イン・コンサート In Concert
【歌・演奏】
デレク&ザ・ドミノス/Derek & The Dominos
【リリース】
1973年1月
【録音】
1970年10月23日~24日
アメリカ合衆国ニューヨーク市 フィルモア・イースト
【エンジニア】
エディー・クレイマー/Eddie Kramer
【レーベル】
RSOレコード
【録音メンバー】
☆デレク&ザ・ドミノス
エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, lead-vocals)
ボビー・ウィットロック/Bobby Whitlock(piano, organ, vocals)
カール・レイドル/Carl Radle(bass)
ジム・ゴードン/Jim Gordon(drums, percussions)
【収録曲】(☆シングル=①)
side:A
☆① 恋は悲しきもの 9:33
Why Does Love Got to Be So Sad(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
*1973年週間シングル・チャート US120位
② ゴット・トゥ・ゲット・ベター・イン・ア・リトル・ホワイル 13:50
Got to Get Better in a Little While(Eric Clapton)
side:B
③ 雨よ降れ 17:46
Let It Rain(Bonnie Bramlett, Eric Clapton)
④ プレゼンス・オブ・ザ・ロード 6:10
Presence of the Lord(Eric Clapton)
side:C
⑤ テル・ザ・トゥルース 11:21
Tell the Truth(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
⑥ レッド・ワイン 5:37
Bottle of Red Wine(Bonnie Bramlett, Eric Clapton)
side:D
⑦ ロール・イット・オーヴァー 6:44
Roll It Over(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
⑧ ブルース・パワー / 愛の経験 17:30
Blues Power(Eric Clapton, Leon Russell)/ Have You Ever Loved a Woman(Billy Myles)
【チャート】
1973年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード) 20位 イギリス36位
【メ モ】
デレク&ザ・ドミノスのライヴ・アルバム。
ビルボードのアルバム・チャートで最高20位を記録、RIAA認定のゴールド・アルバムとなった。
1970年10月23~24日の、フィルモア・イーストにおけるライヴが収録されているが、このライヴの時点ではまだ『いとしのレイラ』はリリースされていない。
いとしのレイラ Layla and Other Assorted Love Songs
【歌・演奏】
デレク&ザ・ドミノス/Derek & The Dominos
【リリース】
1970年11月9日(アメリカ)
1970年12月(イギリス)
【録音】
1970年8月28日~10月2日
アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ クライテリア・スタジオ
【プロデューサー】
トム・ダウド/Tom Dowd
デレク&ザ・ドミノス/Derek & The Dominos
【エンジニア】
ロン・アルバート/Ron Albert
チャック・カートパトリック/Chuck Kirkpatrick
ホーウィー・アルバート/Howie Albert
カール・リチャードソン/Karl Richardson
マック・エマーマン/Mac Emmerman
【レーベル】
ポリドール・レコード(イギリス)
アトコ・レコード(アメリカ)
【録音メンバー】
☆デレク&ザ・ドミノス
エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, vocals)
ボビー・ウィットロック/Bobby Whitlock(organ, piano, vocals, asoustic-guitar⑭)
カール・レイドル/Carl Radle(bass, percussions)
ジム・ゴードン/Jim Gordon(drums, percussions, piano⑬)
☆ゲスト・ミュージシャン
デュアン・オールマン/Duane Allman(guitars)
アルビー・ガルテン/Albhy Galuten(piano④)
【収録曲】(☆シングル=②⑬)
side:A
① アイ・ルックト・アウェイ 3:05
I Looked Away(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
☆② ベル・ボトム・ブルース 5:02
Bell Bottom Blues(Eric Clapton)
*1971年週間シングル・チャート US91位
③ キープ・オン・グロウイング 6:21
Keep On Growing(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
④ だれも知らない 4:57
Nobody Knows You When You're Down and Out(Jimmy Cox)
side:B
⑤ アイ・アム・ユアーズ 3:34
I Am Yours(Eric Clapton, Nizami)
⑥ エニイデイ 6:35
Anyday(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
⑦ ハイウェイへの関門 9:40
Key to the Highway(Charles Segar, Willie Broonzy)
side:C
⑧ テル・ザ・トゥルース 6:39
Tell the Truth(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
⑨ 恋は悲しきもの 4:41
Why Does Love Got to Be So Sad?(Eric Clapton, Bobby Whitlock)
⑩ 愛の経験 6:52
Have You Ever Loved a Woman(Billy Myles)
side:D
