ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

ジャック・ライランド

2025-01-28 11:13:27 | bass

ジャック・ライランド Jack Ryland


 【パート】

   ベース

 【生没年月日】
   1950年11月15日~1996年11月13日(45歳没)

 【経 歴】
   スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night(1973~1975)
   

 ジャック・ライランドはアメリカのベーシスト。
 ステッペンウルフに短期間在籍したのち、1973年にスリー・ドッグ・ナイトに2代目ベーシストとして加入。

 ジャック・ライランドはアメリカ出身のベーシストである。
 ライランドは最初に取り組んだ楽器はドラムだった。
 その後
ベースに転向し、13歳の時にローカル・バンド「バウンダリーズ」のメンバーとなった。バウンダリーズは、「レイビング・マッド」という曲をマイナー・ヒットさせ、ちょっとした成功を収めた。
 ライランドはバウンダリーから離れた後、数人のアーティストのサイドマンとして働いたほか、ごく短期間であるが「セブン」や「ステッペンウルフ」にも加わっている。
 ライランドが共演経験のあるミュージシャンとしては、アルバート・コリンズ、マック・デイビス、ルー・ロウルズ、ヘレン・レディ、カーラ・トーマス、ウルフマン・ジャックなどがいる。

 1973年、ライランドはジョー・シェルミーの後任として、当時アメリカのロック・シーンで屈指の人気を誇っていた「スリー・ドッグ・ナイト」に加わる。スリー・ドッグ・ナイトには約2年在籍し、サイアン」「ハード・レイバー」「カミング・ダウン・ユア・ウェイ」の3枚のアルバムほか、「シャンバラ」などシングル6曲の録音に参加している。
 アルバム「カミング・ダウン・ユア・ウェイ」録音中の1975年に脱退した。
 晩年のライランド
はうつ病に苦しみ、1996年に45歳で亡くなった。46歳の誕生日の2日前だった。


     


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <スリー・ドッグ・ナイト>
  ◆アルバム
   1973年 サイアン/Cyan US26位
   1974年 ハード・レイバー/Hard Labor US20位
  ★1974年 喜びの世界/Joy to the World:Their Greatest Hits US5位
   1975年 カミング・ダウン・ユア・ウェイ/Coming Down Your Way US70位
  ★1993年 セレブレイト〜スリー・ドッグ・ナイト・ストーリー1965-1975/Celebrate : The Three Dog Night Story, 1965-1975
  ★1999年 20th Century Masters - The Millennium Collection : The Best of Three Dog Night(US109位)
  ★2002年 ジョイ・トゥ・ザ・ワールド〜ベスト・オブ・スリー・ドッグ・ナイト/Joy to the World - The Best of Three Dog Night
  ★2004年 The Complete Hit Singles(US178位)
  ★2004年 35th Anniversary Hits Collection

  ◆シングル
   1973年 シャンバラ/Shambala US3位
   1973年 愛のセレナーデ/Let Me Serenade You US17位
   1974年 ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン/The Show Must Go On US4位
   1974年 人生なんてそんなもの/Sure As I'm Sittin' Here US16位
   1974年 ブリックヤード・ブルース/Play Something Sweet US33位
   1975年 Till the World Ends US32位
   
 <ステッペンウルフ>
  ★1991年 /Born to Be Wild / A Retrospective ※Steppenwolf featuring John Kay名義

 <レコーディング・セッション>
   1975年 From the Hartland(Becky Hobbs)
  ★1997年 The Lost Heritage Tapes(John Kay & Company)


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スティーヴ・プリースト

2025-01-09 02:19:28 | bass

スティーヴ・プリースト Steve Priest

 【本 名】
   スティーヴン・ノーマン・プリースト/Stephen Norman Priest

 【パート】

   ベース、ヴォーカル 

 【生没年月日】
   1948年2月23日~2020年6月4日(72歳没)

 【出生地】
   イングランド ミドルセックス州ヘイズ

 【経 歴】
   ザ・スウィートショップ/The Sweetshop(1968)
   ザ・スウィート/The Sweet(1968~1973)
   スウィート/Sweet(1973~1981)
   アリーズ/Allies(1985)
   スティーヴ・プリースツ・スウィート/Steve Priest's Sweet(2008~)


 スティーヴ・プリーストは、イングランドのロック・バンド「スウィート」のオリジナル・メンバーで、ベーシストである。

 イングランド南東部のミドルセックス州ヘイズで生まれたプリーストは、子供の頃は教会の聖歌隊に参加していたが、やがてシャドウズのベーシストであるジェット・ハリス、ローリング・ストーンズ、ザ・フーなどの音楽に影響されるようになる。
 10代の頃にはベース・ギターを自作するまでになっており、ローカル・バンドでベーシストとして活動するようになった。
 その後「ジ・アーミー」というバンドのベーシストを務めていたが、ブライアン・コノリー(vocal)、ミック・タッカー(drums)、フランク・トーピー(guitar)というメンバーで1968年1月に結成された「ザ・スウィートショップ」から声をかけられ、加入する。
 スウィートショップは1968年3月にデビューしたが、イギリスの別のバンドが「Sweetshop」というタイトルのシングル・レコードをリリースしたため、バンドは「ザ・スウィート」と名を改めた。
 ザ・スウィートは1968年7月にデビュー・シングル「スロー・モーション」をリリースしたが、これは全く売れなかった。
 1969年にトーピーが脱退し、代わりにミック・スチュワート(guitar)が加入。その後パーロフォンに移籍して3枚のシングル・レコード(「Lollipop Man」「All You'll Ever Get from Me」「Get on the Line」)をリリースしたが、鳴かず飛ばずであった。
 1970年8月にはスチュワートの後任としてアンディ・スコット(guitar)が加入するが、これがバンドにとってのターニング・ポイントになる。

 バンドはマイク・チャップマンとニッキー・チンをマネージメント兼コンポーザー・チームとして迎え、RCAと契約を結ぶ。そして心機一転、1971年にシングル「
ファニー・ファニー」をリリースすると、これが全英13位、オランダとスウェーデンでは1位となる大ヒットを記録したのである。
 音楽的にはポップなメロディーを持つバブルガム・サウンド、ビジュアル的には煌びやかでグラム・ロックの要素を前面に押し出したザ・スウィートは、ティーンエイジャーから大きな支持を集め、一躍人気バンドに成長した。
 ザ・スウィートは「ファニー・ファニー」以後も「ヘル・レイザー」「ブロックバスター」「ロックンロールに恋狂い」「ティーンエイジ・ラムペイジ」など全英トップ10ヒットを連発、ヨーロッパ諸国でも大きなセールスを記録した。またアメリカでは「リトル・ウィリー」が1972年に3位の大ヒットを記録してミリオン・セラーとなったほか、1973年の「ボールルーム・ブリッツ」が5位となっている。
 1973年、バンドは名称を「ザ・スウィート」から「スウィート」に変更。



 しかしスウィートはアイドル・バンドとして扱われることに満足しておらず、バンドの主導で音楽を制作したいと強く願うようになり、チャップマン&チンとは距離を置いてハード・ロック・サウンドへシフト。こうしてリリースした「フォックス・オン・ザ・ラン」と「アクション」はアメリカのヒット・チャートを席捲した。
 1975年、「フォックス・オン・ザ・ラン」を収録したアルバム「荒廃の街角」が発表される。このアルバムにはチャップマン&チンも関わっていたが、バンドのセルフ・プロデュース曲も含んでおり、全米アルバムチャート25位を記録。スウィート唯一のゴールド・アルバムを獲得している。
 この成功により自信をつけた彼らは、チン&チャップマンと袂を分かち、1976年に初めて全曲4人の共作によるオリジナルで構成したアルバム「甘い誘惑」を発表。このアルバムは全米27位のヒットを記録している。

 ポップなハード・ロック・バンドとして認められたスウィートは、1970年代半ばが全盛期である。ザ・フーのピート・タウンゼントもスウィートを高く評価していたほか、日本では一時クイーンのライバルと見なされるほどの人気を誇った。 
 プリーストとミック・タッカー(drums)が組んだリズム・セクションは非常に強力で、スウィートのハードなサウンドの礎であり、その安定した演奏はバンドを支え続けた。

