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ジミー・グリーンスプーン

2024-12-06 13:53:13 | keyboard

ジミー・グリーンスプーン Jimmy Greenspoon


 【出生名】
   ジェームス・ボイド・グリーンスプーン/James Boyd Greenspoon

 【パート】

   ピアノ、キーボード、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1948年2月7日~2015年3月11日(67歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス

 【経 歴】
   ザ・ニュー・ディメンションズ/The New (1964~  )
   スーパーバンド/Superband(1966~  )
   スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night(1968~1976、1981~2015)


 ジム・グリーンスプーンは、スリー・ドッグ・ナイトの鍵盤奏者であり、創設メンバーのひとりである。

 グリーンスプーンはカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、同州ビヴァリー・ヒルズで育った。
 母は無声映画時代の女優で、バスター・キートンの映画などに出演した女優のメアリー・オブライエン。叔母のバージニア・オブライエンも女優である。
 7歳の時に、母の勧めでクラシック・ピアノのレッスンを始める。
 ビヴァリー・ヒルズ高校では、幼馴染でのちプロデューサーとなるマイケル・ロイド、ドラマー兼歌手のアート・ガイとは同窓生で、学年は違えどともに同じ高校に通った間柄だった。ちなみに、のち名優として名を馳せるリチャード・ドレイファスは高校の同級生である。

 1964年頃、グリーンスプーンはアート・ガイ(vocal, drums)、マイケル・ロイドとともに「ザ・ニュー・ディメンションズ」というバンドを結成する。グリーンスプーンとガイは、共同でオリジナル曲「Funny Feelin'」を作り、ふたりで演奏、ヴォーカルを務め、これを録音したのち、「オリジナル・サウンズ・レコード」と契約した。
 グリーンスプーンはその後ロサンゼルス音楽院に通い、西海岸のピアノ教師ハリー・フィールズに師事した。

 1966年後半、グリーンスプーンは「ウェスト・コースト・ポップ・アート・エクスペリメンタル・バンド」のメンバーとともにコロラド州デンヴァーに移り、「スーパーバンド」というグループを結成した。

 グリーンスプーンは1968年にロサンゼルスに戻り、そこでヴォーカル・グループ「レッドウッド」のダニー・ハットンと出会う。
 レッドウッドはブライアン・ウィルソンがプロデュースを担当していた関係で、ビーチ・ボーイズのレーベル「ブラザー・レコード」との契約を目指していたが、それは実現しなかった。そこで彼らはミュージシャン4人を加え、バンド編成として再出発しようと考えた。グリーンスプーンは、ハットンとの繋がりからこのバンドに参加することになった。
 このバンドのメンバーは、レッドウッドの3人(ダニー・ハットン、コリー・ウェルズ、チャック・ネグロン)とグリーンスプーン(keyboard)のほか、ロン・モーガン(guitar すぐにマイケル・オールサップと交替する)、フロイド・スニード(drums)、ジョー・シェルミー(bass)である。
バンドは「スリー・ドッグ・ナイト」と名付けられた。

 グリーンスプーンはスリー・ドッグ・ナイトのメンバーのうち、コリー・ウェルズに次いで長くバンドに在籍した。グリーンスプーンは2015年に亡くなるまで、スリー・ドッグ・ナイトが活動していたすべての期間(1968~1976, 1981~2015)バンドに在籍し、病気治療に専念していた2015年を除く43年のあいだバンドのキーボーディストとして演奏し続けた。



 ダンヒル・レコードと契約したスリー・ドッグ・ナイトは、1968年10月にデビュー・アルバム「ワン」を発表。
 1969年には、4月にリリースした3枚目のシングル「ワン」に火がつき、ビルボード最高5位のヒットを記録した。するとそれに引っ張られるようにアルバム「ワン」も売り上げを伸ばし、最終的にビルボードのアルバム・チャートで最高11位まで上昇、バンドは大ブレイクを果たした。

 その後1970年に「ママ・トールド・ミー」(バンド初のミリオン・セラー)、1971年に「喜びの世界」、1972年に「ブラック・アンド・ホワイト」がシングル・チャート1位となり、バンドは押しも押されぬ人気バンドにのし上がった。

 1973年後半、スキップ・コンテがキーボード奏者として加入、バンドはツイン・キーボードの8人編成となる。
 1974年にはオリジナル・メンバーのオールサップとスニードが脱退し、それとともにバンドの絶頂期は終わりを告げる。

 1974年以降はメンバー・チェンジがひんぱんとなり、レコード・セールスも下降線をたどる一方であった。1975年にはヴォーカルの一角ハットンが深刻なドラッグへの依存を理由に脱退する。この年にはネグロンがコカイン不法所持の容疑で逮捕されており、この件がきっかけとなってバンド内の人間関係が悪化する
 1976年前半、コンテが脱退し、後任としてロン・ストッカートが加入。
 1976年7月26日、スリー・ドッグ・ナイトはロサンゼルスのグリーク劇場で公演を行い、これを最後に一旦解散した。

 スリー・ドッグ・ナイト解散後のグリーンスプーンはセッション・ミュージシャンなどとして活動を続けるが、1981年にスリー・ドッグ・ナイトの再結成に参加。メンバーは、ダニー・ハットン(vovcal)、コリー・ウェルズ(vocal)、チャック・ネグロン(vocal)、マイケル・オールサップ(guitar)、ジミー・グリーンスプーン(keyboard)、マイク・セイフリット(bass)、フロイド・スニード(drums)の7人編成であった。
 1984年後半から、グリーンスプーンは病気のため一時休養。この時に代役としてデヴィッド・ブルーフィールドがバンドに加わっている。
 1985年、ブルーフィールドに代わりリック・セラッテが加入したバンドはツアーを行うが、ツアーの後にセラッテは脱退し、グリーンスプーンが復帰した。

  グリーンスプーンはマリーウッド財団のエンターテイメントおよびメディア・コンサルタントも務めており、ロイド・レヴィンがプロデュースした映画「プレデター」(1987年)、「ダイ・ハード」(1988年)、「フィールド・オブ・ドリームス」(1989年)、「ヘルボーイ」(2004年)、「ユナイテッド93」(2006年)、「ウォッチメン」(2009年)にオリジナル音楽を提供している。
 2000年にはカリフォルニア州パームスプリングスの「ウォーク・オブ・スターズ」に、彼に捧げられたゴールデン・パーム・スターが置かれた。

 長年スリー・ドッグ・ナイトの一員として活動を続けていたグリーンスプーンであったが、
2014年10月に脳腫瘍の除去手術を受けるため入院することになり、エディー・リーゾナーが代役を務めることになった。
 手術によって腫瘍は取り除かれたが、その後の検査で肺や肝臓などに悪性の腫瘍が見つかった。グリーンスプーンはそのまま治療を続けていたが、2015年3月11日にメリーランド州ノース・ポトマックの自宅で転移性黒色腫のため67歳で死去した。
 グリーンスプーンの後任として、リーゾナーがそのままスリー・ドッグ・ナイトの正式にメンバーとなった。
 グリーンスプーンの死から約7ヵ月後の10月20日、結成時からのバンド・メイトであるコリー・ウェルズが、多発性骨髄腫のため74歳で死去した。

 グリーンスプーンはスリー・ドッグ・ナイトとしての活動のほかに、リンダ・ロンシュタット、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックス、アメリカ、ビーチ・ボーイズ、ベック・ボガート&アピス、ニルス・ロフグレン、ロウェル・ジョージ、ドノヴァン、バディ・マイルス、スティーブン・スティルス、ジェフ・ベック、クリス・ヒルマン、キム・フォーリー、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダン、ハル・ブレイン、レオン・ラッセル、レッキング・クルー、ショーン・キャシディなどとレコーディングやステージをともにしている。




【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <スリー・ドッグ・ナイト>
  1968年 ワン/Three Dog Night ※旧邦題「トライ・ア・リトル・テンダーネス スリー・ドッグ・ナイト登場」(US11位)
  1969年 融合/Suitable for Framing ※旧邦題「話題の新星 スリー・ドッグ・ナイト・セカンド」(US16位)
 ☆1969年 白熱のライヴ/Captured Live at the Forum(US6位)
  1970年 イット・エイント・イージー/It Ain't Easy(US8位)
  1970年 ナチュラリー/Naturally(US14位)
 ★1971年 ゴールデン・ビスケッツ〜スリー・ドッグ・ナイト・アーリー・ヒッツ/Golden Biscuits(US5位)
  1971年 ハーモニー/Harmony(US8位)
  1972年 セブン・セパレート・フールズ/Seven Separate Fools(US6位)
 ☆1973年 アラウンド・ザ・ワールド/Around the World with Three Dog Night(US18位)
  1973年 サイアン/Cyan(US26位)
  1974年 ハード・レイバー/Hard Labor(US20位)
  1974年 喜びの世界/Joy to the World : Their Greatest Hits(US15位)
  1975年 カミング・ダウン・ユア・ウェイ/Coming Down Your Way(US70位)
  1976年 アメリカ回顧録/American Pastime(US123位)
 ★1982年 The Best of 3 Dog Night
  1983年 It's a Jungle(US210位)
 ☆1988年 Three Dog Night : Live
 ★1993年 セレブレイト〜スリー・ドッグ・ナイト・ストーリー1965-1975/Celebrate : The Three Dog Night Story, 1965-1975
 ★1999年 20th Century Masters - The Millennium Collection : The Best of Three Dog Night(US109位)
  2002年 Three Dog Night with the London Symphony Orchestra
 ★2002年 ジョイ・トゥ・ザ・ワールド〜ベスト・オブ・スリー・ドッグ・ナイト/Joy to the World - The Best of Three Dog Night
 ★2004年 The Complete Hit Singles(US178位)
 ★2004年 35th Anniversary Hits Collection
 ☆2007年 Super Hits Live
 ☆2008年 Three Dog Night: Greatest Hits Live

 <参加アルバム>
  1968年 Outrageous キム・フォーリー/Kim Fowley
  1973年 ベック・ボガート&アピス/Beck Bogert & Appice ベック・ボガート&アピス(US12位, UK28位)
  1978年 Under Wraps ショーン・キャシディ/Shaun Cassidy(US33位)
  1979年 Thanks I'll Eat It Here ロウエル・ジョージ/Lowell Georg


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キース・エマーソン

2024-10-22 13:00:58 | keyboard

キース・エマーソン Keith Emerson

【本 名】
  キース・ノエル・エマーソン/Keith Noel Emerson

【パート】
  オルガン、ピアノ、シンセサイザー、アコーディオン etc...

