ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

デイヴ・ボール

2025-02-23 10:54:59 | guitar

デイヴ・ボール Dave Ball


 【出生名】
   デヴィッド J. ボール/David J. Ball

 【パート】

   ギター

 【生没年月日】
   1950年3月30日~2015年4月1日(65歳没)

 【出生地】
   イングランド バーミンガム市

 【経 歴】
   
The Rockin’ Perfidias 1962~1963
   The Deadbeats 1963~1965
   Thomas Paul’s Blues Disciples 1965
   The Little People 1965~1966
   The Madding Crowd1966~1967
   Chicago Hush 1967~1968
   Ideal Milk 1968
   エース・ケフォード・スタンド/Ace Kefford Stand 1968~1969
   ビッグ・バーサ/Big Bertha 1969~1971
   プロコル・ハルム/Procol Harum 1971~1972
   ロング・ジョン・ボルドリー・バンド/Long John Baldry Band 1972
   ザ・ビースト/The Beast → ベドラム/Bedlam 1972~1974
   Duffo 1980~1981
   Nicole Barclay Band
   Melnourne To Memphis
   Euro Trash


 1950年3月30日、バーミンガム市ハンズワースに生まれる。
 兄のデニス・ボール(bass)、ピーター・ボール(keyboard)もミュージシャンである。

 ロー・ティーンの頃にはすでに音楽活動を始めている。
 1962年に兄のデニスやピーターらと「ザ・ロッキン・パーフィディアス」(のちの「ザ・デッドビーツ」)に加入。
 1965年にザ・デッドビーツが解散すると、兄弟は別々のバンドで活動を続ける。デイヴは「ザ・マッディング・クラウド」というバンドに加入して、ドイツに渡る。
 1967年、デニスとともに「シカゴ・ハッシュ」というブルース・バンドに加入するが、翌1968年4月にはデニスとともにバンドを離れ、「Ideal Milk」という名のリハーサル・バンドを組む。このバンドのメンバーは、デイヴ、デニスのボール兄弟と、コージー・パウエルの3人である。コージーは、デイヴのもうひとりの兄ピーターと「ザ・ソーサラーズ」(のちの「ヤングブラッド」)でのバンド・メイトであり、デイヴともドイツ時代から家を借りてシェアするなど旧知の仲だった。

 「Ideal Milk」は、1968年秋に元「ムーヴ」のエース・ケフォード(vocal)と合流し、「エース・ケフォード・スタンド」に改名する。彼らは翌69年4月にヤードバーズのカヴァー「フォー・ユア・ラヴ」でシングル・デビューを果たしたが、同年8月にはケフォードが脱退して活動を停止。パウエルは「ベイカールー」に加わり、ボール兄弟は新たなバンドの結成を計画するが、秋にはパウエルが戻ったため、10月に新バンド「ビッグ・バーサ」を結成した。このバンドのメンバーは、デイヴ・ボール(guitar)、デニス・ボール(bass)、ピーター・ボール(keyboard)、コージー・パウエル(drums)、ピーター・フレンチ(vocal)であり、ボール三兄弟が勢ぞろいしている。
 ビッグ・バーサは、「Big Bertha featuring Ace Kefford」名義で1969年10月にデビュー・シングル「This World’s An Apple」をリリース。1970年には西ドイツでシングル「Munich City」をリリースしたが、この2枚のシングルを残して1971年夏には解散した。

 1971年4月、コージー・パウエルがビッグ・バーサを離れて「ジェフ・ベック・グループ」(第2期)に加入。そしてデイヴ・ボールも同年「プロコル・ハルム」へ加入し、ビッグ・バーサは短い歴史に幕を下ろす。デイヴは、脱退したロビン・トロワーの後任を必要としていたプロコル・ハルムが「メロディ・メイカー」誌に出したギタリスト募集広告を見てこれに応募、1971年8月にバンドの一員となった。
 1971年11月18日、プロコル・ハルムはカナダのアルバータ州エドモントンでエドモントン交響楽団と共演した。このコンサートにデイヴも参加しており、その模様はライヴ・アルバム「プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ」として1972年4月にリリースされている。

 1972年9月、デイヴはアルバム「グランド・ホテル」の制作中にプロコル・ハルムから脱退する。アルバムの完成を目の前にしてのことだったため、後任のミック・グラバムがギターをオーヴァー・ダヴィングした。ただしデイヴは、2015年に受けたインタヴューで「収録されている『スーヴェニア・オブ・ロンドン』のギターとスプーンの演奏は自分自身のものだ」と述べている。また2009年にリリースされた「グランド・ホテル」のリマスターCDに収められているボーナス・トラック「ブリンギング・ホーム・ザ・ベーコン」のギターは、ボールの演奏によるものである。

 脱退後すぐロング・ジョン・ボルドリー・バンドに加入し、
ここで再びデニス・ボールと合流してボルドリーのソロ・アルバム「グッド・トゥ・ビー・アライヴ」(1973年リリース)の録音に加わった。

 1972年11月、弟デニスとともにコージー・パウエルと再び合流し、ハード・ロック・トリオ「ザ・ビースト」を結成。このバンドはまもなく名を「ベドラム」に改める。
 ベドラムは、フェリックス・パパラルディをプロデューサーに迎え、1973年8月にアルバム「狂人どもの舞踏会」を発表したが、短期間で解散した

 1980年かr1981年にかけてはオーストラリア人シンガーDuffoのバックを務めたほか、1980年代にはロンドンのニコール・バークレー・バンドにも参加している。
 その後は
ニュージーランドを拠点として、オーストラリアでも活動。さらに1988年頃はオマーンに居を移し、「ラシッド・ゴーズ・トゥ・ニズワ」というバンドで演奏したほか、サウジアラビアなどでも音楽活動を行った。また、彼は陸軍に入隊していた時期もあったようである。
 2007年7月、ロンドンでゲイリー・ブルッカーとライヴを行っているが、これがブルッカーとの最後の共演となった。また、プロコル・ハルムのトリビュート・バンド「ザ・ペイラーズ」とも時々共演していた。
 2012年には、ソロアルバム「Don't Forget Your Alligator」をリリースしている。

 2015年4月1日、イングランドのスタッフォードシャー州バートン・アポン・トレントで、大腸ガンのため死去した。65歳の誕生日の2日後であった。


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ>
  2012年 Don't Forget Your Alligator

 <プロコル・ハルム>
 ☆1972年 プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ
      /Procol Harum Live in Concert with Edmonton Symphony Orchestra(UK48位, US5位)

 <ロング・ジョン・ボルドリー・バンド>
  1973年 Good to Be Alive

 <ベドラム>
  1973年 狂人どもの舞踏会/Bedlam

 <Duffo>
  1980年 The Disappearing Boy

 <レコーディング・セッション>
  *Jonathan Kelly
  1972年 Twice Around The Houses


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ディッキー・ベッツ

2025-02-17 14:27:52 | guitar

ディッキー・ベッツ Dickey Betts


 【出生名】
   フォレスト・リチャード・ベッツ/Forrest Richard Betts

 【パート】

   ギター、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1943年12月12日~2024年4月18日(80歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国フロリダ州ウェストパームビーチ

 【経 歴】
   オールマン・ブラザーズ・バンド/Allman Brothers Band 1969~1976
   ディッキー・ベッツ & グレート・サザン/Dickey Betts & Great Southern 1976~1978
   オールマン・ブラザーズ・バンド/Allman Brothers Band 1978~1982
   ベッツ・ホール・リーヴェル & トラックス 1982~1984
   オールマン・ブラザーズ・バンド/Allman Brothers Band 1989~2000
   ディッキー・ベッツ & グレート・サザン/Dickey Betts & Great Southern 2000~


 リチャード・ベッツ(通称ディッキー・ベッツ)は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストとして著名なミュージシャンである。
 「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」2003年版では58位、2011年改訂版では61位にランクされている。

 1943年12月12日、ベッツは
フロリダ州ウェストパームビーチで生まれ、その後ブレーデントンに移った。
 オールマン・ブラザーズ・バンドの最初期には短期間ジョージア州に住んでいたが、人生の大半はフロリダ州のサラソタ都市圏で過ごした。
 ベッツ家はブルーグラスやカントリー・ミュージックなどの音楽に親しんでおり、父はアマチュアのフィドル奏者だった。
 音楽好きな父の影響で、ベッツは5歳の時に楽器を弾き始める。まだ幼く手が小さかったため最初はウクレレ、その後マンドリン、バンジョー、ドラムなどを演奏するようになる。
 ブルーグラスやアイリッシュ・フォーク・ソングを好んで聴くようになっていたベッツがギターを弾き始めたのは10代の前半だった。当時はデュアン・エディーに憧れており、のちB.B. キングをはじめとするブルースに傾倒するようになる。16歳頃にはフロリダから東海岸、また中西部まで幅広くサーキットするようになり、いろいろなバンドで演奏した。
 その後フロリダ州ジャクソンヴィルに移住してベーシストのベリー・オークリーと知り合い、「セカンドカミング」というバンドを結成する。

 1969年、オークリーとともに参加したジャム・セッションで、新たなバンドを組むために才能あるミュージシャンを探していたデュアン・オールマンと出会う。ベッツとオークリーはデュアンと意気投合し、その直後「オールマン・ブラザース・バンド」の結成に参加。メンバーはベッツ(guitar)、オークリー(bass)、デュアン(guitar)のほか、グレッグ・オールマン(keyboard)、ブッチ・トラックス(drums)、ジェイモー(drums)の6人だった。
 ベッツとデュアンのツイン・リード・ギターはバンドの大きな看板で、特徴はその対等な位置関係にあった。これは従来のリード・ギターとリズム・ギターというツイン・ギターの概念を変えるものでもあった。のちにデレク & ドミノスの「いとしのレイラ」に客演して名声を得たデュアンは、「自分は有名なギタリストだが、ディッキーの方が良いギタリストだ」と語っている。
 キャプリコーン・レコードとの契約を得たバンドは、同年デビュー・アルバム「オールマン・ブラザーズ・バンド」を発表したが、これは全米チャート188位に終わった。翌70年にはセカンド・アルバム「アイドルワイルド・サウス」を発表し、これは全米38位に食い込んでいる。このアルバムの中で、ベッツは初期の名曲「リヴァイヴァル」と「エリザベス・リードの追憶」を書いており、ソングライターとしての能力も世に知られるところとなった。


左:デュアン・オールマン 右:ディッキー・ベッツ
 
 1971年、ライヴ・アルバム「アット・フィルモア・イースト」を発表。
 このアルバムによってオールマン・ブラザーズ・バンドの名は一挙に全米に知れ渡ることになる。バンドのみならずロック史上に残る不朽の名作と言われているこのアルバムの中で、最大の聴きどころとも言われている曲が、ベッツの作品「エリザベス・リードの追憶」である。この曲は、のちのフュージョンのはしりとも言われている。

 こうしてオールマン・ブラザーズは順調にスター・バンドへの道を進み始めたが、その矢先の1971年10月29日、デュアン・オールマンがオートバイ事故によって他界する。
 デュアンは花形ギタリストであったと同時にバンドのリーダーでもあり、文字通りバンドの支柱だった。バンドにとって、そのデュアンを失ったということは存亡の危機に立たされたということでもあった。ベッツはバンド内では最年長だったが、のち長男に「デュアン」と名付けるほどデュアンに対しては尊敬の念を抱いていたため、ベッツ自身も大きな喪失感を味わった。
 この緊急事態に新たなリーダーとなったのが、ギタリスト、ソングライター、リード・ヴォーカリストとしてバンドを支えていた他ならないベッツである。
 急遽大きな責任を負うことになったベッツであるが、豊かな音楽性と強力なリーダーシップをもってバンドを牽引し、解散の危機から救ったのである。
 デュアンの後任として迎えられたのは、ギタリストではなく、キーボード奏者のチャック・リーヴェルであった。そしてバンドは、製作途中だった「イート・ア・ピーチ」を完成させ、全米チャート4位に送り込んだ。
 このアルバムに収められている名曲「ブルー・スカイ」もベッツのペンによるものである。ベッツは当初グレッグ・オールマンにこの曲を歌ってもらおうとしたが、グレッグは「これは君の曲で、君らしく聞こえるし、君が歌う必要がある」と、ベッツに自分で歌うよう勧めたという。

 1972年10月にはニュー・アルバムのレコーディングが始まったが、その1ヵ月後の11月11日、今度はベリー・オークリー(bass)が死亡する。デュアン・オールマンが事故死してから約1年後のことで、またもやバイク事故であった。
 バンドにとって立て続けに起きた大きなアクシデントだったが、ベッツはこの時もリーダーシップを発揮して難局を乗り越え、改めてその存在の大きながクローズ・アップされた。
 制作途中だったアルバムは、1973年8月に「ブラザーズ & シスターズ」のタイトルでリリースされ、全米チャート1位の大ヒットを記録。このアルバムからは、ベッツが作詞作曲とボーカルを担当した「ランブリン・マン」がファースト・シングルとしてリリースされ、バンド史上最高の全米2位を記録した。続くセカンド・シングル「ジェシカ」もベッツのペンによるものであるが、この曲はベッツが彼の幼い娘ジェシカからイマジネーションを得て書いたものであり、今ではサザン・ロックを代表するインストゥルメンタルとしてロック・ファンに愛されている。
 ちなみに、「イート・ア・ピーチ」に収められている「ブルー・スカイ」とは、ベッツの最初の妻サンディのニックネームであり、ベッツとサンディのあいだに産まれたのがジェシカである。
 1974年にはカントリー・ロック色の濃いファースト・ソロ・アルバム「Highway Call」を発表している。



 オールマン・ブラザーズ・バンドは国民的人気バンドに成長したが、ベッツとグレッグ・オールマンとの間に生じた不協和音や、メンバー間の音楽的見解の相違がもとで、1976年に解散する。ベッツは「ディッキー・ベッツ & グレート・サザン」を結成、1977年にはファースト・アルバム「ディッキー・ベッツ & グレート・サザン」をリリースした。このアルバムに収録されている「ブーゲンヴィリア」は、のちにハリウッドのスター俳優となるドン・ジョンソンとの共作である。

