ボビー・ハリソン Bobby Harrison
【本 名】
ロバート・レスリー・ハリスン/Robert Leslie Harrison
【パート】
ドラムス、ヴォーカル
【生没年月日】
1939年6月22日~2022年1月7日(82歳没)
【出生地】
イングランド ロンドン
【経 歴】
The Rockefellas(1950年代後半)
ゴールデン・アップルズ・オブ・ザ・サン/Golden Apples Of The Sun(1965)
ザ・パワーパック/The Powerpack(1966~1967)
プロコル・ハルム/Procol Harum(1967)
フリーダム/Freedom(1967~1972)
スナフ/Snafu(1972~1976)
ブラッドハウンド/Bloodhound(1977)
ノーバディズ・ビジネス/Nobody's Business(1977~1978)
ジャーニー/Journey
プロコル・ハルムの初代ドラマーとして知られているボビー・ハリソンは、1939年にロンドン東部のイースト・ハムで生まれた。
ハリソンは、1950年代後半にイングランドのサウスエンドを拠点に活動するバンド「Rockefellas」に加入して本格的な音楽活動を始める。
「ゴールデン・アップルズ・オブ・ザ・サン」というバンドを経て、1966年から1967年にかけてビート・バンドの「ザ・パワーパック」に在籍。
1967年初頭、パラマウンツ解散後のゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)がメロディ・メーカー紙に新たなバンドのメンバー募集広告を出す。これに応じたミュージシャンを中心に同年「プロコル・ハルム」が結成される。
プロコル・ハルムは、1967年3月29日にロンドンでシングル「青い影」を録音したが、この時はまだバンドにレギュラー・ドラマーがいなかったため、ジャズ・ドラマーのビル・エイデンがドラムを担当した。ハリソンがプロコル・ハルムに加入したのはこのレコーディングの直後である。ハリソンが加入したプロコル・ハルムは再び「青い影」を録音したが、そのテイクは採用されなかった。この時同時に「ライム・ストリート・ブルース」を録音したが、これはエイデンがドラムを担当したシングル「青い影」のB面に収録された。
「青い影」は、1967年5月12日にデラムよりプロコル・ハルムのデビュー・シングルとして発表された。イギリスでは発売後わずか2週間で38万枚を売り上げ、6月14日からは全英シングル・チャートで6週連続1位となる。アメリカではビルボード最高5位を記録したほか、西ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、カナダでも軒並みチャート1位となる大ヒットとなった。
「青い影」は大ヒットしたものの、リリース直後の1967年6月にはレーベル側の意向でハリソンとレイ・ロイヤー(guitar)が解雇される。(ハリソンの後任はB. J. ウィルソン)このためハリソンはデビュー・アルバムのレコーディングには参加していない。
バンドから離れたハリソンとロイヤーのふたりは、スティーヴ・シャーリー(bass)とトニー・マーシュ(keyboard)を加え、1967年10月にサイケデリック・ロック・バンド「フリーダム」を結成、。
フリーダムは1968年にイタリアの前衛映画のサウンド・トラック「Nero Su Bianco」を制作し、同年6月にはデビュー・シングル「Where Will You Be Tonight」もリリースしたが、人気には結びつかなかった。
フリーダムは、1969年にはハリソン、ロジャー・ソーンダース(guitar, keyboard)、ウォルト・モナガン(bass, guitar)のトリオ編成となる。音楽性をヘヴィ・ロックにシフトしたフリーダムは、アルバムを4枚リリースしたが、評価を得ることなく1972年に解散。
ハリソンは1972年にソロ・アルバム「Funkist」の制作に取りかかるが、この時のレコーディング・セッションに参加したミッキー・ムーディ(guitar 元ジューシー・ルーシー)と新バンドを組むことになり、1972年11月に、ハリソン(vocal)、ムーディ(guitar)、コリン・ギブソン(bass)、ピーター・ソリー(keyboard)、テリー・ポップル(drums)の編成で「スナフ」を結成。ハリスンはスナフではヴォーカルに専念している。ちなみにソリーはのちにプロコル・ハルムに参加することになる。なお「Funkist」は1975年にリリースされた。
1973年にはプロコル・ハルムでバンド・メイトだったマシュー・フィッシャー(organ)のソロ・アルバム「ジャーニーズ・エンド」の録音に参加している。
1976年、3枚のアルバムを残してスナフは解散。
1977年に新バンド「ブラッドハウンド」を結成するが、これを短期間で解散させると、同年にスワンプ系のブルース・ロック・バンド「ノーバディズ・ビジネス」を結成し、ヴォーカリストとして参加する。このバンドは元フォガットのトニー・スティーヴンス(bass)らが在籍した英米混合バンドで、1978年5月にファースト・アルバム「ノーバディズ・ビジネス」を日本でのみリリースしたが、同年には解散した。
1991年、ソロ・アルバム「Solid Silver」を発表。これは1986年と1987年にアイスランドで録音したものである。