 しかし1977年を境にスウィートは徐々に勢いを失う。1978年にリリースしたシングル「愛が命」は全英9位、全米8位を記録したが、これがスウィートの最後の全英チャートトップ100シングルとなった。
 1978年11月にはリード・ヴォーカリストのブライアン・コノリーが脱退(発表されたのは1979年2月)し、ソロ活動を開始する。
 コノリー脱退後のスウィートは、プリーストがリード・ヴォーカルを兼ね、ロック・トリオとして活動を継続することを決めた。そしてキーボード奏者のゲイリー・モバーリー(Gary Moberley)をサポートに加えて、1979年にシングル「コール・ミー」をリリースする。
 1979年12月26日、ミック・タッカーのポーリーン夫人が自宅浴室で死亡。これを受けてスウィートは1980年の全てのツアーをキャンセルした。1981年にイギリスで短いツアーを行ったが、1981年3月20日のグラスゴー大学でのライヴを最後に、同年解散した。


 
 スウィート解散後のプリーストは1980年代半ばにニューヨークに渡り、マルコ・デルマー(guitar)、スティーヴ・ミサル(drums)と「アリーズ」(Allies)を結成する。彼らが制作した曲「トーク・トゥ・ミー」は、映画「ファーストフード」で取り上げられたものの、バンドとして成功するまでには至らなかった。
 1985年、
プリーストはロサンゼルスに移住。
 この年アンディ・スコットが結成した「アンディ・スコッツ・スウィート」への参加を打診されたが、これを辞退。
 1988年にはスウィートのオリジナル・メンバーを集め、マイク・チャップマンのプロデュースでデモ・セッションを行い、再結成の可能性を探ったが、この計画は実現しなかった。
 1994年、自伝「アー・ユー・レディ、スティーヴ?」を出版。そのタイトルは「ボールルーム・ブリッツ」のイントロで聞こえるコノリーの掛け声から取られたものである。

 プリーストはその後もロサンゼルスを拠点に音楽制作やセッション・ワークを行っていたが、2008年1月に「スティーヴ・プリースツ・スウィート」を結成し、2009年にはライヴ・アルバムをリリースした。プリーストはカナダとアメリカで、アンディ・スコットはイギリスとオーストラリアで「スウィート」の名前とロゴを所有し、それぞれの「スウィート」で活動を続けた。
 晩年は妻とふたりの娘とともにカリフォルニア州ラ・カニャーダ・フリントリッジで暮らしていたが、2020年6月4日に72歳で死去。死因は公表されていない。
 死後はカリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン記念公園に埋葬された。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>
  1971年 Funny Funny, How Sweet Co-Co Can Be(フィンランド1位)
 ★1972年 The Sweet's Biggest Hits(フィンランド3位)
 ★1973年 ブロックバスター/The Sweet(US191位)
  1974年 スイート・ファニー・アダムス/Sweet Fanny Adams(UK27位 ドイツ2位 スウェーデン4位 オーストリア6位 フィンランド9位)
  1975年 荒廃の街角(旧邦題:危険なブールヴァード)/Desolation Boulevard(US25位 スウェーデン2位 カナダ5位 フィンランド9位 ドイツ9位)
☆★1975年 ライヴ・アンド・ベスト/Strung Up(スウェーデン4位 オーストリア10位 オーストラリア10位)
  1976年 甘い誘惑/Give Us A Wink(US27位 スウェーデン3位 ドイツ9位)
  1977年 明日なき青春/Off The Record(US151位 オーストリア5位)
  1977年 The Golden Greats
  1978年 甘い罠/Level Headed(US52位)
  1979年 標的/Cut Above The Rest(US151位)
  1980年 Water Edge
  1982年 Identity Crisis

 <シングル>
  1968年 スロー・モーション/Slow Motion
  1969年 The Lollipop Man
  1970年 All You'll Ever Get from Me
  1970年 Get on the Line
  1971年 ファニー・ファニー/Funny Funny(UK13位)
  1971年 コ・コ/Co-Co(UK2位 US99位)
  1971年 アレキサンダー・グラハム・ベル/Alexander Graham Bell(UK33位)
  1972年 ポパ・ジョー/Poppa Joe(UK11位)
  1972年 リトル・ウィリー/Little Willy(UK4位 US3位)
  1972年 ウィグワム・バム/Wig-Wam Bam(UK4位)
  1973年 ブロック・バスター/Block Buster!(UK1位 US73位)
  1973年 I'm on My Way
  1973年 ヘル・レイザー/Hell Raiser(UK2位)
  1973年 It's Lonely Out There
  1973年 ロックン・ロールに恋狂い/Ballroom Blitz(UK2位 US5位)
  1974年 ティーンエイジ狂騒曲/Teenage Rampage(UK2位)
  1974年 初恋の16才/The Six Teens(UK9位)
  1974年 Turn It Down(UK41位)
  1974年 ペパーミント・ツイスト/Peppermint Twist
  1975年 フォックス・オン・ザ・ラン/Fox on the Run(UK2位 US5位)
  1975年 アクション/Action(UK15位 US20位)
  1976年 恋はだましあい/The Lies in Your Eyes(UK35位)
  1976年 7月4日/4th of July
  1976年 ロスト・エンジェル/Lost Angels
  1977年 愛の炎/Fever of Love
  1977年 Stairway to the Stars
  1977年 ファンクでいこう/Funk It Up(David's Song)(US88位)
  1978年 愛が命/Love Is Like Oxygen(UK9位 US8位)
  1978年 カリフォルニア・ナイツ/California Nights(US76位)
  1979年 コール・ミー/Call Me
  1979年 マザー・アース/Mother Earth
  1979年 ビッグ・アップル・ワルツ/Big Apple Waltz
  1980年 Give the Lady Some Respect
  1980年 Sixties Man
  1982年 Falling in Love
  1984年 It's It's…The Sweet Mix(UK45位)
  1985年 Sweet 2th - The Wigwam Willy Mix(UK85位)


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ラマー・ウィリアムス

2024-11-05 00:23:03 | bass

ラマー・ウィリアムズ Lamar Williams


 【パート】

   ベース 

 【生没年月日】
   1949年1月14日~1983年1月21日(34歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国ミシシッピ州ガルフポート

 【経 歴】
   オールマン・ブラザーズ・バンド/Allman Brothers Band(1972~1976)
   シー・レヴェル/Sea Level(1976~1980)
   シャープシューター・バンド/SharpShooter Band(1980~1981)


 ラマー・ウィリアムズは、オールマン・ブラザーズの2代目ベーシストである。

 1949年1月14日、ウィリアムズはミシシッピ州ガルフポートで生まれた。
 近くのミシシッピ州ハンズボロで育ったウィリアムズは、父が音楽好きだったこともあって子供の頃から音楽と接していたが、そのうち歌の伴奏のベースラインに惹かれるようになり、独学でベースを弾くようになった。とくにウィリアムズが影響を受けたのは、ジェームス・ジェマーソンやスタンリー・クラークなどである。
 14歳の時には、父もメンバーのひとりだったゴスペル・バンド「ディープ・サウス」で演奏するようになる。

 高校に進んだウィリアムズは、1965年に学校でジョン・リー・ジョンソンと出会う。
 ジョンソンはドラマーで、一緒にバンドを組むことになり、のち終生の友となるが、彼がのちにオールマン・ブラザーズ・バンドでバンドメイトになるジェイ・ジョハンニー・ジョハンソンことジェイモーである。ウィリアムズのベースはリズム&ブルースやジャズのフィーリングが豊かで、ジェイモーのドラミングにも影響を与えたと言われている。
 ウィリアムズとジェイモーはベイ・エリアの多くのバンドで演奏した。その中で最も知られているのが、1965年から1967年まで在籍したジョージ・ウッズ率いる「サウンズ・オブ・ソウル」である。

 1968年、ウィリアムズは徴兵され、アメリカ陸軍に入隊。
 配属先は特別部隊のバンドだったことから、軍の下士官クラブや基地のある地元住民のために演奏したが、バンドはカントリー&ウエスタンやラグタイムなどロックやR&B以外のジャンルもレパートリーとしていた。ウィリアムズはこの時期にさまざまな種類の音楽を受け入れることで、幅広い音楽性を養った。ウィリアムズ自身、のちに「音楽的に興味深い時期だった」と述べている。
 当時はベトナム戦争真っただ中であったため、ウィリアムスもやがて南ベトナムに派遣される。
 ウィリアムズ自身は平和主義者で、一貫してベトナム戦争に反対していた。そのため隊内では反抗的な態度を取ることもあったという。
 一説によると、南ベトナムの基地に到着したウィリアムズはまもなく脱走してジャングルに入って数ヵ月間村から村をさまよった。時には「部隊とはぐれた」として新しい部隊に加わったりしたという。また憲兵に逮捕されたこともあった。釈放されたものの、その後も憲兵に目をつけられることがあったが、何人かの黒人の憲兵はそのことを知らせてくれ、おかげウィリアムスは事なきを得たという。