 その後、グレッグ・オールマンから和解を求める提案があり、これがきっかけとなってオールマン・ブラザーズ・バンドは1979年に再結成し、アルバム「Enlightened Rogues」をリリースした。このときのラインナップは、ベッツ(vocal, guitar)のほか、グレッグ・オールマン(vocal, keyboards)、ダン・トーラー(guitar)、デヴィッド・ゴールドフライズ(bass)、ブッチ・トラックス(drums)、ジェイモー(drums)である。
 その後、何度かメンバー交代が行われたが、人気やレコードのセールスは全盛期ほどではなく、それに加えてマネージメント上の問題もあり、バンドは1982年に再び解散した。

 ベッツは新たなバンド「ベッツ・ホール・リーヴェル & トラックス」(以下BHL&T)を結成する。メンバーは、ベッツのほかブッチ・トラックス、チャック・リーヴェル、デヴィッド・ゴールドフライズ、元ウェット・ウィリーでヴォーカル、サックス、ハーモニカを担当していたジミー・ホール、そしてベッツとトラックスが発掘したヴァイオリニスト兼ギタリスト、ダニー・パークス(violin, guitar)の計6人であった。
 BHL&T
はレコード契約を結ぶことができなかったため、1984年に解散したが、ベッツは後年「BHL&Tは、なかなかいいバンドだった」と語っているほか、リーヴェルも「最高のバンドだった」と回想している。
 BHL&Tのライヴ音源はいくつか残されており、ヴァージニア州ロアノークでのライヴが2016年になって「Live at the Coffee Pot 1983」のタイトルでリリースされている。
 解散後のベッツはディッキー・ベッツ・バンドを結成し、ソロとしての活動を開始した。1989年にはアルバム「Pattern Disruptive」をリリースしている。

 1989年、オールマン・ブラザーズ・バンドのデビュー20周年を記念して、ボックス・セット「Dreams」がリリースされた。このプロモーションとして、バンドの一度限りの再結成ツアーの計画が提案され、ベッツは自身のバンドのメンバーであるウォーレン・ヘインズとともに参加した。
 この一度限りのツアーは成功裡に終わり、これがきっかけとなってバンドは再々結成した。1990年から1994年の間に3枚のスタジオ・アルバムをリリースした。
 1991年にはオールマン・ブラザーズ・バンドの初来日公演で来日。
 1995年、オールマン・ブラザーズ・バンドのオリジナル・メンバーとしてロックの殿堂入りを果たす。また1996年にはバンドと共に「ジェシカ」でグラミーの最優秀ロックパフォーマンス賞を受賞している。
 しかし1990年代以降のベッツはアルコールへの依存が深刻化していた。そのうえもともと気性が激しく、この頃も警官への暴力で逮捕されるなど、私生活が次第に荒れてゆく。
 1990年代中頃から後半にかけて、ベッツは「個人的な理由」によってオールマン・ブラザーズ・バンドのツアーに何度か参加しなかった。
 2000年5月7日、ジョージア州アトランタで「ミュージック・ミッドタウン・フェスティヴァル」が行われたが、これがベッツがオールマン・ブラザーズ・バンドの一員として演奏した最後のコンサートになった。このフェスティヴァルが終わり、バンドが夏のツアーを開始する前に、ベッツはグレッグ・オールマン、ブッチ・トラックス、ジェイモーから解雇通知を受けた。3人はベッツに「アルコールや薬物と手を切る」よう伝えたという。その後、今度はベッツがこの3人に対して訴訟を起こしたため、ベッツとバンドの間には決定的な溝が生じ、これ以降ベッツはバンドに復帰することはなかった。
 なおベッツの後任は、ブッチ・トラックスの甥、デレク・トラックスである。

 その後ベッツは「ディッキー・ベッツ・バンド」を再結成し、のちバンド名を再び「ディッキー・ベッツ & グレート・サザン」に改め、息子のデュアン・ベッツ(guitar)をメンバーに加えた。
 ベッツの最後のアルバムは、2021年に発表された2枚組ライヴ・アルバム「Official Bootleg Vol. 1」である。このアルバムには2000年代のディッキー・ベッツ & グレート・サザンのパフォーマンスが収録されている。



 ベッツはデュアン・オールマンを敬愛していたが、弟のグレッグとの折り合いは良いものだとは言えなかった。オールマン・ブラザーズ・バンドからの3度の脱退の理由のなかにはグレッグとの不和があった。
 2000年にバンドから離れた後、グレッグとの交流は全く途絶えていたが、グレッグが2017年に亡くなる前にふたりは和解している。その翌年には(2018年)、ベッツの息子のデュアン・ベッツ、グレッグ・オールマンの息子デヴォン・オールマン、ベリー・オークリーの息子ベリー・デュアン・オークリーが「オールマン・ベッツ・バンド」を結成、話題になった。

 2018年8月、ベッツは軽度の脳卒中になり、ディッキー・ベッツ・バンドのツアーをキャンセルした。同年9月20日、脳の腫れを和らげる手術が成功し、以後療養生活を送っていた。
 2024年4月18日、フロリダ州オスプレイの自宅で癌と慢性閉塞性肺疾患のため、80歳で亡くなった。

 ベッツのギターは「不世出の天才」とも言われたデュアン・オールマンにひけを取らない素晴らしいものであった。
 1957年製ギブソン・ゴールド・トップがベッツのメイン・ギターで、彼の代名詞でもある。ベッツはこのギターに「ゴールディ」と名付けて愛用していた。1980年代後半以降は、おもにポール・リード・スミスを使っていた。
 ベッツのギター・プレイの根底はブルースである。またバンド・メイトだったジェイモーがジャズの造詣に深かったことからその影響を受け、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンに傾倒した時期もある。マイルスの「オール・ブルース」に影響を受けていることも公言している。長尺のソロや、「エリザベス・リードの追憶」に見られるジャズ、あるいはフュージョンよりの作風などは、ジャズから得たエッセンスの現れであろう。さらに、そういったベッツの作風は、オールマン・ブラザーズ・バンドの音楽性の幅を広げることに貢献したと言える。またスライド・ギターの名手としても知られている。
 その後はカントリー音楽からの影響が顕著になり、メロディアスなベッツの演奏は、のちのサザン・ロック系のギタリストに大きな影響を与えた。またヴォーカルも、オールマン・ブラザーズ・バンドではグレッグ・オールマンがブルース系の曲を、ベッツがカントリー系の曲を担当していた。

 キャメロン・クロウ監督による2000年の映画「あの頃ペニー・レインと」の劇中に、ビリー・クラダップ演ずるロック・スター「ラッセル・ハモンド」が登場するが、ラッセルのルックスを含めた役作りは、クロウ監督によるとディッキー・ベッツへのオマージュだということである。 


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ>
  1974年 Highway Call(US19位)※本名のリチャード・ベッツ名義
  1982年 Nights
 ★2006年 
Bougainvillea's Call:The Very Best of Dickey Betts 1973–1988
 ☆2018年 Live from the Lone Star Roadhouse

 <オールマン・ブラザーズ・バンド>
  1969年 オールマン・ブラザーズ・バンド/The Allman Brothers Band(US188位)
  1970年 アイドルワイルド・サウス/Idlewild South(US38位)
 ☆1971年 フィルモア・イースト・ライヴ/At Fillmore East(US13位)
  1972年 イート・ア・ピーチ/Eat A Peach(US4位)
  1973年 ブラザーズ & シスターズ/Brothers and Sisters(US1位, UK42位)
 ★1973年 Beginnings(US25位)
  1975年 ウィン、ルーズ・オア・ドロウ/Win, Lose or Draw(US5位)
 ★1975年 The Road Goes On Forever(US43位)
 ☆1976年 熱風/Wipe the Windows, Check the Oil, Dollar Gas(US75位)
  1979年 いま、再び/Enlightended Rogues(US9位)
  1980年 リーチ・フォー・ザ・スカイ/Reach for the Sky(US27位)
  1981年 ブラザーズ・オブ・ザ・ロード/Brothers of the Road(US44位)
 ★1981年 The Best of the Allman Brothers Band
 ★1989年 Dreams(US103位)
  1990年 セヴン・ターンズ/Seven Turns(US53位)
  1991年 シェイズ・オブ・トゥ・ワールズ/Shades of Two Worlds(US85位)
 ★1991年 A Decade of Hits 1969=1979(US39位)
 ☆1992年 アン・イヴニング・ウィズ・ジ・オールマン・ブラザーズ・バンド~ファースト・セット
       /An Evening with the Allman Brothers Band:First Set(US80位)
  1994年 ホエア・イット・オール・ビギンズ/Where It All Begins(US45位)
 ☆1995年 An Evening with the Allman Brothers Band:2nd Set(US88位)
 ☆2000年 ピーキン・アット・ザ・ビーコン/Peakin' at the Beacon

 <ディッキー・ベッツ & グレート・サザン>
  1977年 
Dickey Betts & Great Southern(US31位)
  1978年 Atlanta's Burning Down(US157位)
  2002年 The Collectors #1
  2004年 Instant Live:The Odeon – Cleveland, OH 3/09/04
 ☆2006年 The Official Bootleg
 ★2010年 Rockpalast: 30 Years of Southern Rock (1978–2008)
 ☆2019年 Official Bootleg Vol.1

 <ベッツ, ホール, リーヴェル & トラックス>
 ☆2016年 Live at the Coffee Pot 1983

 <ディッキー・ベッツ・バンド>
  1989年 Pattern Disruptive(US187位)
  2001年 Let's Get Together
 ☆2019年 Ramblin' Man:Live at the St. George Theatre


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ジミー・マカロック

2025-02-06 01:31:34 | guitar

ジミー・マカロック James 'Jimmy' McCulloch


 【出生名】
   ジェームス・マカロック/James McCulloch

 【パート】

   ヴォーカル、ギター、ベース

 【生没年月日】
   1953年6月4日~1979年9月25日(26歳没)

 【出生地】
   スコットランド ダンバートン

 【経 歴】
   ザ・ジェイガーズ/The Jaygars(1964~1966)
   ワン・イン・ア・ミリオン/One in a Million(1966~1968)
   サンダークラップ・ニューマン/Thunderclap Newman(1969~1971)
   ベント・フレーム/Bent Frame(1971)
   ジミー・マカロック・バンド/Jimmy McCulloch Band(1971~1972)
   ストーン・ザ・クロウズ/Stone The Crows(1972~1973)
   ブルー/Blue(1973)
   ウイングス/Wings(1974~1977)
   ホワイト・ライン/White Line(1976)
   スモール・フェイセス/Small Faces(1977~1978)
   ワイルド・ホーシズ/Wild Horses(1978)
   デュークス/The Dukes(1979)


 ジミー・マカロックは、スコットランド出身のギタリスト。ポール・マッカートニーのバンド「ウィングス」のリード・ギタリストだったことで知られている。
 実兄のジャック・マカロックはドラマーで、ワン・イン・ア・ミリオンやジミー・マッカロック・バンド、ホワイト・ラインでバンド・メイトだった。


デビュー ~ ワン・イン・ア・ミリオン
 マカロックはスコットランドのダンバートンに生まれ、クライドバンクに移り、のちグラスゴー近くのカンバーノールドで育った。
 ジャンゴ・ラインハルトに影響されたマカロックは11歳のときにギターを弾き始め、その年には兄ジャックらと「ザ・ジェイガーズ」というバンドを結成する。ジェイガーズはその後「ワン・イン・ア・ミリオン」と改名し、サイケデリック・ロック・バンドとして活動した。
 1967年4月、マカロックはロンドンのアレクサンドラ・パレスで行われた「The 14 Hour Technicolour Dream」というイヴェントに、弱冠13歳10ヵ月の若さで出演。このイヴェントにはザ・フーをはじめ当時の人気バンドが参加していた。また彼はワン・イン・ア・ミリオンのギタリストとしてロンドン市内の他の会場でも演奏した。
 この年、ワン・イン・ア・ミリオンはザ・フーのスコットランド・ツアーにサポート・バンドとして同行したほか、「Use Your Imagination」と「Fredereek Hernando」の2枚のシングルをリリースしている。

サンダークラップ・ニューマン ~ ジミー・マッカロック・バンド
 1969年、マカロックはザ・フーのピート・タウンゼントの友人で作曲家のジョン・”スピーディ”・キーン(vocal, drums)、タウンゼントのアート・カレッジ時代の学友だったアンディ・"サンダークラップ"・ニューマン(piano)とともに、「サンダークラップ・ニューマン」を結成する。なおツアーにおけるサポート・メンバーとして、兄のジャック・マカロックが参加している。
 彼らは同年5月にシングル「サムシング・イン・ジ・エアー」を発表する。このシングルは、ピート・タウンゼントがプロデュースを担当するとともに、「Bijou Drains」の変名でベースも弾いている。
 この曲がスタジオでミックス・ダウンを終えた時、エンジニアがテーブルを叩きながら「これは1位になる曲だ」と叫んだという話が残っており、それを証明するように同年7月には全英シングル・チャート1位を記録した。これによって、当時15歳だったマカロックは「全英1位となった曲で演奏した最年少ギタリスト」となった。またタウンゼント自身にとっては、プロデューサーとして、そしてミュージシャンとして唯一の全英1位である。
 サンダークラップ・ニューマンは引き続きタウンゼントをプロデューサーに迎え、1970年にデビュー・アルバム「ハリウッド・ドリーム」を発表した。これはマカロックの、ギタリストそしてソングライターとしての出発点とも位置付けられるアルバムである。
 バンドは1971年1月から4月中旬にかけてイングランド、スコットランド、オランダ、スカンジナビアでツアーを行なったが、その数週間後には解散した。

 1971年10月、マカロックはイギリスとドイツで行われたジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのライヴにギタリストとして参加した後、同年秋には兄ジャックと新たなバンド「ベントフレーム」を結成する。彼らは10月31日にロンドンでデビュー・ステージを踏み、間もなく「ジミー・マカロック・バンド」と名を改めた。1972年2月にはマウンテンのサポートとしてイングランドとスコットランドでツアーを行なっているが、1972年5月に解散した。
 この頃のマカロックはすでにセッション・ギタリストとしても引っ張りだこであり、1972年にはジョン・エントウィッスルのセカンド・ソロ・アルバム「風の詩」の録音に招かれ、ピーター・フランプトンとともに「エプロン・ストリングス」と「アイ・フィール・ベター」の2曲でリード・ギターを弾いている。そのほかクラウス・フォアマン、ハリー・ニルソン、スティーヴ・エリスらのセッションにも参加している。
 マカロックのギターはブルースから大きな影響を受けており、流麗でメロディックなフレーズが特徴である。おもにギブソンSG、あるいはギブソン・レスポールやギブソン・ファイヤーバードなどを使用していた。



