Harrison meets The Hamburg Blues Band)
<Mike Harrison Trust>
2005年 Mike Harrison Trust (no label no number)
◆シングル
<ソロ>
1975年 We Can Work It Out
1975年 Somewhere Over the Rainbow
<The V.I.P.'s>
1964年 Don't Keep Shouting at Me
1966年 Mercy, Mercy *「Vipps」名義
1966年 Wintertime *「Vipps」名義
1966年 I Wanna Be Free
1967年 Straight Down to the Bottom
<Art>
1967年 What's That Sound (For What It's Worth)
<スプーキー・トゥース>
1968年 ザ・ウェイト/The Weight
1968年 サンシャイン・ヘルプ・ミー/Sunshine Help Me(US:Cash Box126位)
1968年 ラヴ・リアリー・チェンジド・ミー/Love Really Changed Me
1969年 ザット・ワズ・オンリー・イエスタデイ/That Was Only Yesterdai(Durch13位)
1969年 ザン・オブ・ユア・ファーザー/Son of Your Father
1969年 フィーリン・バッド/Feelin' Bad(US:Bebbling Under132位)
1970年 アイ・アム・ザ・ウォルラス/I Am the Walrus(Dutch38位)
1973年 オール・ソウン・アップ/All Sewn Up
エリック・カルメン Eric Howard Carmen
【パート】
ヴォーカル、ピアノ、キーボード、ギター、ベース
【生没年月日】
1949年8月11日~2024年3月9日(74歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランド
【経歴】
サイラス・エリー/Cyrus Erie(1967~1969)
クィック/Quick(1969)
ラズベリーズ/The Raspberries(1970~1975)
リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド/Ringo Starr and His All-Starr Band(2000)
ラズベリーズ/The Raspberries(2004~2009)
エリック・カルメンは、アメリカのシンガー・ソングライター。
1970年代前半にラズベリーズのリード・ヴォーカリスト、ソングライターとして活躍した。その後ソロとなって『オール・バイ・マイ・セルフ』や『恋にノー・タッチ』などの大ヒット曲を生み出した。
カルメンは、ロシア系ユダヤ人移民の子としてオハイオ州クリーヴランドで生まれ、オハイオ州リンドハーストで育った。
幼いころから音楽に親しんでいたカルメンは、3歳のときにはすでにクリーブランド音楽大学のダルクローズ・リトミック・プログラムに参加していた。
6歳になると、クリーブランド・シンフォニー・オーケストラのバイオリニストだった叔母のミュリエル・カルメンからヴァイオリンのレッスンを受けるようになる。11歳の時にはクラシック・ピアノを習い始め、あわせて自作曲を書くようにもなった。そしてのちにはクリーヴランド音楽院でロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフについて学んだ時期もあった。
ロックが世界中を席捲した1960年代前半に出会ったビートルズやローリング・ストーンズから大きな影響を受け、チャールズ・F・ブラッシュ高校に入るとロック・バンドでピアノとヴォーカルを担当するようになる。
カルメンは、15歳のときにギターのレッスンも受け始めていたが、間もなくギターの先生のスタイルが自分に合わないと感じるようになったため、その後は独学でギターを習得したということである。
高校を卒業したカルメンはジョン・キャロル大学に進んだ。
彼は、このころから将来ミュージシャンになることを真剣に考えるようになった。
1967年、カルメンはウォーリー・ブライソン(guitar)とともに、当時のクリーヴランドで注目を集めるバンドのひとつ「サイラス・エリー」に加入。このバンドは、カルメンとブライソンの共作によるシングル・レコード『Get the Message』を1969年にエピック・レコードからにリリースしている。
ブライソンは彼の友人であるジム・ボンファンティ(drums)、デイヴ・スモーリー(guitar)とともに、やはりクリーヴランドの人気バンドだった「クワイア」でも活動していた。1969年の終わりごろにサイラス・エリーとクワイアが解散すると、カルメンは「クイック」を結成するが、間もなくソロ活動を開始する。ソロ・デビューとしてシングル用に『I'll Hold Out My Hand』を1970年に録音しているが、これは発売されることはなかった。
その後カルメンは元クワイアのブライソン、ボンファンティと合流する。3人はベーシストにジョン・アレクシスを迎え、1970年に「ラズベリーズ」を結成。
アレクシスが1971年に脱退すると、カルメンがベースにスイッチし、ベトナム戦争から帰還したばかりのデイヴ・スモーリー(元クワイア)がリズム・ギターとして加入する。これにより、ラズベリーズのラインナップはエリック・カルメン(vocal, bass, piano, guitar)、ウォーリー・ブライソン(guitar)、デイヴ・スモーリー(guitar, bass)、ジム・ボンファンティ(drums)となった。
ラズベリーズはデモ音源を制作したが、その完成度は関係者のあいだで評判となるほど高く、彼らとの契約を欲したメジャー・レーベル間で入札が行われたほどだった。
入札の結果、ラズベリーズはキャピトル・レコードと契約する。
キャピトルはプロデューサーにジミー・アイナー(スリー・ドッグ・ナイトやベイ・シティ・ローラーズなどを担当)を起用し、レコーディングはニューヨークのレコード・プラントとロンドンのアビイ・ロード・スタジオで行われた。
ラズベリーズは1972年2月にデビュー・シングル『さよならは言わないで』を、同年4月にはデビュー・アルバム『ラズベリーズ』をリリースする。同年7月、このアルバムから『ゴー・オール・ザ・ウェイ』 がシングル・カットされると、たちまちビルボード・シングル・チャートで5位まで上昇、ミリオン・セラーを記録する大ヒットとなった。これが契機となり、ラズベリーズはパワー・ポップの草分けとして人気バンドの仲間入りを果たしたのである。
以後も『明日を生きよう』『レッツ・プリテンド』『オーヴァーナイト・センセーション』などのヒット曲を出したが、メンバー間の人間関係を原因として1975年解散する。
