ピッグボーイ・クラブショー The Resurrection of Pigboy Crabshaw
【歌・演奏】
バターフィールド・ブルース・バンド/The Butterfield Blues Band
【リリース】
1967年12月
【プロデューサー】
ジョン・コート/John Court
【レーベル】
エレクトラ/Elektra Records
【収 録 曲】
side : A
① ワン・モア・ハートエイク 3:20
One More Heartache(Smokey Robinson, Marvin Tarplin, Robert Rodgers, Ronald White, Warren Moore)
② ドリフティン & ドリフティン 9:09
Driftin' and Driftin'(Charles Brown, Johnny Moore, Eddie Williams)
③ ピティ・ザ・フール 6:00
I Pity the Fool(Deadric Malone)
④ 悪い星の下に 4:10
Born Under a Bad Sign(William Bell, Booker T. Jones)
side : B
⑤ ラン・アウト・オブ・タイム 2:59
Run Out of Time(Paul Butterfield, Gene Dinwiddie)
⑥ ダブル・トラブル 5:38
Double Trouble(Otis Rush)
⑦ ドライヴィン・ホイール 5:34
Drivin' Wheel(Roosevelt Sykes)
⑧ ドロッピン・アウト 2:16
Droppin' Out(Paul Butterfield, Tucker Zimmerman)
⑨ トーリン・ベルズ 5:23
Tollin' Bells(Willie Dixon arr. by Paul Butterfield Blues Band)
【録音メンバー】
◆バターフィールド・ブルース・バンド
ポール・バターフィールド/Paul Butterfield(vocals, Harmonica)
エルヴィン・ビショップ/Elvin Bishop(guitars)
マーク・ナフタリン/Mark Naftalin(keyboards)
バグジー・モー/Bugsy Maugh(bass, vocals⑦)
フィル・ウィルソン/Phil Wilson(drums)
デヴィッド・サンボーン/David Sanborn(alto-sax)
ジーン・ディンウイッディーGene Dinwiddie(tenor-sax)
キース・ジョンソン/Keith Johnson(trumpet)
【チャート】
1968年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)52位
【メ モ】
ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのサード・アルバム。
前作「イースト・ウエスト」を最後にマイク・ブルームフィールドが脱退し、ギタリストはエルヴィン・ビショップひとりとなる。アルバム・タイトルは、そのビショップにちなんだものである。
ホーン・セクションに、若き日のデヴィッド・サンボーンが参加している。
ポール・バターフィールド・ブルース・バンド The Paul Butterfield Blues Band
【歌・演奏】
ポール・バターフィールド・ブルース・バンド/The Paul Butterfield Blues Band
【リリース】
1965年10月
【録 音】
1965年9月
【プロデューサー】
ポール・ロスチャイルド/Paul A. Rothchild
ジャック・ホルツマン/Jac Holzman
【エンジニア】
【レーベル】
エレクトラ/Elektra Records
【収 録 曲】(☆=シングル①)
side : A
☆① ボーン・イン・シカゴ 2:55
Born in Chicago(Nick Gravenites)
② シェイク・ユア・マネー・メイカー 2:27
Shake Your Money-Maker(Elmore James)
③ ブルース・ウィズ・ア・フィーリング 4:20
Blues with a Feeling(Walter Jacobs)
④ サンキュー・ミスター・プーバー 4:05
Thank You Mr. Poobah(Mike Bloomfield, Paul Butterfield, Mark Naftalin)
⑤ アイ・ガット・マイ・モージョー・ワーキング 3:30
I Got My Mojo Working(Preston Foster)
⑥ メロウ・ダウン・イージー 2:48
Mellow Down Easy(Willie Dixon)
side : B
⑦ スクリーミン 4:30
Screamin'(Mike Bloomfield)
⑧ アワ・ラヴ・イズ・ドリフティング 3:25
Our Love Is Drifting(Paul Butterfield, Elvin Bishop)
⑨ ミステリー・トレイン 2:45
Mystery Train(Junior Parker, Sam Phillips)
⑩ ラスト・ナイト 4:15
Last Night(Walter Jacobs)
⑪ ルック・オーヴァー・ヨンダーズ・ウォール 2:23