ストーン・ザ・クロウズ
 1972年6月、マカロックはスコットランドのバンド「ストーン・ザ・クロウズ」に加入する。
 ストーン・ザ・クロウズは、「英国のジャニス・ジョプリン」とも言われたマギー・ベル(vocal)を擁するブルース・バンドであるが、同年5月にギタリストのレスリー・ハーヴェイがステージ上の感電事故で死亡したため、存続の危機に立たされていた。マカロックはその後任としてバンドに迎え入れられたのである。
 マカロックはさっそく制作途中だったアルバム「オンティニュアス・パフォーマンス」の録音に加わり、「Sunset Cowboy」と「Good Time Girl」でギターを担当した。しかしストーン・ザ・クロウズは、翌1973年6月に解散した。

 1973年には、サンダークラップ・ニューマン時代のバンドメイト、ジョン・キーンのアルバム「Previous Convictions」に参加したほか、「ザ・ファントム」の仮名でブライアン・ジョゼフ・フリエル(Brian Joseph Friel)のデビュー・アルバムの制作にも参加している。
 またこの年は、短期間であるが、スコットランドのバンド、「ブルー」に加わっている。

ウイングス ~ ホワイト・ライン
 1973年、マカロックは、ポール・マッカートニーと彼の妻リンダのユニット「スージー&ザ・レッド・ストライプス」から声をかけられた。これがきっかけとなり、1974年1月にマッカートニーのバンド「ウイングス」のメンバーとなった。もともと甘いルックスの若き天才ギタリストとして注目されていたマカロックの名は、これによって世界中に知れ渡ることになった。彼の加入後、最初に発表されたシングル「ジュニアズ・ファーム」(1974年)は全米3位の大ヒットを記録している。
 マカロックは、ステージではギターはもちろん、マッカートニーがピアノやアコースティック・ギターを演奏する時にはベース・ギターを担当した。またアルバム「ヴィーナス・アンド・マース」に反ドラッグソングの「メディシン・ジャー」を、「スピード・オブ・サウンド」には「ワイノ・ジュンコ」を提供してリード・ヴォーカルをも担当している。なおこの2曲とも、作詞者は元ストーン・ザ・クロウズのドラマーだったコリン・アレンである。

 ウイングスに在籍中の1976年、マカロックは兄のジャック(drume)、デイヴ・クラーク(bass, keyboard, vocal)と新バンド「ホワイト・ライン」を結成した。彼らは数回のライヴを行い、シングル「Call My Name」をリリースしたほか、1976年11月27日にはイギリスのテレビ番組「Supersonic」に出演している。
 ホワイトラインは短命に終わったが、1994年には13曲を収録したアルバム「White Line - Complete」がリリースされている。ちなみに、このアルバムをリリースした「マウス・レコード」は、デイヴ・クラークのレーベルである。
 マカロックはこのほかにも、1977年にはロイ・ハーパーの「イギリスでの或る日」、リッチ・マーティンの「Bleached」、ロジャー・ダルトリーの「ワン・オブ・ザ・ボーイズ」などのアルバムに参加している。

 このころのマカロックはすでにアルコールとドラッグへの深刻な依存に陥っていた。過酷なツアーによる疲労や、若くして名声を得たがゆえのプレッシャーによる精神的疲弊などで荒れていたマカロックは、ウイングスの中で他のメンバーとの衝突も起こしており、とくに真面目な性格のジョフ・ブリットンとはそりが合わなかったという。
 マッカートニー夫妻はマカロックを助けようとしていたが、その心配もむなしく彼の状態は改善に向かうことはなかった。



スモール・フェイセス ~ ワイルド・ホーシズ ~ ザ・デュークス
 1977年9月、マカロックはウイングスを脱退(アルコールとドラッグによるトラブルから解雇された、という説もある)する。そして再結成したスモール・フェイセスにただちに加入し、同月に行なわれたイギリスでのツアーと、アルバム「78 イン・ザ・シェイド」の録音に参加した。

 1978年初めにはシン・リジィを脱退したばかりのブライアン・ロバートソンや、ジミー・ベイン、ケニー・ジョーンズと共に「ワイルド・ホーシズ」を結成したが、その春には脱退した。
 1979年には「ザ・デュークス」に参加した。デュークスのアルバム「The Dukesに収録されている「Heartbreaker」は、マカロック最後の作品である。

 1979年9月27日、マカロックはロンドン西部にあるメイダ・ヴェールの自宅で、ヘロインの過剰摂取による心不全のため死亡。まだ26歳の若さだった。第一発見者は兄ジャックである。マカロックは新たなバンドを組み、ワーナー・ブラザーズとの契約も決まっていたという。
 のちポール・マッカートニーは、マカロックについて「彼には少し危なっかしいところがあり、結果的にそれが彼のためにはならなかったのだろう」と述べ、その死を惜しんでいる。
 またピート・タウンゼントは、マカロックが若くして名声を手にしたことがその後のドラッグやアルコールへの依存と早すぎる死につながった可能性があるとして「もし自分が彼の人生に関わっていなければ、彼は今日も生きていたかもしれない」と語っている。
 
 2021年、マカロックの伝記「リトル・ウイング:ジミー・マカロック・ストーリー」が出版された。




【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ワン・イン・ア・ミリオン>
 ★2009年 Double Sight - The Complete Recordings

 <サンダークラップ・ニューマン>
  1970年 ハリウッド・ドリーム/Hollywood Dream

 <ストーン・ザ・クロウズ>
  1972年 オンティニュアス・パフォーマンス/Ontinuous Performance

 <ウイングス>
  1975年 ヴィーナス・アンド・マース/Venus and Mars UK1位, US1位, 日本9位
  1976年 スピード・オブ・サウンド/Wings at the Speed of Sound UK2位, US1位, 日本4位
 ☆1976年 Wings Over America UK8位, US1位, 日本4位
  1978年 ロンドン・タウン/London Town UK4位, US2位, 日本4位
 ★1978年 Wings Greatest UK5位, US29位, 日本24位
 ★2001年 Wingspan:Hits and History UK5位, US2位, 日本13位 ※ポール・マッカートニー名義

 <ホワイト・ライン>
  1994年 White Line - Complete

 <スモール・フェイセス>
  1978年 78 イン・ザ・シェイド/78 In the Shade

 <ザ・デュークス>
  1979年 The Dukes

 <レコーディング・セッション>
 ◆ジョン・エントウィッスル
  1972年 風の詩ホイッスル・ライムズ/Whistle Rymes
 ◆ジョン・キーン
  1973年 Previous Convictions
 ◆ロイ・ハーパー
  1977年 イギリスでの或る日
 ◆リッチ・マーティン
  1977年 Bleached

 ◆ロジャー・ダルトリー
  1977年 ワン・オブ・ザ・ボーイズ/One of the Boys


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ヘンリー・マッカロー

2024-07-22 21:37:15 | guitar

ヘンリー・マッカロー Henry McCullough


【本名】
  ヘンリー・キャンベル・ライケン・マッカロー/Henry Campbell Liken McCullough

【パート】

  ギター、ベース、ヴォーカル

【生没年月日】
  1943年7月21日~2016年6月14日(72歳没)

【出身地】
  北アイルランド ロンドンデリー ポートスチュワート

【経 歴】
  スカイロケッツ/The Skyrockets
  ジーン & ザ・ジェンツ/Gene & The Gents(1964~1967)
  ザ・ピープル/The People(1967)
  エール・アパレント/Éire Apparent(1967~1968)
  スウィーニーズ・メン/Sweeney's Men(1968)
  グリース・バンド/Grease Band(1969~1971)
  スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1970)
  ウイングス/Wings(1971~1973)
  フランキー・ミラー・バンド/Frankie Miller Band(1975)
  ドクター・フィールグッド/Dr. Feelgood(1977)
  ヘンリー・マッカロー・バンド/The Henry McCullough Band



 ヘンリー・マッカローはアイルランド出身のギタリスト。ウイングスのギタリストだったことで知られる。
 また、ウッドストック・フェスティヴァルでパフォーマンスを行った唯一のアイルランド人でもある。


 マッカローは1943年7月21日に北アイルランドのロンドンデリー州ポートスチュワートで生まれた。
 1960年代初頭、「スカイロケッツ」というショウ・バンドにリード・ギタリストとして加入したのが、マッカローのショウ・ビジネス界でのキャリアの始まりである。
 1964年にスカイロケッツを脱退すると、「ジーン & ザ・ジェンツ」の結成に参加。
 1967年にベルファストに移ったマッカローは、アーニー・グラハム(vocal)、クリス・スチュワート(bass)、デイヴ・ルートン(drums)とともにサイケデリック・バンド「ザ・ピープル」を結成。この年ロンドンに拠点を移した彼らはマネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズ)と契約することに成功し、バンド名を「エール・アパレント」に改め、ピンク・フロイドやソフト・マシーン、ザ・ムーヴ、ジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンス、アニマルズなどとツアーを行った。
 1968年2月、アニマルズとのツアーのためにバンドとともにカナダのバンクーバーに滞在していたマッカローは、マリファナを所持していたため帰国させられ、そのままバンドを脱退した。
 同年5月頃にはアイルランドのフォーク・ロック・バンド「スウィーニーズ・メン」に加入、数ヵ月参加している。


 1969年、ロンドンに戻ったマッカローは、ジョー・コッカー(vocal)のバック・バンド「グリース・バンド」に加入する。当時のラインナップは、マッカローのほかクリス・ステイントン(keyboard)、アラン・スペナー(bass)、ブルース・ロウランド(drums)であった。マッカローが合流したグリース・バンドはアメリカー・ツアーを行い、8月にはウッドストック・フェスティヴァルにも出演した。
 1970年には、ロック・オペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』のスタジオ・アルバムのレコーディングに参加。また同年には、バンドの内紛で揺れていたスプーキー・トゥースに一時的に加入し、アルバム『ザ・ラスト・パフ』のレコーディングに参加したが、アルバムの発表前にバンドは解散した。


 グリース・バンドは1969年末にコッカーから独立し、ハーヴェスト・レコードと契約したが、翌71年にマッカローはグリース・バンドを脱退。
 グリース・バンドから離れたマッカローは、ダブリン北部を拠点に活動していたが、ポール・マッカートニー(bass, vocal)からの要請で、1971年12月に彼の新たなバンド「ウイングス」に参加することになった。
 マッカローのウイングスのメンバーとしての最初のレコーディングは、物議を醸したシングル「アイルランドに平和を」である。これは1972年に非武装の市民権デモ隊にイギリス軍が発砲して死者13人を出した「血の日曜日」事件に対して、アイルランド系のマッカートニーが抗議を表明したものであった。その結果、マッカートニーは「アイルランド軍を支持した」としてイギリスのメディアからの批判を浴び、BBCなど多くのメディアでは「アイルランドに平和を」を放送禁止とした。
 ウイングスに在籍中のマッカローは、「ハイ・ハイ・ハイ」「007 死ぬのは奴らだ」「マイ・ラヴ」などのヒット曲や、アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の収録に参加している。なかでも「マイ・ラヴ」におけるマッカローのギター・ソロはロック史上に残る名演だと言われている。マッカートニーはいつもと同じように、この曲のために短いソロを書いていた。収録はオーケストラの生演奏との共演だったが、スタジオ入りしたマッカローが録音直前に「ちょっと違うことを試してみてもいいかな?」と尋ねてきた。戸惑いながらその申し出を了承したマッカートニーだったが、マッカローのソロを聴いて驚愕したという。このソロは、マッカローの即興によるものであった。



ポール・マッカートニー(左)、ヘンリー・マッカロー(右)


 1973年8月、マッカローはウイングスから脱退。マッカートニーの演奏に対する注文の多さに端を発する音楽的見解の相違、そして長期ツアーによる疲労が重なったのがその理由である。脱退したのは、『バンド・オン・ザ・ラン』セッションのためナイジェリアに出発する前夜であった。

 
 1973年にピンク・フロイドが制作したアルバム『狂気』はロック史上に残るモンスター・ヒット・アルバムであるが、その中に収録されている「マネー」の最後に、マッカ
ローの「I don't know. I was really drunk at the time.(分からない、その時は本当に酔っていた)」というセリフを聞くことができる。これは、その前夜マッカローが夫人と喧嘩したことを思い出してのセリフだそうである。
 その後はフランキー・ミラー・バンドに参加し、1975年にアルバム『ザ・ロック』をリリース。同じく1975年にはダーク・ホース・レコードよりファースト・ソロ・アルバム「Mind Your Own Business」を発表している。
 また、セッション・ギタリストとしてロイ・ハーパー、エリック・バードン、マリアンヌ・フェイスフル、ロニー・レーン、ドノヴァンらと共演した。1977年には、ウィルコ・ジョンソンの後任として、一時的に「ドクター・フィールグッド」に加わっている。


 マッカローは、1980年8月にミッチ・ミッチェル(drums)、ティム・ヒンクリー(keyboard)などをメンバーとするバック・バンドとともにアイルランド・ツアーを行った。その後は手を負傷して長期間の活動休止を余儀なくされたが、アイルランドに残り、回復後は故郷のポートスチュワートでパーシー・ロビンソン(pedalsteel guitar)、ロー・ブッチャー(bass)、リアム・ブラッドリー(drums)らと新たなバンドを結成し、フロント・マンとして復帰する。




 1998年、マッカローはポーランドでツアーを行い、ポーランドのミュージシャンとともにライヴ・アルバムを収録、『Blue Sunset』のタイトルでリリースした。
 ポーランドから帰国したのち、シングル「Failed Christian」を録音したが、これはのちニック・ロウが彼のアルバム「ディグ・マイ・ムード」でカヴァーしている。
 その後もレコーディングと演奏を続け、2001年には『Belfast to Boston』(2001年)、『Unfinished Business』(2003年)などのソロ・アルバムを発表している。
 2003年にはアラスカのミュージシャン、ザ・レヴ・ニール・ダウンのアルバム『When A Wrong Turns Right』にギターで参加した。
 2007年、マッカローは元ジ・アラームのデイヴ・シャープ(guitar)と活動を開始し、ズート・マネー(keyboard)、ゲイリー・フレッチャー(bass)、コリン・アレン(drums)を加えたラインナップで「ハード・トラヴェラーズ」を結成する。このバンドは2008年1月にポーツマスの「ザ・セラーズ」でデビュー・ライヴを行った。
 2008年、『プア・マンズ・ムーン』を制作し、アイルランドでリリースする。
 2009年12月20日、ダブリンで行われたポール・マッカートニーのコンサートに出席した。マッカートニーは、マッカローがウイングスに貢献したことを公に認めた。
 2010年3月13日、マッカローは自分のバンドとともにスコットランドのファイフストック・フェスティヴァルに出演し、ヘッドライン・アクトを務めた。