⑪ リトル・ウィング 5:33
Little Wing(Jimi Hendrix)
⑫ イッツ・トゥー・レイト 3:47
It's Too Late(Chuck Willis)
☆⑬ いとしのレイラ 7:05
Layla(Eric Clapton, Jim Gordon)
*週間シングル・チャート 1971年US51位 1972年US10位
⑭ 庭の木 2:53
Thorn Tree in the Garden(Bobby Whitlock)
【チャート】
1972年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード) 16位
2011年週間アルバム・チャート イギリス68位
【メ モ】
デレク&ザ・ドミノスのファースト・アルバムにしてラスト・アルバム。
ビルボードのアルバム・チャートで最高16位を記録、RIAA認定のゴールド・アルバムとなった。
デラニー&ボニーやザ・バンドのアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』から大きな影響を受けたエリック・クラプトンが、ブルースやスワンプなどアメリカのルーツ・ミュージックへの接近を試みた作品である。
⑧「テル・ザ・トゥルース」は、1970年6月にフィル・スペクターのプロデュースによってアップ・テンポで録音され、シングルとして発表したが、これはバンドのスタイルに合わないということで、シングルは販売停止となった。アルバム『いとしのレイラ』にはスロー・テンポのヴァージョンが収録されている。
⑪「リトル・ウィング」はジミ・ヘンドリックスのカヴァーである。ドミノスがこの曲を録音したのは9月9日で、ヘンドリックスが急死したのは9月18日だった。
⑬「いとしのレイラ」は、クラプトンが彼の親友であるジョージ・ハリスン夫人のパティ・ボイドへの恋慕をつのらせて作ったものとして有名。後半のピアノ・メインの部分はジム・ゴードン、そしてクレジットはされていないもののリタ・クーリッジの共作。この部分のピアノはジム・ゴードンが弾いており、それを補う形でボビー・ウィットロックがセカンド・パートを弾いている。
デレク&ザ・ドミノス Derek & The Dominos
【活動期間】
1970年~1971年
【メンバー】
☆レギュラー・メンバー
エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, vocals)
ボビー・ウィットロック/Bobby Whitlock(keyboards, acoustic-guitar, vocals)
カール・レイドル/Carl Radle(bass)
ジム・ゴードン/Jim Gordon(drums, percussions, piano)
☆ゲスト・メンバー
デイヴ・メイスン/Dave Mason(guitar)
デュアン・オールマン/(guitar)
デレク・アンド・ザ・ドミノスは、イギリス人のエリック・クラプトンと、アメリカ人のボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンによって結成されたロック・バンドである。エリック・クラプトンとパティ・ボイドの恋愛を歌ったオリジナル曲「いとしのレイラ」で知られている。
1969年に結成されたスーパー・グループ「ブラインド・フェイス」は、当時のロック・シーンに多大な衝撃を与えた。
彼らは6月7日にロンドンのハイド・パークで実に10万人もの聴衆を集めてデビュー・コンサートを行い、次いで7月にはアメリカ・ツアーに出発した。
センセ-ショナルな話題を巻き起こしたブラインド・フェイスだが、ライヴのセット・リストに充分な曲を持っておらず、それを補うため長尺のアドリブ・ソロをとったり、かつて活動していたクリームなどの曲を演奏したりしていた。バンドのギタリスト、エリック・クラプトンはこれに不満を抱くようになっていった。
アメリカ・ツアーにサポートとして同行していたのはフリー、テイスト、デラニー&ボニーの各バンドだったが、アメリカのルーツ・ミュージックに接近しつつあったクラプトンは、ソウルフルでブルージーなデラニー&ボニーの音楽に強く惹かれてゆく。また彼は、ファンから過度に崇拝されるよりも、単にバンドの一員としてギターを弾いていたいと願うようになっていた。
その結果クラプトンはブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーとともに過ごすことが多くなり、時にはデラニー&ボニーのオープニング・セットの演奏に加わることもあった。
アメリカ・ツアーは8月24日に終了したが、ツアー中に生じたメンバー間の音楽観のずれは、修復不可能なまでに広がっていた。
ブラインド・フェイスが10月に解散すると、クラプトンは翌11月から1970年3月までデラニー&ボニーのヨーロッパ、およびアメリカ・ツアーにサポート・メンバーとして参加する。この時のバンド・メイトが、のちデレク&ザ・ドミノスのメンバーとなるボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンである。
ツアーのうち1969年12月にサウス・ロンドンで行われたライヴは、1970年3月にデラニー&ボニー&フレンズ名義で『オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン』としてリリースされている。
クラプトンは、そのほかにプラスティック・オノ・バンドにもサポート・メンバーとして加わっており、1969年9月のトロント・ロックンロール・リバイバルなどに出演している。
1970年にはデラニー・ブラムレットをプロデューサーに起用して初のソロ・アルバム『エリック・クラプトン・ソロ』を制作しているが、この時のレコーディング・セッションにはボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンも参加している。
この後、レイドルとゴードンはデラニー&ボニーを脱退してジョー・コッカーのバンド「マッド・ドッグス&イングリッシュ・メン」のツアーに参加したが、ウィットロックはデラニー&ボニーに残った。
1970年4月、ウィットロックはクラプトンに会うため渡英する。
ふたりはたびたびジャム・セッションを行い、曲を書いた。これがのちにドミノスのレパートリーになる。
クラプトンはウィットロックが到着すると、新たなバンドの結成を望むようになり、アメリカにいたレイドルに連絡を取った。ドラマーには当初ジム・ケルトナーに白羽の矢を立てたが、スケジュールが合わなかったため断念した。ちょうどその時、ジム・ゴードンがジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作に参加するため招待されてロンドンに滞在していた。