Look Over Yonders Wall(James Clarke)
【録音メンバー】
◆ポール・バターフィールド・ブルース・バンド
ポール・バターフィールド/Paul Butterfield(lead-vocals①②③⑥⑧⑨⑩⑪, Harmonica)
マイク・ブルームフィールド/Mike Bloomsield(lead-guitar)
エルヴィン・ビショップ/Elvin Bishop(rhythm-guitar)
マーク・ナフタリン/Mark Naftalin(organ③④⑦⑧⑨⑩)
ジェローム・アーノルド/Jerome Arnold(bass)
サム・レイ/Sam Lay(drums, lead-vocals⑤)
【チャート】
1965年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)123位
【メ モ】
ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのファースト・アルバム。
ホワイト・ブルースの歴史が始まったことを示すアルバムである。ローリング・ストーン誌「史上最も偉大なアルバム500」2012年版で453位にランクされているほか、ダウンビート誌選定ブルース・アルバム・トップ50では11位にランクされている。
ギター・ソロはすべてマイク・ブルームフィールドによるもの。
ボビー・ハリソン Bobby Harrison
【本 名】
ロバート・レスリー・ハリスン/Robert Leslie Harrison
【パート】
ドラムス、ヴォーカル
【生没年月日】
1939年6月22日~2022年1月7日(82歳没)
【出生地】
イングランド ロンドン
【経 歴】
The Rockefellas(1950年代後半)
ゴールデン・アップルズ・オブ・ザ・サン/Golden Apples Of The Sun(1965)
ザ・パワーパック/The Powerpack(1966~1967)
プロコル・ハルム/Procol Harum(1967)
フリーダム/Freedom(1967~1972)
スナフ/Snafu(1972~1976)
ブラッドハウンド/Bloodhound(1977)
ノーバディズ・ビジネス/Nobody's Business(1977~1978)
ジャーニー/Journey
プロコル・ハルムの初代ドラマーとして知られているボビー・ハリソンは、1939年にロンドン東部のイースト・ハムで生まれた。
ハリソンは、1950年代後半にイングランドのサウスエンドを拠点に活動するバンド「Rockefellas」に加入して本格的な音楽活動を始める。
「ゴールデン・アップルズ・オブ・ザ・サン」というバンドを経て、1966年から1967年にかけてビート・バンドの「ザ・パワーパック」に在籍。
1967年初頭、パラマウンツ解散後のゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)がメロディ・メーカー紙に新たなバンドのメンバー募集広告を出す。これに応じたミュージシャンを中心に同年「プロコル・ハルム」が結成される。
プロコル・ハルムは、1967年3月29日にロンドンでシングル「青い影」を録音したが、この時はまだバンドにレギュラー・ドラマーがいなかったため、ジャズ・ドラマーのビル・エイデンがドラムを担当した。ハリソンがプロコル・ハルムに加入したのはこのレコーディングの直後である。ハリソンが加入したプロコル・ハルムは再び「青い影」を録音したが、そのテイクは採用されなかった。この時同時に「ライム・ストリート・ブルース」を録音したが、これはエイデンがドラムを担当したシングル「青い影」のB面に収録された。
「青い影」は、1967年5月12日にデラムよりプロコル・ハルムのデビュー・シングルとして発表された。イギリスでは発売後わずか2週間で38万枚を売り上げ、6月14日からは全英シングル・チャートで6週連続1位となる。アメリカではビルボード最高5位を記録したほか、西ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、カナダでも軒並みチャート1位となる大ヒットとなった。
「青い影」は大ヒットしたものの、リリース直後の1967年6月にはレーベル側の意向でハリソンとレイ・ロイヤー(guitar)が解雇される。(ハリソンの後任はB. J. ウィルソン)このためハリソンはデビュー・アルバムのレコーディングには参加していない。
バンドから離れたハリソンとロイヤーのふたりは、スティーヴ・シャーリー(bass)とトニー・マーシュ(keyboard)を加え、1967年10月にサイケデリック・ロック・バンド「フリーダム」を結成、。
フリーダムは1968年にイタリアの前衛映画のサウンド・トラック「Nero Su Bianco」を制作し、同年6月にはデビュー・シングル「Where Will You Be Tonight」もリリースしたが、人気には結びつかなかった。
フリーダムは、1969年にはハリソン、ロジャー・ソーンダース(guitar, keyboard)、ウォルト・モナガン(bass, guitar)のトリオ編成となる。音楽性をヘヴィ・ロックにシフトしたフリーダムは、アルバムを4枚リリースしたが、評価を得ることなく1972年に解散。
