ナチュラリー Naturally
【歌・演奏】
スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night
【リリース】
1970年11月18日
【録 音】
1970年1月~10月
アメリカン・レコーディング・カンパニー(アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス スタジオ・シティ)
【プロデューサー】
リチャード・ポドラー/Richard Podolor
【エンジニア】
ビル・クーパー/Bill Cooper
【レーベル】
ダンヒル/Dunhill Records(US)
【収 録 曲】(☆=シングル②⑧⑩)
side : A
① アイ・キャン・ヒア・ユー・コーリング 2:58
I Can Hear You Calling(Pentti Glan, Roy Kenner, Hugh Sullivan, Domenic Troiano)
☆② ワン・マン・バンド 2:53
One Man Band(Billy Fox, January Tyme, Thomas Jefferson Kaye)
*1970年11月リリース 1971年シングル・チャート US19位, カナダ6位
③ アイル・ビー・クリーピング 3:33
I'll Be Creeping(Andy Fraser, Paul Rodgers)
④ ファイア・イーター 3:54
Fire Eater(Mike Allsup, Jimmy Greenspoon, Joe Schermie, Floyd Sneed)
⑤ キャント・ゲット・イナフ・オブ・イット 2:55
Can't Get Enough of It(Jimmy Miller, Steve Winwood)
side : B
⑥ サンライト 3:51
Sunlight(Jesse Colin Young)
⑦ ヘヴィ・チャーチ 3:37
Heavy Church(Alan O'Day)
☆⑧ ライアー 3:55
Liar(Russ Ballard)
*1971年7月リリース 1971年シングル・チャート US7位, カナダ4位
⑨ 大いなる悲嘆 4:00
I've Got Enough Heartache(Mike Kellie, Gary Wright)
☆⑩ 喜びの世界 3:38
Joy to the World(Hoyt Axton)
*1971年2月リリース 1971年シングル・チャート US1位, UK24位, カナダ1位, オーストラリア8位, 南アフリカ1位
【録音メンバー】
◆スリー・ドッグ・ナイト
コリー・ウェルズ/Cory Wells(lead-vocals①③④⑦, background-vocals)
チャック・ネグロン/Chuck Negron(lead-vocals②④⑤, background-vocals)
ダニー・ハットン/Danny Hutton(lead-vocals④⑧, background-vocals)
マイケル・オールサップ/Michael Allsup(guitars)
ジミー・グリーンスプーン/Jimmy Greenspoon(keyboards)
ジョー・シェルミー/Joe Schermie(bass)
フロイド・スニード/Floyd Sneed(drums)
【チャート】
1971年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)14位 カナダ19位
1971年年間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)12位
【メ モ】
・スリー・ドッグ・ナイト通算5枚目、スタジオ録音としては4枚目のアルバム。RIAA認定ゴールド・ディスク・アルバムである。
・⑩「喜びの世界」は、全米(ビルボード)シングル・チャートで、1970年の「ママ・トールド・ミー」に次ぐ、2枚目のNo.1シングルとなった。
スティーヴ・マリオット Steve Marriott
【出生名】
スティーブン・ピーター・マリオット/Stephen Peter Marriott
【パート】
ヴォーカル、ギター、キーボード、ハーモニカ
【生没年月日】
1947年1月30日~1991年4月20日(44歳没)
【出生地】
イングランド エセックス州プラシェット
【経 歴】
ザ・フランティクス/The Frantiks(1963)
ザ・モーメンツ/The Moments(1963~1965)
ザ・チェックポインツ/The Checkpoints(1965)
スモール・フェイセス/Small Faces(1965~1969)
ハンブル・パイ/Humble Pie(1969~1975)