1970年5月にジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作が始まった。クラプトン、ウィットロック、レイドル、ゴードンの4人は、このレコーディング・セッションにも参加している。
この後4人はクラプトンの家があったハートウッド・エッジに住み、曲を書いてはひたすらセッションに没頭していた。このセッションを通じて4人はより結束を強めてゆく。とくにクラプトンは「これまでにないくらいの音楽的自由が感じられた」とのちに語っている。またウィットロックは、自身とクラプトンによる、バンドにおけるヴォーカルの比率を重視していたという。
『オール・シングス・マスト・パス』のベーシック・トラックの録音が終わりに近づいた頃、クラプトンらとともにデラニー&ボニーで活動していたデイヴ・メイスンがクラプトン宅でのセッションに加わった。メイスンは『オール・シングス・マスト・パス』のレコーディングにも加わっていた。こうしてラインナップが5人となったバンドは、1970年6月14日に、ロンドンはライセウムでのチャリティ・コンサートでステージ・デビューを果たす。
バンドは便宜上「エリック・クラプトン&フレンズ」と呼ばれていたが、ウィットロックによって「デル&ザ・ダイナモス」というバンド名が提案された。これは1969年のデラニー&ボニーのツアー以来、ギタリストは「デレク」あるいは「デル」と呼ばれていたからである。ところがバンド名をアナウンスした時に、発音が「デレク&ザ・ドミノス」と誤解されてしまい、結局それがバンド名に決まった。(オープニング・アクトを務めた「アシュトン・ガードナー&ダイク」のトニー・アシュトンが「デル&ザ・ドミノス」という名を提案した、という説もある)
コンサートそのものには賛否両論あり、その中には「名ギタリストであるクラプトンをバンドのシンガーとして見たがる者はいない」との声もあった。
なおこの6月14日のデビュー・ライヴでクラプトンが使用したアコースティック・ギターは、2021年にオークションに出品され、625,000ドル(約7120万円)で落札されている。
1970年6月18日、デレク&ザ・ドミノスの5人とジョージ・ハリスンはロンドンのアップル・スタジオに入り、フィル・スペクターのプロデュースでクラプトンとウィットロックが共作した「テル・ザ・トゥルース」と「ロール・イット・オーヴァー」の2曲をシングル用に録音した。そのほか2つのインストゥルメンタル・ジャムを録音したが、それは『オール・シングス・マスト・パス』の3枚目に収録された。この3枚目は「Apple Jam」と呼ばれている。
このロンドンでのセッションの後、ドミノスの本格的な活動がなかなか始まらないことに業を煮やしたデイヴ・メイソンがバンドから離れた。
クラプトン、ウィットロック、レイドル、ゴードンの4人は、同年7月からのドクター・ジョンのアルバム『ザ・サン、ムーン&ハーブス』のロンドンでのレコーディングにも参加している。
ドミノスは、8月1日からイギリス国内をサーキットしている。
このツアーは22日間で18公演を行うもので、会場は小規模な場所が選ばれた。クラプトンは名を明らかにせず匿名で演奏した。また、すべてのライヴ会場ではクラプトンの名前を宣伝に使用してはならないという契約が交わされていた。これは「自分が主役である必要はなく、アンサンブルの一員としてただ演奏に集中したい」というクラプトンの願望の現れであった。クラプトンはスター扱いされるのを嫌がっていたのである。
ツアーの期間中、マネージャーのロバート・スティグウッドはファースト・アルバム制作の準備に取りかかり、プロデューサーにトム・ダウドを起用した。
8月23日、ドミノスはファースト・アルバムをレコーディングするためフロリダ州マイアミのクライテリア・スタジオに移動する。
8月26日、クラプトンはプロデューサーのトム・ダウドからオールkマン・ブラザーズ・バンドが公演のためにマイアミに来ていることを聞き、「ぜひそのコンサートに行きたい」と強く希望した。ダウドとドミノスのメンバーたちはオールマン・ブラザーズ・バンドのコンサートに行った。ふたりはすでにお互いの音楽、ギターに敬意を持ってはいたが、初めてオールマンの演奏を見たクラプトンは身動きができなくなるほど感動したという。これがクラプトンとデュアン・オールマンの出会いである。
コンサートのあとクラプトンは「ぜひギターを持って来てくれ、君も一緒にプレイしよう」とオールマンをスタジオに招待した。ドミノスとオールマン・ブラザーズはクライテリア・スタジオで何時間もセッションを楽しんだ。クラプトンとオールマンのふたりは一晩中語り合い、セッションすることで尊敬の念をより深めた。のちクラプトンはオールマンについて「自分と不可分の存在で、音楽の兄弟だ」だと述べている。
ドミノスのファースト・アルバム『いとしのレイラ』のレコーディング・セッションは8月28日に始まり、9月上旬まで続いた。
デュアン・オールマンはオールマン・ブラザーズの活動の合間に10回以上スタジオ入りし、全14曲中11曲でギターを弾いた。このアルバムで聴かれる彼の情感豊かなスライド・ギターは、いまなお絶賛されている。レコーディング終了後、クラプトンはオールマンをドミノスに誘ったが、オールマンはこれを断り、自分のバンドに戻った。
またドミノスは以前にフィル・スペクターのプロデュースによって録音した「テル・ザ・トゥルース」を再録音した。アメリカでは9月に、オリジナル・ヴァージョンの「テル・ザ・トゥルース」が「ロール・イット・オーヴァー」とのカップリングでシングルとして発表されたが、これはバンドの意向ですぐに販売停止となった。
アルバム『いとしのレイラ』に収められたタイトル曲「いとしのレイラ」は、クラプトンが彼の親友ジョージ・ハリスンの妻パティに対する恋慕の気持ちを歌ったものとして非常に有名である。
「レイラ」は、ギターがメインの前半部分とピアノがメインの後半部分から成り立っている。後半はジム・ゴードンが作曲(実際はリタ・クーリッジとの共作)したもので、ゴードン自身がピアノを弾いており、ゴードンを補足する2番目のピアノ・パートをボビー・ウィットロックが弾いている。
ドミノスは、『いとしのレイラ』レコーディング終了後の9月20日からイギリス・ツアーを行い、11月から12月にかけてはアメリカ・ツアーを行った。このツアーはドラッグとアルコールにどっぷり浸ったものだったが、ライヴ・レコーディングされ、1973年に2枚組アルバム『イン・コンサート』としてリリースされた。なおデュアン・オールマンは12月1日と12月2日にドミノスと共演している。