 1970年、ウィリアムズは二等兵として陸軍を名誉除隊する。
 除隊手続き期間を終えると、「ファンガス・ブルース・バンド」とジャム・セッションを行ったりして日々を過ごしていた。
 1972年11月11日、オールマン・ブラザーズ・バンドのベーシスト、ベリー・オークリーがオートバイ事故により24歳の若さで死去する。オールマン・ブラザーズには友人のジェイモーが在籍しており、ウィリアムズはその繋がりからオーディションに参加することになった。ウィリアムズのオーディション中、バンドのもうひとりのドラマー、ブッチ・トラックスが突然「このオーディションはもう充分だ。リハーサルをしよう!」と言いだしたという。こうして1972年の終わり頃、ウィリアムズはオークリーの後任としてオールマン・ブラザーズに加入することになった。
 
 1973年8月、加入後初のアルバム「ブラザーズ&シスターズ」が発表される。
 全米1位の大ヒットを記録したこのアルバムは全7曲が収録されており、うちオークリーが2曲、ウィリアムズが5曲ベースを弾いている。オークリーは自由なアプローチのベースを展開していたが、ウィリアムズのベース・スタイルはオーソドックスでグルーヴィーなものである。結果的にバンドのリズム・セクションはよりアクティヴに進化したとも言える。

 ウィリアムズ加入後のオールマン・ブラザーズは全盛期を迎え、ライヴを行ったアリーナやスタジアムは聴衆でぎっしり埋まった。ニューヨーク州ワトキンズ・グレンで行われたサマー・ジャムでは約60万人もの聴衆の前で演奏している。
 バンドが巨大化するにつれ、メンバー間のエゴもぶつかり合うようになり、バンド内はリーヴェル、ウィリアムズ、ジェイモーがひとつのグループを形作るようになった。
 1976年、グレッグ・オールマンが麻薬に絡んだ事件の関係者となる。自分が逮捕されることを恐れたオールマンは、バンドのロード・マネージャーに責任がある旨偽証したことから、他のメンバーがグレッグとの演奏を拒否する事態となった。音楽的見解の相違、メンバー間の溝なども相まって、この年オールマン・ブラザーズ・バンドは解散した。

 解散後、ウィリアムズは、チャック・リーヴェル(keyboards)、ジェイモー(drums)、そしてグレッグ・オールマンのアルバムにも参加していたジミー・ノールズ(guitar)とともに、フュージョン色の濃い新たなサザン・ロック・バンド「シー・レヴェル」を結成

 シー・レヴェルは1978年までに3枚のアルバムを出し、着実に活動していたが、この頃オールマン・ブラザーズの再結成が持ち上がり、リーヴェル、ウィリアムズ、ジェイモーにも声がかかった。ジェイモーはオールマン・ブラザーズに復帰したが、ウィリアムズとリーヴェルはシー・レヴェルでの活動を継続したいと考え、このオファーを辞退した。
 シー・レヴェルはある程度の商業的成功を収めていたが、ウィリアムズはシー・レヴェル解散直前の1980年に脱退した。
 ウィリアムズは、オールマン・ブラザーズを再度脱退したジェイモーとともに、その後まもなくミシシッピ時代の友人であるウェイン・シャープのバンド、「シャープシューター・バンド」に加わる。

 1981年、ウィリアムズはツアー中に体調不良を訴え、診察の結果肺癌であることが判明した。医師は、ベトナム従軍中にアメリカ軍が散布した枯葉剤が原因だとしている。
 その後手術を受けたウィリアムズは、最期の1年のほとんどをカリフォルニア州ロサンゼルスの退役軍人の医療施設で過ごし、化学療法を受けていたが、34歳の誕生日の7日後の1983年1月21日にロサンゼルスで死去した。
 葬儀は故郷のミシシッピ州ガルフポートで執り行われ、遺体はミシシッピ州ビロクシの国立墓地に埋葬された。
 ウィリアムズの死後、非営利団体「ラマー・ウィリアムズ枯葉剤研究財団」が設立された。同財団は慈善コンサートの収益金を財団や他のベトナム戦争関連団体に寄付するなどの活動を行ったのち、ベトナム戦争退役軍人が抱える問題に取り組んでいる組織「ウェルカム・ホーム」社に統合された。
 2015年、ミシシッピ州ブルース・コミッションが公式に推薦するブルースの名所ガイド「ミシシッピ・ブルース・トレイル」は、ウィリアムズやジェイモーなどアメリカの音楽界に足跡を残した近隣のミュージシャンを称える「ガルフポート・ブギー」という標識を設置した。

 兄弟のひとりであるジェームズ・ウィリアムズもベーシストで、ミシシッピ州ランシングを拠点とするブルース・バンド「ルート・ドクター」の創設メンバーである。
 また息子のラマー・ウィリアムズJr.は、2019年に「ニュー・マスターサウンズ」にヴォーカリストとして参加したのち、「トラブル・ノー・モア」のヴォーカリストを務めている。トラブル・ノー・モアはオールマン・ブラザーズの曲を積極的にレパートリーに取り上げている。


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

<オールマン・ブラザーズ・バンド>

  1973年 ブラザーズ・アンド・シスターズ/Brothers and Sisters US1位, UK42位
  1975年 ウィン・ルーズ・オア・ドロウ/Win, Lose or Draw US5位
 ☆1976年 熱風/Wipe the Windows, Check the Oil, Dollar Gas US75位
 ★1989年 Dreams US103位
 ★1991年 オールマン・ブラザーズ・バンド・コレクション/A Decade of Hits 1969~1979 US39位
☆★1996年 The Best of the Allman Brothers Band Live
 ☆2005年 Nassau Coliseum, Uniondale NY : 5/1/73 ※録音1973年5月1日 US位

<シー・レヴェル>
  1977年 荒海/Sea Level
  1977年 海猫/Cats on the Coast オーストラリア99位
  1978年 On the Edge
  1979年 Long Walk on a Short Pier
  1980年 ボール・ルーム/Ball Room


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カール・レイドル

2024-09-09 01:22:30 | bass

カール・レイドル Carl Radle

【本 名】
  カール・ディーン・レイドル/Carl Dean Radle

【パート】
  ベース

【生没年月日】
  1942年6月18日~1980年5月30日(37歳没)

【出身地】
  アメリカ合衆国オクラホマ州タルサ

【経歴】
  
  ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ/Gary Lewis & the Playboys(1965~1967)
  カラーズ/Colourss(1968)
  デラニー&ボニー&フレンズ/Delaney & Bonnie & Friends(1969~1970)
  マッド・ドッグス&イングリッシュメン/Mad Dogs & Englishman(1970)
  デレク&ザ・ドミノス/Derek & The Dominos(1970~1971)
  エリック・クラプトン&ヒズ・バンド/Eric Clapton & His Band(1974~1979) 


 カール・レイドルは、アメリカ合衆国のベーシストである。
 1960年代後半から1970年代にかけて、セッション・ミュージシャンとして活躍。1970年代はデレク&ザ・ドミノスを含め、エリック・クラプトンのベーシストとして彼を支えたことでも知られている。


 レイドルはオクラホマ州タルサで生まれた。生年月日は1942年6月18日で、これはポール・マッカートニーと全く同じである。
 1960年代初頭に活動を始めたレイドルは、レオン・ラッセル、デヴィッド・ゲイツ、J. J. ケイルなど地元タルサのミュージシャンたちと親交を深めるようになった。やがてレオン・ラッセルはカリフォルニア州に移住し、ラッセルに声をかけられたレイドルもその後を追うようにしてカリフォルニアに移った。
 カリフォルニアでのレイドルはクラブなどで演奏していたが、その後タルサに戻ってオクラホマ州空軍所属の州兵となる。
 1965年に除隊すると、再びカリフォルニアに行き、同年ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズにベーシストとして加入。
 1967年にゲイリー・ルイスが徴兵されると、レイドルはセッション・ミュージシャンとして活動するようになり、ジョン・リー・フッカーのレコーディングに参加した。1968年にはまたサイケデリック系のカルト・バンド「カラーズ」のメンバーとなり、2枚のアルバムに参加している。