【生没年月日】
  1944年11月2日~2016年3月10日(71歳没)

【出身地】
  イングランド ヨークシャー州トッドモーデン

【経歴】
  キース・エマーソン・トリオ/Keith Emerson Trio(1963~1964)
  ジョン・ブラウンズ・ボディーズ/John Brown's Bodies(1965)
  ゲイリー・ファー&ザ・T-ボーンズ/Gary Farr & The T-Bones(1965~1966)
  V.I.P.'s(1966~1967)
  ナイス/Nice(1967~1970)
  エマーソン・レイク&パーマー/Emerson, Lake & Palmer(1970~1980)
  エマーソン・レイク&パウエル/Emerson, Lake & Powell(1985~1986)
  3(1987~1989)
  ザ・ベスト/The Best(1990)
  エイリアンズ・オブ・エクストラオーディナリー・アビリティ/Aliens of Extraordinary Ability(1990)
  エマーソン・レイク&パーマー/Emerson, Lake & Palmer(1991~1998)
  キース・エマーソン&ザ・ナイス/Emerson, Lake & Palmer(2002~2003)
  キース・エマーソン・バンド/Keith Emerson Band(2004~)
  エマーソン・レイク&パーマー/Emerson, Lake & Palmer(2010)


 キース・エマーソンは、イングランド出身の鍵盤楽器奏者である。
 クラシックやジャズの要素を大胆に取り入れてロック・ミュージックに新たな可能性を示し、ロック界屈指の圧倒的な演奏力で、世界的な人気を得た。
 オール・ミュージックはエマーソンについて「おそらくロック史上最も偉大で、最も技術的に熟練した鍵盤奏者」と評している。
 開発されて間もないシンセサイザーにいち早く注目して取り入れ、その可能性を世界に知らしめたことでも有名で、シンセサイザー奏者の草分け的存在でもある。


【出生~1966年】
 エマーソンが生まれたのは、イングランドのヨークシャー州トッドモーデンである。
 第二次世界大戦中にイングランド南部から避難したエマーソン家は、その後ウエスト・サセックス州ワージングに移った。
 父のノエルはアマチュアのピアニストで、幼いエマーソンは父にピアノの基礎を習った。
 8歳の時、地元のピアノ教師についてレッスンを始めたエマーソンは、15歳の時に地元ワージングで行われた「ワージング・ミュージック・フェスティバル」に出場し、バッハの部で2位を獲得するまでになった。ちなみに、このフェスティヴァルがエマーソンの人生における初ライヴ・ステージだということである。
 エマーソンはロンドンでクラシック音楽を勉強するよう勧められたが、クラシックよりもジャズを演奏することを選んだ。この頃にエマーソンが影響を受けたジャズ・ピアニストは、デイヴ・ブルーベックやジョージ・シアリングなどである。
 同じ時期、エマーソンはジャズ・オルガン奏者のジャック・マクダフの演奏を聴いてハモンド・オルガンに興味を持つ。ローンと父親からの援助によってハモンドオルガンを購入したエマーソンは、音楽活動を本格化させてゆく。
 

 高校を卒業したエマーソンは地元のロイズ銀行に就職し、電算機課で働き始めると同時に地元のパブなどでピアノを弾くようになった。その結果、業務より音楽活動を優先したとして解雇されることになった。
 その後、ワージングのビッグ・バンドに加入したエマーソンは、このビッグ・バンドのベーシストとドラマーとともにピアノ・トリオを結成し、ジャズ・クラブなどで演奏するようになる。1963年末には「キース・エマーソン・トリオ」として自身初のレコーディングを行った。この時の音源は2015年に限定発売されている。
 1965年には「ジョン・ブラウンズ・ボディーズ」というバンドを結成し、クラブで演奏するようになった。
 この年にはロンドンに居を移し、「ゲイリー・ファー & T・ボーンズ」に加入してマーキー・クラブなどで演奏するようになる。T・ボーンズ解散後の1966年、請われてスプーキー・トゥースの前身であるヴィップス(The V.I.P.'s)に加入し、ドイツに渡ってスタークラブなどで演奏した。


【ナイスの結成~解散】
 ヴィップスが帰国する直前、エマーソンはP.P.アーノルド(vocal)のマネージメントをしていたミッキー・ザ・オーとフランスで知り合う。
 帰国後の1966年暮れ、ミッキー・ザ・オーの紹介でアーノルドに会いに行ったエマーソンは、その時部屋にあったフェンダー・ローズを弾いた。それを聴いたアーノルドは、すぐにエマーソンにバック・バンドの結成を持ちかけた。これがきっかけとなり、アーノルドとエマーソン(keyboard)は、T・ボーンズ時代のバンドメイトであるリー・ジャクソン(bass)、元ジ・アタックのデヴィッド・オリスト(guitar)、元クリス・ファーロウ&サンダーバーズのイアン・ヘイグ(drums)とともに新たなバンドを結成した。バンド名は、移動中の車の中でアーノルドが提案した「ナイス」に決まり、1967年5月から「パット・アーノルド & ザ・ナイス」として活動するようになった。
 アーノルドからバンド結成の話が持ちかけられた時、エマーソンはバンドだけのパフォーマンスの時間をもらえるよう求め、了承を得た。ナイスは次第に人気を集めるようになり、1967年8月には第7回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァルにバンド単独で出演。またマーキー・クラブにレギュラー出演するようにもなった。
 同年8月、薬物の常用で演奏に支障をきたしていたヘイグは解雇され、元マーク・リーマン・ファイヴのブライアン・デイヴィソンが加わる。
 バンドが軌道に乗りかけた矢先、アーノルドはいったん帰国することになる。アメリカ人だったアーノルドはイギリスの労働許可証を持っていたが、この有効期限が迫ってきたためである。ナイスは、帰国前に制作した彼女のアルバム「ファースト・レディ・オブ・イミディエイト」の録音に参加し、その後1967年9月にイミディエイト・レコードのアンドリュー・オールダムをマネージャーに迎えて「ナイス」としてアーノルドから独立した。


 1968年1月、ファースト・アルバム「ナイスの思想」を発表。
 ナイスは、クラシック曲の大胆なアレンジと、エマーソンのハモンド・オルガンを前面に押し出したサウンドが評価され、人気を得るようになった。またステージ上でハモンドオルガンの上に乗ったり、オルガンにナイフを突き刺したりするエマーソンの派手なショーマンシップも話題を集めた。
 同年10月、薬物依存を理由にオリストは解雇され、ナイスはトリオ編成となる。
 1969年頃からエマーソンは、他のふたり(ジャクソン、デイヴィソン)の演奏能力と音楽性の相違を物足りなく感じるようになり、ひそかに新バンドの結成を考えていた。おりしも1969年11月にナイスはキング・クリムゾンと合同でアメリカ公演を行ったが、この時エマーソンはキング・クリムゾンのグレッグ・レイクと意気投合する。1970年になると、ふたりは新たなバンドについて意見を交わし、構想を練るようになった。
 契約上の問題があったため新バンド結成への動きは水面下で進めていたが、1970年初頭にイギリスの音楽紙で「ナイスにグレッグ・レイク加入」という記事が出てしまった。
 1970年4月、ナイスは解散する。





【エマーソン・レイク&パーマー】
 1970年4月、エマーソンとグレッグ・レイクはアトミック・ルースターのカール・パーマーを加えて「エマーソン・レイク & パーマー」(EL&P)を結成。
 すでに各々名声を得ていた三人の集結は「スーパー・グループ誕生」として話題になった。
 1970年8月29日の「第3回ワイト島ポップ・フスティヴァル」が彼らの実質的デビュー・ステージである。このステージでEL&Pは聴衆から大きな支持を得た。この後、ライヴ・ステージを精力的に行い、同年のメロディー・メーカー誌の人気投票でバンドはブライテスト・ホープ部門の1位を獲得した。
 同年11月にリリースしたデビュー・アルバム「エマーソン・レイク&パーマー」は、さっそく全英4位のヒットを記録。以後「タルカス」「展覧会の絵」「トリロジー」「恐怖の頭脳改革」と、5作連続でアルバムを全英チャートのトップ5に送り込んでいる。(アメリカ(ビルボード)ではデビュー・アルバムから7作連続して全米チャートのトップ20を記録)
 クラシックやジャズを大胆に昇華融合させたEL&Pのサウンドは世界的に人気を集め、ピンク・フロイド、イエス、キング・クリムゾンと並んで「4大プログレ・バンド」と称された。
 それまではロックではキーボード・トリオはあまり見られなかったが、EL&P以後数多くのキーボード・トリオが生まれている事実がEL&Pの影響力の大きさを物語っていると言えよう。


 1971年5月、セカンド・アルバム「タルカス」を発表。このアルバムでエマーソンは本格的にモーグ・シンセサイザーを駆使し、新境地を拓いた。ちなみにシンセサイザーの使用は、バンド結成当初にレイクから勧められていたという。
 この当時、シンセサイザーは電子音を出したり、録音した音を重ね合わせたりする程度にしか使われていなかった。エマーソンはまだ活用方法が未知だったシンセサイザーを初めてステージで使い、楽器としての可能性の大きさを提示したのである。
 そしてエマーソンは、モーグ・シンセサイザーをツアーに携行した最初のミュージシャンでもある。
 当時彼が使用していたモーグは、重さ250キロ、高さは3mもあり、移動には4人のローディーを必要としたうえ、温度の変化に伴ってしばしば調子が狂うなど、管理に大きな問題を抱えていた。しかしモーグはすでにエマーソンにとって欠かすことのできない機材であった。


 ナイス時代に引き続き、エマーソンは積極的にクラシック音楽とロックの融合を図った。そのよく知られた例が、1874年にロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーによって作曲されたピアノ組曲「展覧会の絵」である。
 1971年3月26日、EL&Pは「展覧会の絵」をアレンジしてライヴ演奏した。この時エマーソンはミニ・モーグを多用している。この音源は未発表のままだったが、EL&Pの人気が高まるにつれついには海賊盤が出回る事態となった。これを重く見たアイランド・レコードは、市場から海賊盤を回収し、1971年11月に改めてライヴ・アルバム「展覧会の絵」をリリースすると、これが全英3位、全米10位を記録したほか、日本でもオリコン・チャートで2位まで上昇する大ヒットを記録した。
 EL&Pは、1971年6月にはフランクフルトのオーケストラとバレエ・カンパニーとの共演で「展覧会の絵」を演奏するイベントを含むヨーロッパ・ツアーを行っている。
 そのほかにもエマーソンは、バッハ、ショパン、バルトーク、チャイコフスキー、ホルスト、プロコフィエフ、コープランド、ヒナステラなどの数多くのクラシック曲を積極的に取り上げている。
 ジャズに対しても造詣の深かったエマーソンは、10代の頃好きだったデイヴ・ブルーベックのレパートリーとして有名な「トルコ風ブルー・ロンド」を取り上げたり、ソニー・ロリンズの「セント・トーマス」の一節を曲の中で使うなどしている。


 1971年6月に発表したセカンド・アルバム「タルカス」が全英1位となったEL&Pは押しも押されぬ人気バンドとなった。同年9月のメロディー・メーカー誌人気投票のバンド部門ではレッド・ツェッペリンに代わり1位になっている。
 1972年、エマーソンはEL&Pの一員として来日し、7月22日に後楽園球場で、7月24日に阪神甲子園球場でコンサートを行った。甲子園でのコンサートでは、カール・パーマーのドラム・ソロの途中で興奮したひとりの観客がフェンスを乗り越えたことがきっかけとなり、多くの観客がステージに向かってなだれ込む事態が起きた。このため主催者側の判断でコンサートは中止となった。
 同年9月のメロディー・メーカー誌人気投票では、バンド部門と各メンバーの担当楽器部門の、計4部門で1位を獲得している。