 マッカローの、スワンプやブルースを昇華したいぶし銀のプレイは、アイルランドでは伝説的な存在と見なされている。彼はヨーロッパ全土で活動を続け、エド・ディーン、ジェームス・デラニー、ノエル・ブリッジマンらと共演した。
 2011年にはポール・ドハーティ & ザ・ヴァルズとのコラボレーションを行い、ギターとバッキング・ヴォーカルを担当した「ルック・トゥ・ジ・ワン」は全世界でエアプレイされた。


 2012年11月、マッカローは心臓発作のため重体に陥った。また併せて脳卒中を起こしたため、イギリスのラジオはマッカローの訃報を誤って報道されたほどだった。
 2015年3月17日、南西ロンドンのパトニーでマッカローのためのチャリティー・コンサートが開催され、そのためのバック・バンド「ヘンリーズ・ヒーローズ」が結成された。メンバーはマッカローのソロ・アルバムのメンバーだったティム・ヒンクリー(keyboard)、ニール・ハバード(guitar)、ジョン・ハルゼー(drums)のほか、メル・コリンズ(sax)、クマ原田(bass)が参加した。コンサートには、ポール・キャラック、ニック・ロウ、アンディ・フェアウェザー・ロウ、ボブ・テンチらが出演した。


 長い闘病生活を送っていたマッカローだが、心臓発作から完全に回復するには至らず、2016年6月14日早朝に北アイルランドのアントリム州バリーマネーにある自宅で死去した。72歳だった。







【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
 
 <ソロ>
  1975年 Mind Your Own Business
  1984年 Hell of a Record 
  1987年 Cut
 ☆1989年 Get in the Hole

  1998年 Blue Sunset
  2001年 Belfast to Boston
  2002年 Unfinished Business
 ☆2007年 The Henry McCullough Band:FBI Live
  2008年 Poor Man's Moon
  2012年 Shabby Road


 <スプーキー・トゥース>
  1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff(US84位)

 <ウイングス>

  1973年 レッド・ローズ・スピードウェイ/Red Rose Speedway(UK5位 US1位)

 <レコーディング・セッション>
 *アンドリュー・ロイド・ウェバー & ティム・ライス/Andrew Lloyd Webber and Tim Rice
  1970年 Jesus Christ  Superstar
  1976年 Evita
 *ジョー・コッカー/Joe Cocker
  1969年 心の友/With a Little Help from My Friends(UK29位 US35位)
  1969年 ジョー・コッカー&レオン・ラッセル/Joe Cocker!(UK29位 US11位) 
  1974年 ア・リトル・レイン/I Can Stand a Little Rain(US11位) ※旧邦題「ユー・アー・ソー・ビューティフル」
  1975年 ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル/Jamaica Say You Will(US42位)
 ☆1997年 オン・エアー/On Air 1968/1969(1968年録音)
 ☆2009年 Live at Woodstock
 *グリース・バンド/The Grease Band
  1971年 The Grease Band
  1975年 Amazing Grease(1970年~1971年録音)
 *ロゼッタ・ハイタワー/Rosetta Hightower

  1970年 Hightower
 *Christopher Kearney
  1972年 Christopher Kearney
 *Jackie Flavelle
  1972年 Admission Free
 *ドノヴァン/Donovan
  1973年 エッセンス/Essence to Essence US174位
 *ヴィオラ・ウィルス/Viola Wills
  1974年 Soft Centers(のち「Without You」として再発)
 *デイヴ・カールセン
  1973年 Pale Horse
 *アンディ・フェアウェザー・ロウ/Andy Fairweather Low
  1974年 Spider Jiving
  2004年 Wide Eyed and Legless:The A&M Recordings
 *フランキー・ミラー・バンド/The Frankie Miller Band
  1975年 ザ・ロック/The Rock
 *ボビー・ハリスン/Bobby Harrison
  1975年 Funkist
 *ゲイリー・ロックラン/Gary Lockran
  1976年 Rags to Gladrags
 *マリアンヌ・フェイスフル/Marianne Faithfull
  1976年 ドリーミン・マイ・ドリームス/Dreamin' My Dreams(1978年「Faithless」として再発)
 *ロイ・ハーパー/Roy Harper
  1977年 Bullinamingvase(USでのタイトルは「One of Those Days in England」)
  1994年 Commercial Breaks(1977年録音)
  2011年 Songs of Love and Loss
 *スティーヴ・エリス/Steve Ellis
  1978年 The Last Angry Man(cassette issue)
 *ロニー・レーン/Ronnie Lane
 ☆1980年 Live at Rockpalast
  1980年 See Me
 *デニー・レイン/Denny Laine
  1980年 Japanese Tears
 *エリック・バードン/Eric Burdon
  1980年 Darkness Darkness
 *リンダ・マッカートニー/Linda McCartney
  1998年 Wide Prairie(1971年録音)
 *ブレンダン・クイン/Brendan Quinn
  2001年 Small Town
  2008年 Sinner Man
 *ケヴィン・ドハーティ/Kevin Doherty
  2002年 Sweet Water
 *リチャード・ギルピン/Richard Gilpin
  2002年 Beautiful Mistake
 *レヴ・ネイル・ダウン/Rev. Neil Down
  2003年 When a Wrong Turns Right
 *ティム・ヒンクリー/Tim Hinkley
  2005年 Hinkley's Heroes
 *ディーンズ/The Deans
  2006年 The Deans
 *スティーヴ・マリオッツ・オールスターズ/Steve Marriott's All Stars
  2007年 Wham Bam
 *ジェフ・グリーン/Jeff Greene
  2008年 Dark Nite of the Soul
 *ヴァルス/The Vals
  2011年 look to the One
 *Various Artists
 ☆1995年 Alive in Belfast – The Warehouse Sessions
 ★2014年 The Art of McCartney

 <シングル>
  1965年 ジーン & ザ・ジェンツ:Puppet on a String

  1968年 エール・アパレント:Follow Me
  1972年 ウイングス:アイルランドに平和を/Give Ireland Back to the Irish(UK16位 US21位)
  1972年 ウイングス:メアリーの子羊/Mary Had a Little Lamb(UK9位 US28位)
  1972年 ウイングス:ハイ・ハイ・ハイ/Hi, Hi, Hi(UK5位 US10位)
  1973年 ウイングス:マイ・ラヴ/My Love(UK9位 US1位)
  1973年 ウイングス:007 死ぬのは奴らだ/Live and Let Die(UK9位 US2位)
  1973年 ウイングス:カントリー・ドリーマー/Country Dreamer(「愛しのヘレン/Helen Wheels」のB面)


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ピーター・グリーン

2024-07-17 00:59:44 | guitar

ピーター・グリーン Peter Green


【本名】
  ピーター・アレン・グリーンバウム/Peter Allen Greenbaum

【パート】

  ギター、ハーモニカ、ヴォーカル

【生没年月日】
  1946年10月29日~2020年7月25日(73歳没)

【出身地】
  イングランド ロンドン特別区ベスナル・グリーン

【経 歴】
  ザ・マスクラッツ/The Muskrats(1965)
  ザ・ピーター・B's・ルーナーズ/The Peter B's Looners(1965~1966)
  ショットガン・エクスプレス/Shotgun Express(1966)
  ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ/John Mayall's Bluesbreakers(1966~1967)
  フリートウッド・マック/Fleetwood Mac(1967~1970)

  ホワイト・スカイ/White Sky(1982)
  カラーズ/Kolors(1982)
  カトマンズ/Katmandu(1985)
  ピーター・グリーンズ・スプリンター・グループ/Peter Green's Splinter Group(1997~2009)



 ピーター・グリーンは、「
ブリティッシュ・ブルース界最高」とも言われたイギリスのギタリストである。「フリートウッド・マック」の創設者としても知られている。
 ブルースに根差した感性豊かなギター・プレイは現在でも高く評価されており、ローリング・ストーン誌が選出する「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」では2003年版で38位、2011年改訂版で58位にランクされている。


 1946年10月29日、グリーンはロンドンのベスナル・グリーンのユダヤ人家庭で生まれた。父ジョー、母アンのグリーンバウム夫妻の4人兄弟の末っ子で、ピーター・アレンと名付けられた。
 幼い頃から感受性の強かったグリーンは、10歳の頃ギターに興味を持つようになった。兄マイケルからコードを教わったグリーンは独学でギターを弾くようになり、B.B.キング、エルモア・ジェイムス、マディ・ウォーターズ、ハンク・マーヴィンらのブルース・マンや、シャドウズなどから大きな影響を受けたという。


 15歳のときにロンドンの海運会社で働き始めたグリーンは、同時に「ボビー・デニス & ザ・ドミノス」というバンドにベーシストとして加わり、ミュージシャンとしての活動も開始した。
 1965年、R&Bバンド「ザ・マスクラッツ」に短期間在籍したのち、「ザ・トライデンツ」にベーシストとして加入。さらに同年12月にはピーター・バーデンス(keyboard のちキャメル)のバンド「ザ・ピーター・B’s・ルーナーズ」(のち「ザ・ピーター・B's」と改名)にギタリストとして加入した。このバンドのドラマーが、のちにフリートウッド・マックをともに結成することになるミック・フリートウッドである。ルーナーズが1966年3月にリリースしたシングル「If You Wanna Be Happy」がグリーンにとってのレコード・デビューであった。
 1966年5月、ザ・ピーター・B'sにロッド・スチュワート(vocal)とベリル・マースデン(vocal)が加わり、「ショットガン・エクスプレス」と改名したが、グリーンは1966年9月には脱退する。
 ショットガン・エクスプレスから離れたグリーンは、この年7月にエリック・クラプトンの後任として「ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ」へ迎えられた。グリーンは1965年にクラプトンの代役としてブルースブレイカーズのステージに数回上がったことがあり、それが縁となっての加入であった。


 当時のグリーンはまだ無名に等しかった。
 グリーンの加入直後、デッカ・レコードのプロデューサーだったマイク・ヴァーノンは、クラプトンがブルースブレイカーズから脱退したことを聞いてショックを受けた。「心配ない、良い奴がいるんだ」と答えたジョン・メイオールに、ヴァーノンは重ねて「クラプトンより良い奴がいるのか」と尋ねた。それに対してメイオールは「グリーンは今の時点ではクラプトンより優れているとは言えないかもしれない。しかし数年後には彼は最高のミュージシャンになるだろう」と答えた、という話が残っている。
 その言葉どおり、グリーンはブルースブレイカーズへの参加を境に、一躍注目されるようになる。
 1967年、アルバム「ジョン・メイオールとピーター・グリーン/ブルースの世界」が発表される。これはグリーンにとってのアルバム・デビューであった。この中に収められている「ザ・セイム・ウェイ」「ザ・スーパーナチュラル」がグリーンのオリジナル曲である。「ザ・スーパーナチュラル」はすぐにバンドのトレード・マークになった。
 グリーンの仕事ぶりは素晴らしく、評価は確固たるものとなった。ミュージシャン仲間からは「The Green God」というニックネームで呼ばれていたという。「God」はもちろんクラプトンに由来するものである。
 グリーンの前任者であるクラプトンは、この頃にはイギリスを代表するギタリストとして知られていた。当時ロンドンの駅に、「Clapton Is God」と落書きされていたのは有名な話であるが、グリーンのブルースブレイカーズ加入後はそのとなりに「Peter Green Is Greater Than God」と書き足されていたという。
 なお、グリーン加入時にブルースブレイカーズでベースを弾いていたのが、ジョン・マクヴィーである。また1967年4月にはミック・フリートウッドが加入し、再びバンド・メイトとなった。





 クラプトンに勝るとも劣らない評価を得たグリーンだったが、1967年4月に在籍わずか10ヵ月ほどでブルースブレイカーズから脱退。そしてこの年7月には自らがリーダーのバンド「フリートウッド・マック」(結成当初は「ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック」)を結成する。メンバーはグリーン、フリートウッド、マクヴィーのほか、ジェレミー・スペンサー(guitar 元レヴィ・セット・ブルース・バンド)、ボブ・ブランニング(bass)であった。ベーシストの第1候補ジョン・マクヴィーだったのだが、まだ参加できる態勢が整っていなかったので、一時的にブランニングが起用されたのである。
 感情を揺さぶるようなヴィブラートと個性的な音色に彩られたグリーンのギターは、当時のイギリスのブルース・ブームにあって重要な存在となっていた。のちにB.B.キングは、グリーンについて「彼は私が今までに聴いた中でもっとも優しい音色を持っている。彼は私に冷や汗をかかせた唯一の男だ」とコメントしている。


 フリートウッド・マックは1967年8月、クリームやチキン・シャックらとともに「ウィンザー・ナショナル・ジャズ&ブルース・フェスティヴァル」に出演して好評を博し、すぐにマイク・ヴァーノンのブルー・ホライゾン・レーベルと契約した。
 同年9月、ブランニングが脱退し、後任としてジョン・マクヴィーが加入する。
 1967年11月、フリートウッド・マックはシングル「アイ・ビリーヴ・マイ・タイム・エイント・ロング」でデビュー。
 翌68年2月にはファースト・アルバム「ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック」を発表。これは全英チャートに37週とどまり、最高4位を記録した。
 1968年8月、セカンド・アルバム「ミスター・ワンダフル」を発表。このころダニー・カーワン(元ボイラーハウス)が3人目のギタリストとして加入する。
 1968年11月にリリースしたシングル「アルバトロス」は、翌69年に全英シングル・チャート1位の大ヒットとなった。続くシングル「マン・オブ・ザ・ワールド」も全英チャートを2位まで上昇した。
 1969年には、シカゴのチェス・レコードのスタジオで、オーティス・スパン、ウィリー・ディクソン、ウォルター・ホートン、バディ・ガイら錚々たるシカゴのブルースメンとレコーディングを行った。この音源は「ブルース・ジャム・イン・シカゴ」というタイトルでアルバムとしてリリースされている。
 デビュー当初からチャートを賑わせたフリートウッド・マックは、またたく間にチキン・シャック、サヴォイ・ブラウンと並んでブリティッシュ・ホワイト・ブルースの三大バンドと言われるようになった。
 しかし1969年頃からグリーンの精神状態は悪化の一途をたどる。