スティーヴ・マリオッツ・オール・スターズ/Steve Marriott's All Stars(1975~1976)
スモール・フェイセス/Small Faces(1976~1978)
ザ・ファーム/The Firm(1978)
ブラインド・ドランク/Blind Drunk(1978~1979)
ハンブル・パイ/Humble Pie(1979~1981)
パケット・オブ・スリー/Packet of Three(1984~1986)
スティーヴ・マリオット & ジ・オフィシャル・レシーヴァー/Steve Marriott & The Official Reciver(1986~1987)
スティーヴ・マリオット & ザ・DTs/Steve Marriott & The DTs(1988~1989)
スティーヴ・マリオッツ・ネクスト・バンド/Steve Marriott's The Next Band(1989)
スティーヴ・マリオッツ & ヒズ・バンド/Steve Marriott & His Band(1990~1991)
スティーヴ・マリオットは、イングランド出身のミュージシャン。「スモール・フェイセス」や「ハンブル・パイ」のリード・シンガー兼リード・ギタリストとして知られている。
彼はブリティッシュ・ロック史上屈指のヴォーカリストであると同時に、ブリティッシュ・ロック界が生んだ、最もカリスマ性に富んだミュージシャンのひとりである。身長162cmの小柄な体であるが、ステージでは迫力のあるパフォーマンスでつねに聴衆を圧倒した。
R&Bに対して深い敬意を持ち、レイ・チャールズ、オーティス・レディング、マイルス・デイヴィス、バディ・ホリー、マディ・ウォーターズらから影響を受けたマリオットの歌は非常にパワフルかつソウルフルなものであり、その個性的な歌唱方法は後のブリティッシュ・ロック界のヴォーカリストたちに大きな影響を与えている。
ポール・スタンリー(キッス)は、マリオットを自身のヒーローであると公言しているほか、スティーヴ・ペリー(ジャーニー)は、お気に入りのシンガーにマリオットの名を挙げている。
ハンブル・パイで長年バンド・メイトだったジェリー・シャーリーは、「マリオットはイギリスが生んだ最も偉大なソウル・シンガーである」と語っている。
2012年、スモール・フェイセスのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。
マリオットは、1947年1月30日にイーストハム記念病院で生まれた。マリオット家は労働者階級で、父ビルは印刷工、母ケイも工場に勤めており、イースト・ロンドンのマナー・パークで暮らしていた。
父のビルは音楽好きで、パブでピアノを弾いており、かなりの腕前だった。マリオットは父からウクレレとハーモニカを買い与えられ、独学で習得した。
彼は幼い頃から人前でパフォーマンスすることが好きだった。子役俳優として活動していたマリオットは、タレント・コンテストで優勝したこともあった。同時に音楽にも興味を持ち、1959年に最初のバンド「ザ・ホイールズ」を組んで、バディ・ホリーの外見を真似ていた。マリオットは、とくにバディ・ホリーの大ファンであった
13歳のとき、父ビルが内緒で人気ミュージカル「オリヴァー!」(原作はディケンズの「オリヴァー・ツイスト」)の「アートフル・ドジャー」の代役募集に応募。オーディションに合格したマリオットは12ヵ月間「オリヴァー!」に出演し、ロンドンのウェストエンドの舞台に立った。歌唱力を認められたマリオットは、「オリヴァー!」のオリジナル・サウンド・トラックのレコーディングにも参加している。
「オリヴァー!」で成功したマリオットは、家族から俳優の道を進むよう勧められ、ロンドンのイタリアコンティ演劇芸術アカデミーに入学する。
入学後のマリオットはすぐに俳優としての活動を開始し、16歳だった1963年にはピーター・セラーズとの共演を含む2本の映画に出演したが、まもなく演劇に対する興味を失って、音楽の道に進むことを選ぶ。
この1963年、マリオットはデッカ・レコードと契約し、同年7月にソロ・シングル「Give Her My Regards」をリリースすると、同年終わりごろには「ザ・フランティクス」を結成し、リード・ボーカルとして参加。
翌1964年、フランティクスは「モーメンツ」と名を改め、アニマルズ、ジョージー・フェイム、ジョン・メイオールなどの前座を務めるようになる。そしてこの年キンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」をカヴァーし、アメリカ向けのシングルとして発表したが、鳴かず飛ばずで、1965年10月には解散した。
モーメンツ解散後のマリオットは、ごく短期間「ザ・チェックポインツ」に参加している。
【スモール・フェイセス】