 EL&Pは、1973年11月に5枚目のアルバム「恐怖の頭脳改革」を発表、同時にアメリカ・ツアーも行ったが、ツアー終了後の8月から活動を停止してしまう。理由のひとつは、エマーソンがEL&Pとしての活動に忙殺され、疲れ切っていたことにある。
 エマーソンは、1976年にソロ・シングル「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」を発表。この曲は1927年にミード・ラックス・ルイスが書いたもので、エマーソンのシングルは全英21位にまで上昇した。
 EL&Pの活動停止後、エマーソンは「ピアノ協奏曲第1番」を作曲し、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共演する。この時エマーソンは、批評家達の「エマーソンには曲が書けず、代わりにクラシック曲の編曲に頼っている」という発言や、もともとあまり協力的ではなかったロンドン・フィルハーモニー管弦楽団側の「ロック・ミュージシャンがピアノ協奏曲を書いてなにになる」という態度によって、逆に意欲をかき立てられたいう。完成したピアノ協奏曲は、1977年のEL&Pのアルバム「ELP四部作」に収められた。この協奏曲は、のちにジェフリー・ビーゲルを始めとするクラシックのピアニストによって何度も演奏されている。
 「四部作」を発表したEL&Pは同時期に北米ツアーを開始、久しぶりに表舞台に戻ったが、バンドとしての終焉は近づいていた。
 1978年、バハマで新たなアルバム「ラヴ・ビーチ」の制作を開始したが、この時点で3人はEL&Pを解散することに合意していた。
 EL&Pの解散が正式に発表されたのは1980年2月であった。


 キース・エマーソンは、EL&Pの音楽性、進取性における推進役でもあった。
 彼がEL&Pとしての活動を通じて挙げた功績はいくつもあるが、そのひとつはクラシックやジャズとロックの融合を積極的に試みたことである。エマーソンはクラシックはもちろんジャズの素養も深く、かつそれらの音楽に対して深い敬意を抱いていた。
 そしてもうひとつは、シンセサイザーの可能性の追及である。
 エマーソンが初めてモーグ・シンセサイザーのサウンドを聴いたのはナイス時代である。知り合いのレコード店主にウェンディ・カルロスの「スイッチド・オン・バッハ」を聴かせてもらったエマーソンはすぐシンセサイザーに興味を持った。ナイスは1970年2月と3月にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共演する予定だったが、エマーソンはこのコンサートにシンセサイザーを演奏できるよう手配した。これが彼とシンセサイザーの関わりの始まりである。
 エマーソンがモーグ・シンセサイザーを積極的に使用したことにより、シンセサイザーの存在は世界中に知れ渡った。開発者のロバート・モーグは「キース・エマーソンは、ロックにおいてシンセサイザーをどのように使うかという方法論を最初に示した人物である」と述べている。
 

 鍵盤奏者としてのエマーソンは、圧倒的な演奏力を誇っていた。そればかりではなくステージングや楽器の使用方などについてもはっきりしたポリシーを持っていた。
 エマーソンの主要機材のひとつは、ハモンド・オルガンである。メインとして使用したのはハモンドC-3である。エマーソンはオルガンの音を歪ませ、パーカッシヴなトーンを強調し、エキサイティングなロック・ミュージックに適応する音色を活用した。
 彼の暴力的とも言えるステージ・アクションも有名である。
 鍵盤と鍵盤の隙間にナイフを突き立てて音を鳴らせっぱなしにしたり(来日時の後楽園球場公演では日本刀を突き刺した)、オルガンの上に乗って揺さぶりながら前に進んだり、オルガンそのものを倒したり蹴飛ばしたりと、過激なパフォーマンスは日常的なものだった。このため「オルガンのジミ・ヘンドリックス」と呼ばれることもあった。ナイス時代の1968年6月26日に出演したロイヤル・アルバート・ホールのチャリティー・コンサートでは、オルガンを蹴り飛ばしてひっくり返したうえ、それにアメリカ国旗をのせて火を付けたため、このホールから締め出されてしまったこともある。
 またリバーブをかけた状態でわざと衝撃を与えて爆発音を出したり、オルガンをPAスピーカーに近づけてハウリングを起こしたり、電源をひんぱんに切ったり入れたりしてあえてピッチを不安定するなど、様々な音を出して演奏をよりエキサイティングなものにした。2005年のインタビューでは「酷使して修理不可能にしたオルガンは3台」と述べている。
 ロックのライヴにおける鍵盤楽器奏者は、楽器の特性上動き回ることはできないため、ステージ上での動きは地味であった。しかしエマーソンはステージでのショウ・アップの必要性も重視していたので、試行錯誤しつつ派手なパフォーマンスを繰り広げた。彼のステージングは、ハード・ロックのミュージシャンにも大きな影響を与えたといわれている。
 なおエマーソンが使用したナイフは本物のナチスの短剣で、ナイス時代のローディーだったレミー・キルミスターから贈られたものである。
 こうしたエマーソンのステージングは、ジミ・ヘンドリックス(guitar)とドン・シン(organ)に影響されたものである。彼がまだ無名だった頃、マーキー・クラブに出演していた「ソウル・エージェンツ」のステージで、ドン・シンがオルガンを分解しながら演奏しているのを見た。これがその後のエマーソンのステージングのヒントになったという。またヴィップス時代、演奏中に客席で喧嘩が始まった時にエマーソンはとっさにオルガンで爆発音や機関銃の音を出して喧嘩を止めたことがあった。バンドのメンバー達はまた喧嘩が起きたら同じパフォーマンスをするように頼んだという話も残っている。







エマーソン・レイク&パーマー解散後(1980~1991)
 エマーソンはEL&Pの解散後もバハマに残り、映画音楽やソロ・アルバムを制作する。
 1981年、ファースト・ソロ・アルバム「ホンキー」をリリース。バハマで地元のミュージシャンと制作したこの作品は、カリプソやレゲエなどの要素などを取り入れており、それまでのエマーソンの音楽性とはかなり異なっていたため、それまでのファンにはあまり受け入れられなかった。
 1980年代は映画音楽の作曲にも力を注いだ。ダリオ・アルジェント監督のホラー映画「インフェルノ」(1980年)、シルヴェスター・スタローン主演のアクション映画「ナイト・ホークス」(1981年)、SFアニメーション映画「幻魔大戦」(1983年)、ルチオ・フルチ監督「マーダー・ロック」(1984年)、ミケーレ・ソアヴィ監督「教会」(1989年)、特撮怪獣映画「ゴジラ FINAL WARS」(2004年)など、数々のサウンドトラックを制作した。1984年の「ベスト・リベンジ」はボストンのブラッド・デルプ、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムがヴォーカル、ザ・バンドのガース・ハドソンがアコーディオンで参加している。このサウンド・トラックの中の「ドリーム・ランナー」はその後エマーソンの定番曲となった。


 1980年代半ばになるとEL&P再結成のプランが持ち上がる。しかしカール・パーマー(drums)は当時エイジアに在籍していたため参加せず、代わりにコージー・パウエルが参加し、1985年に「エマーソン・レイク&パウエル」として活動を開始した。
 エマーソンはこのバンドをEL&Pの再結成と公言していたが、パーマーは「それに同意はできない」という姿勢を崩さなかった。結局エマーソン・レイク&パウエルはアルバムを1枚発表したのち、パウエルの脱退によって解散した。
 その後パーマーがエイジアから脱退したことにより、エマーソンとグレッグ・レイク(bass)は再び「エマーソン・レイク&パーマー」の再結成に向けて動き始めた。しかしレイクがすぐにこのトリオから離れたため、エマーソンとパーマーはロバート・ベリー(bass, guitar)を加えて「3(スリー)」を結成した。3は1988年にアルバム「スリー・トゥ・ザ・パワー」をリリースしたがセールスは振るわず、その後行われたツアーの終了後に解散した。


 1989年、アルメニア地震の被災者被害のためのチャリティー「ロック・エイド・アルメニア」によるシングル「スモーク・オン・ザ。ウォーター」のレコーディングに参加。
 1990年、エマーソンは、ジョー・ウォルシュ(guitar イーグルス)、ジェフ・バクスター(guita ドゥービー・ブラザーズ)、ジョン・エントウィッスル(bass ザ・フー)、サイモン・フィリップス(drums)とスーパー・グループ「ザ・ベスト」を結成、短期間のツアーを行った。
 1990年代初頭にはスチュアート・スミス、リッチー・オノリ、マーヴィン・スパーリング、ロビー・ワイコフとともに「エイリアンズ・オブ・エクストラオーディナリー・アビリティ」を結成したが、エマーソンがEL&Pの再結成に向けて準備を始めたこと、そしてスチュアート・スミスがスウィートの再結成に関わっていたことで、レコード契約を交わすまでに至らなかった。


【エマーソン・レイク&パーマー再結成~キース・エマーソン・バンド】
 1991年、エマーソン・レイク&パーマー再結成。1992年にアルバム「ブラック・ムーン」を発表した。その後ツアーも行ない、約20年ぶりに来日公演も行った。
 1993年、エマーソンは演奏に支障をきたすほどの右手の神経疾患を発症し、1年間演奏を休んだ。この期間は離婚や経済的困難が重なり、エマーソンは精神的に不安定な状態だった。回復後の1994年にはEL&P再結成後2枚目のアルバム「イン・ザ・ホット・シート」を発表、また1996年にはジェスロ・タルとのアメリカ・ツアーを成功させたが、1997年以降は活動実態がなく、1998年8月に再び解散した。
 なお神経疾患は徐々に回復し、2002年には再び完全に両手で演奏できる状態に戻った。


 2002年、エマーソンはリー・ジャクソン(bass)、ブライアン・デイヴィソン(drums)とともにナイスを再結成(名義は「キース・エマーソン&ザ・ナイス」)し、32年ぶりにイギリス・ツアーを行った。そのツアーでは、デイヴ・キルミンスター(guitar, vocal)、フィル・ウィリアムス(bass)、ピート・ライリー(drums)をサポート・メンバーとして加え、EL&Pの曲も演奏した。
 2004年には、デイヴ・キルミンスター、フィル・ウィリアムス、ピート・ライリーの3人とともに「キース・エマーソン・バンド」として全米ツアーを行う。翌2005年10月には来日公演も行った。2006年にはヴォーカル&ギターがキルミンスターからマーク・ボニーラに交替し、アメリカとヨーロッパでツアーを行った。
 2007年12月10日、エマーソンは、ロンドンのO2アリーナで行われたレッド・ツェッペリン再結成コンサート/アーメット・アーティガン追悼コンサートに出演し、イエスのクリス・スクワイア、アラン・ホワイト、元バッド・カンパニーのサイモン・カークという、スーパーグループとも言える編成でオープニング・アクトを務めた。この時は、アーロン・コープランド作曲の「市民のためのファンファーレ」を新たなアレンジで演奏している。
 2008年、キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラとして、ソロ・アルバムをリリースし、その直後の8月22日から9月7日にかけて、バルト三国、ロシア、ブルガリアをツアーした。同年10月には来日して東京と大阪で公演を行っている。編成は、マーク・ボニーラ(guitar)のほか、新メンバーのトラヴィス・デイヴィス(bass)とドラムスのトニー・ピア(drums 元ブライアン・セッツァー・オーケストラ)である。


【2010年~死去】
 2010年の4月1日から25日にかけて、エマーソンはレイクとのデュオで北米ツアーを行い、エマーソンのオリジナルと、新たなアレンジでナイス、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク&パーマーの曲を演奏した。
 この年7月25日、ロンドンのヴィクトリア・パークで行われた「ハイ・ヴォルテージ・フェスティバル 」で、「エマーソン・レイク・&パーマー」は結成40周年を記念してこの夜限りの再結成を果たし、メイン・アクトとしてコンサートを行った。このイベントには当時パーマーが在籍していたエイジアも出演していた。


 2010年以降、エマーソンの活動はオーケストラとの共演に比重を移してゆく。
 この年、日本の作曲家吉松隆によってオーケストラ用に編曲されたEL&Pのレパートリー「タルカス」が、3月14日に東京フィルハーモニー交響楽団によって初演された。これはのちにNHK大河ドラマ「平清盛」の劇中音楽にも使われた。吉松の提案で、コンサートマスターを務めた荒井英治はタルカスを弦楽四重奏に編曲し、荒井が第一ヴァイオリンを担当する「モルゴーア・カルテット」のCDに収録された。