その後はサウスエンドに戻ってキリスト教指向のロックを演奏する「ジャーニー」というバンドに加わり、エセックス州のリー・オン・シー・エリア周辺で活動を続けた。
プロコル・ハルム時代のボビー・ハリソン
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ・アルバム>
1975年 Funkist ※録音1972年
1991年 Solid Slider ※録音1986, 87年
<フリーダム>
1969年 Nero Su Bianco
1969年 Freedom At Last
1970年 Freedom
1971年 Through The Years
1972年 Freedom Is More Than A World
<スナフ>
1974年 Snafu
1974年 Situation Normal
1975年 All Funked Up
<ノーバディズ・ビジネス>
1978年 Nobody's Business
<ゲスト参加>
1973年 ジャーニーズ・エンド/Journey's End (マシュー・フィッシャー)
1974年 Staircase to the Day (Gravy Train)
<ソロ・シングル>
1974年 Cleopatra Jones
キース・ベイカー Keith Baker
【パート】
ドラムス
【生没年月日】
1948年4月19日~
【出生地】
バーミンガム
【経 歴】
スキン・ディープ/Skin Deep(1964~1966)
コック・ア・フープ/Cock A Hoop(1966~1968)
ベイカールー/Bakerloo(1969)
メイ・ブリッツ/May Blitz(1969)
ダディ/Daddy(1969~1970)
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1970)
オフ・ザ・カフ/Off The Cuff(1993)
キース・ベイカーは、ユーライア・ヒープの3代目ドラマーである。
1964年、「スキン・ディープ」というバンドに加入し、本格的な音楽活動を開始する。
1966年に「コック・ア・フープ」というローカル・バンドに加入し、ここでデイヴ・"クレム"・クレムソン(guitar)と出会う。
1968年にコック・ア・フープから離脱すると、1969年2月にクレム・クレムソン率いるジャズ・ロック・バンド「ベイカールー」に加入。
その後ハーヴェストと契約したベイカールーはさっそくレコーディングに取りかかり、同年7月にデビュー・シングル「Driving Bachwards」をリリースする。デビュー・アルバム「ベイカールー」も制作されたが、9月になるとベイカーはテリー・プール(bass)とともにベイカールーを脱退する。デビュー・アルバムは、ベイカー脱退後の同年11月になってリリースされた。
ちなみに、バンド名からベイカールーはキース・ベイカーのバンドと受け取られることもあったようだが、バンド名はロンドンの地下鉄路線のひとつ、「ベイカールー・ライン」から取られたもの。オリジナル・メンバーはクレム・クレムソン、テリー・プール、ジョン・ヒンチ(drs のちジューダス・プリースト)で、3代目ドラマーがキース・ベイカーである。
ベイカールー脱退後間もなく、プールとともにカナダ人ギタリストのジェームズ・ブラックと出会い意気投合、1969年10月に「メイ・ブリッツ」を結成したが、リハーサルを行ったのみですぐに脱退した。
1969年末頃には、リック・デイヴィス(keyboard)、ロジャー・ホジソン(bass, vocal)、リチャード・パーマー(guitar, vocal)とともに、「スーパートランプ」の前身である新たなバンド「ダディ」を結成するが、1970年1月に脱退。
1970年4月、ナイジェル・オルソンの後任を探していた「ユーライア・ヒープ」のオーディションを受け、採用される。ベイカーはバンドのファースト・アルバム「ユーライア・ヒープ・ファースト」の制作に参加し、「肉食鳥」でのみドラムを叩いた。「肉食鳥」は「ユーライア・ヒープ・ファースト」からのシングル「ジプシー」のB面として発表された。ただしイギリス盤のアルバムには収録されておらず、アメリカ盤に収録されている。
アルバムのリリースと前後して、ツアーやセカンド・アルバム「ソールズベリー」の録音に参加したが、大規模なツアーには参加したくないという理由で、1970年11月にはバンドから離脱している。後任はイアン・クラーク。
その後、長らく音楽シーンから姿を消していたが、1993年に元ユーライア・ヒープのポール・ニュートン(bass)らと「オフ・ザ・カフ」を結成して音楽活動に戻った。2000年代に入ってからはユーライア・ヒープ関連のイベントなどに参加、元気な姿を見せている。
※生年月日は、資料によっては1948年4月14日、1950年4月17日などと表記されている。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ベイカールー>
1969年 ベイカールー/Bakerloo
<ユーライア・ヒープ>
1970年 ユーライア・ヒ-プ・ファースト/Very 'eavy... Very 'umble US186位, 日本41位
1971年 ソールスベリー/Salisbury US103位, 日本47位