ラズベリーズ解散した後のカルメンは、1975年7月にアリスタ・レコードと契約を交わす。
同年11月、ソロ・デビュー・アルバム『サンライズ』をリリース。このアルバムからは『オール・バイ・マイセルフ』『恋にノータッチ』『サンライズ』の3曲がシングル・カットされ、全てビルボード・シングル・チャートのトップ40入りを記録した。
なかでも『オール・バイ・マイセルフ』は100万枚以上を売り上げ、シングル・チャートで1976年3月15日から3週連続全米2位(ビルボード)を記録して、R.I.A.A.からゴールド・ディスクに認定されるほどのメガ・ヒットとなった。この曲は、セルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」をモチーフにした、7分を超える壮大なバラードで、現在ではカルメンの代表曲として世界的に認知されている。1996年にはセリーヌ・ディオンがカヴァーしており、彼女のヴァージョンも大ヒット(全米4位、全英6位)した。
また『恋にノータッチ』もラフマニノフの作品である「交響曲第2番第3楽章」のメイン・テーマをモチーフにしており、ビルボードで最高11位、カナダではチャート1位を記録した。
これらのヒット曲を輩出したアルバム『サンライズ』はビルボード・アルバム・チャートで21位となり、1977年には50万枚以上を売り上げたことでゴールド・アルバムに認定された。
1977年8月、カルメンのセカンド・アルバム『雄々しき翼』がリリースされ、ビルボード・アルバム・チャートに13週間ランクインし、最高45位を記録した。タイトル曲はビルボードで88位にとどまったが、後にオリビア・ニュートン・ジョンが1978年のアルバム『さよならは一度だけ』で取り上げている。
そのほか、ショーン・キャシディが1976年に『すてきなロックン・ロール』をカヴァーしてビルボード3位に、1977年には『ヘイ・ディーニー』をカヴァーしてビルボード7位に送り込んでおり、1977年秋の数週間は、この2曲にカルメン自身のシングル『愛をくれたあの娘』を加えたカルメン作の3曲が同時にビルボード・ホット100 にチャート・インした。
その後カルメンは『チェンジ・オブ・ハート』(1978年)、『トゥナイト・ユア・マイン』(1980年)の2枚のアルバムをリリースした。アルバム・チャートでは低迷したが、シングル『チェンジ・オブ・ハート』はビルボードで最高19位のスマッシュ・ヒットとなった。この曲はサマンサ・サングがアルバム『ときめきへの誘い』でカヴァーしている。
また1978年には世界歌謡祭のゲストとして来日。1980年には東京、大阪、京都、北海道、愛知、神奈川の6都市7ヵ所で来日公演を行った。
ソロ転向後のカルメンはソフト・ロックやパワー・バラードを多く取り上げて世界的な人気を得たが、1980年代に入るとレコード会社や出版社との訴訟の対応などで活動に支障をきたし、低迷するようになった。
しかし1984年にゲフィン・レコードへ移籍して心機一転を図る。
この年カルメンは、映画『フットルース』の挿入歌『パラダイス~愛のテーマ』をディーン・ピッチフォードと共作した。アン・ウィルソン&マイク・レノがシングルとしてリリースしたこの曲は、ビルボードで最高7位まで上昇した。このヒットによってカルメンの名が久々にメディアに取り上げられるようになったのである。
1985年1月には4年ぶりにアルバム『エリック・カルメン』をリリースしてロック・シーンに再び姿を現した。このアルバムからは『噂の女』(ビルボード35位)のスマッシュ・ヒットが生まれているが、そのほかルイーズ・マンドレルがカヴァーした『メイビー・マイ・ベイビー』のシングルが、1986年にビルボードのカントリー・ソング・チャートで8位を記録している。
1987年、カルメンがリリースした『ハングリー・アイズ』は、ビルボード4位、ビルボードUSアダルト・コンテンポラリー2位の大ヒットを記録した。この曲は映画『ダーティ・ダンシング』のためにフランク・プリヴァイトとジョン・デニコラが書き下ろしたもので、このヒットによって、カルメンはシンガーとしてのカムバックも果たしたのである。
1988年、この年開催されたソウル夏季オリンピックのためのコンピレーション・アルバム『ワン・モーメント・イン・タイム』にカルメンの『リーズン・トゥ・トライ』(ビルボード87位)が収録された。またこの年のシングル『メイク・ミー・ルーズ・コントロール』がビルボード3位の大ヒットを記録し、カルメンは再びスターの座に返り咲いた。
しかし1990年代のカルメンはほとんど活動しておらず、1998年にアルバム『夢の面影』(Winter Dreams)を日本限定でリリース(アメリカでは2000年に『I Was Born to Love You』のタイトルでリリース)したのみである。カルメンはこのアルバムの録音にバンドを起用せず、ほとんどの楽器を自分で演奏し、ドラムのパートは自分でプログラミングしている。
2000年、「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」に加わり、ツアーに同行した。
2004年11月、31年ぶりのラズベリーズ再結成に参加。カルメン、ボンファンティ、ブライソン、スモーリーからなるオリジナル・メンバーでの再結成だった。ラズベリーズの復活は話題となり、全米ツアーのチケットは完売するほどだった。ツアーも好評を博し、なかでもウエスト・ハリウッドのハウス・オブ・ブルースで収録されたライヴ・アルバムは非常に高く評価された。このライヴは、ニューヨーク・デイリー・ニュースで、年間のベスト・コンサートに選ばれている。
2013年12月24日、カルメンの15年ぶりの新曲「ブランド・ニュー・イヤー」を「特別なクリスマス・ギフト」として無料ダウンロード配信でリリース。この曲は翌14年にリリースされたベスト・アルバム『エッセンシャル・エリック・カルメン』にも収録されている。
カルメンは3度結婚している。
1978年から79年にかけてはマーシー・ヒルと結婚生活を送った。1993年に結婚したスーザン・ブラウンとの間には2人の子供をもうけたが、2009年に離婚している。そして2016年から2024年に亡くなるまでは、元ニュース・キャスターのエイミー・マーフィーと過ごした。
なおカルメンはロサンゼルスで暮らしていたが、1990年代に故郷オハイオ州に戻り、州北東部のゲイツ・ミルズで暮らしていた。
2024年3月、エリック・カルメンは74歳で死去。
3月11日に妻のエイミー・カルメンによって、訃報がエリックのホームページに掲載された。それによるとカルメンはその前の週末、就寝中に亡くなったということである。死因は明らかにされていない。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
*アルバム*
<ラズベリーズ>
1972年 ラズベリーズ/Raspberries US51位