 2011年3月11日、日本は東日本大震災に見舞われた。イギリスでニュースを見たエマーソンは、被災者に捧げる曲「The Land Of Rising Sun(日出ずる国へ)」をサセックス州のスタジオで録音し、3月20日にYouTubeで公開して被災者に曲を捧げるとともに被災地への寄付を呼び掛けた
 2011年9月、エマーソンはノルウェイの指揮者テリエ・ミケルセンとのコラボレーションで、EL&Pのレパートリーのオーケストラによる新たな演奏に取り組む。このプロジェクトは「ザ・スリー・フェイツ(The Three Fates)」と名付けられ、2012年9月にノルウェイで初演された。2012年、エマーソンの最後のアルバム「ザ・スリー・フェイツ・プロジェクト」がリリースされる。メンバーはマーク・ボニーラとテリエ・ミケルセンであった。
 2013年9月、エマーソンはアメリカ合衆国ケンタッキー州で指揮者として初舞台を踏む。
 2014年10月には、ニューヨーク州のモロイ大学で行われた彼自身の70歳トリビュート・コンサートで、サウスショア交響楽団を前に指揮棒を振っている。


 2016年3月11日未明、カリフォルニア州サンタモニカの自宅で、同居していた日本人ガールフレンドが倒れているエマーソンを発見した。すぐに通報したが、間もなく死亡が確認された。71歳だった。当初は死因不明とされていたが、サンタモニカ警察は自ら頭部を拳銃で撃ったものと判断し、ロサンゼルス郡検視局によって自殺と断定された。
 右手の神経症を抱えていたエマーソンはうつ病も患っており、精神的に非常に不安定な状態だった。そのため今後演奏がうまくゆかず、ファンを失望させてしまうのではないかと恐れていたという。
 訃報を受け、グレッグ・レイク、カール・パーマーを初めとした多くのミュージシャンやアーティストから追悼コメントが寄せられた。
 なおこの年12月にはグレッグ・レイクもガンのため死去した。
 EL&Pのメンバーで唯一残されたパーマーは、「カール・パーマーズ・ELP・レガシー」を結成し、2017年にエマーソンとレイクを追悼するワールド・ツアーを行った。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <リーダー・アルバム>
  1981年 
ホンキー/Honky
 ☆1984年 Chord Sampler
 ☆1986年 The Emerson Collection
  1988年 ザ・クリスマス・アルバム/The Christmas Album
  1995年 チェンジング・ステイツ/Changing State
  2002年 エマーソン・プレイズ・エマーソン/Emerson Plays Emerson
 ☆2005年 At the Movies
 ☆2005年 ハマー・イット・アウト/Hammer It Out::The Anthology
 ☆2006年 オフ・ザ・シェルフ/Off The Shelf
  2008年 キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラ/Keith Emerson Band featuring Marc Bonilla
 ★2009年 Boys Club-Live from California ※with Glenn Hughes, Marc Bonilla
 ★2010年 Moscow ※with Keith Emerson Band featuring Marc Bonilla(CD & DVD)
 ★2010年 Live from Manticore Hall ※with Greg Lake
  2012年 スリー・フェイツ・プロジェクト/The Three Fates Project ※with マーク・ボニーラ、テリエ・ミケルセン

 <ソロ・シングル>
  1976年 ホンキー・トンク・トレイン・ブルース/Honky Tonk Train Blues (UK21位, イタリア1位)

 <ナイス>
  1968年 ナイスの思想/The Thoughts of Emerlist Davjack
  1968年 少年易老学難成/Ars Longa Vita Brevis
 ☆1969年 ジャズ+クラシック/ロック=ナイス/Nice(UK3位)※片面スタジオ録音、片面ライヴ録音
 ☆1970年 ファイヴ・ブリッジズ/Five Bridges(UK2位, US197位)
 ★1970年 ナイセスト!/The Nicest of the Nice
 ☆1971年 エレジー/Elegy(UK5位) ※2曲ライヴ録音、2曲スタジオ録音
 ★1972年 オータム'67-スプリング'68/Autumn '67-Spring'68 ※1973年「Autumn to Spring」として再発
 ★1972年 キース・エマーソン・ウィズ・ザ・ナイス/Keith Emerson with The Nice
 ★1995年 The Immediate Years
 ☆1996年 America-The BBC Sessions
 ★1999年 Nice Hits Nice Bits
 ★2000年 Here Comes The Nice-The Immediate Anthology
 ☆2001年 The Swedish Radio Sessions
 ☆2002年 BBC Sessions
 ☆2003年 ヴィヴァシタス ライヴ・アット・グラスゴー2002/Vivacitas ※「キース・エマーソン&ザ・ナイス」名義
 ☆2005年 Hammer It Out-The Anthology
 ☆2009年 フィルモア・イースト 1969/Live at the Fillmore East December 1969

 <エマーソン・レイク & パーマー>
  1970年 エマーソン・レイク&パーマー/Emerson Lake & Palmer(UK4位, US18位)
  1971年 タルカス/Tarkus(UK1位, US9位)
 ☆1971年 展覧会の絵/Pictures at an Exhibition(UK3位, US10位)
  1972年 トリロジー/Trilogy(UK2位, US5位)
  1973年 恐怖の頭脳改革/Brain Salad Surgery(UK2位, US11位)
 ☆1974年 レディース・アンド・ジェントルメン/Welcome Back My Friends to the Show That Never Ends...Ladies and Gentlemen(UK6位, US4位)
  1977年 四部作/Works Volume 1(UK9位, US12位)
  1977年 作品第二番/Works Volume 2(UK20位, US37位)
  1978年 ラヴ・ビーチ/Love Beach(UK48位, US55位)
 ☆1979年 イン・コンサート/In Concert(US73位)
 ★1980年 ベスト・オブ・EL&P/The Best of Emerson, Lake & Palmer(US108位)
  1992年 ブラック・ムーン/Black Moon(US78位)
 ★1992年 アトランティック・イヤーズ/The Atlantic Years
 ☆1993年 ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール/Live at the Royal Albert Hall
 ☆1993年 ワークス・ライヴ/Works Live
 ★1993年 リターン・オブ・ザ・マンティコア/The Return of the Manticore
 ★1994年 The Best of Emerson, Lake & Palmer
  1994年 イン・ザ・ホット・シート/In the Hot Seat
 ☆1997年 ワイト島ライヴLive at the Isle of Wight Festival 1970
 ☆1997年 Live in Poland
 ☆1998年 ゼン&ナウ/Then and Now
 ★2000年 The Very Best of Emerson Lake & Palmer
 ★2000年 Extended Versions : The Encore Collection
 ★2001年 Fanfare for the Common Man
 ★2001年 The Very Best of Emerson, Lake
 ☆2003年 From the Front Row...Live!
 ★2004年 The Ultimate Collection(UK43位)
 ★2007年 The Essential Emerson, Lake & Palmer
 ★2007年 From the Beginning
 ★2007年 Gold Edition
 ☆2010年 A Time and a Place
 ☆2010年 ハイ・ヴォルテージ/High Voltage
 ☆2011年 Live at Nassau Coliseum '78
 ☆2011年 Live at the Mar Y Sol Festival '72
 ☆2012年 Live in California 1974
 ★2012年 タルカス~ザ・ベスト・オブ・ELP/The Best of ELP
 ☆2013年 Live in Montreal 1977
 ★2013年 Platinum Best
 ☆2015年 Once Upon a Time : Live in South America 1997
 ☆2015年 Live at Montreux 1997
 ☆2017年 Masters from the Vaults
 ★2017年 ジ・エヴァーラスティング ~ベスト・オブ・ELP~/Platinum Best
 ☆2019年 Live at Pocono International Raceway, U.S.A., 8th July 1972
 ★2020年 The Ultimate Collection (3CD)

 <エマーソン・レイク&パウエル>
  1986年 Emerson Lake & Powell(UK35位, US23位)
 ☆2003年 Live in Concert
☆★2003年 The Sprocket Sessions ※live rehearsals
☆★2012年 Live in Concert & More ※「Live in Concert」と「The Sprocket Sessions」の2枚組CD
☆★2024年 The Complete Collection ※「Emerson Lake & Powell」「The Sprocket Sessions」「Live in Concert」の3枚組CD

 <3>
  1988年 To The Power of Three(US97位)
 ☆2015年 Live Boston 88
 ☆2017年 Rockin' the Ritz

 <サウンドトラック・アルバム>
  1980年 インフェルノ/Inferno (1980年)  ※ダリオ・アルジェント監督「インフェルノ」サウンドトラック
  1981年 ナイトホークス/Nighthawks (1981年)  ※ブルース・マルムース監督「ナイトホークス」サウンドトラック
  1983年 幻魔大戦/Harmageddon ※アニメ映画「幻魔大戦」サウンドトラック
  1985年 ベスト・リヴェンジ/Best Revenge
  1986年 マーダー・ロック/Murder Rock ※ルチオ・フルチ監督作品
  2002年 アイアンマン/Iron Man Vol.1 ※1994年テレビシリーズ「アイアンマン」サウンドトラック
  2002年 ザ・チャーチ(デモンズ3)/La Chiesa ※1989年ミケーレ・ソアヴィ監督「デモンズ3」サウンドトラック
  2004年 ゴジラ FINAL WARS/Godzilla: Final Wars ※2004年北村龍平監督「ゴジラ FINAL WARS」サウンドトラック


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グレアム・ボンド

2024-09-25 12:03:48 | keyboard

グレアム・ボンド Graham Bond

【本 名】
  グレアム・ジョン・クリフトン・ボンド/Graham John Clifton Bond

【パート】
  オルガン、サキソフォン、ヴォーカル

【生没年月日】
  1937年10月28日~1974年5月8日(36歳没)

【出身地】
  イングランド エセックス州ラムフォード

【経歴】
  ガウディー・チャールズ・クインテット/Goudie Charles Quintet(1960~1961)
  ドン・レンデル・クインテット/The Don Rendell Quintet(1961~1962)
  アレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッド/(1962~1963)
  グレアム・ボンド・トリオ/The Graham Bond Trio(1963)
  グレアム・ボンド・カルテット/The Graham Bond Quartet(1963)
  グレアム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation(1963~1967)
  グレアム・ボンド・イニシエーション/Graham Bond Initiation(1970)
  ホーリー・マジック/Holy Magick(1970)
  ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force(1970~1971)
  ボンド & ブラウン/Bond & Brown(1971~1972)
  ジャック・ブルース&フレンズ/Jack Bruce & Friends(1971~1972)
  メイガス/Magus(1973)


 グレアム・ボンドは、イングランド出身のサクソフォン奏者、キーボード奏者、ヴォーカリスト。ジャズ、ブルース、ロック。ポップスなど様々な音楽の融合を目指し、オリジナルな世界を追求し続けた革新的ミュージシャンであった。
 ボンドは1960年代のイングランドで起こったリズム&ブルース・ブームの創始者のひとりであり、アレクシス・コーナー、シリル・デイヴィス、ジョン・メイオールらと並ぶ、当時の英国ポピュラー音楽界における重要人物のひとりでもある。