デレク&ザ・ドミノスのファースト・アルバム『いとしのレイラ』は、2枚組アルバムとして1970年11月にリリースされた。
アメリカン・ロックからの影響とクラプトンが目指したブルースへの回帰がはっきり現れたこのアルバムはレイド・バックした作品に仕上がっている。
プロデューサーのトム・ダウドは「これは自分が関わったアルバムとしては、『The Genius of Ray Charles』以来最高の作品だ」と賞賛したほか、一部の音楽誌からも高い評価を得た。アルバムはRIAAからゴールド・アルバムに認定されたが、アルバムの販売元であるポリドールはほとんどプロモーションをしておらず、さらにはクラプトンがドミノスのメンバーであることが知られていなかったため、アルバムのセールスは思ったほど伸びなかった。この結果にダウドもクラプトンも失望した。
1972年、クラプトンのコンピレーション・アルバム『エリック・クラプトンの歴史』が発売された。「いとしのレイラ」はこの中に収録されており、また同年7月にはシングルとして再発され、全米10位、全英7位のヒットを記録した。これがきっかけでアルバム『いとしのレイラ』も再評価されるようになった。
現在では『いとしのレイラ』をクラプトンの最高傑作に推す声も高い。
『いとしのレイラ』制作中の9月9日、クラプトンは友人ジミ・ヘンドリックスの作品「リトル・ウイング」をレコーディングしているが、その直後の9月18日にヘンドリックスが急死。ヘンドリックスはクラプトンにとってかけがえのない友人だったため、クラプトンは精神的に大打撃を受けた。それに加えて『いとしのレイラ』に対する不評がさらにクラプトンを鬱状態とドラッグへの依存へと追い詰めていった。
1971年秋、ドミノスはセカンド・アルバムの制作に取りかかったが、完成させることなく解散した。クラプトンの重度のヘロイン中毒そしてパティ・ボイドとの不安定な関係による荒れた精神状態、バンド内でのドラッグの蔓延、バンド内のエゴのぶつかり合いによる極度の緊張が解散の理由だと言われている。
この年10月29日には、クラプトン自身が「音楽の兄弟」と呼んでいた盟友デュアン・オールマンがオートバイ事故で死亡した。ふたりの尊敬する友人を失ったクラプトンの精神状態はさらに打ちのめされた。
解散後のクラプトンは薬物中毒からのリハビリテーションに多くの時間を費やしたが、1973年1月に行われたロンドンのレインボウ・シアターでのコンサートで劇的な復活を遂げた。
ウィットロックはアメリカのABCダンヒルと契約し、1972年に『ボビー・ウィットロック』、『ロウ・ヴェルヴェット』の2枚のソロ・アルバムを発表した。2枚ともドミノスのメンバー全員がゲスト参加している。
レイドルは、クラプトンがソロ・アーティストとして復帰した1974年から1979年夏までクラプトンのツアー・バンドのベーシストを務めていたが、1980年5月に37歳で死去。
ゴードンはアルコールとドラッグの過度の摂取が原因で徐々に仕事が減り、1983年には母親を殺害した。統合失調症と診断されたゴードンの病状が快方へ向かうことはなく、一度も仮釈放されないまま2023年に医療施設で死亡した。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<アルバム>
1970年 いとしのレイラ/Layla and Other Assorted Love Songs US16位
☆1973年 イン・コンサート/In Concert US20位
1990年 レイラ・セッションズ/The Layla Sessions: 20th Anniversary Edition US157位
☆1994年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア/Live at the Fillmore
<シングル>
1970年 テル・ザ・トゥルース / ロール・イット・オーヴァー
1971年 いとしのレイラ / アイ・アム・ユアーズ US51位
1971年 ベル・ボトム・ブルース / キープ・オン・グロウイング US91位
1972年 いとしのレイラ / ベル・ボトム・ブルース US10位
1973年 ベル・ボトム・ブルース / リトル・ウイング
1973年 恋は悲しきもの [live] / プレゼンス・オブ・ザ・ロード [live]
2011年 ガット・トゥ・ゲット・ベター・イン・ア・リトル・ホワイル / いとしのレイラ
スーパー・セッション Super Session
【歌・演奏】
アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルス/Al Kooper, Mike Bloomfield, Stephen Stills
【リリース】
1968年7月22日
【録音】
1968年5月
CBSコロンビア・スクエア(カリフォルニア州ロサンゼルス)
【プロデューサー】
アル・クーパー/Al Kooper
【エンジニア】
フレッド・カテロ/Fred Catero
ロイ・ハリー/Roy Halee
【レーベル】
コロンビア・レコード/Columbia Records
【収録曲】
side:A
① アルバートのシャッフル 6:53
Albert's Shuffle(Al Kooper, Mike Bloomfield)
② ストップ 4:18
Stop(Jerry Ragovoy, Mort Shuman)
③ マンズ・テンプテーション 3:24
Man's Temptation(Curtis Mayfield)
④ 神の様式化された神聖なる威厳 9:12
His Holy Modal Majesty(Al Kooper, Mike Bloomfield)
⑤ リアリー 5:26
Really(Al Kooper, Mike Bloomfield)
side:B
⑥ 悲しみは果てしなく 3:29
It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry(Bob Dylan)
⑦ 魔女の季節 11:07
Season of the Witch(Donovan Leitch)
⑧ ユー・ドント・ラヴ・ミー(夜明けに恋はない) 4:09
You Don't Love Me(Willie Cobbs)
⑨ ハーヴェイの作った曲 2:10
Harvey's Tune(Harvey Brooks)