ハリソンは1972年にソロ・アルバム「Funkist」の制作に取りかかるが、この時のレコーディング・セッションに参加したミッキー・ムーディ(guitar 元ジューシー・ルーシー)と新バンドを組むことになり、1972年11月に、ハリソン(vocal)、ムーディ(guitar)、コリン・ギブソン(bass)、ピーター・ソリー(keyboard)、テリー・ポップル(drums)の編成で「スナフ」を結成。ハリスンはスナフではヴォーカルに専念している。ちなみにソリーはのちにプロコル・ハルムに参加することになる。なお「Funkist」は1975年にリリースされた。
1973年にはプロコル・ハルムでバンド・メイトだったマシュー・フィッシャー(organ)のソロ・アルバム「ジャーニーズ・エンド」の録音に参加している。
1976年、3枚のアルバムを残してスナフは解散。
1977年に新バンド「ブラッドハウンド」を結成するが、これを短期間で解散させると、同年にスワンプ系のブルース・ロック・バンド「ノーバディズ・ビジネス」を結成し、ヴォーカリストとして参加する。このバンドは元フォガットのトニー・スティーヴンス(bass)らが在籍した英米混合バンドで、1978年5月にファースト・アルバム「ノーバディズ・ビジネス」を日本でのみリリースしたが、同年には解散した。
1991年、ソロ・アルバム「Solid Silver」を発表。これは1986年と1987年にアイスランドで録音したものである。
その後はサウスエンドに戻ってキリスト教指向のロックを演奏する「ジャーニー」というバンドに加わり、エセックス州のリー・オン・シー・エリア周辺で活動を続けた。
プロコル・ハルム時代のボビー・ハリソン
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ・アルバム>
1975年 Funkist ※録音1972年
1991年 Solid Slider ※録音1986, 87年
<フリーダム>
1969年 Nero Su Bianco
1969年 Freedom At Last
1970年 Freedom
1971年 Through The Years
1972年 Freedom Is More Than A World
<スナフ>
1974年 Snafu
1974年 Situation Normal
1975年 All Funked Up
<ノーバディズ・ビジネス>
1978年 Nobody's Business
<ゲスト参加>
1973年 ジャーニーズ・エンド/Journey's End (マシュー・フィッシャー)
1974年 Staircase to the Day (Gravy Train)
<ソロ・シングル>
1974年 Cleopatra Jones
キース・ベイカー Keith Baker
【パート】
ドラムス
【生没年月日】
1948年4月19日~
【出生地】
バーミンガム
【経 歴】
スキン・ディープ/Skin Deep(1964~1966)
コック・ア・フープ/Cock A Hoop(1966~1968)
ベイカールー/Bakerloo(1969)
メイ・ブリッツ/May Blitz(1969)
ダディ/Daddy(1969~1970)
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1970)
オフ・ザ・カフ/Off The Cuff(1993)
キース・ベイカーは、ユーライア・ヒープの3代目ドラマーである。
1964年、「スキン・ディープ」というバンドに加入し、本格的な音楽活動を開始する。
1966年に「コック・ア・フープ」というローカル・バンドに加入し、ここでデイヴ・"クレム"・クレムソン(guitar)と出会う。
1968年にコック・ア・フープから離脱すると、1969年2月にクレム・クレムソン率いるジャズ・ロック・バンド「ベイカールー」に加入。
その後ハーヴェストと契約したベイカールーはさっそくレコーディングに取りかかり、同年7月にデビュー・シングル「Driving Bachwards」をリリースする。デビュー・アルバム「ベイカールー」も制作されたが、9月になるとベイカーはテリー・プール(bass)とともにベイカールーを脱退する。デビュー・アルバムは、ベイカー脱退後の同年11月になってリリースされた。
ちなみに、バンド名からベイカールーはキース・ベイカーのバンドと受け取られることもあったようだが、バンド名はロンドンの地下鉄路線のひとつ、「ベイカールー・ライン」から取られたもの。オリジナル・メンバーはクレム・クレムソン、テリー・プール、ジョン・ヒンチ(drs のちジューダス・プリースト)で、3代目ドラマーがキース・ベイカーである。
ベイカールー脱退後間もなく、プールとともにカナダ人ギタリストのジェームズ・ブラックと出会い意気投合、1969年10月に「メイ・ブリッツ」を結成したが、リハーサルを行ったのみですぐに脱退した。
1969年末頃には、リック・デイヴィス(keyboard)、ロジャー・ホジソン(bass, vocal)、リチャード・パーマー(guitar, vocal)とともに、「スーパートランプ」の前身である新たなバンド「ダディ」を結成するが、1970年1月に脱退。