 ボンドは、1937年10月28日にエセックス州ラムフォードで生まれ、幼い頃に養子に出された。
 彼を引き取ったバーナード家にはいつも身近に音楽があり、ボンドは自然に音楽に親しむようになった。彼はやがてイースト・ロンドンのギデア・パークにあるロイヤル・リバティ・スクールに通うようになり、そこで音楽を学んだ。


 ボンドのミュージシャンとしてのキャリアの出発点は、1960年にサックス奏者として加入した「ガウディー・チャールズ・クインテット」である。
 1961年にメンバーとなった「ドン・レンデル・クインテット」で頭角を現したボンドは、この年のイギリスのニュー・ジャズ・スターに選ばれ、国内でも注目の新進ジャズ・ミュージシャンとして知られるようになる。なお、このバンドで出会ったのが、ジャック・ブルース(bass)とジンジャー・ベイカー(drums)である。
 1962年、シリル・デイヴィスの後任としてアレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッドに加入。このバンドで再びブルース、ベイカーのふたりとバンド・メイトとなる。
 ボンドはブルース・インコーポレイテッドに短期間在籍したのち、1963年2月にブルース、ベイカーのふたりとともに脱退して「グレアム・ボンド・トリオ」を結成する。ボンドがハモンド・オルガンを演奏するようになったのはこの頃からで、のちに「イギリス初のハモンド・オルガン・プレーヤー」と言われるようになる。
 この年ジョン・マクラフリン(guitar)を迎えたボンドは、バンドを「グレアム・ボンド・カルテット」と改称し、ハモンド・オルガンをメイン楽器としながらも、再びサックスを手にするようになった。


 ボンドはイギリスのポピュラー音楽界におけるハモンド・オルガン使用の先駆者でもあり、ハモンド・オルガンとレスリー・スピーカーを組み合わせて使った初期のオルガン奏者である。またメロトロンをレコーディングに使用した最初のロック・ミュージシャンとしても知られている。
 ボンドの演奏は、後のロック・キーボーディストに大きな影響を与えた。ブライアン・オーガーやキース・エマーソンも、ボンドの演奏に影響されたことを認めている。ディープ・パープルのジョン・ロードは、後年「ハモンド・オルガンという楽器について知りたいのであればグレアム・ボンドを聴くべきだ」「ハモンド・オルガンについて私が知っている事のほとんどは、ボンドが実践的に教えてくれたものだ」と語っている
 なおボンドは、この頃(1963年)にデビューした「アニマルズ」の名付け親でもある。アニマルズのドラマー、ジョン・スティールによると、ボンドはニューカッスルのクラブ・ア・ゴーゴーで演奏する無名のロック・バンドを見て、彼らに「ジ・アニマルズ」と命名したという。


 1963年暮れ、マクラフリンはバンドを去り、代わりにディック・ヘクストール=スミス(sax)が加入する。これを契機にバンドは「グレアム・ボンド・オーガニゼーション」と名を改めた。マクラフリンはのち「帝王」マイルス・デイヴィスのグループに参加、ジャズあるいはフュージョン・ギタリストとして大成する。
 「グレアム・ボンド・オーガニゼイション」は、ボンドのオルガンを前面に押し出した独特のR&Bサウンドで、モッズを中心に支持を得るようになる。1964年3月にはデビュー・アルバム「サウンド・オブ・'65」を発表。これはジャズとR&Bを融合させたものとして高く評価された。
 1965年7月、シングル「Lease on Love」をリリースした。この曲にはメロトロンが使われているが、曲にメロトロンが全面的にフィーチュアされたのはポピュラー音楽史上初めてのことであった。メロトロンを使用した先駆的存在のひとつはビートルズだが、彼らが「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を録音したのは、その1年4ヵ月後の1967年である。
 1965年10月にリリースされたグレアム・ボンド・オーガニゼイションのセカンド・アルバム「ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥウィーン・アス」は、録音時にメロトロンを使用したロック・ミュージックの最初のアルバムとされている。
 1966年3月、「ザ・フー」がシングル「サブスティチュード」(全英5位)をリリースしたが、このB面の「Waltz for a Pig」はグラハム・ボンド・オーガニゼイションの曲であったことから、一部で注目されるようになる。



グレアム・ボンド・オーガニゼイション  
グレアム・ボンド(前)、ジンジャー・ベイカー(左)、ジャック・ブルース(右)、ディック・ヘクストール=スミス(後)


 新境地を拓きつつあったグレアム・ボンド・オーガニゼイションだったが、ボンドの薬物乱用、そしてベイカーとブルースの険悪な関係という看過できない問題を抱えていた。ボンドは自身の状況の悪化によってバンドを管理しきれなくなったため、ベイカーにバンドの運営を任せたが、ベイカーはその権限を利用して1965年8月にブルースを解雇したため、バンドは3人編成となった。
 1966年にはベイカーもバンドを離脱、のちに新たなバンドを結成したが、そのバンドが「クリーム」である。
 ベイカーの後任として1966年5月にバンドに加わったのは、ジョン・ハイズマン(drums)である。
 ボンド、ヘクストール=スミス、ハイズマンのトリオとなったバンドは活動を維持し、1967年1月18日にシングル「ユーヴ・ガッタ・ハヴ・ラブ・ベイブ」を制作したものの、ボンドの健康は薬物への依存によって精神的にも肉体的にも蝕まれており、そのためバンドは1967年に解散した。
 グレアム・ボンド・オーガニゼイションは、ブリティッシュ・ロック界においては革新的な存在であり、音楽的な影響力もあったが、彼らの音楽はポップス・ファンにはジャズ寄りで少々複雑であり、ジャズ・ファンにとってはロック寄りで騒々しいものだと捉えられていたため、商業的な成功を収めるには至らなかった。
 解散後、ヘクストール=スミスとハイズマンはジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズを経て「コロシアム」を結成し、デビュー・アルバムにボンドの曲「公園の散策」を収録している。


 グレアム・ボンド・オーガニゼイションの解散後もボンドの精神状態は安定せず、重度の躁鬱状態は薬物の過剰摂取でさらに悪化していった。 
 そんな状態のなかでボンドはアメリカに渡り、「ラヴ・イズ・ザ・ロウ」(1968年)と「マイティ・グレアム・ボンド」(1969年)の2枚のアルバムを制作したが、1969年にはイギリスへ戻った。
 帰国後のボンドは、結婚したばかりの妻ダイアン・スチュワートとともに「グレアム・ボンド・イニシエーション」を結成。
 また1970年初頭に「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」にサックス奏者として加入したが間もなく脱退し、短期間「ジャック・ブルース・バンド」に参加した。またこの年には「ホーリー・マジック」を結成し、アルバム「ウイ・プット・アワー・マジック・オン・ユー」をレコーディングしている。そのほか同年にはアルバム「ソリッド・ボンド」をリリースしている。これはボンド、マクラフリン、ブルース、ベイカーからなる「グレアム・ボンド・カルテット」の1963年録音のライヴ音源と、ボンド、ヘクストール=スミス、ハイズマンからなる「グレアム・ボンド・オーガニゼイション」による1966年録音のスタジオ・セッションを編集した2枚組アルバムである。


 1971年終盤、ボンドはクリームなどへの歌詞提供で知られる作詞家のピート・ブラウン(元バタード・オーナメンツ、元ピブロクト!)との双頭バンド「ボンド&ブラウン」を結成。メンバーは、ボンドの妻ダイアン・スチュワート、デライル・ハーパー(bass)、エド・スペヴォックEd Spevock(drums のちベーブ・ルース、チキン・シャック)である。
 ボンド&ブラウンは、1972年にはファースト・アルバム「トゥー・ヘッズ・アー・ベター・ザン・ワン」とシングル「ロスト・トライブ」をリリースしたが、同年末頃には活動を停止した。
 1973年にはジョン・ダマー・バンドとともにアルバムをレコーディングしたが、これは2008年になってようやくリリースされた。





 バンドと結婚生活がほぼ同時に崩壊した後、1973年にボンドはイギリスのフォーク歌手キャロラン・ペッグ(vocal 元Mr. Fox)、ベーシストのピート・マクベスとともに「メイガス」を結成したが、レコーディングを行わないまま1973年のクリスマス頃に解散した。同じ時期に、彼はアメリカのシンガーソングライター兼ギタリストのミック・リーを見出してライブで一緒に演奏したが、これもレコーディングには至らなかった。


 オカルトに憑りつかれたボンドが1960年代末期から1970年代にかけて制作したアルバムは、黒魔術の強い影響を受けたものばかりであった。その頃結婚したダイアン・スチュワートも魔術に興味を持っていたと言われる。
 麻薬とは手を切ったものの、ますます黒魔術に傾倒していったボンドは、自分がアレイスター・クロウリーの生まれ変わり(息子)だと信じるようにさえなっていた。
 1972年、ボンドは薬物の使用を理由にジャック・ブルースのバンドを解雇されたが、それ以後の精神状態はさらに悪くなり、薬物や抗うつ薬の影響で病院への入退院を繰り返すようになった。ボンドはキャリアを通じて重度の薬物使用による発作に悩まされており、1973年1月には神経衰弱を起こして入院した。また長年にわたって経済的な苦境に立たされていたこともボンドの精神状態に悪影響を及ぼしていたが、メイガスの解散によってそれに拍車がかかった。


 1974年5月8日、ボンドは「悪魔に身を捧げる」というメモを残し、ロンドンのフィンズベリー・パーク駅で地下鉄ピカデリー線の電車に飛び込んで自ら命を絶った。36歳であった。
 遺体の損傷は激しく、身元の確認には二日間を費やしたという。最終的な決め手は指紋の照合によるものであった。
 ボンドの死は事故か自死か断定はされていない。死の直後には「ボンドは悪魔によって闇の世界に引きずり込まれた」という噂も流れたが、彼は双極性障害であったとも言われており、現在では彼の死は自殺だとされている。


 2015年、ボンドの作品がドクター・ブギーのラジオ番組の2時間スペシャルで特集された。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <リーダー・アルバム>
  1969年 
ラヴ・イズ・ザ・ロウ/Love Is the Law
  1969年 マイティ・グラハム・ボンド/Mighty Grahame Bond
  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond
  1970年 ホーリー・マジック/Holy Magick
  1971年 ウィ・プット・アワー・マジック・オン・ユー/We Put Our Magick on You
 ★1971年 This Is... Graham Bond - Bond In America
☆★2015年 ライヴ・アット・BBC・アンド・アザー・ストーリーズ/Live At The BBC And Other Stories ※録音1962年~1972年

 <グラハム・ボンド・オーガニゼイション>
  1965年 ザ・サウンド・オブ '65/The Sound of '65
  1965年 ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥイーン・アス/There's a Bond Between Us
 ☆1988年 クルークス・クリーク/Live at Klooks Kleek ※録音1964年10月。「Faces And Places Vol.4」として再発あり
 ★2012年 ウェイド・イン・ザ・ウォーター/Wade In The Water

 <ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース>
 ☆1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 2/Ginger Baker's Air Force 2

 <ボンド&ブラウン>
  1972年 トゥー・ヘッズ・アー・ベター・ザン・ワン/Two Heads Are Better Than One

 <レコーディング・セッション>
  *ドン・レンデル・ニュー・ジャズ・カルテット
  1961年 ローリン/Roarin'



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ケン・ヘンズレー

2023-11-23 11:22:19 | keyboard

ケン・ヘンズレー Kenneth William David "Ken" Hensley

 【パート】
   オルガン、キーボード、ギター、ヴォーカル 

 【生没年月日】
   1945年8月24日~2020年11月4日(75歳没)