 
 1970年、バンドはシングル「オー・ウェル」を全英1位に送り込んだが、グリーンの精神状態は深刻なドラッグへの依存によって非常にもろくなっていた。それに加えてブルースを追求したいグリーンの音楽観はバンドの方向性と合わなくなっていた。その結果、1970年5月20日の演奏を最後に、グリーンはフリートウッド・マックを脱退した。グリーンの脱退は、その後のフリートウッド・マックの音楽性の変化に大きな影響を及ぼしたと言われている。
 バンドの中枢だったグリーンは、フリートウッド・マック時代にソング・ライターとしても才能を開花させ、「ブラック・マジック・ウーマン」(UK37位 1970年にサンタナがカヴァー)、「アルバトロス」(UK1位)、「マン・オブ・ザ・ワールド」(UK2位)、「オー・ウェル」(UK2位)、「グリーン・マナリシ」(UK10位 1978年ジューダス・プリーストがカヴァー)などの名曲を残している。


 フリートウッド・マックから離れて1ヵ月後の6月27日、グリーンは「バース・フェスティヴァル・オブ・ブルース・アンド・プログレッシヴ・ミュージック」に出演。ステージをともにしたのは、ジョン・メイオール(guitar)、ロッド・メイオール(organ)、リック・グレッチ(bass)、エインズレー・ダンバー(drums)であった。
 この年、全曲即興的なインストゥルメンタルであるソロ・アルバム「エンド・オブ・ザ・ゲーム」を発表する。これはゴッドフリー・マクリーン(drums)、ズート・マネー(keyboard)、ニック・バック(keyboard)、アレックス・ドモチョフスキー(bass)によるジャム・セッションを録音したものである。
 1971年には、フリートウッド・マックから突如脱退したジェレミー・スペンサーの穴を埋めるため、「ピーター・ブルー」の変名で急遽フリートウッド・マックのツアーに参加する。そのほかピーター・バーデンス、ボブ・テンチのバンド「ガス」、ナイジェル・ワトソンなどのレコーディング・セッションに参加したほか、1973年にはフリートウッド・マックのアルバム「ペンギン」に収録されている「ナイトウォッチ」にノン・クレジットで参加。しかしこの時点のグリーンはもはや薬物に蝕まれたどん底の状態で、音楽界からも姿を消した。一時は墓地の管理人などをしていたという。この頃に愛用していたギター(レスポール)をゲイリー・ムーアに無料同然の値段で譲り渡している。
 1977年には自分の会計士を散弾銃で脅したとして逮捕された。
 グリーンは最終的に統合失調症と診断され、1977年には精神病院への入院を余儀なくされた。





 こうしてグリーンは、1970年代の大半をドラッグの使用とその治療に費やしたが、1978年に約1年ぶりに退院すると、兄の援助でPVKとレコーディング契約を交わした。これをきっかけに、スノウィー・ホワイト(guitar)のサポートを受けてソロ活動を再開し、1979年にアルバム「虚空のギター」を発表、ついにカムバックを果たした。このアルバムは全英チャートで32位を記録した。同年にはフリートウッド・マックのアルバム「タスク」の「ブラウン・アイズ」にクレジットなしで参加している。
 以後は1980年から1983年までは毎年ソロ・アルバムを発表したほか、「カラーズ」や「カトマンズ」というプロジェクトでも活動した。
 1981年にはミック・フリートウッドのソロ・アルバム「ビジター」へ客演している。
 1985年、レイ・ドーセット(guitar 元マンゴ・ジェリー)やヴィンセント・クレイン(keyboard 元アトミック・ルースター)らと「カトマンズ」を結成し、アルバムを制作するが、1980年代半ばになると再びドラッグの使用によって健康を損ない、消息不明となる。
 一時は「ピーター・グリーンの再起は不可能」だとする噂も流れたほどだったが、1990年代にゲイリー・ムーアやピート・ブラウンらによって自身の楽曲の再評価を受けたことを機に、本格的な復帰の準備に入る。


 1996年3月14日、ドイツのフランクフルトで開催された楽器イベント「ミュージックメッセ」で、出演を取りやめたB.B.キングの代わりにライヴを行う。ナイジェル・ワトソン(guitar)、ニール・マーレイ(bass)とコージー・パウエル(drums)を従えたグリーンは「ピーター・グリーン・スプリンター・グループ」として約30分ほどのステージをこなし、再びカムバックしたのである。
 この年12月にはイギリス・ツアーを行うまでに回復したグリーンは、1997年には「スプリンター・グループ」として初のアルバムを発表する。のちパウエルの交通事故死とマーレイの脱退によるメンバー・チェンジもあったが、1999年4月には初の日本公演も行い、Char、ジョー山中、近藤房之助らと共演した。2002年には再来日し、「ジャパン・ブルース・カーニヴァル」に出演している。
 しかしワトソンとの間にできた溝は徐々に広がり、訴訟にまで発展。これが原因でスプリンター・グループは2004年に解散した。
 なお1998年にはフリートウッド・マックの他のメンバーとともに「ロックの殿堂」入りを果たしている。


 この後グリーンはまたもや音楽界から姿を消すが、2009年から2010年にかけて「ピーター・グリーン & フレンズ」として、イギリス、ドイツおよびオーストラリア・ツアーを行った。その後はエセックス州に居を構えて穏やかに日々を過ごした。
 2009年2月、「ピーター・グリーン&フレンズ」として再び演奏とツアーを開始した。この年BBCのドキュメンタリー番組「ピーター・グリーン:マン・オブ・ザ・ワールド」が制作されている。
 2020年2月25日、盟友ミック・フリートウッドはグリーンに対するリスペクトから、グリーンの音楽を讃える特別ライヴ「ミック・フリートウッド & フレンズ・トリビュート・トゥ・ピーター・グリーン」をロンドン・パラディアムで開催した。グリーンはこのイヴェントには出席しておらず、おそらくはイヴェントが開催されたことも知らなかっただろう、と言われている。
 2020年7月25日、イングランド、エセックス州キャンヴェイ島にて73歳で死去。死因は公表されていないが、睡眠中に息を引き取ったという。


 21世紀初頭、初期メンバーによるフリートウッド・マック再結成の噂が何度か流れたが、実現することはなかった。


 ゲイリー・ムーア、ジョー・ペリー、アンディ・パウエル、マーク・ノップラー、ノエル・ギャラガーなど多くの名ギタリストがグリーンから影響を受けたと公言している。
 またグリーンの曲はサンタナ、エアロ・スミス、ステイタス・クォー、ブラック・クロウズ、ジューダス・プリースト、ゲイリー・ムーア、トム・ペティなどによってカヴァーされ、演奏され続けている。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
 
 <ソロ>
  1970年 エンド・オブ・ザ・ゲーム/The End of the Game ※旧邦題『ジニアス』

  1979年 虚空のギター/In the Skies(UK32位)
  1980年 夢幻のギター/Little Dreamer
  1981年 自由へのギター・ロード/Whatcha Gonna Do?
 ★1981年 Blue Guitar  ※アルバム未収録シングル含む編集盤
  1982年 無垢のギター/White Sky
  1984年 A Case For The Blues / Katmandu
 ★1988年 Legend  ※未発表を含む編集盤
 ★1991年 Last Train To San Antone
 ★1992年 Baby When the Sun Goes Down
 ★1993年 Collection
 ★1995年 Rock and Pop Legends
 ★1996年 Green and Guitar
 ★1997年 Bandit
 ★1997年 Knights of the Blues Table
 ★1998年 Blues for Dhyana
 ★1998年 Born on the Wild Side
 ★2000年 Alone with the Blues
 ★2001年 The Clown
 ★2001年 A Fool No More
 ★2001年 Promised Land
 ★2008年 Anthology

 <ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ>
  1967年 ジョン・メイオールとピーター・グリーン/ブルースの世界/Hard Road(UK10位)

 <フリートウッド・マック>
  1968年 ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック/Peter Green's Fleetwood Mac(UK4位, US198位)
  1968年 ミスター・ワンダフル/Mr. Wonderful(UK10位)
  1969年 ゼン・プレイ・オン/Then Play On(UK6位, US109位)
  1969年 ブルーズ・ジャム・イン・シカゴ/Fleetwood Mac in Chicago(US118位)

 <カラーズ>
 ★1983年 彩りのギター/Kolors ※未発表曲集。Kolorsの解散後にリリース

 <カトマンズ>
  1985年 ア・ケース・フォー・ザ・ブルース/A Case for the Blues

 <ピーター・グリーンズ・スプリンター・グループ>
 ☆1997年 スプリンター・グループ/Peter Green Splinter Group ※ソロ名義
  1998年 The Robert Johnson Songbook ※Peter Green with Nigel Watson Splinter Group
 ☆1998年 Soho Session
  1999年 デスティニー・ロード/Destiny Road
  2000年 ホット・フット・パウダー/Hot Foot Powder ※Peter Green with Nigel Watson Splinter Group
  2001年 タイム・トレイダーズ/Time Traders
 ★2001年 Me and the Devil ※限定3CDボックス。1CDはロバート・ジョンソンの録音
  2001年 Blues Don't Change ※コンサート会場および公式ウェブサイト限定
  2003年 リーチング・ザ・コールド 100/Reaching the Cold 100
 ★2006年 ザ・ベスト・オブ・ピーター・グリーン・スプリンター・グループ/The Best of Peter Green Splinter Group
 ★2013年 The Very Best of Peter Green Splinter Group

<レコーディング・セッション>
 *エディー・ボイド
  1967年 Eddie Boyd and His Blues Band featuring Peter Green
  1968年 7936 South Rhodes
 *ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ
  1968年 ベア・ワイヤーズ/Bare Wires(UK3位) ※収録はリイシュー盤(CD)のボーナス・トラックのみ
  1968年 ローレル・キャニオンのブルース/Blues from Laurel Canyon(UK33位)
 *ダスター・ベネット
  1968年 Smiling Like I'm Happy
  1969年 Bright Lights
  1970年 12 DB's
 *ゴードン・スミス
  1968年 ロング・オーヴァーデュー/Long Overdue
 *オーティス・スパン
  1969年 The Biggest Thing Since Colossus
 *ブランニング・サンフラワー・ブルース・バンド
  1969年 Trackside Blues
  1970年 I Wish You Would
 *ガス
  1970年 Juju
 *ジェレミー・スペンサー
  1970年 Jeremy Spencer
 *トー・ファット
  1970年 Toe Fat Two
 *メンフィス・スリム
  1971年 Blue Memphis
 *B.B. キング
  1971年 B.B.King in London(Green plays on「Caldonia」)
 *デイヴ・ケリー
  1971年 Dave Kelly
 *カントリー・ジョー・マクドナルド
  1971年 Hold On It's Coming 
 *ピーター・バーデンス
  1970年 ジ・アンサー/The Answer
 *フリートウッド・マック
  1973年 ペンギン/Penguin(Plays on "Night Watch" )(US49位)
  1979年 牙(タスク)/Tusk(Plays on "Brown Eyes" )(UK1位, US4位)
 *リチャード・カー
  1973年 From Now Until Then
 *ダッフォ
  1980年 The Disappearing Boy
 *ミック・フリートウッド
  1981年 ザ・ビジター/The Visitor
 *ブライアン・ナイト
  1981年 A Dark Horse
 *ジ・エネミー・ウィズイン
  1986年 ア・タッチ・オブ・サンバーン/A Touch Of Sunburn
 *SAS バンド
  1997年 SAS Band
 *ディック・ヘクストール=スミス
  2001年 Blues and Beyond
 *クリス・ココ
  2002年 Next Wave
 *ピーター・ガブリエル
  2003年 Up(UK11位 US9位)


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ポール・コゾフ

2024-01-24 11:08:06 | guitar

ポール・コゾフ Paul Francis Kossoff

【パート】
  ギター

【生没年月日】
  1950年9月14日~1976年3月19日(25歳没)

【出生地】
  イングランド ロンドン ハムステッド

【経 歴】
  ブラック・キャット・ボーンズ(1966~1968)

  フリー(1968~1971)
  コゾフ・カーク・テツ&ラビット(1971)

  フリー(1972~1973)
  バック・ストリート・クローラー(1973~1976)


 
 イギリスのロック・ギタリスト。
 「フリー」のギタリストとして知られている。

 ブルースをベースにした「泣き」のギターが特徴で、ギブソン・レスポールがトレード・マークである。





 ポール・コゾフは、俳優である父デヴィッド・コゾフと母マーガレットの子息子として、ロンドンの裕福な家庭に生まれた。
 叔父は放送作家のアラン・キースであり、モデルのリンダ・キースはいとこにあたる。
 9歳の時に両親の意向によってクラシック・ギターのレッスンを始めた。レッスンは15歳まで続けたが、堅苦しい雰囲気に嫌気がさしてレッスンばかりかギターまでやめてしまった。
 少年時代は名門私立学校に通っていたが、不良仲間とドラッグを使用しているのを見つかって公立学校に転校する。
 1965年12月、ロンドン北西部のゴルダーズ・グリーンにあるザ・リフレクトリーでジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのライヴを見たコゾフは、当時このバンドに在籍していたエリック・クラプトンのギターを聴いて衝撃を受け、これがきっかけとなって再びギターを弾くようになる。


 1966年、コゾフはロンドンのチャリングクロス街にあった「セルマーズ・ミュージック・ストア」という楽器店で働き始めた。それと並行して、同年ブルース・バンド「ブラック・キャット・ボーンズ」(Black Cat Bones)の結成に加わり、本格的な音楽活動を始める。
 ブラック・キャット・ボーンズはしばしばフリートウッド・マックやピーター・グリーン(guitar)のライヴをサポートしていたが、そこでコゾフの演奏に接したグリーンによってそのギター・プレイは認められ、これがきっかけとなってコゾフの存在は徐々に知られるようになっていった。
 1968年2月にはブラック・キャット・ボーンズにサイモン・カーク(drums)が加入している。


 この1968年、ロンドン北部のクラブに遊びに行ったコゾフは、「ブラウン・シュガー」というバンドで歌っていたポール・ロジャースと出会う。さっそく意気投合したふたりはサイモン・カークを加えて1968年4月にバンドを結成。ベーシストには、アレクシス・コーナーの紹介で、元ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのベーシストであるアンディ・フレイザーが参加することになった。
 メンバー全員がティーンエイジャーのこの若さあふれるバンドは、アレクシス・コーナーのバンド「フリー・アット・ラスト」にちなんで「フリー」と名乗ることになった。一説には、アレクシスが彼らにその名前を譲った、とも言われている。
 フリーはアレクシス・コーナーの後押しもあって、徐々にロンドンで知名度を上げていった。そしてDJ兼音楽評論家のジョン・ピールと出会い、彼の協力もあってアイランド・レコードと契約するに至った。