1970年4月、ナイジェル・オルソンの後任を探していた「ユーライア・ヒープ」のオーディションを受け、採用される。ベイカーはバンドのファースト・アルバム「ユーライア・ヒープ・ファースト」の制作に参加し、「肉食鳥」でのみドラムを叩いた。「肉食鳥」は「ユーライア・ヒープ・ファースト」からのシングル「ジプシー」のB面として発表された。ただしイギリス盤のアルバムには収録されておらず、アメリカ盤に収録されている。
アルバムのリリースと前後して、ツアーやセカンド・アルバム「ソールズベリー」の録音に参加したが、大規模なツアーには参加したくないという理由で、1970年11月にはバンドから離脱している。後任はイアン・クラーク。
その後、長らく音楽シーンから姿を消していたが、1993年に元ユーライア・ヒープのポール・ニュートン(bass)らと「オフ・ザ・カフ」を結成して音楽活動に戻った。2000年代に入ってからはユーライア・ヒープ関連のイベントなどに参加、元気な姿を見せている。
※生年月日は、資料によっては1948年4月14日、1950年4月17日などと表記されている。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ベイカールー>
1969年 ベイカールー/Bakerloo
<ユーライア・ヒープ>
1970年 ユーライア・ヒ-プ・ファースト/Very 'eavy... Very 'umble US186位, 日本41位
1971年 ソールスベリー/Salisbury US103位, 日本47位
ワン Three Dog Night
※リリース時の邦題は『トライ・ア・リトル・テンダーネス スリー・ドッグ・ナイト登場』
【歌・演奏】
スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night
【リリース】
1968年10月16日
【録 音】
1968年
アメリカン・レコーディング・カンパニー、スタジオ・シティ(アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス)
【プロデューサー】
ガブリエル・メクラー/Gabriel Mekler
【エンジニア】
リチャード・ポドラー/Richard Podolor
ビル・クーパー/Bill Cooper
【レーベル】
ダンヒル/Dunhill Records(US)
ステートサイド/Stateside(UK)
【収 録 曲】(☆=シングル①②⑪)
side : A
☆① ワン 3:00
One(Harry Nilsson)
※1969年4月リリース 週間シングル・チャート最高位:US(ビルボード)5位, US(レコード・ワールド)1位, カナダ4位, ニュージーランド16位, オーストラリア39位
☆② ノーバディ 2:18
Nobody(Beth Beatty, Dick Cooper, Ernie Shelby)
※1968年11月リリース 週間シングル・チャート最高位:US116位
③ ヘヴン・イズ・イン・ユア・マインド 2:55
Heaven Is in Your Mind(Jim Capaldi, Steve Winwood, Chris Wood)
④ イッツ・フォー・ユー 1:40
It's for You(John Lennon, Paul McCartney)
⑤ レット・ミー・ゴー 2:24
Let Me Go(Danny Whitten)
⑥ チェスト・フィーヴァー 4:40
Chest Fever(Robbie Robertson)
side : B
⑦ ファインド・サムワン・トゥ・ラヴ 2:00
Find Someone to Love(Johnny "Guitar" Watson)
⑧ ザット・ノー・ワン・エヴァー・ハート・ディス・バッド 4:03
That No One Ever Hurt This Bad(Randy Newman)
⑨ 約束しないで 2:45
Don't Make Promises(Tim Hardin)
⑩ ザ・ローナー 2:32
The Loner(Neil Young)
☆⑪ トライ・ア・リトル・テンダーネス 4:05
Try a Little Tenderness(Jimmy Campbell, Reginald Connelly, Harry M. Woods)
※1969年1月リリース 週間シングル・チャート最高位:US29位, カナダ19位
【録音メンバー】
◆スリー・ドッグ・ナイト
コリー・ウェルズ/Cory Wells(lead-vocals②③④⑤⑥⑦⑧⑪, backing-vocals)
チャック・ネグロン/Chuck Negron(lead-vocals①⑨, backing-vocals)
ダニー・ハットン/Danny Hutton(lead-vocals⑩, backing-vocals)
マイケル・オールサップ/Michael Allsup(guitars)
ジミー・グリーンスプーン/Jimmy Greenspoon(keyboards)
ジョー・シャーミー/Joe Schermie(bass)
フロイド・スニード/Floyd Sneed(drums, percussions)
【チャート】
1969年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)11位 カナダ17位
1969年年間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)12位
【メ モ】