 【出生地】
   イングランド ロンドン

 【経歴】
   Kid & The Saracens(1963~1965)
   The Jimmy Brown Sound(1965~1967)
   ゴッズ/Gods(1967~1969)
   クリフ・ベネット・バンド/Cliff Benett Band(1969)
   トー・ファット/Toe Fat(1969)
   ヘッド・マシーン/Head Machine(1969)
   スパイス/Spice(1969)
   ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1969~1980)
   Shotgun(1981)
   Ken Hensley Band(1981~1982)
   ブラックフット/Blackfoot(1982~1985)
   Ken Hensley & Visible Faith(1999)
   Hensley Lawton Band(2000~2001)
   Ken Hensley/John Wetton(2001)
   Ken Hensley & Free Spirit(2002)
   Ken Hensley & The Viking All-Stars Band(2005)
   Ken Hensley & Live Fire(2006~)  


 ケン・ヘンズレーはイギリスのキーボード奏者。
 ハード・ロック・バンド「ユーライア・ヒープ」の初代キーボード奏者として知られている。
 ユーライア・ヒープ在籍時はオルガン、ギター、ソングライターとしてバンドを支えた。


     


 ヘンズレーは、ロンドン南東のプラムステッドで生まれ、ハートフォードシャー州スティーヴニッジで育った。
 12歳の時に、バート・ウィードンの教則本でギターを弾き始める。
 1960年、従兄弟たちと組んだ「The Blue Notes」というバンドにギタリストとして参加する。The Blue Notesは、その年9月にスティーヴニッジのメントモア・ペン・ファクトリーで演奏したが、これがヘンズレーの初めてのステージ体験である。その後は「The Blue Stars」「Ken & The Cousins」などというバンド名で活動を続ける。
 1963年、「Kid & The Saracens」のメンバーとなる。これがヘンズレーのプロ・ミュージシャンとしての始まりである。このバンドにはすでにギタリストが2人いたため、ヘンズレーはキーボードを担当することになった。
 Kid & The Saracensはベン・E・キングのイギリス公演で彼のバック・バンドを務めることになったこともあったが、結局これは実現しなかったという。


 1967年、ミック・テイラー(guitar, のちローリング・ストーンズ)やジョン・グラスコック(bass, のちジェスロ・タル)らとともに、自身がリーダーのバンド「ゴッズ」を結成する。
 ゴッズにはその後ベースにポール・ニュートンやグレッグ・レイクが、ドラムにリー・カースレイクが在籍している。
 1968年10月には、ヘンズレー(vocal, keyboard, guitar)、ジョー・コーナス(guitar, vocal)、ジョン・グラスコック(bass)、リー・カースレイク(drums)というメンバーで、デビュー・アルバム『ジェネシス』を発表。
 しかし1969年2月には、アルバム1枚(解散後にセカンド・アルバムを発表)、シングル3枚(解散後に4枚目のシングルを発表)を残してバンドは解散した。


 この後ヘンズレーは、親交のあったクリフ・ベネット(vocal)のバンドに加入し、シングル「Memphis Streets」の録音に参加(同年6月リリース)した。
 このバンドは、同年6月にジョン・グラスコック(bass)とリー・カースレイク(drums)という、いずれもゴッズの元メンバーを加え、「トー・ファット」として活動を開始する。
 1969年11月にトー・ファットを脱退したヘンズレーは、ゴッズの元メンバーらとともに覆面グループ「ヘッド・マシーン」名義でのアルバム制作を企画し、11月から12月にかけてアルバム『Orgasm』を制作する。


 1969年12月、キーボード奏者を必要としていた「スパイス」に加入。
 スパイスは、ゴッズ時代のバンド・メイトであるポール・ニュートンが在籍していたバンドで、その他のメンバーは、ミック・ボックス(guitar)、デヴィッド・バイロン(vocal)、アレックス・ネピアー(drums)だった。
 ヘンズレーの加わったスパイスは、プロデューサー兼マネージャーのジェリー・ブロンの提案で「ユーライア・ヒープ」と改名する。


     


 ユーライア・ヒープは1971年に発表したアルバム『対自核』でブレイクすると、続く『悪魔と魔法使い』『魔の饗宴』と立て続けにヒット・アルバムを発表し、ディープ・パープルやブラック・サバスと並ぶ世界的なハード・ロック・バンドとして認知されるようになった。
 ヘンズレーは、ユーライア・ヒープではキーボードとギターを担当したほか、メインのコンポーザーとして多くの代表曲を書いている。バンド最大のヒット曲であるシングル「安息の日々」(全米39位、1972年)もヘンズレーのペンによるものであるが、この曲は移動中の車の中で誰かが発した「これって悠々自適な生活だね」という言葉をきっかけに、わずか15分で書き上げたという。
 オルガン奏者としてのヘンズレーは、ジョン・ロード(ディープ・パープル)らと並ぶ1970年代のハード・ロック界を代表するオルガニストとして人気を博した。時には音色を歪ませた彼のハモンド・オルガンは、重厚なヒープ・サウンドには欠かせないものであった。
 全盛期を迎えたユーライア・ヒープにあって、ヘンズレーはミック・ボックスやデヴィッド・バイロンらとともに主要メンバーとしてをバンドを支えていたが、1979年に加入したジョン・スローマン(vocal)のパフォーマンスに対して抱えていた不満が大きくなり、それが原因となって11年在籍したヒープを去るのである。アルバム『征服者』発表直後の1980年9月のことであった。


     


 ユーライア・ヒープ脱退後、ヘンズレーは拠点をアメリカに移し、「ケン・ヘンズレー・バンド」を組んでソロ活動を展開する。
 ヘンズレーはすでに1970年代にソロ・アルバムを2枚(1973年『誇り高き言霊』、1975年『愛と苦悩』)と、ソロ・シングル1枚(1975年『In the Morninng』)をリリースしており、1981年には3枚目のソロ・アルバム『フリー・スピリット』を発表した。
 1982年にはフロリダのバンド「ブラックフット」に参加、1985年まで在籍。


 1985年からは音楽活動を休止してミズーリ州セントルイスに居住していたが、1989年に「W.A.S.P.」のアルバム『The Headless Childrenn』で第一線に復帰、活動を再開する。
 1990年には「シンデレラ」のサード・アルバム『ハートブレイク・ステーション』にゲスト参加。
 2000年にはユーライア・ヒープ時代のバンド・メイト、ジョン・ロートンとのバンド「ヘンズレー・ロートン・バンド」を結成。
 2001年12月7日、ロンドンのシェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われた「マジシャンズ・バースデイ・パーティ」でジョン・ロートン(vocal)とともにユーライア・ヒープのステージに客演した。このコンサートはアルバム『真・魔の饗宴〜ライヴ2001』としてリリースされている。
 2002年にはジョン・ウェットンとのコラボレーション、21年ぶりのソロ・アルバム『Running Blind』をリリース。またこの年にはデイヴ・キルミンスター(guitar)、アンディ・パイル(bass)、ピート・ライリー(drums)と自己のバンド「ケン・ヘンズレー & フリー・スピリット」を結成するなど、精力的な活動を続けた。
 2006年には新たな自己のバンド「ケン・ヘンズレー & ライヴ・ファイア」を結成したほか、2007年と2012年にはグレン・ヒューズとコラボレーションしている。
 2013年には、ユーライア・ヒープ時代の1973年以来、40年ぶりに来日して、5月28日~29日に高田馬場AREAでライヴを行った。


     


 2020年11月4日、家族に看取られながら、スペインの自宅で死去。75歳であった。
 2021年3月には、遺作となるソロアルバム『My Book of Answers』が発表されている。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>
  1973年 誇り高き言霊/Proud Words on a Dusty Shelf 全豪57位
  1975年 愛と苦悩/Eager to Please
  1980年 フリー・スピリット/Free Spirit
 ★1990年 The Best of Ken Hensley
 ★1994年 From Time to Time
  1999年 A Glimpse of Glory
 ★2000年 Ken Hensley Anthology
  2002年 Running Blind
  2003年 ザ・ラスト・ダンス/The Last Dance
 ★2004年 ザ・ウィザーズ・ダイアリー・ヴォリューム・ワン/The Wizard's Diary Vol. 1(※CD&DVD)
  2005年 Cold Autumn Sunday
 ★2006年 Elements – Anthology 1968 To 2005
 ★2006年 Inside the Mystery
  2007年 Blood on the Highway
  2012年 Love & Other Mysteries
 ☆2013年 Live Tales
 ★2018年 Rare & Timeless
  2021年 My Book of Answers(※遺作)

 <ゴッズ>
  1968年 ジェネシス/Genesis
  1970年 トゥ・サミュエル・ア・サン/To Samuel a Son
  1976年 The Gods Featuring Ken Hensley

 <トー・ファット>
  1970年 Toe Fat

 <ヘッド・マシーン>
  1970年 Orgasm

 <ユーライア・ヒープ>
  1970年 ユーライア・ヒープ・ファースト/...Very 'Eavy ...Very 'Umble US186位、日本41位
  1971年 ソールズベリー/Salisbury US103位、日本47位
  1971年 対自核/Look at Yourself UK39位、US93位、日本5位
  1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards UK20位、US23位、日本28位
  1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday UK28位、US31位、日本43位
 ☆1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live UK23位、US37位、日本22位
  1973年 スイート・フリーダム/Sweet Freedom UK18位、US33位、日本45位
  1974年 夢幻劇/Wonderworld UK23位、US38位、日本76位
  1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy UK7位、US85位、日本74位
 ★1976年 ベスト・オブ・ユーライア・ヒープ/The Best of Uriah Heep US145位
  1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty UK55位、US161位
  1977年 ファイアフライ/Firefly、US166位
  1977年 罪なきいけにえ/Innocent Victim
  1978年 堕ちた天使/Fallen Angel US186位
  1980年 征服者/Conquest UK37位
 ☆1986年 Live at Shepperton '74
 ☆1986年 Live in Europe 1979
 ★1993年 The Lansdowne Tapes
 ★1996年 A Time of Revelation(※CD-BOX)
 ☆1997年 Live in San Diego 1974
 ☆2002年 真・魔の饗宴〜ライヴ2001/The Magician's Birthday Party(※スペシャル・ゲストとして参加)

  
  ユーライア・ヒープ1973  左からミック・ボックス、デヴィッド・バイロン、ゲイリー・セイン、ケン・ヘンズレー、リー・カースレイク

 <ブラックフット>
  1983年 革命と反乱/Siogo US82位
  1984年 ヴァーティカル・スマイルズ/Vertical Smiles US176位

 ☆1998年 キング・ビスケット・ライヴ/King Biscuit Flower Hour Presents Blackfoot Live 1983

 <ヘンズレー・ロートン・バンド>
 ☆2001年 The Return
 ☆2001年 Salisbury Live

 <ケン・ヘンズレー & ジョン・ウェットン>
 ☆2002年 More Than Conquerors
 ☆One Way Or Another

 <ケン・ヘンズレー & ライヴ・ファイア>
  2011年 Faster
 ☆2013年 Live Fire
  2013年 Trouble
 ☆2019年 Live In Russia

 <参加アルバム>
  1971年 Weed...!(Weed)
  1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisoners(デヴィッド・バイロン)
  1989年 The Headless Children(W.A.S.P.)
  1990年 Heartbreak Station(Cinderella)
  1999年 Midnight Daydream(Bruce Cameron)
  2004年 The Human Equation(Ayreon)
  2007年 Gothic Kabbalah(Therion)