 1968年、レイドルはレオン・ラッセルの紹介でデラニーとボニー・ブラムレットに出会った。
 同年に行なわれたデラニー&ボニーのアルバム「ホーム」の録音に参加したレイドルは、デラニー&ボニーのツアー・バンドの一員となる。
 1969年11月、ブラインド・フェイスから離れたエリック・クラプトンがデラニー&ボニーに参加する。レイドルとクラプトンの長きにわたる関係はここから始まる。
 レイドルはさっそくクラプトンのファースト・ソロ・アルバム「エリック・クラプトン・ソロ」の録音に参加。またデラニー&ボニーの「Get Ourselves Together」と「Never Ending Song of Love」をクラプトンと共作している。
 クラプトンが加わったデラニー&ボニーは、1969年11月から1970年3月までヨーロッパ、およびアメリカ・ツアーを行っているが、この時のツアー・バンドのメンバーが、レイドルをはじめ、のちデレク&ザ・ドミノスのメンバーとなるボビー・ウィットロック、ジム・ゴードンらである。
 このツアーにおける1969年12月のサウス・ロンドンでのライヴは、1970年3月にデラニー&ボニー&フレンズ名義で「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」としてリリースされている。


 1970年、デラニー&ボニーのバンドが一時的に活動を停止したため、レイドルはバンドから離れてジョー・コッカーのバンド「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のツアー・メンバーとなった。1970年3月には、ニューヨークのフィルモア・イーストで行われたライヴ・レコーディングに参加している。





 1970年4月、クラプトンとウィットロックは、イギリスでジャム・セッションを行うようになった。クラプトンは新たなバンドを結成しようと考えるようになり、アメリカにいたレイドルとゴードンに連絡を取った。ちょうどこの時期(1970年5月)、レイドル、クラプトン、ウィットロック、ゴードンの4人は、そろってジョージ・ハリスンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングに参加していた。この後4人はクラプトンの家に同居し、作曲とセッションに打ち込むようになった。こうしてクラプトンの新バンド「デレク&ザ・ドミノス」結成への動きは加速し、一時期デイヴ・メイスンが加わって5人編成となったバンドは、1970年6月14日にロンドンのライシアム劇場で初ライヴ行った。
 デレク&ザ・ドミノスは、デュアン・オールマンがゲスト参加したファースト・アルバム「いとしのレイラ」を1970年11月に発表。トム・ダウドは「レイ・チャールズの「The Genius of Ray Charles」以来、自分が関わった中で最高のアルバムだ」と述べたほど音楽的には素晴らしい内容だったが、アルバムに対する評価は思わしいものではなかった。「レイラ」の商業的な失敗に加え、デュアン・オールマンの死がクラプトンを精神的に追い詰めた。バンド内の緊張感も途切れ、デレク&ザ・ドミノスは1971年に解散する。


 デレク&ザ・ドミノス解散前後の1970年から1972年頃にかけてのレイドルはセッション・ワークで多忙な日々を送る。デイヴ・メイスン、J. J.  ケイル、ジョージ・ハリスン、ジョー・コッカー、レオン・ラッセル、ボブ・ディラン、バディ・ガイ、アート・ガーファンクル、デュアン・オールマン、ジョン・リー・フッカー、ボビー・ウィットロック、リタ・クーリッジ、クリス・クリストファースンなど多くのミュージシャンのレコーディングやツアーに参加している。
 1970年8月1日には、レオン・ラッセルやエリック・クラプトンとともに、ジョージ・ハリスンとラヴィ・シャンカールがニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行った慈善コンサート「バングラディシュ難民救済コンサート」に出演している。


 1969年に始まったレイドルとエリック・クラプトンの交流は、クラプトンがデレク&ザ・ドミノス解散後の1971年から休養に入ったため、3年ほど表面上は中断していたが、その間もレイドルはクラプトンに、ともにレコーディングを行ったミュージシャン達の音源を提供している。
 1974年にアルバム「461 オーシャン・ブールヴァード」でクラプトンが再始動した際には、ベーシストとして録音に参加したほか、「マザーレス・チルドレン」など数曲ではアレンジャーを務め、単なるサイドマン以上の役割を果たした。またアルバム「ノー・リーズン・トゥ・クライ」では共同プロデューサーとしてクラプトンを支えている。
 レイドルは、1970年から1979年までのクラプトンの全てのソロ・アルバムに参加しているほか、1974年から1979年までは彼のツアー・バンドのベーシストを務めた。
 そのほか、デイヴ・メイスンのアルバム「アローン・トゥゲザー」のほか、セルジオ・メンデスとブラジル77、ドノヴァン、プラスチック・オノ・バンド、マーク・ベノ、ドクター・ジョンなど、多くのミュージシャンと共演している。
 1976年にはザ・バンドの解散コンサートに出演したが、その模様は1978年の映画「ラスト・ワルツ」で見ることができる。


 1979年、クラプトンは新しいサウンドを求めてバンドを解散した。その後レイドルはタルサに戻って暮らしていたが、1980年5月30日、アルコールと薬物の過剰摂取による腎不全のため、オクラホマ州クレアモアの自宅で、37歳の若さで死去した。
 そのキャリアを通じて、レイドルは数多くの名作の録音に参加した。レイドルは1970年代最高のベーシストのひとりに数えられており、彼のシンプルではあるが歌心に満ちたベース・ラインは常にサウンド全体を支え、曲をサポートすることを最優先とした堅実な演奏は、共演した多くのミュージシャンすべてから尊敬を集めた。
 2006年には、オクラホマ音楽の殿堂入りを果たしている。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <カラーズ>
  1968年 Colours

 <デレク&ザ・ドミノス>
  1970年 いとしのレイラ
/layla and Other Assorted Love Songs(US16位)
 ☆1973年 イン・コンサート/In Concert(US20位)
  1990年 レイラ・セッションズ/The Layla Sessions:20th Anniversary Edition(US157位)
 ☆1994年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア/Live at the Fillmore ※録音1970年10月
 
 <エリック・クラプトン>
  1970年 エリック・クラプトン・ソロ/Eric Clapton
(US13位, UK14位)
  1974年 461 オーシャン・ブールヴァード/461 Ocean Boulevard(US1位, UK3位)
  1975年 安息の地を求めて/There's One in Every Crowd(US21位, UK15位)
 ☆1975年 エリック・クラプトン・ライヴ/E.C. Was Here(US20位, UK14位)
  1976年 ノー・リーズン・トゥ・クライ/No Reason to Cry(US15位, UK8位)
  1977年 スロウハンド/Slowhand(US2位, UK23位)
  1978年 バックレス/Backless(US8位, UK18位)

 <レコーディング・セッション>
  1970年 オール・シングス・マスト・パス(ジョージ・ハリスン)(US1位, UK1位)
  1970年 アローン・トゥゲザー/Alone Together(デイヴ・メイスン/Dave Mason)(US22位)
  1971年 レオン・ラッセル & ザ・シェルター・ピープル/Leon Russell and the Shelter People(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US17位, UK29位)
  1971年 Naturally(J. J. ケイル/J. J. Cale)(US51位)
  1972年 カーニー/Carney(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US2位)
  1972年 ザ・レディース・ノット・フォー・セール/The Lady's Not for Sale(リタ・クーリッジ/Rita Coolidge)(US46位)
  1973年 レオン・ライヴ!!/Leon Live(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US9位)
  1973年 ハンク・ウィルソンズ・バック/Hank Wilson's Back(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US28位)
  1973年 天使の歌声/Angel Clare(アート・ガーファンクル/Art Garfunkel)(US5位, UK14位)
  1973年 イッツ・ライク・ユー・ネヴァー・レフト/It's Like You Never Left(デイヴ・メイスン/Dave Mason)(US25位)
  1974年 ストップ・オール・ザット・ジャズ/Stop All That Jazz(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US34位)
  1975年 ジョージ・ハリスン帝国/Extra Texture(ジョージ・ハリスン)(US8位, UK16位)
 ☆1975年 ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan(レオン・ラッセル/Leon Russell)
  1975年 ウィル・オ・ザ・ウィスプ/Will O'the Wisp(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US30位)
  1979年 5(J. J. ケイル/J. J. Cale)(US136位, UK40位)


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アラン・カートライト

2024-07-11 15:35:22 | bass

アラン・カートライト Alan George Cartwright


【パート】

  ベース・ギター、コントラバス、ヴォーカル

【生没年月日】
  1945年10月10日~2021年3月4日(75歳没)

【出身地】
  イングランド ロンドン

【経 歴】
  フレディー・マック・サウンド/Freddie Mack Sound

  スウィートウォーター・キャナル/Sweetwater Canal(1969)
  エヴリ・ウィッチ・ウェイ/Every Which Way(1970~1971)
  プロコル・ハルム(1971~1976, 1977)

 
 アラン・カートライトはロンドン北部で生まれた。
 1960年代中頃、元ライトヘヴィー級世界3位のボクサーでシンガーのフレディ・マックのバンド「ザ・マック・サウンド」(のち「フレディー・マック・サウンド」に改名)にベーシストとして加入する。このバンドのドラマーは、のちにプロコル・ハルムで一緒にプレイすることになるB.J.ウィルソン(drums)であった。