・スリー・ドッグ・ナイトのファースト・アルバム。リリース当初の邦題は「トライ・ア・リトル・テンダーネス スリー・ドッグ・ナイト登場」である。
・アルバム・ジャケットには、当初はバンド名のみが記載されていたが、シングル「ワン」が大ヒットすると、その影響力を利用するため、ジャケットに「One」の文字が追加された。
・2008年に売上枚数が100万枚を超え、リリースから39年を経てRIAA公認のプラチナ・アルバムに認定された。
・収録された全11曲が他のミュージシャンのカヴァー。取り上げているのはザ・バンド、ビートルズ、ニルソン、ニール・ヤング、ランディ・ニューマン、トラフィックなどの曲である。
コリー・ウェルズ Cory Wells
【出生名】
エミル・レヴァンドフスキ/Emil Lewandowski
【パート】
ヴォーカル、ギター、ハーモニカ
【生没年月日】
1941年2月5日~2015年10月20日(74歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国ニューヨーク州バファロー
【経 歴】
ジ・エネミーズ/The Enemys(1965~1966)
コリー・ウェルズ・ブルース・バンド/Cory Wells Blues Band(1967)
レッドウッド/Redwood(1968)
スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night(1968~1976、1981~2015)
コリー・ウェルズは、スリー・ドッグ・ナイトの創設メンバーで、リード・シンガーのひとりである。
ウェルズは婚外子として生まれた。実父は母以外の女性と結婚しており、ウェルズが幼い頃に死去している。
出生名はエミル・レヴァンドフスキ。これは母の姓を受け継いだものである。
エミルは子どもの頃から音楽が好きで、ゴスペルやブルース、ソウル・ミュージックにのめりこんでいた。
彼が育った家庭は貧しく、養父からは虐待を受けていた。過酷な環境の中にいたエミルは、高校を中退して空軍に入隊する。
エミルは空軍ではバンドを結成して音楽活動を始めており、除隊後はバファローに戻って「ヴィブラートス」というバンドに参加。ヴィブラートスは音楽界での成功を目指し、「ジ・エネミーズ」と改名してカリフォルニアに移る。
エネミーズはロサンゼルス、サンディエゴ、サクラメント、ラスヴェガスのクラブで演奏を始め、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーのハウス・バンドとなった。彼らは1965年から1966年にかけて4枚のシングル・レコードをリリースしたほか、いくつかのテレビ番組のほか、ポール・ニューマン主演の映画「動く標的」に出演している。
この時期からステージ・ネームとして「コリー・ウェルズ」と名乗るようになる。これはエネミーズのマネージャー、ジーン・ジェイコブスからの提案である。ウェルズは実父の姓「ウェルズリー」を短く縮めたものであり、「コリー」はジェイコブスの息子の名前であった。
この頃、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでエネミーズのステージを観たシェールは、たちまちウェルズの歌に惚れ込む。シェールに声をかけられたウェルズは、これがきっかけでソニー&シェールのツアーに参加することになったが、そのツアーで前座を務めていたのが、のちにスリー・ドッグ・ナイトで苦楽をともにするダニー・ハットンであった。ウェルズとハットンはさっそく意気投合する。
1967年、ウェルズはフェニックスに移り、「コリー・ウェルズ・ブルース・バンド」を結成する。このバンドのベーシストがのちスリー・ドッグ・ナイトでバンドメイトとなるジョー・シャーミーであった。
ウェルズは1968年にハリウッドに戻り、ダニー・ハットンとのセッションを開始。この時に、ハットンのシングル・レコードにバッキング・ヴォーカルで参加したことのあるチャック・ネグロンを仲間に引き込む。
ウェルズ、ハットン、ネグロンの3人は、1968年に新たなグループを結成し、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)の提案でグループ名を「レッドウッド」とした。レッドウッドはデビューを目指し、ブライアン・ウィルソンのプロデュースで同年「Time to Get Alone」と「Darlin'」の2曲を録音したが、マイク・ラヴ(ビーチ・ボーイズ)は「Time to Get Alone」をビーチ・ボーイズのアルバムに収録したかったため、レッドウッドの音源はお蔵入りすることになり、デビューには至らなかった。
レッドウッドは現状を打開するべく、改めてバンドとして活動することを決め、以前から交流のあったジム・グリーンスプーン(keyboard)、ロン・モーガン(guitar)、ジョー・シャーミー(bass)、フロイド・スニード(drums)に声をかけた。(モーガンはファースト・アルバムの録音前に脱退し、代わりにマイケル・オールサップが加入)
こうしてヴォーカリスト3人とインストゥルメンタリスト4人というユニークな編成のバンドが誕生した。このバンドは「スリー・ドッグ・ナイト」と名付けられた。