 1969年3月、フリーはデビュー・アルバム『トンズ・オブ・ソブス』を発表。
 粗削りではあるが豊かな将来性が伺えるこのアルバムの評価は好ましいものだったが、セールス的にはいまひとつであった。
 同年、フリーは当時スーパー・グループとして大きな話題となっていた「ブラインド・フェイス」のアメリカ・ツアーのサポート・バンドに抜擢され、同行する。帰国後にセカンド・アルバム『フリー』を制作したが、これは全米チャートでトップ30に入るヒットを記録した。サイケデリック全盛の当時にあって、正面からソウルフルなブルースを演奏していたフリーは、一躍期待の新進バンドとして注目されることとなった。


 1970年6月に発表したサード・アルバム『ファイアー・アンド・ウォーター』によってフリーの人気は決定的なものになった。このアルバムからシングル・カットされた「オール・ライト・ナウ」は大ヒットし、全英1位を獲得している。
  この年はワイト島フェスティヴァルにも出演し、そのパフォーマンスは聴衆のみならず評論家からも絶賛された。
 同年12月には早くも4thアルバム『ハイウェイ』を発表。この当時メンバーはまだ20歳そこそこであったが、彼らの人気は絶頂を迎えた。
 1971年には全米ツアーを成功させ、同年5月には初の日本公演を行う。しかしその直後のオーストラリア公演終了後に、フリーは突如は解散を発表してロック界を驚かせた。コゾフのドラッグ常用や、メンバー間の確執がその理由だと言われている。
 解散後、コゾフはサイモン・カークとともに「コゾフ・カーク・テツ&ラビット」を結成したが、短期間活動しただけで終わった。





 1972年1月、オリジナル・メンバーによってフリーは再結成。同年5月にはアルバム『フリー・アット・ラスト』を発表、ツアーも開始した。
 しかしコゾフはドラッグの使用によってステージに立てないこともあり、また依然としてメンバー間の溝は埋まらず、同年7月にはアンディ・フレイザーが脱退した。ちなみにその後任としてフリーに加入したのが、「コゾフ・カーク・テツ&ラビット」のメンバーだった山内テツ(bass)とラビット(keyboard)である。
 この年後半にはアルバム『ハートブレイカー』の制作が始まったが、コゾフはこの時も体調が思わしくなく、レコーディングをリタイア。これがきっかけとなって、1973年7月にコゾフはフリーから脱退する。


 再びフリーを離れたコゾフは、1973年に初のソロ・アルバム『バック・ストリート・クロウラー』を発表。そして1年間の療養の後、ソロ・アルバムと同じ名前のバンド「バック・ストリート・クロウラー」を結成する。
 1975年にアルバム『バンド・プレイ・オン』、76年には『2番街の悲劇』を発表するが、ヘロインを常用していたコゾフの状態は、心臓の一部の機能が停止してしまう事もあるなど幾度か生死の境をさまよったこともあるほど予断を許さないものだった。
 コゾフは15歳の時からドラッグを使用していたが、精神的に非常に繊細だったため、ドラッグへの依存や逃避が深刻化したとも言われている。サイモン・カークによると、ジミ・ヘンドリックスを崇拝していたコゾフは1970年のジミによって精神的にさらに大きな打撃を受け、そのショックはついに癒えることがなかったそうである。


 1976年3月19日、バック・ストリート・クロウラーのライヴ・ツアーのためにロサンゼルスからニューヨークへ移動中の飛行機の中で、コゾフは眠るように亡くなった。死因は足の血栓が肺に転移したことによる肺塞栓症であった。
 遺体はロンドンに搬送され、埋葬された。コゾフの墓石には「All right Now」(いまはもう大丈夫)という文字が刻まれている。


 コゾフの父で俳優のデイヴィッド・コゾフは、2005年に他界するまで熱心に薬物乱用反対の活動を続けた。


 人柄の良さと個性的な演奏で、コゾフは数多くのレコーディング・セッションから声がかかっていたという。
 コゾフの演奏は、ブルースをベースにしており、比較的音数が少なくシンプルである。
 チョーキングや美しいヴィブラートを用いた「泣き」のギターはコゾフの代名詞とも言えるもので、愛器レスポールから生み出されるエモーショナルなサウンドは、エリック・クラプトンら多くの名手も一目置いていたそうである。 


 



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>
  1973年 バック・ストリート・クロウラー/Back Street Crawler
 ★1977年 彷徨える魂/Koss
 ☆1983年 LIVE AT CROYDON FAIRFIELD HALLS/Live at Croydon Fairfield Halls 15/6/75 
 ★1986年 ブルー・ソウル/Blue Soul

 <フリー>
  1968年 トンズ・オブ・ソブス/Tons Of Sobs US197位
  1969年 フリー/Free UK22位 US177位
  1970年 ファイアー・アンド・ウォーター/Fire And Water UK2位 US17位
  1970年 ハイウェイ/Highway UK41位 US190位
 ☆1971年 フリー・ライヴ/Free Live! UK4位 US89位
  1972年 フリー・アット・ラスト/Free At Last UK9位 US69位
  1973年 ハートブレイカー/Heartbreaker UK7位 US47位
 ★1973年 The Free Story UK2位
 ★1974年 Best of Free US120位
 ★1991年 The Best of Free:All Right Now UK9位
 ★2000年 Songs of Yesterday UK150位
 ★2005年 Chronicles UK42位
 ☆2006年 Live at the BBC UK127位
 ★2010年 The Very Best of Free & Bad Company Featuring Paul Rodgers UK10位

 <コゾフ・カーク・テツ&ラビット>
  1972年 コゾフ/カーク/テツ/ラビット/Kossoff Kirke Tetsu Rabbit

 <バック・ストリート・クロウラー>
  1975年 バンド・プレイズ・オン/The Band Plays On
  1976年 2番街の悲劇/2nd Street

 <レコーディング・セッション>
 *チャンピオン・ジャック・デュプリー
  1968年 ホエン・ユー・フィール・ザ・フィーリング・ユー・ワズ・フィーリング
 *Martha Veléz
  1969年 Friends and Angels
 *Michael Gately
  1971年 Gately's Cafe
 *Mike Vernon
  1971年 Bring It Back Home
 *Uncle Dog
  1972年 Old Hat
 *Jim Capaldi
  1972年 Oh How We Danced
  1975年 Short Cut Draw Blood
 *Amazing Blondel
  1974年 Mulgrave Street
 *John Martyn
  1975年 Live at Leeds
 *Ken Hensley
  1994年 From Time to Time


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アルヴィン・リー

2023-04-21 08:34:10 | guitar

アルヴィン・リー Alvin Lee

【本名】
  グラハム・アンソニー・バーンズ/Graham Anthony Barnes

【パート】
  ギター、ヴォーカル

【生没年月日】
  1944年12月19日~2013年3月6日(68歳没)

【出生地】
  イングランド ノッティンガム

【経 歴】
  テン・イヤーズ・アフター(1966~1974)
  アルヴィン・リー&カンパニー(1974~1975、1976)
  テン・イヤーズ・レイター(1978~1980)
  アルヴィン・リー・バンド(1980~1982、1990年代)
  テン・イヤーズ・アフター(1988~2003)


 アルヴィン・リーは、1960年代から1970年代にかけて世界的な成功を収めたブルース・ロック・バンド「テン・イヤーズ・アフター」のギタリスト兼ヴォーカリストである
 トレード・マークは、「Big Red」と呼ばれたチェリー・レッドのギブソンES-335。
 ロック・ミュージックにおける「速弾き」ギタリストの先駆者のひとりであり、多くのギタリストに影響を与えた。
 アル・ディ・メオラは、アルヴィンのギターを聴いた時に全てピッキングしているものと思い込み、自分もその練習を続けているうちに速く弾けるようになったという。
     

 イングランドのノッティンガムに生まれ、ノッティンガム西部のウォラトンにあるマーガレット・グレン・バット校に進む。
 アルヴィンは、両親が集めていたジャズやブルースのレコードによって音楽に親しむようになっていた。
 13歳の時、ロックンロールに影響されてギターを弾き始める。当時のアルヴィンはチャック・ベリーとスコッティ・ムーアに夢中だったという。
 当時のロック・ギタリストたちはアメリカのブルース・ギタリストをお手本としていたが、やがてアルヴィンはチャーリー・クリスチャンやタル・ファーロウらのジャズ・ギタリストをひたすらコピーするようになり、それによって速弾きと「マシンガン」とも形容されたピッキングを習得した。


 1960年、アルヴィンは地元ノッティンガムで知り合ったレオ・ライオンズ(bass)とともに「アイヴァン・ジェイ&ザ・ジェイメン」という5人組のバンドを結成。
 間もなくこのバンドはギター・トリオとなり、「ザ・ジェイメン」から「ザ・ジェイキャッツ」へ、そして「ザ・ジェイバーズ」と改名。演奏場所を求めて彼らは一時はハンブルグに移った。
 ジェイバーズは1964年2月にデビュー・シングル『Not Fade Away』をリリース。
 1965年夏にドラマーがリック・リーに交替し、メンバーはアルヴィン・リー、レオ・ライオンズ、リック・リーとなる。
 1966年、ジェイバーズはロンドンへ進出。この年、チック・チャーチル(keyboards)が加わり4人編成となったバンドは「テン・イヤーズ・アフター」と改名する。


     


 テン・イヤーズ・アフターは、1967年にウィンザー・ジャズ・フェスティバルに出演したが、この時のパフォーマンスが認められ、デッカ・レーベル傘下にあるデラム・レコードと契約することになった。
 1967年、デビュー・アルバム『テン・イヤーズ・アフター・ファースト』を発表すると、アルヴィンのギターを中心としたエネルギッシュなステージが徐々に評判となる。
 1968年にはセカンド・アルバム『イン・コンサート』を発表。このアルバムは、当時としては異例のライヴ・アルバムとしてリリースされており、ライヴ・バンドとして頭角を現しつつあったテン・イヤーズ・アフターの魅力が反映されたものになっている。


 1969年、テン・イヤーズ・アフターはウッドストック・フェスティヴァルに出演。
 8月17日夜のステージで見せた「アイム・ゴーイング・ホーム」の熱演は、25万人もの大観衆を熱狂させた。
 この時のテン・イヤーズ・アフターの演奏はウッドストック・フェスティヴァルのハイライトのひとつに数えられており、ドキュメンタリー映画『ウッドストック』にも収められている。そしてこの時のパフォーマンスによって、アルヴィンの人気も決定的なものとなった。


 テン・イヤーズ・アフターではスタジオ・アルバムを8枚リリースしているが、イギリスでは2作目の『ストーンドヘンジ』(1969年)から5作目の『ワット』(1970年)まで4作連続トップ10入りを、アメリカでは3作目の『夜明けのない朝』から6作目の『スペース・イン・タイム』まで4作連続トップ30入りを記録している。
 1971年、バンドはコロムビア・レコードに移籍。9月にリリースしたシングル『チェンジ・ザ・ワールド』はビルボードで40位となるヒット(テン・イヤーズ・アフター唯一の全米トップ40入り)を記録したが、ひと頃の人気は徐々に影をひそめるようになり、1973年の来日公演終了後からはブルース・ロックを追求したいリーとポップ路線にシフトさせようとするレーベルとの間の音楽的指向の相違が表面化するようになった。


     


 1973年、アルヴィンはジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ロン・ウッド、ミック・フリートウッドをゲストに迎えて、アメリカのゴスペル系シンガー、マイロン・ルフェーヴルとのコラボレーション・アルバム『自由への旅路』を制作、発表する。カントリー・ロックから大きな影響を受けているこのアルバムは、セールスは今ひとつ伸びなかったものの、好意的な評価を受けた。
 同年発表されたジェリー・リー・ルイスの2枚組アルバム『ロックンロール・スーパー・セッション』の録音にも参加している。
 

 アルヴィンは、1974年にはソロ・プロジェクトを本格化させる。
 この年3月22日に行われる予定のロンドンのレインボー・シアター公演のために、ブリティッシュ・ファンク・バンド「ココモ」のメンバーとアレクシス・コーナーのバンド「スネイプ」の元メンバーのジョイントによる「アルヴィン・リー&カンパニー」を結成。この公演の模様は2枚組のライヴ・アルバム『栄光への飛翔』として、テン・イヤーズ・アフター解散後の1974年11月にリリースされている。
 テン・イヤーズ・アフターは1974年4月に通算8作目のスタジオ・アルバム『ヴァイブレーションズ』を発表したが、アルヴィンが活動の比重の重きをソロに置くようになっていたことなどで人気の停滞に拍車がかかり、アルバムのリリース後間もなく解散した。


 1975年8月4日、サンフランシスコのウィンターランドで、アメリカでのフェアウェル・コンサートのため一時的にテン・イヤーズ・アフターが再結成される。
 1975年にはソロ・アルバム『パンプ・アイアン』を制作したが、この時のレコーディング・メンバーが第2期「アルヴィン・リー&カンパニー」である。
 同年にはボ・ディドリーのアルバム『栄光のロックン・ロール・ジャム』の録音にも参加、数曲でギターを弾いている。


 1978年、ズート・マネー(keyboard)やアラン・スペナー(bass)らを起用してソロ・アルバム『レット・イット・ロック』を制作。
 『レット・イット・ロック』を発表した後、トム・コンプトン(drums)、ミック・ホークスワース(bass)を起用して「テン・イヤーズ・レイター」を結成。『甦る雷神』(1978年)と『ライド・オン』(1979年)の2枚のアルバムをリリースし、ヨーロッパやアメリカなどでツアーを行った。
 1980年、「テン・イヤーズ・レイター」のメンバーを一新、元レア・バードのスティーヴ・グールド(vocal, guitar)などを加えて、バンド名も「アルヴィン・リー・バンド」とした。このバンドは1980年10月に『フリーフォール』、そして1981年11月に『RX-5』の、計2枚のアルバムをリリースした。1981年にはスティーヴ・グールドの後任としてミック・テイラー(guitar, vocal)が加入している。
 1983年7月1日、一夜限りで再結成し、ロンドンの「マーキー・クラブ25周年記念コンサート」に出演。
 1989年、ソロ活動と並行して、オリジナル・メンバーによる「テン・イヤーズ・アフター」の再結成にも参加。同年アルバム『アバウト・タイム』をリリースした。
 1990年代には再びスティーヴ・グールドとともに「アルヴィン・リー・バンド」としての活動を再開させ、1993年に12年ぶりのサード・アルバム『Nineteenninetyfour』発表した。