 1969年、ブルースやジャズを演奏するバンド「スィートウォーター・キャナル」に加わる。メンバーはカートライトのほか、アリキ・アシュマン(vocal)、ロイ・デイヴィーズ(keyboard)、トニー・ナイト(drums)、フレッド・ダルバート(guitar)、フィル・ケンジー(alto sax)、デイヴ・コックスヒル(alto sax)、ジェフ・ドリスコール(trumpet)、パット・ヒッグス(tuba)、レイ・ドラパー(valve trombone)の計10人であった。バンドはロニー・スコッツ・クラブなどで演奏活動を行った。


 1970年には、元ナイスのブライアン・デヴィソン(drums)、グラハム・ベル(vocal)、ジョン・ヘドリー(guitar)、ジェフリー・ピーチ(sax, flute)とともにジャズ・ロック・グループ「エヴリ・ウィッチ・ウェイ」を結成したが、アルバムを1枚発表しただけで、1971年春に解散。


 1971年8月、プロコル・ハルムに加入。カートライトが加入したことによって、それまでオルガンとベースを兼ねていたクリス・コッピングはオルガンに専念できるようになった。
 プロコル・ハルムには約5年間在籍。その間名作と名高い『グランド・ホテル』を含む3枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムの制作に参加した。
 1976年、プロコル・ハルムはアルバム『輪廻』を制作するため再結成したが、ゲイリー・ブルッカーはベーシストにクリス・コッピングを指名、オルガンにピート・ソリーを迎えた。このメンバー・チェンジにより、カートライトは1976年6月に脱退した。
 1977年、アルバム『輪廻』のリリース・ツアーが行われたが、ツアー終了後の5月にブルッカーを除く全員が脱退したため、ブルッカーは解散を表明した。
 1977年10月、プロコル・ハルムは最後の公演を行ったが、カートライトはこの時バンドに復帰した。その後カートライトは音楽業界から離れ、長年にわたってバーを経営した。
 1997年頃になってカートライトとゲイリー・ブルッカーは連絡を取り合うようになり、カートライトは同年のプロコル・ハルム30周年記念コンサートにも参加している。


 カートライトは2020年に胃がんと診断され、2021年3月4日に75歳で死去した。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <エヴリ・ウィッチ・ウェイ>
  1970年 エヴリ・ウィッチ・ウェイ/Brian Davison's Every Which Way
 
 <プロコル・ハルム>
  1972年 プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ
      /Live In Concert with The Edmonton Symphony Orchestra(UK48位, US5位)

  1973年 グランド・ホテル/Grand Hotel(US21位)
  1974年 異国の鳥と果物/Exotic Birds And Fruit(US86位)
  1975年 プロコルズ・ナインス/Procol’s Ninth(UK41位, US52位)


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ジョー・シャーミー

2024-06-25 13:25:52 | bass

ジョー・シャーミー Joe Schermie

 【本名】
   ジョー・シャーメッツラー/Joseph Edward Schermetzler

 【パート】

   ベース

 【生没年月日】
   1946年2月12日~2002年3月25日(56歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国ウィスコンシン州マディソン

 【経歴】
   コリー・ウェルズ・ブルース・バンド/Cory Wells Blues Band(1967)
   スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night(1968~1973)

   S. S. フールズ/S. S. Fools(1975~1976)
   K. A. T. T. (1998~2002)


 ジョー・シャーミーは、アメリカのベーシストである。「スリー・ドッグ・ナイト」のオリジナル・メンバーとして知られている。

 シャーミーは、1967年にコリー・ウェルズが結成した「コリー・ウェルズ・ブルース・バンド」に参加。
 しかしウェルズは1968年にハリウッドに戻り、ダニー・ハットン、チャック・ネグロンとともに「レッドウッド」の名前でデモ・テープの制作を始めた。レッドウッドの3人はギター、ベース、キーボード、ドラムからなるバック・バンドの結成を考え、シャーミーはこのバンドにベーシストとして参加することになった。この時集められたのはジム・グリーンスプーン(keyboard)、フロイド・スニード(drums)、ロン・モーガン(guitar)である。(モーガンはファースト・アルバムの録音前に脱退し、代わりにマイケル・オールサップが加入)
 このバンドが「スリー・ドッグ・ナイト」である。

 スリー・ドッグ・ナイトは、ダンヒル・レコードから1968年10月にアルバム「ワン」でデビュー。翌11月にはデビュー・シングル『ノーバディ』をリリースした。
 『ノーバディ』はビルボード116位に終わったが、セカンド・シングル『トライ・ア・リトル・テンダーネス』がビルボード最高29位を記録、続く『ワン』がビルボード最高5位のヒットを記録して、バンドは一躍スターダムにのし上がった。
 シャーミーのベースは、R&Bなど黒人音楽をリスペクトするバンドの音楽性にマッチし、フロイド・スニードとともにバンドのボトムをしっかりと支えている。
 スリー・ドッグ・ナイトは
1970年「ママ・トールド・ミー」、1971年『喜びの世界』、1972年『ブラック・アンド・ホワイト』と、3年連続してビルボード1位に曲を送り込み、アメリカを代表する人気バンドのひとつに成長したが、シャーミーはバンドの中における自分の役割に失望し、「明らかに解決不可能な問題が生じた」ことを理由に、1973年初頭にバンドを脱退した。後任にはジャック・ライランドが選ばれた。

 スリー・ドッグ・ナイト脱退後のシャーミーは、1975年にスリー・ドッグ・ナイトのバンド・メイトだったフロイド・スニード(drums)、マイク・オールサップ(guitar)、そしてのち「TOTO」に加わることになるボビー・キンボール(vocal)、スタン・セイモア(guitar)、ウィン・デヴィリアー(keyboard)の6人で「S. S. フールズ」というグループを結成し、1976年にデビューアルバム『S. S. フールズ』を発表。
 バンドは短命に終わったが、その後のシャーミーはスリー・ドッグ・ナイトでバンド・メイトだったチャック・ネグロン(vocal)のバンドのベーシストとしていくつかのライヴで演奏したほか、スティーブン・スティルス(guitar)やイヴォンヌ・エリマン(vocal)などとも仕事をした。

 1998年、シャーミーはフロイド・スニード(drums)らとともに「K.A.T.T.」を結成。このバンドのメンバーはシャーミー、スニードのほか、カット・クライバー(vocal)、ロン・ディエゴ・ジョンストン(guitar)である。彼らは2002年にはツアーとレコーディングを行っている。
 またシャーミーは、2000年にトム・リール主演の料理番組「フード・ルール」(Food Rules starring Tom Riehl)にフロイド・スニードとともに出演したが、これが彼の最後のテレビ出演となった。
 シャーミーは2002年に心臓発作のためカリフォルニア州ロサンゼルスで亡くなった。56歳であった。


     
 

【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <スリー・ドッグ・ナイト>

  1968年 ワン/Three Dog Night(US11位)
  1969年 融合/Suitable for Framing(US16位)
 ☆1969年 白熱のライヴ/Captured Live at the Forum(US6位)
  1970年 イット・エイント・イージー/It Ain't Easy(US8位)
  1970年 ナチュラリー/Naturally(US14位) 
 ★1971年 ゴールデン・ビスケッツ~スリー・ドッグ・ナイト・アーリー・ヒッツ/Golden Biscuits(US5位)
  1971年 ハーモニー/Harmony(US8位)
  1972年 セヴン・セパレート・フールズ/Seven Separate Fools(US6位)
 ☆1973年 アラウンド・ザ・ワールド/Around the World with Three Dog Night(US18位)
 ★1974年 喜びの世界/Joy to the World(US15位)
 ★1999年 20th Century Masters - The Millennium Collection:The Best of Three Dog Night(US109位)
 ★2004年 The Complete Hit Singles(US178位)

 <S. S. フールズ>
  1976年 S. S. フールズ

 <参加アルバム>
 *キム・フォーリー/Kim Fowley
  1968年 Outrageous


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デイヴ・ショグレン

2024-05-16 12:03:32 | bass

デイヴ・ショグレン David Paul "Dave" Shogren

 【パート】
   ベース、キーボード、ギター、バッキング・ヴォーカル

 【生没年月日】
   1950年10月12日~1999年12月14日(49歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ

 【経歴】
   ドゥービー・ブラザーズ/The Doobie Brothers(1970~1972)
   SMB(1996~1999)