【録音メンバー】
☆参加ミュージシャン
アル・クーパー/Al Kooper(lead-vocals, piano, organ, ondioline, guitars, 12st-guitar)
マイク・ブルームフィールド/Mike Bloomfield(guitars①~⑤)
スティーヴン・スティルス/Stephen Stills(guitars⑥~⑨)
ハーヴェイ・ブルックス/Harvey Brooks(bass)
エディ・ホー/Eddie Hoh(drums, percussions)
バリー・ゴールドバーグ/(electric-piano①②)
☆ホーン・アレンジ
アル・クーパー/Al Kooper
ジョー・スコット/Joe Scott
【チャート】
1968年週間アルバム・チャート US(Billboard)12位、US(cash box)18位、カナダ15位、オランダ18位
1972年週間アルバム・チャート スペイン25位
2003年週間アルバム・チャート イタリア87位
【メ モ】
「セッション・ブーム」の火付けとなったアルバムである。
1968年のビルボードのアルバム・チャートには37週間とどまって最高位12位を記録、RIAAからゴールド・アルバムに認定された。
アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドは、1968年に行なわれたモビー・グレープのレコーディング・セッションに参加したが、クーパーはこの経験からセッション・アルバムを制作するというアイデアを得た。
クーパーはブルームフィールドの希望によりロスアンゼルスでの録音を企画、スタジオを2日間おさえたが、当時不眠症に悩まされていたブルームフィールドはレコーディング翌日には置手紙を残してスタジオから離れた。このためクーパーは代役を探すべくカリフォリニア在住のギタリストたちに連絡したところ、ただひとりスティーヴン・スティルスから参加の意向があった。
ブルームフィールド、クーパー、スティルスの3人による演奏が行われなかったのはこういう理由によるものである。
マイク・ブルームフィールド、ハーヴェイ・ブルックス、バリー・ゴールドバーグは「エレクトリック・フラッグ」に在籍していた。
このアルバムの制作後、クーパーとブルームフィールドはたびたびライヴで共演している。その模様は『フィルモアの奇蹟』(1969年リリース)、『フィルモア・イーストの奇蹟』(2003年リリース)などで聴くことができる。
モーション Motion
【歌・演奏】
KGB/KGB
【リリース】
1976年
【プロデューサー】
ケニー・カーナー&リッチー・ワイズ/Kenny Kerner & Richie Wise
【エンジニア】
ウォーレン・デウェイ/Warren Dewey
【レーベル】
MCAレコード/MCA Records
【収録曲】
side:A
① ウーマン、ストップ・ホワッチャ・ドゥーイン 4:18
Woman, Stop Whatcha Doin'(Lyrics & Music:Carmine Appice)
② アイ・オンリー・ニード・ア・ネクスト・タイム 3:58
I Only Need a Next Time(Lyrics & Music:Pam Sawyer, Barry Goldberg)
③ マイ・セリーン・コリーン 3:22
My Serene Coleen(Lyrics & Music:Ray Kennedy)
④ ルッキン・フォー・ア・ベター・ウェイ 3:09
Lookin' for a Better Way(Lyrics & Music:Ray Kennedy & Jack Conrad)
⑤ レイ・イット・オール・ダウン 3:33
Lay It All Down(Lyrics by:Will Jennings Music by:Barry Goldberg)
side:B
⑥ トリーディング・ウォーター 4:32
Treading Water(Lyrics by:Gregg Sutton Music by:Carmine Appice, Gregg Sutton, Ben Schultz)
⑦ ゴーイン・スルー・ザ・モーションズ 4:22
Goin' Thru The Motions(lyrics by:Carole Bayer Sager Music by:Barry Goldberg)
⑧ ジュ・テーム 4:40
Je T' Aime(Lyrics & Music:Ray Kennedy)
⑨ デターミネーション 5:34
Determination(Lyrics & Music:Gregg Sutton)
【録音メンバー】
レイ・ケネディ/Ray Kennedy(lead-vocals, backing-vocals)
ベン・シュルツ/Ben Schultz(guitars, Banjo, others)
バリー・ゴールドバーグ/Barry Goldberg(piano, clavinet, synthesizer)
グレッグ・サットン/Gregg Sutton(bass, lead-vocals⑥)
カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, percussions, backing-vocals)
【チャート】
1976年週間アルバム・チャート 圏外
【メ モ】
KGBのセカンド・アルバム。
KGB KGB
【歌・演奏】
KGB/KGB
【リリース】
1976年
【プロデューサー】
ジム・プライス/Jim Price
【エンジニア】
ジム・プライス/Jim Price
ジョー・ツゼン/Joe Tuzen
ロブ・フラボニ/Rob Fraboni
スティーヴ・バーンカード/Steve Barncard
【レーベル】
MCAレコード/MCA Records
【収録曲】
side:A
① レット・ミー・ラヴ・ユー 3:33
Let Me Love You(Jack Conrad, Ray Kennedy)
② ミッドナイト・トラヴェラー 5:13
Midnight Traveler(Paul Rosenberg)
③ アイヴ・ゴット・ア・フィーリング 4:01
I've Got a Feeling(John Lennon, Paul McCartney)
④ ハイ・ローラー 3:39
High Roller(Daniel Moore)
⑤ セイル・オン・セイラー 3:13
Sail on Sailor(Brian Wilson, Ray Kennedy)
side:B
⑥ ワーキン・フォー・ザ・チルドレン 3:17