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ポール・レイモンド

2023-06-12 08:44:03 | keyboard

ポール・レイモンド Paul Martin Raymond

 【パート】
   キーボード、ギター、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1945年11月16日~2019年4月13日(73歳没)

 【出生地】
   イングランド ハートフォードシャー州セントオールバンズ

 【経歴】
   クリス・ラム&ザ・ユニヴァーサルズ/Chris Lamb & The Universals(1965~1967)
   ロード・サッチ&ザ・サヴェイジズ/Lord Sutch & The Saveges(1966)
   プラスティック・ペニー/Plastic Penny(1967~1969)
   チキン・シャック/Chicken Shack(1969~1970)
   サヴォイ・ブラウン/Savoy Brown(1971~1974)
   ハングリー・ファイター/Hungry Fighter(1974)
   サヴォイ・ブラウン/Savoy Brown(1974~1976)
   UFO/UFO(1976~1980)
   マイケル・シェンカー・グループ/Michael Schenker Group(1980~1981)
   ウェイステッド/Waysted(1982~1984)
   UFO/UFO(1984~1986)
   ポール・レイモンド・プロジェクト/Paul Raymond Project(1989~  )
   トニー・ジャクソン・グループ/Tony Jackson Group
   UFO/UFO(1993~1998)
   UFO/UFO(2003~2019)
   

 ポール・レイモンドは、UFOやマイケル・シェンカー・グループのキーボーディスト兼ギタリストである。
 UFOへは1976年をはじめとして都合4度参加、1970年代半ば以降の主要メンバーのひとりとして活躍した。


 レイモンドは、1964年11月にジャズ・ミュージシャンとしてキャリアをスタートさせた。
 1965年11月にはキーボード奏者として「クリス・ラム&ザ・ユニヴァーサルズ」に加入。このバンドはスクリーミング・ロード・サッチのバック・バンド「ザ・サヴェイジズ」としても活動していたが、リーダーのクリス・ラムがバンドから離れたのを機に、1967年12月に「プラスティック・ペニー」とバンド名を改めた。当時このバンドにはミック・グラバム(guitar のちプロコル・ハルム)やナイジェル・オルソン(drums のちユーライア・ヒープ、エルトン・ジョン・バンド)が在籍していた。
 プラスティック・ペニーは1967年12月にボックス・トップスのカヴァー「Everything I Am」でシングル・デビューし、この曲を全英6位に送り込んだ。


 プラスティック・ペニーが1969年に解散すると、レイモンドはクリスティン・パーフェクト(keyboard のちクリスティン・マクヴィー)が脱退したあとの後任キーボード奏者として「チキン・シャック」に加入する。
 チキン・シャックでは2枚のアルバムを残し、1970年いっぱいで脱退。その後、1971年初頭にキーボーディスト兼ギタリストとして「サヴォイ・ブラウン」のメンバーとなる。
 ちなみに、チキン・シャック、サヴォイ・ブラウンはいずれも「イギリスの三大ブルース・バンド」のひとつであり、同じマネージメントでもあった。
 サヴォイ・ブラウンではリーダーのキム・シモンズ(guitar, vocal)とともにバンドの中心的存在として活躍していたが、1974年にデイヴ・ウォーカー(vocal)とともにバンドから離れる。
 レイモンドとウォーカーは、ダニー・カーワン(guitar 元フリートウッド・マック)、アンディ・シルヴェスター(bass 元サヴォイ・ブラウン)、マック・プール(drums 元ウォーホース)と合流して「ハングリー・ファイター」を結成したが、このバンドはわずか数度のライヴを行っただけですぐに解散したため、レイモンドは1974年冬にはサヴォイ・ブラウンに復帰した。
 サヴォイ・ブラウンでは、1971年の加入時から1976年夏に脱退するまでに通算6年在籍し、6枚のアルバム制作に参加した。
 1975年にはダニー・カーワンのソロ・アルバム『セカンド・チャプター』のレコーディングに参加している。


   


 1976年、キーボードとギターの両方を演奏できる人材を探していたUFOにスカウトされ、ダニー・ペイロネル(keyboard)の後任として加入。レイモンドはUFOのために曲も書いたが、かつて交わした出版契約のため、近年までクレジットされていなかった。
 UFOはマイケル・シェンカー(guitar)を迎えた1973年頃から上昇気流に乗っていたが、レイモンド加入後はさらに勢いを増し、1977年にリリースしたアルバム『新たなる殺意』は、ビルボード誌における最高位が前作の『ノー・ヘヴィー・ペッティング』の167位から23位(UFOの全アルバム中の最高位)に急上昇。続く1978年の『宇宙征服』もビルボード最高41位を記録した。
 UFOではキーボーディストとしてはもちろん、セカンド・ギターとしても活躍。左利きだった彼はレフティ専用のギターを肩にかけてキーボードを弾き、シェンカーのソロではすぐさまリズム・ギターにスウィッチして見事にサポートする姿は、UFOのステージには欠かすことのできないものであった。レイモンドの存在は、シェンカーの、そしてバンドにとっての非常に重要な存在だったと言えるだろう。
 レイモンドの加入によって全盛期を迎えたUFOだったが、精神的に追い込まれたマイケル・シェンカーが1978年秋に脱退する。
 看板ギタリストの脱退と言う非常事態にあたり、バンドはかつてのメンバーだったポール・チャップマン(guitar)を再度迎え入れて危機を乗り切り、1979年にライヴ・アルバム『UFOライブ』、1980年にはスタジオ・アルバム『ヘヴィ・メタル・エクスペリエンス』を発表。しかしトリを務める予定だったその年のレディング・フェスティヴァルの開催前にレイモンドはUFOを脱退(後任は元ワイルド・ホーシズのニール・カーター)し、マイケル・シェンカー・グループに参加する。


     
     ポール・レイモンド & マイケル・シェンカー(右)


 1980年にマイケル・シェンカー・グループの一員となったレイモンドは、アルバム『神話』『飛翔伝説 MSG武道館ライヴ』の2枚に参加したのち、1983年にUFOのベーシストであるピート・ウェイのバンド「ウェイステッド」に加入。
 ウェイステッドではアルバム『Vices』(1983年)を制作したのみで脱退し、1984年に再結成したUFOに参加、1986年まで在籍した。
 1980年代末頃には日本に住んでいたことがあり、当時自身がリーダーの「ポール・レイモンド・プロジェクト」名義でアルバムをリリースしている。このバンドは以後も断続的に活動を続けた。


 1993年、再々結成後のUFOに復帰したが、バンドは1998年に解散する。
 UFOは2000年に活動を再開。レイモンドは2003年に3度目の復帰を果たした。


 2019年4月13日、レイモンドは心臓発作により73歳で死去。
 UFOは2019年3月から「UFO Last Orders 50th Anniversary」(ラスト・オーダーズ 50周年記念)というタイトルのツアーを行っていた。このツアーを最後にフィル・モグ(vocal)はバンドから離れることを公表しており、レイモンドもバンドの一員としてそのツアーに加わっていた。
 バンドは4月5日のロンドンのO2フォーラムでの公演を最後に、最初の行程であるイギリスとアイルランドのツアーを終えた。レイモンドの死去はそのわずか8日後であった。バンドは、1980年から1983年までレイモンドの後任としてUFOに在籍していたニール・カーターを急遽起用し、ツアーを続行した。


     

 

【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★コンピレーション・アルバム)

 <プラスティック・ペニー>
  1968年 Two Sides Of A Penny
  1969年 Currency
 ★1970年 Heads I Win, Tails You Lose

 <チキン・シャック>
  1969年 100トン・チキン/100 Ton Chicken
  1970年 アクセプト・チキン・シャック/Accept Chicken Shack

 <サヴォイ・ブラウン>
  1971年 Street Corner Talking US75位
  1972年 Hellbound Train US34位
  1972年 Lion’s Share US151位
  1973年 Jack The Toad US84位
  1975年 Wire Fire US153位
  1976年 Skin ‘N’ Bone US206位

 <UFO>
  1977年 新たなる殺意/Lights Out UK51位, US23位
  1978年 宇宙征服/Obsession UK26位, US41位
 ☆1979年 UFOライブ/Strangers In The Night UK7位, US42位
  1980年 ヘヴィ・メタル・エクスペリエンス/No Place To Run UK11位, US51位
  1985年 ミスディミーナー/Misdemeanor UK74位, US106位
 ☆1992年 BBC Radio 1 Live In Concert ※録音=1974, 1980
  1995年 ウォーク・オン・ウォーター/Walk on Water
  2000年 聖約/Covenant
  2004年 ユー・アー・ヒア/You Are Here
  2006年 モンキー・パズル/The Monkey Puzzle
  2009年 ザ・ヴィジター/The Visitor UK99位
  2012年 セヴン・デッドリー/Seven Deadly UK63位

 <マイケル・シェンカー・グループ>
  1981年 神話/MSG UK14位, US81位
 ☆1981年 飛翔伝説 MSG武道館ライヴ/One Night At Budokan UK5位

 <ウェイステッド>
  1983年 Vices UK78位

 <ポール・レイモンド・プロジェクト>
  1989年 ライジング・サン/Under The Rising Sun
  1999年 Man On A Mission
  2013年 Terms & Conditions Apply

 <ゲスト参加>
  ◆ダニー・カーワン
  1975年 Second Chapter


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デイヴ・グリーンスレイド

2023-02-19 11:56:49 | keyboard

デイヴ・グリーンスレイド David John "Dave" Greenslade


【パート】
  オルガン、ピアノ、キーボード、ヴィブラフォン
  

【生没年月日】
  1943年1月18日~


【出生地】
  イングランド サリー州ウォーキング


【経 歴】
  
  クリス・ファーロウ& ザ・サンダーバーズ(1964.5~1967.4)
  ジーノ・ワシントン & ザ・ラム・ジャム・バンド/Geno Washington & The Ram Jam Band
  コロシアム/Colosseum(1968~1971)
  イフ/If(1972)
  グリーンスレイド/Greenslade(1972~1976)
  グリーンスレイド/Greenslade(1977)
  コロシアム/Colosseum(1994~2015)
  グリーンスレイド/Greenslade(2000~2003)


 ブリティッシュ・ジャズ・ロック・バンド「コロシアム」のキーボード奏者。コロシアム解散後は自己のグループ「グリーンスレイド」を率いた。
 21世紀に入ると、それぞれ再結成されたコロシアムとグリーンスレイドの両バンドで並行して活動を続けた。

  
 1943年、イングランドのサリー州ウォーキングで、オーケストラ・アレンジャーのアーサー・グリーンスレイドの息子として生まれた。
 1960年、高校の仲間5人によって結成されたアマチュア・バンドに加わる。メンバーは、グリーンスレイドのほかジョン・ハイズマン(drums)、トニー・リーヴス(bass)、クライヴ・バロウズ(sax)、ポール・マクドウェル(guitar)からなる5人で、ジャズやブルースを演奏していた。
 高校卒業とともにこのバンドが解散すると、「ウエス・ミンスター・ファイヴ」(Wes Minster Five)に短期間加わったのち、1964年に当時イギリス屈指のブルースあるいはソウル・シンガーとして大きな人気を誇っていたクリス・ファーロウ率いる「クリス・ファーロウ & ザ・サンダーバーズ」の一員となる。
 1967年にサンダーバーズから離れると、「ジーノ・ワシントン & ザ・ラム・ジャム・バンド」を経て、1968年8月、高校時代の友人であるハイズマン、リーヴスらと合流し、「コロシアム」の結成に参加。
 ジャズ・ロックあるいはアート・ロックの雄としてブリティッシュ・ロック界に君臨したコロシアムは、1971年までに4枚のアルバムを発表している。