 デイヴ・ショグレンはアメリカのベーシスト。ドゥービー・ブラザーズのオリジナル・メンバーである。


 当初は12弦ギターを弾いていた。1970年、トム・ジョンストン(guitar, vocal)とジョン・ハートマン(drums)が在籍していたバンド「Pud」に、グレッグ・マーフィー(bass)の後任として加入し、ベーシストに転向。その後パトリック・シモンズ(guitar, vocal)が加わったPudは、同年にはバンド名を新たに「ドゥービー・ブラザーズ」と変えた。
 ドゥービーズは1970年11月にデビュー・アルバムのレコーディングを始め、1971年4月に『ドゥービー・ブラザーズ・ファースト』というタイトルで発表したが、これはほぼ話題にならなかった。
 1972年、セカンド・アルバム『トゥールーズ・ストリート』の制作中、ショグレンは『トゥールーズ・ストリート』(bass, acoustic-guitar)、『ホワイト・サン』(backing-vocals)の2曲の録音を残してドゥービーズを脱退。
 ショグレンのベース・ラインは、初期のドゥービー・ブラザーズ・サウンドを堅実に支えている。


     


 ドゥービーズ脱退後のショグレンは、サンフランシスコのベイエリアでセッション・ベーシストとして音楽活動を続ける。またカリフォルニアにスタジオを所有し、長年レコーディング業界に携わってプロデューサー、エンジニアとしても仕事をした。
 1993年から1995年までは、ライターのブラッド・フィーガーと協力して「Parrot Audio Books」という出版社を設立し、バート・レイノルズやジョン・デンヴァーの自伝などのナレーション付きの本を12冊出版した。ショグレンは録音の専門知識を活かしてチーフ・エンジニアを務め、「エクソシスト」「アルジャーノンに花束を」の20周年記念オーディオも担当している。


 1996年、ショグレンは彼のマネージャー兼プロデューサーであるポール・クルシオと協力して、チェット・マクラッケン(drums)、コーネリアス・バンパス(sax, keyboard)とともに「SMB」というバンドを結成した。
 このバンドは主にドゥービー・ブラザーズの曲を演奏するトリビュート・バンドで、ドゥービーズのヒット曲のレコーディングも行った。当初は「オリジナル・ドゥービー・ブラザーズ」と名乗って活動していたが、ドゥービーズはこのバンド名を使用することに対して訴訟を起こし、裁判所からは名前の差し止め命令が出された。
 SMBは1998年9月にフロリダ州クリアウォーターのクラブ・モアでライヴを行った。クラブ・モアの共同オーナーであるデイヴ・ケアリーはのちに「そのライブは大成功だった」と述べている。


 1999年12月14日、ショグレンはカリフォルニア州サンノゼの自宅で睡眠中に死去。49歳だった。
 健康状態は良好だったと言われているが、死の数日前にショグレンは父に体調不良であるとの電話をかけていたという。
 SMBは新しいCDを完成させており、ヨーロッパ・ツアーの計画を立てていたところであった。


     



【ディスコグラフィ】

 <ドゥービー・ブラザーズ>

  1971年 ドゥービー・ブラザーズ・ファースト/The Doobie Brothers
  1972年 トゥールーズ・ストリート/Toulouse Street US21位

 <参加アルバム>
  1974年 Ron Gardner「RG」
  1982年 Richard Horner「Talkin' 'Bout You」
  1992年 The Charlie Brechtel Band「Made In The U.S.A.」
  1999年 Joel Crawford「BeFriender」  


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ベリー・オークリー

2024-02-12 15:50:59 | bass

ベリー・オークリー Berry Oakley

 【本 名】
   Raymond Berry Oakley Ⅲ

 【パート】

   ベース、ヴォーカル 

 【生没年月日】
   1948年4月4日~1972年11月11日(24歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ

 【経歴】
   オールマン・ブラザーズ・バンド(1968~1972)


 ベリー・オークリーは、ベーシストであり、オールマン・ブラザーズのオリジナル・メンバーである。


 オークリーは、イリノイ州シカゴで生まれ、同州パークフォレスト郊外で育った。
 のちフロリダ州に移ったオークリーはディッキー・ベッツ(guitar)に出会い、彼のバンド「ブルース・メッセンジャーズ」(のち「セカンド・カミング」と改名)に加入する。
 その頃、ベッツとともに参加したセッションで、デュアン・オールマン(guitar)に出会う。
 その後デュアンとジェイモー(ジェイ・"ジョハンニー"・ジョハンソン drums)から連絡があり、3人でセッションを重ねたが、セカンド・カミングでの活動があったため、オークリーは間もなくバンドに戻った。
 ほどなくデュアンとジェイモはフロリダで新バンド結成のために動き始める。この時に呼び集められたのが、オークリーのほか、ディッキー・ベッツ(guitar)、グレッグ・オールマン(keyboard, vocal)、ブッチ・トラックス(drums, percussion)であった。こうして1968年3月にオールマン・ブラザーズ・バンドが結成され
た。


 1969年8月にニューヨークで制作を開始したファースト・アルバム『オールマン・ブラザーズ・バンド』は11月にリリースされた。翌70年9月にはセカンド・アルバム『アイドルワイルド・サウス』が順調にリリースされている。


 オークリーの愛器はフェンダー・ジャズ・ベースだが、これには彼のアイデアでギルドのピックアップが搭載されている。この愛器は「トラクター・ベース」の愛称で知られている。トラクターから繰り出されるどっしりしてメロディックなベース・ラインやフレーズはオークリーならではの個性的なものとして定評があり、「Bass Player」誌の「史上最も偉大なベーシスト100人」には46位にランクされている。


     


 バンドは1971年7月にライヴ・アルバム『フィルモア・イースト』を発表したが、これが全米アルバム・チャートで最高13位まで上昇するヒットを記録した。これによりオールマン・ブラザーズ・バンドは一躍アメリカを代表するバンドのひとつと見なされるようになったのである。
 ところが1971年10月29日、ジョージア州メイコンでバイクを運転中だったデュアン・オールマンが、急停車したトラックを避けようとして衝突し、24歳で死去。バンドが大ブレイクした矢先のアクシデントであった。
 しかし1972年に発表したアルバム『イート・ア・ピーチ』は全米4位の大ヒットを記録、オールマン・ブラザーズは蘇ったと思われた。ところが同年11月11日、今度はオークリーがバイク事故を起こす。
 ジョージア州メイコンを走行中だったオークリーは、急な右カーブを走行中にセンター・ラインを越え、対向車線を走ってきたバスと衝突した。オークリーはバスの前部と衝突したあと後部にも衝突し、デュアンと同じようにバイクから投げ出されて頭を打った。にもかかわらずオークリーは治療を受けずに車で帰宅したが、約3時間後にせん妄症状と激しい頭痛が起こり、急遽病院に運ばれたが頭蓋骨骨折による脳浮腫のため死亡した。まだ24歳の若さであった。
 事故の場所は、デュアンの事故現場からわずか3ブロックしか離れておらず、また24歳での死亡もデュアンと同じである。担当医師は、「オークリーがたとえ事故現場から病院へ直行していたとしても、おそらく助からなかっただろう」と述べている。


 オークリーの死後の1973年8月、オールマン・ブラザーズはアルバム『ブラザーズ&シスターズ』をリリース。これは全米1位の大ヒットを記録した。
 このアルバムには、オークリーのベースで録音された曲が2曲収められているが、その中の1曲「ランブリン・マン」はシングルとしてリリースされ、ビルボードのシングル・チャートで全米2位まで昇り詰める大ヒットとなった。
 なおレコード・ジャケットの裏側に写っている少女はオークリーの娘、ブリタニー・アン・オークリーである。


 1995年、オークリーはオールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。
 1998年、ジョージア州議会はジョージア州メーコンのルート41に架かる橋を「レイモンド・ベリー・オークリーⅢ・ブリッジ」、そして橋から走る道路を「デュアン・オールマン・ブールバード」と名付けることを決定した。決議では、これらの名前は「オールマン・ブラザーズ・バンドの故創設メンバーに敬意を表し、追悼するために付けられた」と述べられている。


 なお息子のベリー・オークリー・ジュニアは、長じて「オールマン・ベッツ・バンド」に加入し、ベーシストとして活躍している。


     

  


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

<オールマン・ブラザーズ・バンド>

  1969年 オールマン・ブラザーズ・バンド/The Allman Brothers Band US188位
  1970年 アイドルワイルド・サウス/Idlewild South US38位
 ☆1971年 フィルモア・イースト・ライヴ/At Fillmore East US13位
  1972年 イート・ア・ピーチ/Eat A Peach US4位
  1973年 ブラザーズ&シスターズ/Brothers & Sisters US1位 UK42位
 ★1973年 Beginnings US25位
 ★1989年 Dreams US103位
 ★1991年 オールマン・ブラザーズ・バンド・コレクション/A Decade of Hits 1969~1979 US39位