Workin' for the Children(Barry Goldberg, Mike Bloomfield)
⑦ ユー・ゴット・ザ・ネイション 3:30
You Got the Nation(Ray Kennedy)
⑧ ベイビー・シュッド・アイ・ステイ・オア・ゴー 4:59
Baby Should I Stay or Go(Barry Goldberg, Mike Bloomfield)
⑨ イッツ・ゴナ・ビー・ア・ハード・ナイト 2:47
It's Gonna Be a Hard Night(Barry Goldberg, Will Jennings)
⑩ マジック・イン・ユア・タッチ 4:45
Magic in Your Touch(Ray Kennedy)
【録音メンバー】
レイ・ケネディ/Ray Kennedy(vocals)
マイク・ブルームフィールド/Mike Bloomfield(guitars)
バリー・ゴールドバーグ/Barry Goldberg(keyboards, vocals)
リック・グレッチ/Rick Gretch(bass)
カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, vocals)
【チャート】
1976年週間アルバム・チャート US124位
【メ モ】
KGBのデビュー・アルバム。
KGB KGB
【活動期間】
1975年~1976年
【メンバー】
レイ・ケネディ/Ray Kennedy(vocals)
マイク・ブルームフィールド/Mike Broomfield(guitars)
ベン・シュルツ/Ben Schultz(guitars)
バリー・ゴールドバーグ/Barry Goldberg(keyboards, vocals)
リック・グレッチ/Rick Gretch(bass)
グレッグ・サットン/Greg Sutton(bass)
カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, vocals)
KGBは1975年に結成されたロック・バンドである。
1974年、マイク・ブルームフィールド(guitar)とバリー・ゴールドバーグ(keyboard)は「エレクトリック・フラッグ」の再結成に参加したが、散発的な活動のすえ解散に至ったため、セッション・ミュージシャンとして活動していたレイ・ケネディ(sax, vocal)を加えて新バンドを結成しようとしていた。
これに目をつけたのがMCAレコードである。
MCAは彼らを「スーパー・グループ」として売り出すため、ベック・ボガート&アピスが解散したあとフリーになっていたカーマイン・アピス(drums)と、活動の拠点をアメリカに移して「ジョニー・リヴァース・バンド」のメンバーだったリック・グレッチ(bass)というふたりの知名度の高いミュージシャンをメンバーとして迎え入れた。
バンド名は、バンド結成当初から集結していたケネディ(K)、ゴールドバーグ(G)、ブルームフィールド(B)の頭文字を並べたものである。
1975年にMCAと高額の契約を交わした彼らはアルバムの制作に取りかかるが、ブルームフィールドがレコーディングが行わるロスアンゼルスへの移動に同意しなかったため、やむなくギターパートは別の場所で録音せざるをえなかった。
同年デビュー・アルバム『KGB』とシングル『Sail On Sailor』(ビーチ・ボーイズのカヴァーで、ブライアン・ウィルソンとケネディの共作)がリリースされる。アルバムにはビートルズのカヴァー『アイヴ・ガッタ・フィーリング』も収録されていた。
鳴り物入りでデビューしたKGBだったが、デビュー・アルバムはの評判は芳しいものではなかった。これはラインナップから想像されたブルース・ロックあるいはヘヴィーなサウンドとは異なり、ソウル・ミュージック寄りでレイドバック感のある、のちのAORサウンドへもつながる内容だったためで、評論家からもリスナーからも不評をかってしまった。ただし、ソウルフルなケネディのヴォーカル、ヘヴィなアピスのドラム、ブルージーなブルームフィールドのギターなど、個々にみると「スーパー・グループ」の前評判どおりの演奏であると言える。
この後間もなく薬物依存の悪化によってブルームフィールドは脱退。バンドはジョー・コッカーのツアーに帯同する。
左から レイ・ケネディ、カーマイン・アピス、バリー・ゴールドバーグ、マイク・ブルームフィールド、リック・グレッチ
その後ブルームフィールドの後任として、バディ・マイルスのアルバムに参加したこともあるベン・シュルツ(guitar)が、グレッチの脱退に伴いボブ・ディランのバックを務めていたグレッグ・サットン(bass)が参加して、1976年にセカンド・アルバム『モーション』をリリースした。このアルバムはケネディとアピスのカラーが全面的に押し出されたものだったが、ほとんど話題にならず、セールスは全くの不振に終わり、バンドも活動を停止した。
KGB解散後、ケネディは1980年にアルバム『Ray Kennedy』をリリースし、AORブームの中でブレイクするが、その後マイケル・シェンカー・グループにヴォーカリストとして加わってロック・ファンを驚かせた。
アピスは1977年にロッド・スチュワート・バンドに加入。ゴールドバーグはソロ、セッションなどで息の長い活動を続けている。
グレッチは1977年にジンジャー・ベイカー(drums)のソロ・アルバム『Eleven Sides of Baker』に参加した後は音楽業界の第一線から身を引き、1990年に他界。
ブルームフィールドは1977年にソロ・アルバムを発表したが、薬物の過剰摂取のため1981年に死亡した。
【ディスコグラフィ】
<アルバム>
1975年 KGB/KGB US(ビルボード)124位
1976年 モーション/Motion
【メンバー変遷】
#1 1975~1976
レイ・ケネディ(vocals)
マイク・ブルームフィールド(guitars)※ex. Electric Flag
バリー・ゴールドバーグ(keyboards, vocals)※ex. Electric Flag
リック・グレッチ(bass)※ex. Johnny Rivers Band
カーマイン・アピス(drums, vocals)※ex. Beck, Bogert & Appice
#2 1976
レイ・ケネディ(vocals)
ベン・シュルツ/Ben Schultz(guitars)
バリー・ゴールドバーグ/Barry Goldberg(keyboards, vocals)
グレッグ・サットン/Greg Sutton(bass)
カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, vocals)
愛と苦悩 Eager to Please
【歌・演奏】
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley
【リリース】
1975年
【録音】
ランズダウン・スタジオ(ロンドン)
ノヴァ・サウンド・スタジオ(ロンドン)
【プロデューサー】
ピーター・ギャレン/Peter Gallen
【エンジニア】
ジョン・フィッシュバック/John Fischbach
アシュレー・ハウ/Ashley Howe
【レーベル】
ブロンズ・レコード/Bronze Records
【収録曲】
side:A
① 愛と苦悩 4:45
Eager to Please(Ken Hensley)
② 星を夢見る人 3:50
Stargazer(Mark Clarke, Susie Bottomley)
③ シークレット 4:03
Secret(Ken Hensley)
④ 子供の目を通して 2:21
Through the Eyes of Child(Ken Hensley)
⑤ パート・スリー 3:49
Part Three(Ken Hensley)
⑥ 丘の家の想い出 3:19
The House on the Hill(Ken Hensley)
side:B
⑦ 冬も夏も 3:00
Winter or Summer(Ken Hensley)
⑧ テイク・アンド・テイク 3:42
Take and Take(Ken Hensley)
⑨ 長い長い影 3:29
Longer Shadows(Ken Hensley)
⑩ イン・ザ・モーニング 2:35
In the Morning(Mark Clarke)
⑪ 愛を見失って 4:04
How Shall I Know(Ken Hensley)
【録音メンバー】
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley(keyboards, guitars, synthesiser, vocals)
マーク・クラーク/Mark Clarke(bass, lead-vocals⑩)
バグス・ペンバートン/Bugs Pemberton(drums, percussions)
B.J.コール/B.J. Cole(pedal-steel③)
レイ・ワーリー/Ray Warleigh(sax⑩)
【チャート】
1975年週間アルバム・チャート 圏外
【メ モ】
ユーライア・ヒープのキーボード奏者、ケン・ヘンズレーのセカンド・ソロ・アルバム。
ベースのマーク・クラークは1971年秋から3ヵ月ほどユーライア・ヒープに在籍していたことがあり、このアルバムの制作当時はテンペストのメンバーだった。ドラムスのバグス・ペンバートンはアンダーテイカーズのメンバーである。
②はテンペストのアルバム『眩暈』に収められていた曲で、マーク・クラークの作である。
ベリー・オークリー Berry Oakley
【本 名】
Raymond Berry Oakley Ⅲ
【パート】
ベース、ヴォーカル
【生没年月日】
1948年4月4日~1972年11月11日(24歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
【経歴】
オールマン・ブラザーズ・バンド(1968~1972)
ベリー・オークリーは、ベーシストであり、オールマン・ブラザーズのオリジナル・メンバーである。
オークリーは、イリノイ州シカゴで生まれ、同州パークフォレスト郊外で育った。
のちフロリダ州に移ったオークリーはディッキー・ベッツ(guitar)に出会い、彼のバンド「ブルース・メッセンジャーズ」(のち「セカンド・カミング」と改名)に加入する。
その頃、ベッツとともに参加したセッションで、デュアン・オールマン(guitar)に出会う。
その後デュアンとジェイモー(ジェイ・"ジョハンニー"・ジョハンソン drums)から連絡があり、3人でセッションを重ねたが、セカンド・カミングでの活動があったため、オークリーは間もなくバンドに戻った。
ほどなくデュアンとジェイモはフロリダで新バンド結成のために動き始める。この時に呼び集められたのが、オークリーのほか、ディッキー・ベッツ(guitar)、グレッグ・オールマン(keyboard, vocal)、ブッチ・トラックス(drums, percussion)であった。こうして1968年3月にオールマン・ブラザーズ・バンドが結成された。
1969年8月にニューヨークで制作を開始したファースト・アルバム『オールマン・ブラザーズ・バンド』は11月にリリースされた。翌70年9月にはセカンド・アルバム『アイドルワイルド・サウス』が順調にリリースされている。
オークリーの愛器はフェンダー・ジャズ・ベースだが、これには彼のアイデアでギルドのピックアップが搭載されている。この愛器は「トラクター・ベース」の愛称で知られている。トラクターから繰り出されるどっしりしてメロディックなベース・ラインやフレーズはオークリーならではの個性的なものとして定評があり、「Bass Player」誌の「史上最も偉大なベーシスト100人」には46位にランクされている。
バンドは1971年7月にライヴ・アルバム『フィルモア・イースト』を発表したが、これが全米アルバム・チャートで最高13位まで上昇するヒットを記録した。これによりオールマン・ブラザーズ・バンドは一躍アメリカを代表するバンドのひとつと見なされるようになったのである。
ところが1971年10月29日、ジョージア州メイコンでバイクを運転中だったデュアン・オールマンが、急停車したトラックを避けようとして衝突し、24歳で死去。バンドが大ブレイクした矢先のアクシデントであった。
しかし1972年に発表したアルバム『イート・ア・ピーチ』は全米4位の大ヒットを記録、オールマン・ブラザーズは蘇ったと思われた。ところが同年11月11日、今度はオークリーがバイク事故を起こす。
ジョージア州メイコンを走行中だったオークリーは、急な右カーブを走行中にセンター・ラインを越え、対向車線を走ってきたバスと衝突した。オークリーはバスの前部と衝突したあと後部にも衝突し、デュアンと同じようにバイクから投げ出されて頭を打った。にもかかわらずオークリーは治療を受けずに車で帰宅したが、約3時間後にせん妄症状と激しい頭痛が起こり、急遽病院に運ばれたが頭蓋骨骨折による脳浮腫のため死亡した。まだ24歳の若さであった。