1964年7月28日、マリオットはレインハムのアルビオンに出演していた時、「ザ・パイオニアーズ」のメンバーとして出演していたロニー・レーン(bass)とケニー・ジョーンズ(drums)のふたりに出会う。
その後モーメンツを脱退したマリオットは、ロンドンのミュージック・バー兼楽器店で働いていたが、そこに偶然レーンがベース・ギターを買いにやって来る。再会したふたりは意気投合し、レーンはマリオットの家にレコードを聴きに行くなど、すぐに親しく交友するようになる。
「パイオニアーズ」改め「ジ・アウトキャスト」というバンドに所属していたレーンはマリオットを口説き落とし、パイオニアーズとアウトキャストでレーンのバンドメイトだったケニー・ジョーンズ(drums)と、ザ・モーメンツでマリオットのバンド・メイトだったジミー・ウィンストン(keyboard)とともに、翌65年に新たなバンド「スモール・フェイセス」を結成する。この名は、モッズ用語で「顔役、クールな奴」という意味を持つ「Face」と、マリオット、レーン、ジョーンズの3人が小柄だったこととをかけ合わせたものである。このバンドはメンバー全員がイースト・ロンドン出身であり、生粋のモッズ・バンドであった。
スモール・フェイセスは結成当初から精力的にライヴを行い、間もなくデッカ・レコードと契約を交わした。
1965年8月、デッカレコードからデビュー・シングル「ホワッチャ・ゴナ・ドゥ・アバウト・イット?」をリリースすると、これが全英チャート14位のヒットとなる。
同年11月、ウィンストンが俳優として活動するために脱退し、後任として元「ボズ&ボズ・ピープル」のイアン・マクレガン(keyboard)が加入する。
1966年1月に発表したサード・シングル「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」が全英チャート3位まで上昇、5月に発表したファースト・アルバム「スモール・フェイセス」も全英アルバム・チャートで最高3位を記録。さらに同年8月に発表した5枚目のシングル「オール・オア・ナッシング」は、ビートルズの「イエロー・サブマリン」を押しのけ、1966年9月17日付でついに全英シングル・チャートの首位に立った。こうしてスモール・フェイセスはモッズのヒーローとしてスターダムにのし上がったのである。
しかし未払いの印税を巡ってマネージャーのドン・アーデンとの関係にひびが入り、これが元でデッカとの関係も悪化する。その結果スモール・フェイセスは1967年2月にイミディエイト・レコードへ移籍するのである。
同年6月、バンドは移籍後初のアルバム「スモール・フェイセス」とシングル「サイケデリック・パーク」をリリース。「サイケデリック・パーク」はバンド唯一の全米トップ20入り(16位)を果たしている。
1968年に発表したアルバム「オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク」は6週連続全英チャート1位となる大ヒットを記録。この作品は実験的要素のあるコンセプト・アルバムであると同時に、当時のサイケデリック・ムーヴメントを反映していたことから、イギリスのロック・ファンに大きく支持され、現在ではスモール・フェイセスの代表作とも言われている。
マリオットはソングライターとしてスモール・フェイセスのヒット曲の大半に携わった。マリオットのソウルフルな作風はティーンエイジャーに支持され、スモール・フェイセスは1960年代後半におけるイギリス・ロック界の人気バンドのひとつとなった。
のちに「スモール・フェイセスの曲の中で最高のものは何か」と質問されたマリオットは、「オール・オア・ナッシング、そしてティン・ソルジャーかな」と答えている。
「ティン・ソルジャー」は、モデルのジェニー・ライランスを口説くため1967年に書いた曲である。マリオットはライランスに恋したが、彼女は当時ロッド・スチュワートと付き合っていた。のちスチュワートとライランスが別れたことを知ったマリオットは再び彼女にアプローチし、1968年に結婚している。
しかしマリオットは音楽よりもルックスでもてはやされていることと、バンドがアメリカでは成功していないことに不満を抱いており、さらなるバンドの進化とR&Bの追及を望むようになっていた。
当時「ハード」のフロントマンだったピーター・フランプトン(vocal, guitar)もアイドル視されることを嫌がっていた。共通の悩みを抱えていたふたりは1968年に出会うとすぐに打ち解け、マリオットはそのフランプトンをスモール・フェイセスに加入させることを提案したが、他の3人はこれに反対した。この件がもとでバンドの限界を感じるようになったマリオットは、その年12月31日に行われたライヴの途中でステージを放棄してしまった。終演後、メンバーは激怒してマリオットに詰め寄ったが、彼はそのままスモール・フェイセスから脱退してしまったのである。