1972年 明日を生きよう/Fresh US36位
1973年 サイド 3/Side 3 US128位
1974年 素晴らしき再出発/Starting Over US143位
★1976年 Raspberries' Best Featuring Eric Carmen US138位
☆2007年 Live on Sunset Strip
☆2017年 Pop Art Live
<ソロ・アルバム>
1975年 サンライズ/Eric Carmen US21位, UK58位
1977年 雄々しき翼/Boats Against the Current US45位
1978年 チェンジ・オブ・ハート/ US137位
★1979年 ベスト・オブ・エリック・カルメン ※日本のみ発売
1980年 トゥナイト・ユア・マイン/Tonight You're Mine US160位
1984年 エリック・カルメン/Eric Carmen US128位
★1988年 The Best of Eric Carmen US59位
★1997年 The Definitive Collection
1998年 夢の面影/I Was Born to Love You ※日本のみ。アメリカでは2000年にリリース。
★1999年 All by Myself ー The Best of Eric Carmen
★2014年 The Essential Eric Carmen
*シングル*
<サイラス・エリー>
1969年 Get the Message
<クィック>
1969年 Ain't Nothing Gonna Stop Me
<ラズベリーズ>
1972年 さよならは言わないで/Don't Want to Say Goodbye US86位
1972年 ゴー・オール・ザ・ウェイ/Go All the Way US5位
1972年 明日を生きよう/I Wanna Be With You US16位
1972年 ドライヴィン・アラウンド/Drivin' Around
1973年 レッツ・プリテンド/Let's Pretend US35位
1973年 トゥナイト/Tonight US69位
1973年 アイム・ア・ロッカー/I'm a Rocker US94位
1974年 君に首ったけ/Ecstacy
1974年 オーヴァーナイト・センセーション/Overnight Sensation 18位
1974年 クルージング・ミュージック/Cruisin Music
<ソロ>
1975年 オール・バイ・マイセルフ/All by Myself US2位, UK12位
1976年 恋にノータッチ/Never Gonna Fall in Love Again US11位
1976年 サンライズ/Sunrise US34位
1976年 すてきなロックンロール/That's Rock'n'Roll デンマーク7位
1977年 愛をくれたあの娘/She Did It US23位
1977年 雄々しき翼/Boats Against the Current US88位
1978年 マラソン・マン/Marathon Man
1978年 チェンジ・オブ・ハート/Change of Heart US19位
1978年 二人のラブウェイ/Haven't We Come a Long Way
1978年 愛を求めて/Baby I Need Your Loving US62位
1980年 悲しみTOO MUCH/It Hurts Too Much US75位
1980年 All for Love
1980年 フーリン・マイセルフ/Foolin' Myself
1985年 噂の女/I Wanna Hear It from Your Lips US35位
1985年 I'm Through with Love US87位
1986年 The Rock Stops Here
1987年 ハングリー・アイズ/Hungry Eyes US4位, UK82位
1988年 As Long as We Got Each Other ※with Louise Mandrell
1988年 メイク・ミー・ルーズ・コントロール/Make Me Lose Control US3位, UK93位
1988年 Reason to Try US87位
2013年 Brand New Year
ゲイリー・ライト Gary Malcolm Wright
【パート】
ヴォーカル、ピアノ、オルガン、キーボード
【生没年月日】
1943年4月26日~2023年9月4日(80歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国ニュージャージー州クレスキル
【経歴】
ザ・ニュー・ヨーク・タイムズ( ~1967)
スプーキー・トゥース(1967~1970)
ハウル・ザ・グッド(1970)
ゲイリー・ライト・ワンダーホイール(1971~1972)
スプーキー・トゥース(1972~1974)
スプーキー・トゥース(2004)
スプーキー・トゥース(2008~2009)
リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド(2008, 2010~2011)
ゲイリー・ライトはアメリカのヴォーカリスト、鍵盤奏者である。
スプーキー・トゥースのヴォーカリスト兼鍵盤奏者、またニルソンの「ウィズアウト・ユー」でピアノを担当したことで知られる。ソロになってからは『夢織り人』を大ヒットさせた。ジョージ・ハリスンとの生涯に渡る交流も有名である。
ライトは、幼い頃から子役としてショウ・ビジネスの世界で活動していた。
7歳の時に『Captain Video and His Video Rangers』でテレビ・デビューを果たしたのを始め、テレビやラジオのCMにも起用された。1954年のブロードウェイ・ミュージカル「ファニー」(Fanny)では、ファニーの息子の役を演じている。
その傍らピアノを弾き始め、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、ジェームス・ブラウン、エルヴィス・プレスリー、ビートルズなどのR&Bやロックンロールに傾倒するようになった。
ニュージャージー州のテナフライ高校時代にはロック・バンドを結成して活動するようになる。
1960年には、ビリー・マークルとのバンド「ゲイリー&ビリー」(Gary & Billy)名義でシングル・レコード『ワーキング・アフター・スクール』をリリースしている。
しかし音楽は安定した職業ではないと考えたライトは医学を志し、ヴァージニア州のウィリアム・アンド・メアリー大学とニューヨーク大学で医師になるために勉強をしたのち、ダウンステート医科大学に1年間通った。ニューヨーク大学では心理学の学位を取得している。その後ドイツに渡ってベルリン自由大学に留学する。