 1971年秋にコロシアムが解散すると、グリーンスレイドはジャズ・ロック・バンド「イフ」に短期間在籍。
 1972年11月、コロシアムでバンド・メイトだったトニー・リーヴス(bass)、元ウェブ~サムライのデイヴ・ローソン(keyboard)、キング・クリムゾンやフィールズで活動していたアンドリュー・マカロック(drums)とともに、自分の姓を冠した自己のバンド「グリーンスレイド」を結成する。
 ロックでは珍しいギターレス・バンド、かつツイン・キーボード・カルテットというユニークな編成で話題となったグリーンスレイドは、1973年にはファースト・アルバムとセカンド・アルバムを立て続けにリリースして注目されたが、4枚のアルバムを残して1976年初頭に解散。


 1976年、ファースト・ソロ・アルバム『カクタス・クワイア/Cactus Choir』を発表し、レコーディングに参加したミック・ロジャース(guitar, vocal)、サイモン・フィリップス(drums)らとともにツアーを行う。
 1977年にはトニー・リーヴス、ジョン・ハイズマン、ミック・ロジャースとともにグリーンスレイドとして1週間のツアーを行ったが、パーマネントな活動には至らなかった。
 1979年、セカンド・ソロ・アルバム『The Pentateuch of the Cosmogony』を発表。これはグリーンスレイドの4枚目のアルバム『タイム・アンド・タイド』のイラストを担当したパトリック・ウッドロフとのコラボレーション作品である。
 その後はテレビ業界に活動の拠点を移し、テレビ音楽の制作に専念。「新しいテレビのテーマが必要になったときに、イギリスのすべてのテレビプロデューサーがグリーンスレイドを呼ぶ」と言われる存在となり、BBC放送の番組「Gangsters」(1975~1978)や「Bird of Prey」(1982~1984)、「A Very Peculiar Practice」(1986)など数多くのテレビ音楽を担当した。


 1994年、友人でSF作家テリー・プラチェットの小説に触発されて制作した15年ぶりのソロ・アルバム『From the Discworld』を発表し、ロック界に復帰。またこの年にはコロシアムの再結成に参加している。
 1997年、コロシアムは27年ぶりのスタジオ・アルバム『Bread & Circuses』を発表。
 1999年、グリーンスレイドは、リーヴス、ジョン・ヤング(keyboard, vocal)、クリス・コゼンス(drums)の4人でグリーンスレイドを再結成し、コロシアムと並行して活動する。2000年には25年ぶりのグリーンスレイド5thアルバム『ラージ・アフタヌーン』を発表。
 グリーンスレイドはライヴ中心に2003年まで活動を続けた。
 2007年、コロシアムはジョン・ハイズマン(drums)、デイヴ・クレムソン(guitar)、デイヴ・グリーンスレイド(keyboards)、マーク・クラーク(bass)、クリス・ファーロウ(vocal)、バーバラ・トンプソン(sax)の編成で初来日を果たした。
 2015年、コロシアムは2月28日のロンドン公演を最後に活動を停止。
 2021年、グリーンスレイドの5枚組ライヴ・ボックス・セット『Live Manners 1973-2001』がリリースされる。





     


【ディスコグラフィ】
 <コロシアム>
 ☆アルバム(*=ライヴ・アルバム)
  1969年  コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(イギリス15位)
  1969年  ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(イギリス15位)
  1970年  グラス・イズ・グリーナー/Grass Is Greener(『ヴァレンタイン組曲』収録曲を中心としたアメリカ編集盤)
  1970年  ドーター・オブ・タイム/Daughter of Time(イギリス23位 ドイツ36位)
  1971年 *コロシアム・ライヴ/Colosseum Live(イギリス17位 オーストラリア48位)
  1995年 *LiveS The Reunion Concerts 1994
  1997年  Bread & Circuses
  2003年  Tomorrow's Blues
  2003年 *コロン1994-リユニオン・コンサート/Live Cologne 1994
  2003年 *The Complete Reunion Concert
  2007年 *コロシアム・ライヴ!05/Live05
  2009年 *Theme for a Reunion
  2014年  タイム・オン・アワ・サイド/Time on Our Side
  2015年 *Live At Boston Tea Party, August 1969
  2020年 *Live At Montreux Jazz Festival 1969
  2020年 *Live At Ruisrock, Turku, Finland, 1970
  2020年 *Live At Oioer Club, Rome, Italy 1971
  2020年 *Live '71, Canterbury, Brighton & Manchester
 ★シングル
  1969年  Walking in the Park

  1969年  The Kettle
  1971年  The Daughter of Time

 <グリーンスレイド>
 ☆アルバム(*=ライヴ・アルバム)
  1973年  グリーンスレイド/Greenslade
  1973年  ベッドサイド・マナーズ・アー・エクストラ/Bedside Manners Are Extra
  1973年 *Reading Festival 1973(1曲のみ)
  1974年  スパイグラス・ゲスト/Spyglass Guest(イギリス34位)
  1975年  タイム・アンド・タイド/Time And Tide
  1997年 *Shades of Green(1972-75)
  1999年 *ライヴ'73-'75/Live
  2000年 *ラージ・アフタヌーン/Large Afternoon
  2002年 *Greenslade 2001/Live The Full Edition
  2013年 *ライヴ・イン・ストックホルム 1975/Live in Stockholm March 10th, 1975
  2016年 *The Birthday Album - Live Switzerland
 ★シングル
  1973年  Temple Song

  1975年  Catalan
  1976年  Gangsters

 <ソロ・アルバム>
  1976年  カクタス・クワイア/Cactus Choir
  1979年  The Pentateuch of Cosmogony
  1994年  From the Discworld
  1999年  Going South
  2011年  Routes/Roots

 <ゲスト参加>
 *ディック・ヘクストール=スミス
  1972年  ア・ストーリー・エンディッド/A Story Ended


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チック・チャーチル

2022-10-26 21:58:00 | keyboard

チック・チャーチル Michael George "Chick" Churchill

【パート】
  オルガン、ピアノ

【生没年月日】
  1946年1月2日~

【出生地】
  ダービーシャー イクストン

【経 歴】
  イヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメン(1966)
  ブルース・トリップ(1966)

  テン・イヤーズ・アフター(1966~1974、1988~  )
  



 イギリスのブルース・ロック・バンド、「テン・イヤーズ・アフター」のキーボード奏者。
 チャーチルは6才でピアノを始め、15才までクラシック音楽を学んだ。
 彼はブルースとロックに興味を持つようになり、1960年代前半にはノッティンガムのローカル・バンド「The Sons of Adam」に加入、本格的に音楽活動を始める。
 その後、同じくノッティンガム出身でロンドンに拠点を移していた「イヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメン」のギタリスト、アルヴィン・リーと出会い、1966年にイヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメンのツアー・マネージャーとなる。しかし間もなくキーボード奏者として、改めてバンドの一員となった。バンドはこのあと「Blues Trip」と名を変え、同年11月にはさらに「テン・イヤーズ・アフター」と改名した。


 テン・イヤーズ・アフターは1967年にアルバム『テン・イヤーズ・アフター・ファースト』でデビュー。
 彼らのの火花を散らすような激しいライブは徐々に評判を呼び、1969年のウッドストック・フェスティヴァルでは後年まで語り継がれるエキサイティングな演奏を繰り広げてバンドの評価を決定づけた。1970年8月29日のワイト島フェスティバルにも出演している。
 人気バンドになったテン・イヤーズ・アフターは、1969年~1970年の間にアルバム4枚をリリースしているが、それらはすべて全英トップ10入りしているほか、1971年のアルバム『スペース・イン・タイム』は彼らとしては初の全米ミリオン・セラーとなっている。



 1973年、チャーチルは初のソロ・アルバム『ユー・アンド・ミー』を制作。録音に参加したのは、バンド・メイトのレオ・ライオンズ、リック・リーのほか、ゲイリー・ピックフォード・ホプキンス(vocal ワイルド・ターキー)、バーニー・マースデン(guitar UFO)、マーティン・バレ(guitar ジェスロ・タル)、ロジャー・ホジソン(guitar スーパートランプ)、コージー・パウエル(drums 元ジェフ・ベック・グループ)、リック・デイヴィス(keyboard スーパートランプ)ら、錚々たるメンバーであった。
 1975年には、レオ・ライオンズがプロデュースしたUFOのアルバム「フォース・イット」の録音に参加。


     
     Chick Churchill『You & Me』


 テン・イヤーズ・アフターは、1974年に通算8枚目のスタジオ・アルバム『ヴァイブレーションズ』を発表したが、この頃のバンドにはすでに全盛期の勢いは失われており、このアルバムを最後にテン・イヤーズ・アフターは解散した。
 1975年8月4日、サンフランシスコのウィンターランドでテン・イヤーズ・アフターのアメリカでのフェアウェル・コンサートのため再結成。
 1976年からはクリサリス・ミュージックのマネージャーを務めたほか、音楽関連出版の会社を設立し、演奏活動からは身を引いた。

 
 テン・イヤーズ・アフターは1983年7月1日に当夜限定で再結成、ロンドンで行われた「マーキー・クラブ25周年記念コンサート」に出演したほか、8月のレディング・フェスティヴァルにも出演している。
 1988年、レコーディングやコンサートなどを行うため、テン・イヤーズ・アフターが本格的に再始動。翌89年8月には15年ぶりのアルバム『アバウト・タイム』を発表した。
 

     

【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム)
 ◆テン・イヤーズ・アフター
  1967年 テン・イヤーズ・アフター・ファースト/Ten Years After
 ☆1968年 イン・コンサート/Undead(イギリス26位 アメリカ115位)
  1969年 ストーンヘンジ/Stonehenge(イギリス6位 アメリカ61位)
  1969年 夜明けのない朝/Ssssh(イギリス4位 アメリカ20位 ドイツ6位)
  1970年 クリックルウッド・グリーン/Cricklewood Green(イギリス4位 アメリカ14位 デンマーク5位 ドイツ8位 ノルウェー8位)
  1970年 ワット/Watt(イギリス5位 アメリカ21位 カナダ16位 ドイツ9位 イタリア8位 デンマーク7位 ノルウェー8位)
  1971年 スペース・イン・タイム/A Space in Time(イギリス36位 アメリカ17位 デンマーク8位 スウェーデン9位)
  1972年 ロックンロール・ミュージック・トゥ・ザ・ワールド/Rock & Roll Music to the World(イギリス27位 アメリカ43位 デンマーク2位 スウェーデン8位)
 ☆1973年 ライヴ!/Recorded Live(イギリス36位 アメリ39位 ドイツ10位 ノルウェー9位)
  1974年 バイブレーションズ/Positive Vibrations(アメリカ81位 デンマーク15位 スウェーデン11位)
  1989年 アバウト・タイム/About Time(アメリカ120位 ドイツ87位)
 ☆2001年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト/Live at the Fillmore East 1970
  2004年 Now
 ☆2005年 Roadworks
  2008年 Evolution
 ☆2014年 The Name Remains the Same
  2017年 A Sting in the Tale

 ◆ソロ・アルバム
  1973年 ユー・アンド・ミー/You & Me

 ◆参加アルバム
  <Bridget St. John>
   1974年 Jumblequeen

  <UFO>
   1975年 フォース・イット/Force It(アメリカ71位 ドイツ35位)

  <The Breakers>
   1975年 Milan


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