 2004年、D.J. フォンタナ、そしてかつてのアルヴィンのアイドルであるスコッティ・ムーアを招いて制作したアルバム『アルヴィン・リー・イン・テネシー』をリリース。
 晩年はレコーディング・スタジオのある自宅にこもって「FBI」というバンドをプロデュースするなど、マイ・ペースで活動した。
 2012年9月にはアルバム『スティル・オン・ザ・ロード・トゥ・フリーダム』をリリースしたが、これがアルヴィンの最後の作品となった。


 2013年3月6日、アルヴィン・リーはスペインで死去。68歳であった。
 死因は、「心房細動を治療するための通常の外科的処置後に起きた予期せぬ合併症」とメディアで発表されている。
 アルヴィンの訃報を聞いたレオ・ライオンズは、アルヴィンを「兄弟に最も近いもの」と呼んでその死を惜しみ、リック・リーは「彼の死の現実についてまだピンと来ていない」と哀しみを述べた。
 アルヴィンは20枚以上のアルバムや多くの楽曲を残しているが、「ビルボード」誌は、ウッドストック・フェスティバルでの『アイム・ゴーイング・ホーム』や、1971年のヒット・シングル『チェンジ・ザ・ワールド』などを画期的なパフォーマンスだったとして、アルヴィンの功績を讃えている。


     


【ディスコグラフィ】☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム
 <テン・イヤーズ・アフター>
  1967年 テン・イヤーズ・アフター・ファースト/Ten Years After
 ☆1968年 イン・コンサート/Undead UK26位、US(ビルボード)115位
  1969年 ストーンドヘンジ/Stonedhenge UK6位、US(ビルボード)61位
  1969年 夜明けのない朝/Ssssh UK4位、US(ビルボード)20位
  1970年 クリックルウッド・グリーン/Cricklewood Green UK4位、US(ビルボード)14位
  1970年 ワット/Watt UK5位、US(ビルボード)21位
  1971年 スペース・イン・タイム/A Space in Time UK36位、US(ビルボード)17位
  1972年 ロックンロール・ミュージック・トゥ・ザ・ワールド/Rock & Roll Music to the World UK27位、US(ビルボード)43位
 ★1972年 Alvin Lee and Company US55位
 ☆1973年 ライヴ!/Recorded Live UK36位、US(ビルボード)39位
  1974年 ヴァイブレーションズ/Positive Vibrations  US(ビルボード)81位
 ★1975年 Goin' Home! US174位
  1989年 アバウト・タイム/About Time US(ビルボード)120位
 ☆2001年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト/Live at the Fillmore East 1970
 ☆2003年 One Night Jammed
 ☆2005年 Roadworks

 <ソロ・アルバム等>
  1973年 自由への旅路/On the Road to Freedom(アルヴィン・リー with マイロン・ルフェーヴル) US(ビルボード)138位
 ☆1974年 栄光への飛翔/In Flight(アルヴィン・リー&カンパニー) US(ビルボード)65位
  1975年 パンプ・アイアン/Pump Iron!(アルヴィン・リー) US(ビルボード)131位
  1978年 レット・イット・ロック/Let It Rock(アルヴィン・リー)
  1978年 甦る雷神/Rocket Fuel(アルヴィン・リー&テン・イヤーズ・レイター) US(ビルボード)115位
 ☆1978年 Live at Rockpalast
  1979年 ライド・オン/Ride On(アルヴィン・リー&テン・イヤーズ・レイター) US(ビルボード)158位
  1980年 フリー・フォール/Free Fall(アルヴィン・リー・バンド) US(ビルボード)198位
  1981年 RX5/RX5
  1986年 デトロイト・ディーゼル/Detroit Diesel US(ビルボード)124位
  1992年 ズーム/Zoom
  1994年 Nineteen Ninety-Four
 ☆1994年 Live In Vienna
  2004年 アルヴィン・リー・イン・テネシー/In Tennessee
  2007年 Saguitar
  2012年 スティル・オン・ザ・ロード・トゥ・フリーダム/Still on the Road to Freedom
 ☆2013年 The Last Show

 <ソロ・シングル>
  1986年 デトロイト・ディーゼル/Detroit Diesel US(ビルボード)26位


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テリー・キャス

2022-12-06 23:37:13 | guitar

テリー・キャス Terry Alan Kath


【パート】
  ギター、ヴォーカル
  

【生没年月日】
  1946年1月31日~1978年1月23日(31歳没)


【出生地】
  アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ


【経 歴】
  ビッグ・シング/The Big Thing(1967~1968)
  シカゴ・トランジット・オーソリティ/Chicago Transit Authority(1968~1969)
  シカゴ/Chicago(1970~1978)
  


 アメリカン・ロックの代表的バンドのひとつ、「シカゴ」のオリジナル・メンバー。
 シカゴではギター、リード・ヴォーカル、作詞作曲を担当、バンドの中心人物として1960~1970年代のシカゴを支えた。
 ギターのほか、バンジョー、ベース・ギター、アコーディオン、ドラムも演奏するマルチ・プレイヤーである。


 貧しい農家に生まれる。正式な音楽教育は受けていないが、育った家庭はみな音楽好きで、テリーも幼いころからバンジョーやアコーディオンに親しんでいた。
 1950年代の終わりにヴェンチャーズが登場すると、テリーはたちまちヴェンチャーズ、そしてヴェンチャーズのギタリスト、ノーキー・エドワーズに夢中になり、独学でギターをマスターした。この間ケニー・バレル、ジョージ・ベンソン、ハワード・ロバーツなどのジャズ・ギタリストのレコードも聴きあさっていたという。その後1年ほどジャズのレッスンを受ける。


 1963年頃、「ジミー&ザ・ジェントルメン」に参加。このバンドで終生の親友となるウォルター・パラザイダーに出会う。
 1964年頃、ABCの人気番組『アメリカン・バンドスタンド』のホスト、ディック・クラークが率いていた「キャラヴァン・オブ・スターズ」にベーシストとして参加。このグループの前任ベーシストが、のち「シカゴ」のプロデューサーとなるジェイムス・ウィリアム・ガルシオであった。
 その後ウォルター・パラザイダーと「ジ・エグゼクティヴス」を結成。このバンドでダニエル・セラフィン(drums)と出会う。
 「ジ・エグゼクティヴス」は「ミッシング・リンクス」へと発展したのち1966年に解散したが、テリーとウォルター・パラザイダーは自分たちの「ホーン・セクションを入れたロック・バンドを作る」という構想に合ったミュージシャンを探し始め、ジェイムス・パンコウ(trombone)、リー・ロックネイン(trumpet)、ロバート・ラム(keyboard, vocal)を仲間に加えて、1967年2月に「ザ・ビッグ・シング」(The Big Thing)を結成した。


 ザ・ビッグ・シングはイリノイ州メイウッドにあったウォルター・パラザイダーの母の家にある地下室でリハーサルを重ね、オリジナル曲を増やし、中西部でサーキットして、徐々にその知名度を上げていった。
 1967年12月、ザ・ビッグ・シングのメンバーにピーター・セテラ(bass, vocal)が加わり、バンドは7人編成となる。
 1968年なると旧知のプロデューサー、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオがザ・ビッグ・シングのマネジメントとプロデュースを手掛けることになり、バンドは活動の幅を広げるために本拠地をロサンゼルスに移す。
 ザ・ビッグ・シングのユニークな音楽はロサンゼルスの音楽業界でも知られるようになり、紆余曲折を経て、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオの尽力でコロムビア・レコードと契約を結ぶことに成功した。そしてザ・ビッグ・シングは「シカゴ・トランジット・オーソリティ」(=シカゴ交通局)と改名し、1969年1月からファースト・アルバムの制作を開始する。


     


 優れたオリジナル曲を多く持っていたシカゴ・トランジット・オーソリティーのファースト・アルバムは、当時標準だったLPレコード35分に収まりきらなかったため、新人バンドとしては異例の2枚組アルバムとして1969年4月にリリースされた。これが『シカゴの軌跡』である。
 アルバム・リリース後はツアーに次ぐツアーを行った結果、「シカゴ・トランジット・オーソリティ」のパワフルでユニークな音楽性は広く認知されるようになった。アルバム『シカゴの軌跡』も全米チャート17位を記録、ゴールド・アルバムを獲得する好セールスを記録した。
 この1969年、シカゴ市の運輸部門からバンド名に対してクレームがついたため、バンド名は「シカゴ」と改められる。
 1970年にリリースしたセカンド・アルバム『シカゴと23の誓い』でバンドは大ブレイクする。シカゴはこの『シカゴと23の誓い』から10作連続して全米アルバム・チャートのトップ10に送り込んだが、とくに『シカゴⅤ』から『シカゴⅨ』まで5作連続して全米アルバム・チャート1位を記録している。
 シカゴはアメリカン・ロックの頂点に立つ巨大バンドへと成長したが、その中にあってテリーは大きな柱としてバンドを支え続けた。


 テリーは、ファースト・アルバム発表時からギタリスト、ヴォーカリスト、そしてソングライターとして活躍しており、以後もバンドの中枢部を担い続けることになる。
 彼のギターは、パワフルで荒々しく、圧倒的な存在感を誇っている。ロックやジャズのエッセンスを存分に吸収、昇華させたプレイは高く評価されている。
 テリーはジミ・ヘンドリックスを崇拝していたが、そのジミはテリーを「俺よりうまい」と称賛している。1968年9月、ウィスキー・ア・ゴーゴーでのシカゴのライヴに当時絶頂期だったジミ・ヘンドリックスが現れ、「(シカゴの)ホーン・セクションの息はぴったり、ギタリスト(テリー)は俺よりうまい。俺の前座をやってもらいたい。」と語った、という話が残っている。ちなみに、テリーとジミは、ふたりの共作アルバムを制作する、というプランを持っていたという。
 また親友のひとりでもあったロバート・ラムは、テリーのギターについて「ぼくはテリーほどうまいリズム・プレイヤーを見たことがないし、彼のリード・ギターは当時としては世界的レベルだった」と語っている。


     


 またバンド内では、ロバート・ラム、ピーター・セテラと並んでリード・ヴォーカルのポジションをも担っていた。
 『イントロダクション』などのハードなナンバーでの男くさいヴォーカルはまさに「ロック」そのものだが、『リトル・ワン』『明日へのラヴ・アフェア』などのバラードで聴かれる、温もりのある歌声も評価が高い。


 テリーは、表面上はアメリカを代表するバンドであるシカゴの主要メンバーであったが、メディアから正当に評価されていないという不満を抱えていた。また人間関係に疲弊しつつあったうえに、ドラッグへの依存が深刻化しており、精神的な余裕が失われつつあった。
 1978年1月22日の夜、テリーは親友のウォルター・パラザイダーの家を訪ねていた。テリーはガールフレンドと大喧嘩していたうえに数日間ほぼ眠っておらず、疲れていたようだったという。心配するウォルターの家をあとにしたテリーは、翌1月23日にシカゴのスタッフのひとりであるドン・ジョンソンの家を訪れた。

 テリーはガン・マニアでもあり、銃の分解や組み立てが好きで、ジョンソンの家でもピルトルの手入れをしていたという。
 午後5時頃、テリーの様子を心配したジョンソンはテリーに「ベッドへ行って休むよう」忠告したが、テリーはクリップ(挿弾子)を抜いてある自動拳銃を見せ、「まだこれにはクリップが入っていないんだ」と言った。テリーは空のクリップを銃に装填し、その銃を頭の上で振り回していたが、その時指が引き金を引いてしまった。銃からクリップを抜いてはいたが、実は銃内の薬室には実弾が1発が残っており、テリーはその弾丸で自らの側頭部を撃ち抜いて即死した。まだ31歳の若さであり、32回目の誕生日のわずか8日前のことであった。
 テリーは、死亡した翌日から、ファースト・ソロ・アルバムに向けてのリハーサルを行う予定だったという。


 なおテリーの死後に後任としてシカゴに加入したのは、元スティーヴン・スティルス・バンドのドニー・デイカスである。


     


【ディスコグラフィ】
 <シカゴ>
  1969年 シカゴの軌跡/Chicago Transit Authority(アメリカ17位、イギリス9位)
  1970年 シカゴと23の誓い/Chicago(アメリカ4位、イギリス6位)
  1971年 シカゴⅢ/Chicago Ⅲ(アメリカ2位、イギリス9位)
  1971年 シカゴ・アット・カーネギー・ホール/シカゴChicago at Carnegie Hall(アメリカ3位)
  1972年 シカゴⅤ/Chicago Ⅴ(アメリカ1位、イギリス24位)
  1972年 シカゴ・ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan
  1973年 シカゴⅥ(遥かなる亜米利加)/Chicago Ⅵ(アメリカ1位)
  1974年 シカゴⅦ(市俄古への長い道)/Chicago Ⅶ(アメリカ1位)
  1975年 シカゴⅧ(未だ見ぬアメリカ)/Chicago Ⅷ(アメリカ1位)
  1975年 シカゴⅨ(偉大なる星条旗)/Chicago Ⅸ:Chicago's Greatest Hits(アメリカ1位)
  1976年 シカゴⅩ(カリブの旋風)/シカゴChicago Ⅹ(アメリカ3位、イギリス21位)
  1977年 シカゴⅪ/シカゴChicago Ⅺ(アメリカ6位)
 


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ルーサー・グロヴナー

2022-11-16 10:26:09 | guitar

ルーサー・グロヴナー Luther James Grosvenor


【別名】
  アリエル・ベンダー/Ariel Bender


【パート】
  ギター、ヴォーカル


【生没年月日】
  1946年12月23日~


【出生地】
  イングランド ウースターシャー州イヴシャム


【経 歴】
  ディープ・フィーリング/Deep Feeling(1966~1967)
  The V.I.P.'s(1967)
  アート(1967)
  スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1967~1970)
  スティーラーズ・ホイール/Stealers Wheel(1973)
  モット・ザ・フープル/Mott The Hoople(1973~1974)
  ウィドウメイカー/Widowmaker(1975~1977)
  ヴァーデン & ルーサー/Verden & Luther(1978)
  スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1998~1999)
  アリエル・ベンダー・バンド/Ariel Bender Band(2005~)
  