しかしライトは音楽をやめたわけではなく、大学に通いながら地元のバンドで演奏活動を続けており、ベルリンでも1960年代半ばには「ザ・ニューヨーク・タイムス」(The New York Times)というR&Bバンドを結成して演奏活動を行っていた。
1967年9月、トラフィックのスカンジナビア・ツアーに前座として同行していたニューヨーク・タイムスは、アイランド・レーベルの社長プロデューサーのクリス・ブラックウェルに認められて、ロンドンでのレコーディングのチャンスを得る。しかしそこでバンドの実力不足が明らかになり、リハーサルは取りやめになってしまった。この時ライトの才能に目をつけていたブラックウェルは、ライトを当時彼が手がけていたバンド「アート」にヴォーカル兼キーボーディストとして加入させた。
アートはライトの加入後にバンド名を「スプーキー・トゥース」と改め、再スタートをきった。
スプーキー・トゥースではマイク・ハリスンとともにバンドを牽引する。
1968年1月、スプーキー・トゥースはライトのオリジナル曲『サンシャイン・ヘルプ・ミー』でシングル・デビュー。8月にはファースト・アルバム『イッツ・オール・アバウト』を発表する。
1969年3月には、セカンド・アルバム『スプーキー・トゥー』を発表。
『スプーキー・トゥー』への高い評価、アメリカン・ロックに影響されたサウンド、ユニークなツイン・キーボード編成などで有望視されるようになったスプーキー・トゥースだが、サード・アルバム『セレモニー』の制作時に見解の相違からレーベル側と対立する。
また、このアルバムはライトがイニシアティヴを取って制作されたのだが、アルバムは不評に終わり、このあたりからライトは他のメンバー、とくに同じヴォーカル兼キーボードのマイク・ハリスンとの間で感情的に対立するようになった。そしてこれが原因となって、1970年1月にスプーキー・トゥースを脱退するのである。
その後ライトはプロデューサーのジミー・ミラーのもとでセッション・ミュージシャンを務めたり、フォーク・バンド「アライヴァル」のプロデュースを担当する。
1970年、A&Mレコードと契約したライトは、ファースト・ソロ・アルバム『エキストラクション』を制作したが、そのレコーディング・セッションに参加していたクラウス・フォアマン(bass)にジョージ・ハリスン(guitar, vocal)を紹介される。
ハリスンはこの年5月に3枚組アルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作に取りかかった際、その録音にライトをピアニストとして招いた。この時のライトは緊張のあまり制作からリタイアしそうになったほどだったが、同い年だったふたりは間もなく意気投合。これがハリスンとライトの終生の友情の始まりであった。ライトはこの後1979年の『慈愛の輝き』までのハリスンの全アルバムにキーボードとして参加している。のちにライトは、ハリスンについて「自分の精神的な指導者だった」と語っている。
この1970年、ライトはフォーク・ロック・バンド「ハウル・ザ・グッド」に一時的に参加し、同年のワイト島フェスティヴァルにも出演した。
『エキストラクション』を1970年12月にリリースしたライトは、ジェリー・ドナヒュー(guitar)、アーチー・レジェット(bass)、のちスプーキー・トゥースで活動をともにすることになるブライソン・グラハム(drums)というラインナップで、自身のバンド「ワンダーホィール」(Wonderwheel)を結成した。(ギターはのちミック・ジョーンズに交替した)その後、一時ジョージ・ハリスンがスライド・ギターでこのバンドにサポートとして参加したこともある。
1971年12月にはセカンド・ソロ・アルバム『フットプリント』を発表。このアルバムには、今度は共同プロデューサー兼ギタリストとしてジョージ・ハリスンが参加している。
1972年には、ニルソンの名曲『ウィズアウト・ユー』のレコーディングにピアノで参加。
またオリンピックに出場したスキー選手、ウィリー・ボグナーの映画『ベンジャミン』のサウンド・トラックも作曲、このアルバムは1974年にリリースされた。
1972年夏以降なると、ライトとマイク・ハリソンの関係は次第に修復の方向へ向かうようになった。これを受けて、ライトは同年秋にはワンダーホイールを解散し、スプーキー・トゥースを再結成することを決めた。
新生スプーキー・トゥースのラインナップは、ライト、ハリソン、ミック・ジョーンズ(guitar 元ワンダーホィール)、イアン・ハーバート(bass 元ジャンクヤード・エンジェル)、ブライソン・グラハム(drums 元メインホース)である。ただし、ベースは間もなくクリス・スチュワート(bass 元ロニー・レーンズ・スリム・チャンス)に交替した。
新生スプーキー・トゥースは1973年に『ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ』と『ウィットネス』の2枚のアルバムをリリース。この2作はライトのオリジナル曲を中心として制作されており、内容についても好評を得た。
しかしこの頃にはまたもやハリスンとライトの関係に主導権を巡って亀裂が生じており、このため1974年春にはハリソンらメンバー3人が相次いで脱退してしまった。
ライトとミック・ジョーンズは、メンバーの補充にマイク・パトゥー(keyboard, vocal 元パトゥー)らを迎えて1974年に通算7枚目のアルバム『ザ・ミラー』を発表したが、セールスは振るわず、結局これがスプーキー・トゥースのラスト・アルバムになった。
ライトはソロ活動のためまたもバンドを離れ、その結果スプーキー・トゥースは1974年11月に解散した。
スプーキー・トゥース解散後、ライトはワーナー・ブラザーズとソロ契約を交わし、アメリカに戻って活動を再開する。
そして迎えた1970年代後半から80年代にかけてのこの時期が、ライトのソロ・キャリアのピークである。
1976年にリリースしたシングル『夢織り人』は、同年のビルボードで3週連続2位となる大ヒットを記録してゴールド・ディスクとなる。この曲はまた、映画『ウェインズ・ワールド』、映画『ラリー・フリント』などにフィーチャーされている。1976年には、続くシングル作品「Love Is Alive」もチャート2位(2週連続)を記録している。
アルバム『夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー』をリリースしたのち、ライトはキーボード奏者3名とドラマーからなるバック・バンドを組んで大規模なツアーを行った。ライトの姉、ローナもバックヴォーカリストとしてこのバンドに加わっていた。
『夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー』は1976年のビルボード・アルバム・チャート7位の大ヒット作品となり、ダブル・プラチナムとして認定された。