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エド・ガリアルディ

2023-10-19 14:33:38 | bass

エド・ガリアルディ Edward John "Ed" Gagliardi



 【パート】
   ベース、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1952年2月13日~2014年5月11日(62歳没)

 【出身】
   アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン

 【経歴】
   フォリナー/Foreigner(1977~1979)
   スパイズ/Spys(1981~1983)



 エド・ガリアルディはフォリナーのオリジナル・ベーシストである。



 1952年2月13日、ニューヨーク州ブルックリン生まれ。
 20代前半の頃は、ニューヨーク周辺のローカル・バンドで活動していたが、全く無名の存在だった。
 1976年、フォリナーに加入。
 バンドが制作したデモ音源がアトランティック・レコードの目にとまり、契約が成立する。
 同年11月下旬にはファースト・アルバム「栄光の旅立ち」のレコーディングが始まった。



     

     左からエド・ガリアルディ、ミック・ジョーンズ、イアン・マクドナルド


 ガリアルディが制作に参加したフォリナーのアルバムは、『栄光の旅立ち』『ダブル・ヴィジョン』の2枚であるが、『栄光の旅立ち』は400万枚以上、『ダブル・ヴィジョン』は500万枚以上のセールスを記録している。
 1978年には初来日を果たし、日本武道館や大阪フェスティヴァル・ホールなどで公演を行った。
 フォリナーは一躍トップ・バンドのひとつにのし上がったが、ガリアルディは音楽性の相違を理由として、1979年に解雇される。
 
 
 1981年、フォリナーでバンド・メイトだったアル・グリーンウッド(keyboards)らとともに「スパイズ」というバンドを結成。
 スパイズはEMIと契約し、1982年にファースト・アルバム『スパイズ』をリリース。このアルバムはビルボード・アルバムチャートで138位となり、シングル『ドント・ラン・マイ・ライフ』はビルボード・ホット100で82位を記録した。
 スパイズは、1980年代に多く出現したシンセサイザーを多用するロック・バンドで、80年代ニュー・ウェイヴからの影響も窺えるメロディアスでハードな音作りはフォリナーの音楽性に通じる部分もあった。一部では高く評価されていたものの、1983年に発表したセカンド・アルバム『ビハインド・エネミー・ラインズ』のセールスは低迷、その後契約に関してレーベル側と合意に至らず、解散した。


 スパイズ解散後のガリアルディは音楽業界から離れ、2000年代初頭にはニューヨーク州グレンコープのラリーレクサス社でサービス部門のライターとして働いていた。
 2014年5月11日、8年間の闘病生活の末、ニューヨーク市でガンのため死去。62歳だった。
 ガリアルディは、7月31日にフロリダで行われる予定の、フォリナー時代のバンド・メイトだったルー・グラム(vocal)の公演でグラムと再会する予定だったという。
 葬儀は家族や友人が非公開で執り行ったということである。


     


 ガリアルディは、本来は右利きであるにもかかわらず、ポール・マッカートニーの大ファンであったことから、左利き用のリッケンバッカーを使用していた。楽器は、ほとんどの場合ガリアルディ自身が再設計し、改造していたという。


 2017年にフォリナーの40周年記念北米ツアーが行われたが、このうち10月6日~7日のミシガン州マウント・プレザントでの公演で、ガリアルディを除くオリジナル・メンバーが「衝撃のファースト・タイム」など5曲を演奏、またオリジナル・メンバーと現ラインナップが一緒に2曲演奏した。ミック・ジョーンズ(guitar)は、「衝撃のファースト・タイム」を演奏する際、「エド・ガリアルディに捧げる」とコメントしたということである。



【ディスコグラフィ】

 <フォリナー>
  1977年 栄光の旅立ち/Foreigner US4位
  1978年 ダブル・ヴィジョン/Double Vision US3位、UK32位

 <スパイズ>

  1982年 スパイズ/Spys
  1983年 ビハインド・エネミー・ラインズ/Behind Enemy Lines 


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ボズ・バレル

2023-07-12 21:27:16 | bass

ボズ・バレル Raymond "Boz" Burrell

 【パート】
   ベース、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1946年8月1日~2006年9月21日(60歳没)

 【出身】
   イングランド リンカンシャー州ホルビーチ

 【経歴】
   ティー・タイム・フォー/Tea Time Four(1963~1965)
   ボズ・ピープル/Boz People(1965)
   ザ・サイドワインダーズ/The Sidewinders(1965~1966)
   フィール・フォー・ソウル/Feel For Soul(1966~1967)
   パノラマ/Panorama(1968)
   ミラーズ/Mirrors(1970)
   センティピード/Centipede(1970, 1971)
   キング・クリムゾン/King Crimson(1970~1972)
   ディック&ザ・ファイアメン(1971~1976)
   スネイプ/Snape(1972)
   バッド・カンパニー/Bad Company(1973~1982)
   ヒンクリーズ・ヒーローズ/Hinkley's Heros(1976)
   ロジャー・チャップマン&ザ・ショートリスト/Roger Chapman & The Shortlist(1981~1983)
   チャック・ファーリー/Chuck Farley(1983)
   ナイトフライ/Nightfly(1984)
   バッド・カンパニー/Bad Company(1986~1988)
   バッド・カンパニー/Bad Company(1998~1999)



 1946年、イングランドのリンカンシャーにあるホルビーチという町で生まれる。
 1963年、学友と「ティー・タイム・フォー」というローカル・バンドを結成し、アコースティック・ギターとして参加する。このバンドはおもにジャズ、ブルース、ソウルなどの黒人音楽を演奏していた。
 1965年春、マネージャーのジャック・バリーの勧めで仲間4人とともにロンドンに拠点を移し、バンド名を「ボズ・ピープル」と改めて、マーキー・クラブやテレビに出演するようになる。ボズ・ピープルは6月にはオーディションによりイアン・マクレガン(keyboard のちスモール・フェイセズ)を加え5人編成となり、EMIのコロンビア・レーベルと契約を交わした。この年後半にはヴォーカルのマイク・プリオールが脱退したため、バレルがヴォーカルを兼ねることになる。しかし商業的な成功には至らず、11月にはやむなく解散した。
 この年、ボズはロジャー・ダルトリーの後任ヴォーカリストとして「ザ・フー」に加入する話もあったということだが、これは結局実現しなかった。


 ボズ・ピープル解散後のバレルは「ザ・サイドワインダーズ」や「フィール・フォー・ソウル」などさまざまなローカル・バンドをバックに起用して活動したほか、1966年に「ボズ」の名でソロとしてデビュー、68年にかけてコロムビアから6枚のソロ・シングルを発表した。
 1968年にリリースしたシングル「アイ・シャル・ビー・リリースト」は、ボブ・ディランの曲のカヴァーであるが、このレコードではベースがチャス・ホッジスのほか、第1期ディープ・パープルのメンバーであるジョン・ロード(organ)、リッチー・ブラックモア(guitar)、イアン・ペイス(drums)が演奏を担当している。


 その後に参加した「ミラーズ」というバンドがロンドン・マーキー・クラブでのギグを最後として1970年10月に解散すると、キース・ティペットによる60人編成のジャズ・オーケストラ「センティピード」に参加して、アルバム『セプトーバー・エナジー』の制作に関わった。この『セプトーバー・エナジー』のプロデューサーを務めたのが、キング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップである。フリップに紹介されたバレルは、キング・クリムゾンのヴォーカリストのオーディションを受け、合格する。
 当時クリムゾンのメンバーだったメル・コリンズ(sax)は、「ボズは、1960年代には「ボズ・ピープル」や「ザ・サイドワインダーズ」での活動によってミュージシャンの間ではよく知られた存在だった。オーディションに来た時点でその実力は群を抜いていたので、即座に"決まり"だと思った」と語っている。
 この頃のキング・クリムゾンはアルバム『リザード』を発表(1970年5月)した後で、ゴードン・ハスケル(bass, vocal)とアンディ・マカロック(drums)が脱退したために新しいメンバーを探していたところだった。