1968年5月、スリー・ドッグ・ナイトはハリウッドの「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」でデビューする。ロサンゼルス周辺のライヴ活動で手ごたえを掴んだバンドは、トルバドールでのライヴのあとダンヒル・レコードと契約を交わし、1968年10月に「ワン」でアルバム・デビューを果たした。
1968年11月にリリースしたデビュー・シングル「ノーバディ」は、ビルボードのシングル・チャートで116位に終わったが、続く「トライ・ア・リトル・テンダーネス」はビルボード29位のスマッシュ・ヒットを記録した。この曲はオーティス・レディングのヴァージョンを踏襲しているが、リード・シンガーを務めているウェルズがオーティスに勝るとも劣らない熱唱を繰り広げている。ちなみに、オーティスはウェルズのアイドルであった。
1969年4月、サード・シングル「ワン」がリリースされたが、これがビルボード最高位5位を記録し、スリー・ドッグ・ナイトはブレイクする。デビュー・アルバムもビルボード・アルバム・チャートで11位まで上昇してゴールド・ディスクを獲得し、スリー・ドッグ・ナイトはデビューからわずか1年で成功を収めたのである。
左から チャック・ネグロン ダニー・ハットン コリー・ウェルズ
スリー・ドッグ・ナイトは、隠れた名曲を取り上げて大ヒットにつなげることが多かった。彼らのレコーディング曲は、ウェルズ、ハットン、ネグロンの3人による合議多数決で決めていたという。
ウェルズの歌声は野性味にあふれ、その歌にはブルージーかつソウルフルな魅力があふれている。彼がリード・ヴォーカルを務めた曲は「トライ・ア・リトル・テンダーネス」「イーライズ・カミング」「ママ・トールド・ミー」「シャンバラ」「ネヴァー・ビーン・トゥ・スペイン」「愛のセレナーデ」などが挙げられる。
「ママ・トールド・ミー」はスリー・ドッグ・ナイトにとってビルボード1位を獲得した初めての曲である。この曲の大ヒットによって、作者のランディ・ニューマンが「子供たちを大学に行かせてくれてありがとう」と電話をかけてきたという。
スリー・ドッグ・ナイトは、その後も「イージー・トゥ・ビー・ハード」「イーライズ・カミング」「喜びの世界」「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」「ブラック・アンド・ホワイト」などヒット曲を連発し、1970年代のアメリカン・ロックを代表する人気バンドに成長した。
しかし1975年にダニー・ハットン、フロイド・スニード、マイケル・オルサップが脱退するとバンドの勢いは急速に失われ、1976年に解散した。
スリー・ドッグ・ナイトは1968年から1975年までの間にシングル・レコード23枚をリリースし、「ママ・トールド・ミー」「喜びの世界」「ブラック・アンド・ホワイト」の3曲の全米1位を生んだ。そしてその3曲を含めた21曲が全米トップ40入りしている。
スリー・ドッグ・ナイト解散後のウェルズはソロ活動を始め、A&Mレコードと契約して1978年春にファースト・ソロ・アルバム「タッチ・ミー」をリリースする。翌年制作したセカンド・ソロ・アルバム「アヘッド・オブ・ザ・ストーム」は発表されることなくお蔵入りしたが、2002年になってリリースされた。
1981年にはスリー・ドッグ・ナイト再結成に尽力し、その後終生にわたってメンバーとして在籍した。
1985年、人間関係が原因でチャック・ネグロンが脱退するが、その後はウェルズとハットンが中心になってマイク・オールサップやジミー・グリーンスプーンらを含むメンバーとともにスリー・ドッグ・ナイトを維持、定期的にツアーを行うなど活動を続けた。
2015年3月11日、転移性黒色腫のためグリーンスプーンが死去したが、ウェルズも激しい背中の痛みのためこの年9月に活動を中断する。血液ガンの一種である多発性骨髄腫と診断されたウェルズは治療を続けていたが、グリーンスプーンの死から約7ヵ月後の10月20日、ニューヨーク州ダンケルクのブルックス記念病院で睡眠中に死去した。74歳だった。
スリー・ドッグ・ナイトは、年内の公演をすべてキャンセルしてウェルズの死を悼んだ。
ウェルズは当時の他の多くのミュージシャンとは違い、アルコールや薬物をきっぱり断っていた。そしてスターになって大金を手にしても、浪費することなく質素に暮らしていたという。マリー夫人とは50年連れ添い、2人の娘と5人の孫に恵まれた。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ>
1978年 タッチ・ミー/Touch Me UK210位
2002年 アヘッド・オブ・ザ・ストーム/Ahead of the Storm ※録音1978年
<スリー・ドッグ・ナイト>
1969年 ワン/Three Dog Night US11位
1969年 融合/Suitale for Framing US16位
☆1970年 白熱のライヴ/Captured Live at the Forum US6位
1970年 イット・エイント・イージー/It Ain't Easy US8位
1971年 ナチュラリー/Naturally US14位
★1971年 ゴールデン・ビスケッツ~スリー・ドッグ・ナイト・アーリー・ヒッツ/Golden Bisquits US5位
1971年 ハーモニー/Harmony US8位
1972年 セヴン・セパレート・フールズ/Seven Separate Fools US6位