この頃のライトは、ステージでポータブルのキーボードを使用しているが、ライトとエドガー・ウインターがライヴでこの楽器を使った先駆者である。またライトはすでにこの時期にシンセサイザーを多用しているが、彼はキース・エマーソンやリック・ウェイクマンらと並んでシンセサイザーをメイン楽器として使いはじめたひとりと言われている。
この1976年には、ライトは当時人気急上昇中のピーター・フランプトンのツアーにサポート・メンバーとして参加した。
『夢織り人』以降のライトは目立ったヒット曲がなかったが、1980年代は映画のサウンド・トラックへの作品提供を活動の中心とした。そのため表立ってライトの名がクローズ・アップされることはなくなっていったが、それでも地道にアルバムの制作とプロデュース業は続けていた。
1981年にアリ・トムソンとの共作でリリースしたシングル『君のすべてを知りたくて』がチャート16位を記録したのが久しぶりのヒットである。
1995年、アルバム『ファースト・サインズ・オブ・ライフ』を発表。これはブラジルのリズムやアフリカの伝統的サウンドなどを取り入れた、ワールド・ミュージックの要素が濃い作品で、ライトが新たな境地を拓いたことを示している。
1990年代のライトは、多くの時間を家族とともに過ごしていたが、2004年6月に「スプーキー・トゥース」を再結成し、本格的な音楽活動を復帰した。この時のラインナップはライトのほか、マイク・ハリソン、マイク・ケリーのオリジナル・メンバーにジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えた5人である。再結成したスプーキー・トゥースは、ドイツでライヴを行った。この模様はDVD『Nomad Poets』(2007年)に収められている。
2008年2月、ライト、ハリソン、ケリーをフィーチャーしたスプーキー・トゥースが再始動。Mr.ミスターのギタリストであるスティーヴ・ファリスと、シェム・フォン・シュローク(bass)を伴い、ヨーロッパでツアーを行った。
2008年夏にはリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加して、ツアーに同行した。このツアーのセット・リストには『夢織り人』も加えられていた。
ライトは、2008年後半にニューエイジ・アルバム『ウェイティング・トゥ・キャッチ・ザ・ライト』を含む2枚のソロ・アルバムをリリースした。これについては、自ら「雰囲気のあるアンビエント・ミュージックのようなアルバムである」と語った。
この2008年、ライトは大統領選挙でバラク・オバマを支持したが、その際『夢織り人』が民主党全国大会の曲として採用されている。
2009年5月29日、ライト、ハリソン、アルブレヒト、ベッカー、そしてケリーの代わりにトム・ブレフテリンを加え、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたアイランド・レコード50周年記念コンサートで演奏した。
2010年にはアルバム『Connected』を発表した。これは1970年代のポップ・ロック・サウンドへ回帰したものだったが、これがライトの最後のアルバムとなった。
2010年と2011年、ライトは再びリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに加わり、ツアーにも参加。
2014年にはハリスンとの友情を綴った自伝『Dream Weaver:music, Meditation, and My Friendship with Georg Harrison』を出版。
2016年7月、1972年に制作していたアルバム『Ring of Changes』を44年ぶりに発表。これは1972年にワンダーホィールのアルバムとして制作したもので、ジョージ・ハリスンも参加しているが、ライトがハリスンのアルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の録音に参加したこと、スプーキー・トゥースに再結成の動きがあったことで、シングル『Ring of Changes』をリリースしたのみでお蔵入りとなっていたもので、44年ぶりに世に出ることになった。
最晩年はパーキンソン病に加えレビー小体型認知症と診断され、闘病生活を送っていたが、2023年9月4日、カリフォルニア州パロスヴェルデスの自宅で死去した。80歳であった。
ライトの最初の妻クリスティーナは、ライトの曲『アイム・アライヴ』(『ザ・ミラー』収録)、『フィール・フォー・ミー』(『夢織り人』収録)にティナ・ライトの名で共同作曲者としてクレジットされている。
またライトの妹のローナ・デューンは「ミッドナイト・ジョーイ」という曲をレコーディングしている。そして息子のジャスティン・ライトは「Intangible」のメンバーである。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ・アルバム>
1971年 エキストラクション/Extraction
1972年 フットプリント/Footprint
1972年 Ring of Changes(※with Wonderwheel 2016年発表)
★1973年 ザット・ワズ・オンリー・イエスタデイ US172位(ライトの曲とスプーキー・トゥースの曲のコンピレーション)
1975年 夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー/The Dream Weaver
1977年 ライト・オブ・スマイル/The Light of Smiles US23位
1978年 タッチ・アンド・ゴーン/Touch and Gone US117位
1979年 ヘッディン・ホーム/Headin' Home US147位
1981年 ライト・プレイス/The Right Place US79位
1988年 フー・アイ・アム/Who I Am
1995年 ファースト・サインズ・オブ・ライフ/First Signs of Life
★1998年 ベスト!/Best of Gary Wright:The Dream Weaver
1999年 Human Love
★2003年 The Essentials
2004年 Down This Road(with Leah Weiss)
2005年 The Motion of Hidden Fire
2008年 The Light Of A Million Suns
2008年 Waiting to Catch the Light
2010年 Connected
★2017年 Greatest Hits
<ソロ・シングル>
1960年 Working After School(※Gary & Billy)
1971年 Get On The Right Road