なおマリオットの後任として声をかけられたのはピーター・フランプトンだったという。
【ハンブル・パイ】
スモール・フェイセスから離れたマリオットは、ピーター・フランプトン(guitar)の呼びかけによって、新たなバンド結成へ動き始める。
1969年1月、ふたりはエセックスにあったマリオットの自宅でリハーサルを始めた。そして元スプーキー・トゥースのグレッグ・リドリー(bass)と、元アポストリック・インターヴェンションのジェリー・シャーリー(drums)を加えて、1969年4月に「ハンブル・パイ」を結成した。
のちにフランプトンは「ハンブル・パイはまさに理想のバンドだ。ミュージシャンなら誰でもあのバンドに入りたいと思うはずだ。なぜなら憧れのスティーヴ・マリオットと一緒にやれるんだから。彼が歌うだけでどんな音楽も素晴らしいものになってしまう。」と語っている。
ハンブル・パイはイミディエイト・レコードと契約を交わし、ファースト・アルバム「アズ・セイフ・アズ・イエスタディ・イズ」と、マリオット作のシングル「あいつ」を発表。マリオットとフランプトンのふたりのスターを擁するハンブル・パイは、「新たなスーパー・グループの誕生」としてたちまち注目される存在となった。
しかしイミディエイトは役員の横領などが原因で倒産したため、ハンブル・パイは改めてA&Mレコードと契約、1970年7月にアルバム「大地と海の歌」を発表して巻き返しを図った。ただしイミディエイトは、その後を含め30年以上にわたってマリオットの作品の権利を保有していたにもかかわらず、マリオットに印税を支払うことはほとんど無かったという。
ハンブル・パイのフロントマンであるマリオットとフランプトンの音楽性は対照的であった。マリオットはR&B、ロック志向、フランプトンはポップ、アコースティックを志向していたのだが、これは同時にバンドの特長でもあった。しかしマリオットが強く成功を願っていた当時のアメリカは、フランプトンのアコースティックな作風を受け入れる土壌ができていなかった。
A&M移籍後のハンブル・パイはアメリカ市場での成功をはっきり意識するようになり、マリオットのソウルフルな歌や、R&B色を強めたヘヴィなロック・サウンドを前面に押し出してレコードを制作するようになる。
1971年11月、ハンブル・パイは、ニューヨークのフィルモア・イーストで行ったコンサートの模様を収めたアルバム「パフォーマンス〜ロッキン・ザ・フィルモア」を発表。このアルバムがきっかけとなり、バンドの人気は浮上する。そればかりでなく、これは長きにわたりロック史に残る傑作ライヴ・アルバムとして語りつがれてゆくことになるのである。
その後音楽性の相違と、注目度の比重がマリオットに傾いたためフランプトンが脱退、その代わりとしてクレム・クレムソン(guitar)を加えたハンブル・パイは、1972年に「スモーキン」、1973年には「イート・イット」と、立て続けに良質のアルバムを発表。同時に屈強のライヴ・バンドとしてロック界に君臨するようになった。
しかしマリオットはアルコールと薬物を過度に摂取するようになり、精神的に不安定なまま過ごすことが多くなった。このため1973年、ジェニーはマリオットの元から去る。これによりマリオットの精神状態はさらに負のスパイラルに陥った。
1970年代中頃のハンブル・パイは、ツアーに次ぐツアーのためメンバーの疲労は極まりつつあった。そしてバンドは、音楽性の相違やドラッグの蔓延などでスランプに陥り、失速していった。こうしてハンブル・パイは、1975年に解散した。
【スモール・フェイセス再結成】
1975年、ローリング・ストーンズからミック・テイラー(guitar)が脱退すると、その後任候補としてキース・リチャーズ(guitar)は真っ先にマリオットの名を挙げた。しかし自分が目立たなくなると感じたミック・ジャガー(vocal)の反対でこの話は実現しなかった。
1976年、マリオットはファースト・ソロ・アルバム「マリオット」を制作。そして元ハンブル・パイのグレッグ・リドリー(bass)、元キング・クリムゾンのイアン・ウォーレス(drums)、元ヘヴィ・メタル・キッズのミッキー・フィン(guitar)というラインナップで「スティーヴ・マリオッツ・オール・スターズ」を結成して積極的にライヴを行った。
1976年、スモール・フェイセスの曲「イチクー・パーク」がリバイバル・ヒットしたのをきっかけに、マリオット、ロニー・レーン、イアン・マクレガン、ケニー・ジョーンズの4人がスモール・フェイセス再結成のため集結した。しかしレーンは自己のバンド「スリム・チャンス」で活動していたためすぐに離脱し、後任としてロキシー・ミュージックのツアー・メンバーだったリック・ウィルスが加わった。
再結成したスモール・フェイセスはアトランティックと契約し、1977年には9年ぶりのスダジオ・アルバム「プレイメイツ」を、翌1978年にはアルバム「78 イン・ザ・シェイド」を発表したが、評価ははかばかしくなく、再び解散した。