 イギリスのギタリスト。
 スプーキー・トゥースの創設メンバー。
 1960年代後半から1970年代前半にかけては、イギリスの人気ギタリストのひとりに数えられていた。
 モット・ザ・フープルとウィドウメイカーでは「アリエル・ベンダー」の名で活動している。


 イングランドのウースターシャー州イヴシャムで生まれる。
 1960年代中頃、イヴシャム地方に「ザ・ヘリオンズ」(The Hellions)というローカル・バンドがあった。ヘリオンズにはジム・キャパルディ(drums, vocal)やデイヴ・メイスン(guitar)が在籍していた。
 1966年、ヘリオンズは「ザ・レヴォリューション」(The Revolution)と改名する。その年、グロヴナーはデイヴ・メイスンの後任としてザ・レヴォリューションに加入。
 ザ・レヴォリューションはグロヴナーの加入に伴い、「ディープ・フィーリング」(Deep Feeling)と名を改めるが、キャパルディはスティーヴ・ウインウッドらと「トラフィック」(Traffic)を結成するため、翌67年4月にディープ・フィーリングを脱退する。
 これによりディープ・フィーリングは解散を余儀なくされるが、グロヴナーはすぐに同じマネージメントの「The V.I.P.'s」にフランク・ケニオンの後釜として
加入。
 The V.I.P.'sは間もなく「アート」と改名し、その後ゲイリー・ライト(keyboard, vocal)が加わって、同年秋に「スプーキー・トゥース」として再始動する。スプーキー・トゥースの創設時のメンバーは、グロヴナーのほか、マイク・ハリスン(vocal, keyboard)、ゲイリー・ライト(vocal, keyboard)、グレッグ・リドリー(bass)、マイク・ケリー(drums)である。


 スプーキー・トゥースはブルース・ロックをベースに、アメリカン・ロックのエッセンスを積極的に取り入れているが、グロヴナーのギターはそのスプーキー・サウンドにマッチしていると言える。セカンド・アルバムにして名盤との評価を得ている『スプーキー・トゥー』に収録されている『イヴィル・ウーマン』におけるグロヴナーのソロは、ブルージーかつヘヴィそのもので、ハード・ロック萌芽期における出色のギター・ソロである。


     
     Luther Grosvenor 1969(Spooky Tooth)


 1970年に入ると、スプーキー・トゥースの内部はマイク・ハリスンとゲイリー・ライトの対立など、不協和音が目立つようになる。同年7月に4枚目のアルバム『ザ・ラスト・パフ』を発表したものの、秋に行なったツアーを最後に解散した。
 解散後のグロヴナーはスペインに渡り、スプーキー・トゥースでのバンドメイトであるマイク・ケリーや、ディープ・フィーリング時代のバンドメイト、ジム・キャパルディなどを起用して、1971年10月にファースト・ソロ・アルバム『Unde Open Sky』を発表する。
 1973年2月にはジェリー・ラファティ(Gerry Rafferty guitar)の後任として「スティーラーズ・ホイール」に参加したが、同年7月まで在籍したのち脱退した。
 1973年、「バッド・カンパニー」を結成するために脱退したミック・ラルフスの後任として「モット・ザ・フープル」に加わる。この時、まだアイランド・レコードとの契約が残っていたため、アリエル・ベンダー(Ariel Bender)という変名で活動することになった。
 この「アリエル・ベンダー」というのは、モット・ザ・フープルが歌手のリンジー・デ・ポールとともにテレビ番組出演のためドイツに行ったとき、当時のギタリストのミック・ラルフスが歩きながら道端の車のアンテナを次々と曲げていったのを見たデ・ポールが口にした言葉
「Aerial Bender」(アンテナを曲げる奴)である。これをイアン・ハンターが覚えており、変名としてグロヴナーに提案した。
 モット・ザ・フープルでは1974年のアルバム『ロックンロール黄金時代』の制作に加わったが、同年9月に脱退。
 グロヴナー(ベンダー)は派手なステージ・アクションがトレード・マークであったが、モット・ザ・フープルでは、フロントに立つイアン・ハンターが、自分より目立つグロヴナーのアクションをいやがっていたという。


     
     Luther Grosvenor 1974(Mott The Hoople)


 1975年、スティーヴ・エリス(vocal 元ラヴ・アフェア)、ヒュー・ロイド=ラングトン(guitar 元ホークウインド)、ボブ・デイズリー(bass 元チキン・シャック)、ポール・ニコルス(drums 元リンディスファーン)とともにハード・ロック・バンド「ウィドウメイカー」(Widowmaker)を結成、翌76年にデビュー・アルバムを発表する。
 ロック界でのキャリアを持つミュージシャンが集まったため、ウィドウメイカーはスーパーグループとして期待されたが、2枚のアルバムを残して解散した。
 1978年には「ヴァーデン & ルーサー」のユニットでシングル「On the Rebound」をリリースしたが、その後グロヴナーは音楽界の表舞台から姿を消す。


     
     Luther Grosvenor 1977(Widowmaker)


 1996年、20年近い沈黙を破って、ジム・キャパルディ(chorus)、ジェス・ローデン(vocal)、マイク・ケリー(drums)、デイヴ・ムーア(keyboard)、ミック・ドラン(guitar)、スティーヴ・ドラン(bass)らを迎え、スティーヴ・ウインウッドの所有するスタジオで制作した久々のソロ・アルバム『Floodgates』を発表。


 1998年には、ゲイリー・ライトを除く4人のオリジナル・メンバー(グロヴナー、マイク・ハリソン、グレッグ・リドリー、マイク・ケリー)でスプーキー・トゥースが再結成され、25年ぶりにニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
 再結成ライヴは、2001年に『Live In Europe』としてリリースされている。


 2005年、アリエル・ベンダー・バンドを結成。このバンドは不定期に活動している。
 2007年と2008年は、「アリエル・ベンダーズ・モット・ザ・フープル」の名でライブを行い、モット・ザ・フープルとスプーキートゥースの曲を演奏した。
 2018年、イアン・ハンター(vocal)、モーガン・フィッシャー(keyboard)とともにモット・ザ・フープルを再結成し、6月23日にスペインで開催された「アズケナ・ロック・フェスティヴァル」に出演。6月30日にはイギリスの音楽フェスティヴァル「ランブリン・マン・フェア」にヘッドライナーとして出演している。
 2019年4月にも同じメンバーで集結したが、これはモット・ザ・フープルが1974年に行なったアメリカ・ツアーの45周年を記念したものである。彼らは45年ぶりにアメリカ・ツアー(8公演)を行ったのち、次いで6公演のイギリス・ツアーを行った。この年10~11月にも「モット・ザ・フープル '74」としてツアーを予定していたが、これはイアン・ハンターの体調不良によってキャンセルされた。


【ディスコグラフィ】

 <アート>
  1967年 Supernatural Fairy Tales

 <スプーキー・トゥース>
  1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About a Roundabout
  1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two(アメリカ44位)
  1970年 セレモニー/Ceremony *with Pierre Henry(アメリカ92位)
  1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff(アメリカ84位)
  1999年 Cross Purpose
  2001年 Live in Europe

 <モット・ザ・フープル>
  1974年 ロックンロール黄金時代/The Hoople(アメリカ28位、イギリス11位)
  1974年 華麗なる煽動者~モット・ライブ/Mott The Hoople Live(アメリカ23位、イギリス32位)

 <ウィドウメイカー>
  1976年 Widowmaker
  1977年 Too Late to Cry

 <ソロ・アルバム>
  1971年 アンダー・オープン・スカイズ/Under Open Skies
  1996年 Floodgates
  2011年 If You Dare

 <ソロ・シングル>
  1971年 Here Comes the Queen
  1971年 Heavy Day
  1972年 All the People
  1978年 On the Rebound(※Verden & Luther)

 <参加アルバム>
  1968年 Featuring the Human Host & The Heavey Metal Kids(Hapshash & The Coloured Coat)
  1969年 Thinking Back(Gordon Jackson)
  1972年 Smokestack Lightning(Mike Harrison)
  1995年 Peter Green Song Book-First Part


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ジェイムス・リザーランド

2022-10-09 23:20:51 | guitar

ジェイムス・リザーランド James Litherland

【パート】
  ギター、ヴォーカル

【生没年月日】
  1949年9月6日~

【出生地】
  イングランド ランカシャー州サルフォード

【経 歴】
  コロシアム(1968~1969)
  ブラザーフッド(1969~1970)
  モーグル・スラッシュ(1970~1971)
  ミリオン
  マンチャイルド(1972)
  バンディット(1976)


 イングランドのヴォーカリスト、ギタリスト。コロシアムのオリジナル・メンバーのひとり。
 シンガーソングライター、鍵盤奏者でプロデューサーのジェイムス・ブレイクの父でもある。


 8歳の時に両親からギターをプレゼントされる。
 11歳の時に地元のローカル・バンドで音楽活動を始める。
 1965年、グラマースクール時代の友人だったスティーヴ・ボルトン(guitar のちアトミック・ルースター、ポール・ヤング・バンドetc)が在籍していたマンチェスター周辺のインストゥルメンタル・バンド「モッドロックス」(The Modrox)に加わる。
 リザーランドによってリズム&ブルースの要素を持ち込まれたモッドロックスは徐々にモッズスタイルのビート・バンドへ変貌を遂げ、バンド名を「パズル」(The Puzzle)に改めた。しかしリザーランドはほどなくパズルを脱退する。
 この後、ローカル・バンドの「The Go Go」に参加するが、この頃グラハム・ボンド・オーガニゼイションやジミ・ヘンドリックスから大きな影響を受け、以後はブルース・ロックを演奏するようになる。

 
 1968年、8月17付のメロディ・メイカー紙で、ジョン・ハイズマン(drums)が告知したメンバー募集記事を見たリザーランドはヴォーカリストとしてこれに応募。同時に応募してきたジム・ローチェ(guitar)とともに採用された。
 ジョン・ハイズマンは、このふたりに加えてデイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、トニー・リーヴス(bass)、ディック・ヘクストール=スミス(sax)の計6人で新しいグループの活動を開始した。これが「コロシアム」の結成である。
 同年10月11日~12日、スカボローの「シーン・トゥー・クラブ」でデビュー・ライヴを行い、11月には英フォンタナ・レコードと契約。
 12月にはファースト・アルバムのレコーディングが始まったが、すぐにローチェが脱退したため、リザーランドがギターも兼ねることになった。


     


 アート・ロック・ブームが熱を帯びていた1969年5月、コロシアムはファースト・アルバム『コロシアム・ファースト』をリリース、たちまち注目されるようになった。
 引き続いて行われたセカンド・アルバム『ヴァレンタイン組曲』のレコーディングが終わった同年10月、リザーランドは「ブラザーフッド」(のちの「モーグル・スラッシュ」)へ参加するためコロシアムを脱退する。後任として加入したのは、元ベイカールーのデイヴ・"クレム"・クレムソンだった。
 なお、ジュリアス・シーザーの最期を描いた『ヴァレンタイン組曲』は全英15位まで上昇するヒットを記録し、コロシアムはブリティッシュ・ロック界に中で確固たる位置を占めるようになる。


     
     ジェイムス・リザーランド(中央)


 「ブラザーフッド」のメンバーは、リザーランド(guitar, vocal)のほか、ジョン・ウェットン(bass, guitar, vocal 元Splinter)、エド・ビックネル(drums)、ロジャー・ボール(sax)、モリー・ダンカン(sax)であった。
 間もなく、唯一知名度のあるリザーランドの名を冠して、バンド名を「ジェイムス・リザーランズ・ブラザーフッド」(James Litherland's Brotherhood)と改めた。
 1969年末、ドラマーがビル・ハリスンに交替。その後、元エレクションのマイケル・ローゼン(guitar, trumpet, mellophone)が加わってバンドは6人編成となる。
 1970年にRCAと契約を結ぶことになったが、同名のバンドが存在することがわかったため、同年5月にバンドは「モーグル・スラッシュ」と名を改めた。
 モーグル・スラッシュはシングル1枚(『Sleeping in the Kitchen』1970年)、アルバム1枚(『モーグル・スラッシュ』1971年)を残し、1971年に解散した。


     
     ジェイムス・リザーランド(中央)


 その後は自己のグループ「ミリオン」を結成したほか、ロング・ジョン・ボルドリーなどのレコーディングに参加。
 1972年には、ファースト・ソロ・アルバムをリリースしたばかりのディック・ヘクストール=スミス(sax 元コロシアム)、デイヴ・ローズ(keyboard)、ビリー・スミス(bass)、セオドア・サンダー(drums)とともに「マンチャイルド」を結成した。
 1970年代中頃にはサンフランシスコで活動している。
 帰国後の1976年、「バンデット」(Bandit)に参加。他のメンバーはリザーランド(guitar)のほか、ジム・ダイアモンド(vocal)、ダニー・マッキントッシュ(guitar)、クリフ・ウィリアムス(bass)、グラハム・ブロード(drums)である。リザーランドは、アルバム『Bandit』とシングル『Ohio』を残したのみで脱退した。


 その後はテレビや映画音楽の仕事をしていたが、1990年代に入ってからはソロ・アルバムの制作も行っている。
 2017年6月、ソロ・アルバム『バック・アンド・ブルー』(Back 'n Blue)を発表。


【ディスコグラフィ】

 コロシアム
   1969年 コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(全英15位)
   1969年 ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(全英15位)
   1970年 グラス・イズ・グリーナー/The Grass Is Greener *アメリカ編集盤

 モーグル・スラッシュ
   1971年 モーグル・スラッシュ/Mogul Thrash

 バンディット
   1976年 Bandit

 レコーディング参加アルバム
   The Fureys
     1968年 Finbar Furey
   ジェイド
     1970年 フライ・オン・ストレンジウイングス/Fly On Strangewings
   エドワード・ハンド
     1970年 ストランデッド/Stranded
     1971年 Rainshine
   ロング・ジョン・ボルドリー
     1972年 Everything Stops for Tea
   レオ・セイヤー
     1974年 ジャスト・ア・ボーイ/Just a Boy
   スティーヴ・マリオット
     1976年 マリオット/Marriott
   アレクシス・コーナー
     1979年 The Party Album


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