1971年 Stand For Our Rights
1972年 グッドバイ・サンデー
1972年 I Know(※Gary Wright & Wonderwheel)
1972年 Ring Of Changes(※with Gary Wright & Wonderwheel)
1976年 夢織り人/Dream Weaver US2位
1976年 ラヴ・イズ・アライヴ/Love Is Alive US2位
1976年 Made To Love You US79位
1977年 ファントム・ライター/Phantom Writer US43位
1977年 ウォーター・サイン/Water Sign
1977年 The Light Of Smiles
1978年 タッチ・アンド・ゴーン/Touch And Gone US73位
1978年 Something Very Special
1978年 Starry Eyed
1981年 君のすべてを知りたくて/Really Wanna Know You US16位
1981年 Heartbeat US107位
1982年 Got The Feelin’
1988年 Who I Am
1988年 It’s Ain’t Right-The Remix
<サウンドトラック>
1972年 Benjamin – The Original Soundtrack of Willy Bogner's Motion Picture(※Gary Wright’s Wonderwheel名義 1974年発表)
1982年 Endangered Species
1986年 Fire and Ice
<スプーキー・トゥース>
1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two US44位
1969年 セレモニー/Ceremony US92位 (*with Pierre Henry)
1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road US152位(『イッツ・オール・アバウト』の「Too Much of Nothing」を「The Weight」に差し替えて再発したもの)
1973年 ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ/You Broke My Heart So I Busted Your Jaw US84位
1973年 ウィットネス/Witness US99位
1974年 ザ・ミラー/The Mirror US130位
☆2007年 Nomad Poets-Live In Germany 2004
<レコーディング・セッション>
*ジョージ・ハリスン
1970年 オール・ザ・シングス・マスト・パス/All Things Must Pass UK1位 US1位
1973年 リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド/Living in the Material World UK2位 US1位
1974年 ダーク・ホース/Dark Horse US4位
1975年 ジョージ・ハリスン帝国/Extra Texture(Read All About It) UK16位 US8位
1976年 33 1/3/Thirty Three & 1/3 UK35位 US11位
1979年 慈愛の輝き/George Harrison UK39位 US14位
1987年 クラウド・ナイン UK10位 US8位
*スティーヴ・ギボンズ
1971年 Short Stories
*スカイ
1971年 Don’t Hold Back
*ニルソン
1971年 ニルソン・シュミルソン/Nilsson Schmilsson US3位 UK4位
*ティム・ローズ
1972年 Tim Rose
*ジェリー・リー・ルイス
1973年 ザ・セッション
*ジョニー・アリディ
1973年 Insolitudes
*スプリンター
1974年 ザ・プレイス・アイ・ラブ
*ダニー・マックロウ
1995年 Beowulf
キース・レルフ William Keith Relf
【パート】
ヴォーカル、マウスハープ、ギター、ベース
【生没年月日】
1943年3月22日~1976年5月12日(33歳没)
【出身】
イングランド サリー州リッチモンド
【経歴】
ヤードバーズ/Mustard(1962~1968)
トゥゲザー/Together(1968)
ルネッサンス/Cressida(1969~1970)
メディシン・ヘッド/Medicine Head(1971~1972)
アルマゲドン/Armageddon(1974~1975)
キース・レルフはヤードバーズのオリジナル・メンバー、およびヴォーカリストである。ブルース・ハープの使い手としても評価が高い。
ルネッサンスのヴォーカリスト、ジェーン・レルフは実妹である。
キース・レルフは、1943年3月22日にサリー州リッチモンドで生まれた。父ウィリアム・アーサー・パーシー・レルフは建設業者、母メアリー・エルシー・レルフは専業主婦である。
キースは1956年の夏頃からヴォーカリスト、ギタリスト、そしてハーモニカ奏者として演奏活動を始めた。
キングストン・アート・カレッジに進んでからは、ポール・サミュエル=スミス(bass)らとともに「メトロポリス・ブルース・カルテット」を結成している。
当時キングストン・アート・カレッジの学生の溜まり場となっていたパブで、メトロポリス・ブルース・カルテットは、アンソニー・トップハム(guitar)、クリス・ドレヤ(bass)、ジム・マッカーティ(drums)が組んでいたR&Bバンドと知り合う。このふたつのバンドが合流して1963年に結成されたのが「ヤードバーズ」である。
結成当初、ヤードバーズはロンドンのリッチモンドにあるナイトクラブ「クロウダディ・クラブ」に出演していた。このクラブはローリング・ストーンズがデビューした当時出演していた店だった。クロウダディ・クラブのオーナーであるジョルジオ・ゴメルスキーはヤードバーズのプロデューサー兼マネージャーとなり、彼らをストーンズに代わるクラブの看板バンドに抜擢した。
1963年秋、アンソニー・トップハムに代わってエリック・クラプトン(guitar)が加わり、コロンビアと契約を交わして、デビュー・シングル「I Wish You Would」をリリースした。
キースのアイドルにも匹敵するルックスとクラプトンのギターはヤードバーズの看板となり、間もなく彼らは人気バンドとなる。
1965年にはシングル「フォー・ユア・ラヴ」が全英3位、全米6位の大ヒットを記録。続いてリリースしたシングル「ハートせつなく」も全英2位、全米9位とまたも大ヒットした。