☆1973年 アラウンド・ザ・ワールド/Around the World with Three Dog Night US18位
1973年 サイアン/Cyan US26位
1974年 ハード・レイバー/Hard Labor US20位
★1974年 喜びの世界/Joy to the World : Their Greatest Hits US15位
1975年 カミング・ダウン・ユア・ウェイ/Coming Down Your Way US70位
1976年 アメリカ回顧録/American Pastime US123位
1983年 It's a Jungle US210位
☆1988年 Three Dog Night : Live
★1993年 セレブレイト~スリー・ドッグ・ナイト・ストーリー-Celebrate:The Three Dog Night Story, 1965-1975
★1999年 20th Century Masters - The Millennium Collction:The Best of Three Dog Night US109位
2002年 Three Dog Night with the London Symphony Orchestra
★2002年 ジョイ・トゥ・ザ・ワールド~ベスト・オブ・スリー・ドッグ・ナイト/Joy to the World -The Best of Three Dog Night
★2004年 The Complete Hit Singles US178位
☆★2007年 Super Hits Live
☆★2008年 Three Dog Night : Greatest Hits Live
ラマー・ウィリアムズ Lamar Williams
【パート】
ベース
【生没年月日】
1949年1月14日~1983年1月21日(34歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国ミシシッピ州ガルフポート
【経 歴】
オールマン・ブラザーズ・バンド/Allman Brothers Band(1972~1976)
シー・レヴェル/Sea Level(1976~1980)
シャープシューター・バンド/SharpShooter Band(1980~1981)
ラマー・ウィリアムズは、オールマン・ブラザーズの2代目ベーシストである。
1949年1月14日、ウィリアムズはミシシッピ州ガルフポートで生まれた。
近くのミシシッピ州ハンズボロで育ったウィリアムズは、父が音楽好きだったこともあって子供の頃から音楽と接していたが、そのうち歌の伴奏のベースラインに惹かれるようになり、独学でベースを弾くようになった。とくにウィリアムズが影響を受けたのは、ジェームス・ジェマーソンやスタンリー・クラークなどである。
14歳の時には、父もメンバーのひとりだったゴスペル・バンド「ディープ・サウス」で演奏するようになる。
高校に進んだウィリアムズは、1965年に学校でジョン・リー・ジョンソンと出会う。
ジョンソンはドラマーで、一緒にバンドを組むことになり、のち終生の友となるが、彼がのちにオールマン・ブラザーズ・バンドでバンドメイトになるジェイ・ジョハンニー・ジョハンソンことジェイモーである。ウィリアムズのベースはリズム&ブルースやジャズのフィーリングが豊かで、ジェイモーのドラミングにも影響を与えたと言われている。
ウィリアムズとジェイモーはベイ・エリアの多くのバンドで演奏した。その中で最も知られているのが、1965年から1967年まで在籍したジョージ・ウッズ率いる「サウンズ・オブ・ソウル」である。
1968年、ウィリアムズは徴兵され、アメリカ陸軍に入隊。
配属先は特別部隊のバンドだったことから、軍の下士官クラブや基地のある地元住民のために演奏したが、バンドはカントリー&ウエスタンやラグタイムなどロックやR&B以外のジャンルもレパートリーとしていた。ウィリアムズはこの時期にさまざまな種類の音楽を受け入れることで、幅広い音楽性を養った。ウィリアムズ自身、のちに「音楽的に興味深い時期だった」と述べている。
当時はベトナム戦争真っただ中であったため、ウィリアムスもやがて南ベトナムに派遣される。
ウィリアムズ自身は平和主義者で、一貫してベトナム戦争に反対していた。そのため隊内では反抗的な態度を取ることもあったという。
一説によると、南ベトナムの基地に到着したウィリアムズはまもなく脱走してジャングルに入って数ヵ月間村から村をさまよった。時には「部隊とはぐれた」として新しい部隊に加わったりしたという。また憲兵に逮捕されたこともあった。釈放されたものの、その後も憲兵に目をつけられることがあったが、何人かの黒人の憲兵はそのことを知らせてくれ、おかげウィリアムスは事なきを得たという。
1970年、ウィリアムズは二等兵として陸軍を名誉除隊する。
除隊手続き期間を終えると、「ファンガス・ブルース・バンド」とジャム・セッションを行ったりして日々を過ごしていた。
1972年11月11日、オールマン・ブラザーズ・バンドのベーシスト、ベリー・オークリーがオートバイ事故により24歳の若さで死去する。オールマン・ブラザーズには友人のジェイモーが在籍しており、ウィリアムズはその繋がりからオーディションに参加することになった。ウィリアムズのオーディション中、バンドのもうひとりのドラマー、ブッチ・トラックスが突然「このオーディションはもう充分だ。リハーサルをしよう!」と言いだしたという。こうして1972年の終わり頃、ウィリアムズはオークリーの後任としてオールマン・ブラザーズに加入することになった。