 ヴォーカルにバレル、ドラムスにイアン・ウォーレスの参加が決まったクリムゾンだったが、ベーシストの適任者はなかなか見つからず、ようやく採用したリック・ケンプ(スティーライ・スパン)からもリハーサルの直前に加入を断られてしまう。そんな時、スタジオでたまたまベース・ギターを弾いて遊んでいたバレルを見たフリップは、もともとギターを弾けるバレルにベーシストを兼任させることを思いついた。バレルはフリップから集中的にベース・ギターの指導を受け、わずか2ヵ月という短期間で複雑なクリムゾンのレパートリーを全てマスターしたのである。
 こうしてバレルはヴォーカリスト兼ベーシストとなり、1971年4月に、フランクフルトでフリップ、コリンズ、ウォーレスと共にキング・クリムゾンのステージに立った。これはクリムゾンにとっては実に16ヵ月ぶりのライヴであった。
 またクリムゾン以外にも、クリムゾンやバッド・カンパニーに在籍中の1971年から1976年にかけては「ディック&ザ・ファイアメン」というジャム・セッション系グループで不定期に活動しているが、1976年にはディック&ザ・ファイアメンが発展したやはりジャム・セッション系グループ「ヒンクリーズ・ヒーローズ」にも不定期に参加している。
 

 さてフリップは、バレルがベーシストに決定してからもベーシストを探し続けている。
 ジョン・ウェットンにも加入を打診したが、この時は「今はその時期ではない」として断られている。一方コリンズとウォーレスは、バレルが技術的に向上している事を理由に、バンドの編成を現状のまま維持するようフリップに要望した
 バレルはアルバム『アイランズ』でベースを弾き、一定の成果を上げたが、次第にフリップとそれ以外のメンバーの間で対立が生じるようになる。バレル、コリンズ、ウォーレスの3人はブルース指向であり、フリップとは方向性が異なっていたからである。
 1972年の年明けのリハーサルでは、フリップとバレルら3人との間に生じた亀裂は深刻なものとなっていた。こうした状況からフリップはバンドの解散を決めたが、このときすでにマネジメント側によって北米ツアーのスケジュールが決定していた。このためメンバーはしぶしぶツアーの契約履行に同意し、2月からキング・クリムゾンのアメリカ・ツアーはスタートした。そしてバンドはツアーが終了した4月に解散した。


 キング・クリムゾンでベース・ギターをマスターしたバレルは、これ以降おもにベーシストとして活動してゆくことになる。
 バレルは、キング・クリムゾンの解散後はコリンズ、ウォーレスとともにアメリカに残り、アレクシス・コーナーのバンド「スネイプ」に参加した。
 スネイプではアルバム『アクシデンタリー・ボーン・イン・ニューオーリンズ』と2枚組ライブ・アルバム『ライヴ・オン・ツアー・イン・ジャーマニー』に参加している。


 その後、セッション・ミュージシャンとして活動していたが、1973年にポール・ロジャース(vocal 元フリー)、サイモン・カーク(drums 元フリー)、ミック・ラルフス(guitar 元モット・ザ・フープル)が結成した「バッド・カンパニー」のオーディションを受け、合格する
 バッド・カンパニーはレッド・ツェッペリンが設立したレーベル「スワン・ソング」と契約。この「スーパー・グループ」の出現はロック界の注目を一身に集めた。
 バッド・カンパニーは、1974年にアルバム『バッド・カンパニー』でデビュー。このアルバムは全世界で1200万枚以上を売り上げ、アルバム・チャートで全米1位、全英3位となる大ヒットを記録し、一躍有数の人気バンドにのし上がった。
 バレルは『バッド・カンパニー』から1982年に発表された『ラフ・ダイアモンド』までの、6枚のアルバムの制作に参加している。
 バンドは順調にキャリアを重ねていったが、『ラフ・ダイアモンド』の発表後、メンバー間の軋轢が高じて解散する。 


 その後のバレルの音楽活動は、スタジオ経営のかたわらセッション・ベーシストとして演奏する生活を送る。
 1982年、ジョン・ロードのソロ・アルバム『時の過ぎゆくままに』に収録されている「ハリウッド・ロックンロール」の録音に参加。
 1984年にはスペンサー・ジェイムス(vocal, guitar)、ミッキー・ムーディ(guitar)、ミッキー・シモンズ(keyboard)、ザック・スターキー(drums)らと「ナイトフライ」を結成したが、短命に終わっている。

 1986年、ボーカリストにブライアン・ハウ(元テッド・ニュージェント・バンド)を迎えて再結成したバッド・カンパニーに参加したが、同年秋にアルバム『フェイム・アンド・フォーチュン』リリースした後に脱退する。
 1996年、アルヴィン・リー、ルビー・ターナーらとベスト・オブ・ブリティッシュ・ブルース・ツアーに参加。
 1998年にオリジナル・メンバーによって再結成されたバッド・カンパニーに参加、久々に元気な姿を見せた。1999年には4曲の新曲を含むベスト・アルバム『バッド・カンパニー・アンソロジー』のリリースに伴うツアーが行われた。

 しかし、「本格的にジャズに取り組みたい」という理由により、2002年のツアーには参加しなかった。
 20世紀の終わり頃からは、1960年代からの旧友であるスコットランドのブルース・シンガー、ボーカリストのタム・ホワイトと組み、「シュー・ストリング・バンド」や「ケルティック・グルーヴ・コネクション」で活動した。


 2006年9月21日、スペインの自宅にて心臓発作で死去。60歳だった。
 その日、ボズはタム・ホワイトらとともにとあるパーティで演奏することになっており、その準備をしていたところ、ギターを持って椅子に座った途端に倒れたとのことである。


          


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <ソロ・シングル>
  1966年 Isn't That So
  1966年 Meeting Time
  1966年 Pinocchio
  1966年 The Baby Song
  1968年 I Shall Be Released
  1968年 Light my Fire

 <センティピード>
  1971年 セプトーバー・エナジー/Septober Energy

 <キング・クリムゾン>
  1971年 アイランズ/Islands UK30位、UK76位
 ☆1972年 アースバウンド/Earthbound
 ☆2002年 レディース・オブ・ザ・ロード/Ladies of the Road ※録音1971~1972年
 ★2017年 Sailor's Tales(1970-1972)

 <アレクシス・コーナー&スネイプ>
  1973年 アクシデンタリー・ボーン・イン・ニューオーリンズ/Accidentally Born in New Orleans
 ☆1973年 ライヴ・オン・ツアー・イン・ジャーマニー/Live On Tour in Germany

 <バッド・カンパニー>
  1974年 バッド・カンパニー/Bad Company UK3位、US1位
  1975年 ストレート・シューター/Straight Shooter UK3位、US3位
  1976年 ラン・ウィズ・ザ・パック/Run With the Pack UK4位、US5位
  1977年 バーニン・スカイ/Burnin' Sky UK17位、US15位
  1979年 ディソレーション・エンジェル/Desolation Angels UK10位、US3位
  1982年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamonds UK15位、US26位
 ★1985年 ベスト・オブ・バッド・カンパニー/10 from 6 US137位
  1986年 フェイム・アンド・フォーチュン/Fame and Fortune US106位
 ★1999年 バッド・カンパニー・アンソロジー/The Original Bad Company Anthology US189位
 ☆2006年 ライヴ・イン・アルバカーキ1976/Live Albuquerque Nm Usa ※1976年録音

 <ロジャー・チャップマン&ザ・ショートリスト>
  1982年 He Was... She Was... You Was... We Was...
  1982年 Riff Burglar (The Legendary Funny Cider Sessions Vol.1)

 <タム・ホワイト>
  1991年 Keep it under your hat(Tam White & The Band)
  1999年 The Celtic Groove Connection(Tam White/Boz Burrell)

 <ゲスト参加>
 *Ellis
  1972年 Riding on the Crest of A Slump
  1973年 Why Not?

 *アルヴィン・リー&マイロン・ルフェーヴル
  1973年 On the Road to Freedom

 *チリ・チャールズ
  1973年 Busy Corner

 *エディ・ハリス
  1973年 E. H. in the U. K.

 *エスター・フィリップス
  1973年 Black-Eyed Blues

 *ピート・シンフィールド
  1973年 スティル/Still

 *チャップマンーホイットニー
  1974年 Streetwalkers

 *アレクシス・コーナー
  1974年 Alexis Korner

 *アメイジング・ブロンデル
  1974年 Amazing Blondel

 *ダスター・ベネット
  1975年 Fingertips

 *アルヴィン・リー
  1975年 パンプ・アイアン!

 *ピート・タウンゼント&ロニー・レーン
  1977年 Rough Mix

 *ボクサー
  1979年 Bloodletting

 *ジョン・ロード
  1982年 時の過ぎゆくままに/Before I Forget

 *ロジャー・チャップマン
  1983年 Mango Crazy

 *ピーター・グリーン
  1986年 Lastest Game

 *クリス・ファーロウ
  1991年 Farlowe

 *スティーヴ・マリオッツ・スクラバーズ
  1992年 Steve Marriott's Scrubbers ※1974年録音

 *ジョーン・アルマトレーディング
  1995年 What's Inside

 *ルビー・ターナー
  1998年 Call Me By Name


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