しかしブルース志向のクラプトンはポップ寄りにシフトしてゆくヤードバーズの音楽性と相容れず、それが原因で脱退。その後ジェフ・ベック、ジミー・ペイジが後任のギタリストとして加入し、ヤードバーズの人気バンドとしての地位は揺るがなかった。
キースは、ソロとしては1966年に2枚のソロ・シングルを発表している。デビュー・ソロ・シングル「ミスター・ゼロ」は、1966年5月に全英シングル・チャートで最高50位を記録した。
しかしライヴやツアーの連続でキースは疲れ切ってしまい、次第に音楽活動への意欲を失ってゆく。その結果、1968年7月にジム・マッカーティとともにヤードバーズを脱退するのである。
ヤードバーズ脱退後のキースとジム・マッカーティはフォーク・ロック・デュオ「トゥゲザー」を結成し、同年末にシングル・レコードを1枚リリースする。
翌69年6月、キースとマッカーティは、ベースにルイス・セナモ(元ザ・ハード)、キーボードにジョン・ホウケン(元ナッシュヴィル・ティーンズ)、そしてヴォーカルにキースの実妹であるジェーン・レルフを加え、フォーク・ロックにクラシックの要素を加味したプログレッシヴ・ロック系の新バンド「ルネッサンス」を結成。
その年にはファースト・アルバム『ルネッサンス』を発表するが、1970年のセカンド・アルバム制作時にはキースの関心はプロデュース業に移っていたためレコーディング途中でバンドを脱退。それが元でバンドは徐々に勢いを失い、1971年に発表したセカンド・アルバム『幻想のルネッサンス』をもって活動を停止した。
ルネッサンスを脱退したキースは1970年後半からはプロデューサーとして活動。ジム・マッカーティと組んでサントラ作品「Schizom」を制作したり、フォーク・ロック・バンド「Reign」のために曲を提供したりしている。
1971年、「メディシン・ヘッド」のセカンド・アルバムとシングルのプロデュースを担当したのをきっかけにベーシストとしてメディシン・ヘッドに加入、1972年まで在籍した。
1973年にはハンター・マスケットのセカンド・アルバムや、サイケデリック・ロック・バンド「サテュラニア」のアルバムをプロデュースしている。
ルネッサンス時代のバンドメイトだったルイス・セナモは、ルネッサンス脱退後に「スティームハマー」のメンバーとなっていたが、彼はスティームハマーのバンドメイトだったマーティン・ピュー(guitar)と新バンドを組む計画を持っていた。
一方キースは1971年冬にスティームハマーの4枚目のアルバム『Speech』に共同プロデューサーとして関わったが、この時にピューとも知己を得ている。1974年にセナモと再会したキースはセナモとピューが温めていた新バンド結成の計画に興味を持ち、彼らと音楽的方向性について話し合った結果、メンバーに加わることとなった。
イギリスのレコード会社から契約を得られなかった3人は、アメリカに渡る。そしてロサンゼルスのハリウッドにある「レインボー・バー」で元キャプテン・ビヨンドのボビー・コールドウェル(drums)と知り合った。西海岸の名ドラマーであるエインズレー・ダンバーの推薦もあってコールドウェルをメンバーとして加えた彼らはバンドを「アルマゲドン」と名付け、活動を開始する。
アルマゲドンは1975年にファースト・アルバム『アルマゲドン』を発表。スピード感とプログレッシヴ感覚豊かなハード・ロックを展開し、一部からは高く評価されたがセールスには結びつかず、アルバム1枚を残して解散した。
アルマゲドンの解散後、キースは妹のジェーンらルネッサンスの元メンバーを中心としてバンドを結成し、原点に回帰した音楽を創ることを計画。そのバンドのリハーサルも始まっていた1976年5月12日、キースは自宅地下室でエレキ・ギターを弾きながら作曲している時に、ギターの接触不良が原因で感電死、リッチモンド墓地に埋葬された。33歳であった。
キースの死亡日を多くの情報源が5月14日としているが、これは新聞に記事が掲載された日であり、公式の死亡診断書には5月12日にウェスト・ミドルセックス病院で死亡が宣告された旨記録されている。
なおこの新バンドはキースの死後「イリュージョン」と名付けられて1979年まで活動し、2枚のアルバムを残している。
キースのヴォーカリストとしての実力に対しては今ひとつ物足りないという評もあるが、彼は生涯を通じて喘息に悩まされており、のちには肺気腫を抱えるまでになった。それがキースの歌唱力に影響を及ぼしていた可能性は否定できない。
1992年、キースはヤードバーズとともにロックの殿堂入りを果たした。
なおヤードバーズは1992年に再結成され、2003年には35年ぶりの新作『バードランド』を発表したが、このアルバムに収録されている「An Original Man (A Song For Keith)」はキース・レルフに捧げられたものである。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)
<ヤードバーズ>
☆1964年 ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ/Five Live Yardbirds
1965年 フォー・ユア・ラヴ/For Your Love US96位
★1966年 ハヴィング・ア・レイヴ・アップ/Having a Rave Up with the Yardbirds US53位
1966年 ロジャー・ジ・エンジニア/Roger the Engineer UK20位
1966年 Over Under Sideways Down US52位
1966年 欲望/Blow-Up ※B面1曲目に収録された「Stroll On」がヤードバーズの演奏
★1967年 The Yardbirds Greatest Hits US28位
1967年 リトル・ゲームズ/Little Games US80位
☆1971年 Live Yardbirds Featuring Jimmy Page ※1968年5月録音
☆★1991年 Tardbirds...On Air
☆★2000年 Cumular Limit
☆★2017年 Yardbirds '68
<ルネッサンス>
1969年 ルネッサンス/Renaissance UK60位
1971年 幻想のルネッサンス/Illusion
<アルマゲドン>
1975年 アルマゲドン/Armageddon
<ソロ・シングル>
1966年 Mr. Zero UK50位
1966年 Shapes In My Mind
1989年 Together Now
<ゲスト参加>
*スティームハマー
1972年 Speech
デヴィッド・バイロン David Garrick(stage name:David Byron)
【パート】
ボーカル
【生没年月日】
1947年1月29日~1985年2月28日(38歳)
【出生地】
イングランド エセックス州エッピング
【経 歴】
スパイス(1967~1969)
ユーライア・ヒープ(1969~1976)
ラフ・ダイアモンド(1977)