1973年8月、加入後初のアルバム「ブラザーズ&シスターズ」が発表される。
全米1位の大ヒットを記録したこのアルバムは全7曲が収録されており、うちオークリーが2曲、ウィリアムズが5曲ベースを弾いている。オークリーは自由なアプローチのベースを展開していたが、ウィリアムズのベース・スタイルはオーソドックスでグルーヴィーなものである。結果的にバンドのリズム・セクションはよりアクティヴに進化したとも言える。
ウィリアムズ加入後のオールマン・ブラザーズは全盛期を迎え、ライヴを行ったアリーナやスタジアムは聴衆でぎっしり埋まった。ニューヨーク州ワトキンズ・グレンで行われたサマー・ジャムでは約60万人もの聴衆の前で演奏している。
バンドが巨大化するにつれ、メンバー間のエゴもぶつかり合うようになり、バンド内はリーヴェル、ウィリアムズ、ジェイモーがひとつのグループを形作るようになった。
1976年、グレッグ・オールマンが麻薬に絡んだ事件の関係者となる。自分が逮捕されることを恐れたオールマンは、バンドのロード・マネージャーに責任がある旨偽証したことから、他のメンバーがグレッグとの演奏を拒否する事態となった。音楽的見解の相違、メンバー間の溝なども相まって、この年オールマン・ブラザーズ・バンドは解散した。
解散後、ウィリアムズは、チャック・リーヴェル(keyboards)、ジェイモー(drums)、そしてグレッグ・オールマンのアルバムにも参加していたジミー・ノールズ(guitar)とともに、フュージョン色の濃い新たなサザン・ロック・バンド「シー・レヴェル」を結成。
シー・レヴェルは1978年までに3枚のアルバムを出し、着実に活動していたが、この頃オールマン・ブラザーズの再結成が持ち上がり、リーヴェル、ウィリアムズ、ジェイモーにも声がかかった。ジェイモーはオールマン・ブラザーズに復帰したが、ウィリアムズとリーヴェルはシー・レヴェルでの活動を継続したいと考え、このオファーを辞退した。
シー・レヴェルはある程度の商業的成功を収めていたが、ウィリアムズはシー・レヴェル解散直前の1980年に脱退した。
ウィリアムズは、オールマン・ブラザーズを再度脱退したジェイモーとともに、その後まもなくミシシッピ時代の友人であるウェイン・シャープのバンド、「シャープシューター・バンド」に加わる。
1981年、ウィリアムズはツアー中に体調不良を訴え、診察の結果肺癌であることが判明した。医師は、ベトナム従軍中にアメリカ軍が散布した枯葉剤が原因だとしている。
その後手術を受けたウィリアムズは、最期の1年のほとんどをカリフォルニア州ロサンゼルスの退役軍人の医療施設で過ごし、化学療法を受けていたが、34歳の誕生日の7日後の1983年1月21日にロサンゼルスで死去した。
葬儀は故郷のミシシッピ州ガルフポートで執り行われ、遺体はミシシッピ州ビロクシの国立墓地に埋葬された。
ウィリアムズの死後、非営利団体「ラマー・ウィリアムズ枯葉剤研究財団」が設立された。同財団は慈善コンサートの収益金を財団や他のベトナム戦争関連団体に寄付するなどの活動を行ったのち、ベトナム戦争退役軍人が抱える問題に取り組んでいる組織「ウェルカム・ホーム」社に統合された。
2015年、ミシシッピ州ブルース・コミッションが公式に推薦するブルースの名所ガイド「ミシシッピ・ブルース・トレイル」は、ウィリアムズやジェイモーなどアメリカの音楽界に足跡を残した近隣のミュージシャンを称える「ガルフポート・ブギー」という標識を設置した。
兄弟のひとりであるジェームズ・ウィリアムズもベーシストで、ミシシッピ州ランシングを拠点とするブルース・バンド「ルート・ドクター」の創設メンバーである。
また息子のラマー・ウィリアムズJr.は、2019年に「ニュー・マスターサウンズ」にヴォーカリストとして参加したのち、「トラブル・ノー・モア」のヴォーカリストを務めている。トラブル・ノー・モアはオールマン・ブラザーズの曲を積極的にレパートリーに取り上げている。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<オールマン・ブラザーズ・バンド>
1973年 ブラザーズ・アンド・シスターズ/Brothers and Sisters US1位, UK42位
1975年 ウィン・ルーズ・オア・ドロウ/Win, Lose or Draw US5位
☆1976年 熱風/Wipe the Windows, Check the Oil, Dollar Gas US75位
★1989年 Dreams US103位
★1991年 オールマン・ブラザーズ・バンド・コレクション/A Decade of Hits 1969~1979 US39位
☆★1996年 The Best of the Allman Brothers Band Live
☆2005年 Nassau Coliseum, Uniondale NY : 5/1/73 ※録音1973年5月1日 US位
<シー・レヴェル>
1977年 荒海/Sea Level
1977年 海猫/Cats on the Coast オーストラリア99位
1978年 On the Edge
1979年 Long Walk on a Short Pier
1980年 ボール・ルーム/Ball Room