事故の場所は、デュアンの事故現場からわずか3ブロックしか離れておらず、また24歳での死亡もデュアンと同じである。担当医師は、「オークリーがたとえ事故現場から病院へ直行していたとしても、おそらく助からなかっただろう」と述べている。
オークリーの死後の1973年8月、オールマン・ブラザーズはアルバム『ブラザーズ&シスターズ』をリリース。これは全米1位の大ヒットを記録した。
このアルバムには、オークリーのベースで録音された曲が2曲収められているが、その中の1曲「ランブリン・マン」はシングルとしてリリースされ、ビルボードのシングル・チャートで全米2位まで昇り詰める大ヒットとなった。
なおレコード・ジャケットの裏側に写っている少女はオークリーの娘、ブリタニー・アン・オークリーである。
1995年、オークリーはオールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。
1998年、ジョージア州議会はジョージア州メーコンのルート41に架かる橋を「レイモンド・ベリー・オークリーⅢ・ブリッジ」、そして橋から走る道路を「デュアン・オールマン・ブールバード」と名付けることを決定した。決議では、これらの名前は「オールマン・ブラザーズ・バンドの故創設メンバーに敬意を表し、追悼するために付けられた」と述べられている。
なお息子のベリー・オークリー・ジュニアは、長じて「オールマン・ベッツ・バンド」に加入し、ベーシストとして活躍している。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<オールマン・ブラザーズ・バンド>
1969年 オールマン・ブラザーズ・バンド/The Allman Brothers Band US188位
1970年 アイドルワイルド・サウス/Idlewild South US38位
☆1971年 フィルモア・イースト・ライヴ/At Fillmore East US13位
1972年 イート・ア・ピーチ/Eat A Peach US4位
1973年 ブラザーズ&シスターズ/Brothers & Sisters US1位 UK42位
★1973年 Beginnings US25位
★1989年 Dreams US103位
★1991年 オールマン・ブラザーズ・バンド・コレクション/A Decade of Hits 1969~1979 US39位
月の光 Shine On Brightly
【歌・演奏】
プロコル・ハルム/Procol Harum
【リリース】
1968年9月(US)
1968年12月(UK)
【録音】
1967年~1968年
オリンピック・スタジオ(ロンドン)
アドヴィジョン・スタジオ(ロンドン)
デ・レイン・リー・スタジオ(ロンドン)
【プロデューサー】
デニー・コーデル/Denny Cordell
【エンジニア】
グリン・ジョンズ/Glyn Johns
【レーベル】
リーガル・ゾノフォン/Regal Zonophone(UK)
A&M(US)
【収録曲】(☆シングル=①③)
side:A
☆① クワイト・ライトリー・ソー 3:44
Quite Rightly So(words:Keith Reid music:Gary Brooker, Matthew Fisher)
*1968年週間シングル・チャート UK50位 ドイツ33位
② シャイン・オン・ブライトリー 3:34
Shine On Brirhtly(words:Keith Reid music:Gary Brooker)
☆③ 月の光 3:50
Skip Softly (My Moonbeams)(words:Keith Reid music:Gary Brooker)
*1970年週間シングル・チャート 日本83位(日本のみリリース)
④ ウィッシュ・ミー・ウェル 3:22
Wish Me Well(words:Keith Reid music:Gary Brooker)
⑤ ランブリング・オン 4:31
Rambling On(words:Keith Reid music:Gary Brooker)
side:B
⑥ マグダリーン 2:52
Magdalene(words:Keith Reid music:Gary Brooker)
⑦ イン・ヘルド・トゥワズ・イン・アイ 17:33
In Held 'Twas in I(words:Keith Reid music:Gary Brooker)
a)グリンプシズ・オブ・ニルヴァーナ
Glimpses of Nirvana
b)トゥワズ・ティータイム・アット・ザ・サーカス
'Twas Teatime at the Circus
c)イン・ジ・オータム・オブ・マイ・マッドネス
In the Autumn of My Madness
d)ルック・トゥ・ユア・ソウル
Look to Your Soul
e)グランド・フィナーレ
Grand Finale
『月の光』US盤&ヨーロッパ盤のジャケット
【録音メンバー】
☆プロコル・ハルム
ゲイリー・ブルッカー/Gary Brooker(lead-vocals①~⑦b⑦d, piano①~⑦d)
マシュー・フィッシャー/Matthew Fisher(organ, piano⑦e, lead-vocals⑦c)
ロビン・トロワー/Robin Trower(guitar, lead-vocals④)
デヴィッド・ナイツ/David Knights(bass)
B.J. ウィルソン/B.J. Wilson(drums)
キース・リード/Keith Reid(lyrics)
【チャート】
1968年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)24位 カナダ26位
【メ モ】
プロコル・ハルムのセカンド・アルバム。
プロデューサーはデニー・コーデルとクレジットされているが、バンドとコーデルはアルバム制作途中で決別している。コーデルがドラマーのB.J.ウィルソンをジョー・コッカーのバック・バンドに引き抜こうとしたのがその理由だという。そのため、大部分のプロデュース業務はアシスタント・プロデューサーのトニー・ヴィスコンティによって行われた。なお17分以上の大作⑦「イン・ヘルド・トゥワズ・イン・アイ」の制作にはエンジニアのグリン・ジョンズが非常に重要な役割を果たしている。
このアルバムは、アメリカではアルバム・チャートで初のトップ40入りを果たすが、イギリスではチャート圏外であった。
イタリアではシングルとして「Il Tuo Diamante」がリリースされているが、これは「シャイン・オン・ブライトリー」のイタリア語ヴァージョンである。