デヴィッド・バイロン・バンド(1980~1982)
ユーライア・ヒープの初代ボーカリスト。
美しいハイ・トーン・ヴォイスと、派手なステージングで、ユーライア・ヒープ全盛期のフロント・マンとして活躍した。
母はジャズ・クラブのシンガー。
バイロンは、幼い頃から本名でテレビの子供向け番組やバラエティー番組に出演していた。
1958年から1964年まではウォルサムストウにあるフォレスト・スクールに通っており、この頃はフットボールの選手として活躍していた。
1965年、エッピングをベースに活動する「ストーカーズ」という名のセミプロ・バンドに加入し、ミック・ボックス(guitar)と出会う。
1967年にストーカーズが解散すると、バイロンはボックスやナイジェル・ペグラム(drums)らと「スパイス」を結成。のちこのバンドにポール・ニュートン(bass)とアレックス・ネピアー(drums)が加入する。
同時にボックスとともにアヴェニュー・レーベルと契約、スタジオ・ミュージシャンとしても仕事をしていた。この当時のスタジオ・ミュージシャン仲間にダニエル・ブーン(当時の名はピーター・スターリング)がいる。
1968年11月、スパイスは唯一のシングル『What About The Music / In Love』をリリース。同姓同名のポップ・シンガーがいたため、この頃にステージ・ネームを「デヴィッド・バイロン」に変えている。
1969年末、スパイスにケン・ヘンズレー(keyboard, guitar 元トー・ファット)が加入する。バンドはまもなくプロデューサーのジェリー・ブロンの発案で「ユーライア・ヒープ」と改名(諸事情で1970年2月までは「スパイス」として活動し、1970年3月から正式に「ユーライア・ヒープ」として始動)
1970年、ユーライア・ヒープのファースト・アルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(全米186位、日本41位)がリリースされる。
1973年5月、初来日。日本武道館を含めて5公演を行った。
1975年、ファースト・ソロ・アルバム『テイク・ノー・プリズナーズ』を発表。
ユーライア・ヒープは、ディープ・パープルと並ぶブリティッシュ・ハード・ロック・バンドとして成功、バイロンも世界的な名声を得たが、ツアーに次ぐツアーによる疲労の蓄積、アルコール依存症の深刻化、ケン・ヘンズレーを始めとするメンバーとの対立など多くの問題を抱えていたため、1976年7月のスペイン・ツアーを最後にユーライア・ヒープを解雇された。
バイロン在籍時のユーライア・ヒープがバンドの黄金時代と言われており、ヒープ在籍時に10枚のアルバムに参加している。
ユーライア・ヒープを離れたバイロンは、クレム・クレムソン(guitar, 元コロシアム、元ハンブル・パイ)、ジョフ・ブリットン(drums, 元ウィングス)、ウィリー・バス(bass)、デモン・ブッチャー(keyboard)と「ラフ・ダイアモンド」を結成した。バンドは「スーパー・グループ」として注目され、1977年2月にアルバム『ラフ・ダイアモンド』を発表したが、アルバム・セールスは全米103位と芳しいものではなく、ほどなくバイロンはバンドを脱退した。
1978年、セカンド・ソロ・アルバム『Baby Faced Killer』を発表したのち、ロビン・ジョージ(guitar)と組んで「デヴィッド・バイロン・バンド」を結成。(バイロンvocal、ジョージguitar、メル・コリンズsax、ボブ・ジャクソンkeyboard、ロジャー・フラヴェルbass、ジョン・シェアーdrums)
このバンドはクレオール・レコードと契約し、アルバム1枚とシングル2枚を残している。
「デヴィッド・バイロン・バンド」はセカンド・アルバムのレコーディングも予定されていたが、実現することなく1982年に解散した。
1983年から84年にかけては3枚目のソロ・アルバム『That Was Only Yesterday』用に3曲の録音を行ったが日の目を見ることはなかった。(このアルバムは2008年なって発表されている)
ケン・ヘンズレーがユーライア・ヒープから脱退(1980年)したのち、1981年にミック・ボックスとトレヴァー・ボルダーはバイロンに、ユーライア・ヒープに戻るよう招請したが、バイロンはこれを断っている。
1985年2月28日、アルコール依存症にともなう肝硬変のため、イギリスのバークシャーで死去。38歳。
ツアー中だったユーライア・ヒープは、「魔法使い」を演奏してバイロンを追悼した。
2003年、1980年~1982年の間に録音された「デビッド・バイロン・バンド」のデモ音源や未発表ライブ音源、ソロ・アルバム用のリハーサル音源が発見され、同年に『Lost and Found』のタイトルでリリースされている。
【ユーライア・ヒープ】
1970年 ユーライア・ヒープ・ファースト/Very 'Eavy… Very 'Umble(全米186位、日本41位)
1971年 ソールズベリー/Salisbury(全米103位、日本47位)
1971年 対自核/Look at Yourself(全米93位、全英39位、日本5位)
1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards(全米23位、全英20位、日本28位)
1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday(全米31位、全英28位、日本43位)
1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live(全米37位、全英23位、日本22位)
1973年 スウィート・フリーダム/Sweet Freedom(全米33位、全英18位、日本45位)
1974年 夢幻劇/Wonderworld(全米38位、全英23位、日本76位)
1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy(全米85位、全英7位、日本74位)
1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty(全米161位、全英55位)
【ラフ・ダイアモンド】
1977年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamond(全米103位)
【デヴィッド・バイロン・バンド】
1981年 On the Rocks
2003年 Lost and Found(1980年~1982年録音)
【ソロ・アルバム】
1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisoners
1978年 Baby Faced Killer
2008年 That Was Only Yesterday(1984年録音)