1978年、未払いの税金が残っていることを知ったマリオットは、その支払いをするため自宅を売却し、カリフォルニアに移住する。そこでジム・レバートン(bass)、元マウンテンのレスリー・ウェスト(guitar)と「ファーム」というバンドを結成したが、ビザの問題でレバートンがアメリカから出国せざるを得なくなり、バンドはあっけなく解散した。この件はマリオットにとって経済的な大打撃となり、困窮したマリオットは小銭を得るため空き瓶を集めるまでに追い詰められた。
【ハンブル・パイ再結成】
1979年末、マリオットはニューヨークに住んでいたジェリー・シャーリー(drums)に連絡を取り、ハンブル・パイの再結成について話し合った。その結果、同意したシャーリーのほか、元ジェフ・ベック・グループのボブ・テンチ(guitar, vocal)、シャーリーと「マグネット」というバンドで活動していたアンソニー・"スーティ"・ジョーンズ(bass)、そしてマリオットの4人でハンブル・パイは再始動する。
新生ハンブル・パイは2枚のアルバムを発表したが、1981年にマリオットのケガと病のためツアーが中止となった後、アトランティック・レーベルとの契約も失ったため、再び解散した。
1981年、マリオットはイギリスでロニー・レーンと再会する。
レーンはすでに車椅子を使い始めていたが、マリオットはレーンに「一緒に演奏しよう」と提案した。ふたりはジム・レヴァートン(bass)、ミック・ウィーヴァー(keyboard)、デイヴ・ハインズ(drums)、ミック・グリーン(guitar)、メル・コリンズ(sax)を集め、アルバム「Majik Mijits」を制作したが、レーンの病気のためこのアルバムの宣伝やツアーは行われなかった。「Majik Mijits」は2000年になってようやくリリースされたが、この時にはマリオットもレーンもすでにこの世にはいなかった。
1982年、マリオットはジム・レバートン(bass)、ゴールディ・マックジョン(keyboard 元ステッペンウルフ)、ファロン・ウィリアムスⅢ世(drums)のランナップでツアーに復帰したが、このバンドはプロモーターによって「ハンブル・パイ」と名乗ることになった。
1983年にはアメリカ合衆国のアトランタを本拠地として、レバートンとマックジョンの代わりにトミー・ジョンソン(guitar)、キース・クリストファー(bass)をメンバーとして補充した。その後ジョンソンの代わりにフィル・ディックス(guitar)が参加し、さらに元ジョージア・サテライツのリック・リチャーズ(guitar)を新メンバーとして迎えた。しかしデモ音源の収録にリックとキースが遅れたことからマリオットはふたりを解雇、マリオットのほかフィル・ディックス(guitar)、デイヴ・ヒューイット(bass)、ファロン・ウィリアムスⅢ世(drums)のメンバーで収録を行ったが、レコードのリリースには至らなかった。その後いくつかのライヴ・ステージに立ったのち、マリオットはバンドを解散し、結婚生活も終えて1983年末にイギリスに戻った。
帰国したマリオットは経済的に困窮し、妹の家に居候していたが、「パケット・オブ・スリー」を結成してパブなどのサーキットを再開、1984年にはアルバム「パケット・オブ・スリー」をリリースした。
「パケット・オブ・スリー」は1986年に「スティーヴ・マリオット & ジ・オフィシャル・レシーヴァーズ」と名を変更。
その後1988年に「スティーヴ・マリオット & ザ・DTs」を、1989年に「スティーヴ・マリオッツ・ネクスト・バンド(The Next Band)」結成し、ロック界のメイン・ストリームや大手レコード会社から距離を置きながらも、小規模の会場やパブを中心に年間250日に達する年もあったといわれるほどの精力的なライブ活動を続けた。
【1990年代】
1991年、マリオットとフランプトンが再会する。意気投合したふたりは、アルバムの共同制作など、活動を再開することを決めた。マリオットはいったんロサンゼルスにあるフランプトンのスタジオでレコーディングを始めたが、途中で心変わりしてしまったためこのプロジェクトは完成しなかった。
ハンブル・パイ再結成の可能性も残されていたが、4月19日にマリオットはロサンゼルスから帰国。夕食後友人の家でいったん就寝したが、夜半にエセックス州アーケスデンの自宅へ戻った。
4月20日午前6時30分頃、通りがかった自動車の運転手がマリオットの家の屋根が燃えているのを見つけ、消防署に通報する。消防隊が駆け付けた時には、マリオットはすでにベッドと壁のあいだで一酸化炭素中毒のため死亡していた。44歳の若さだった。
自宅に戻ったマリオットは、ベッドで煙草に火を付けたが、旅行の疲れと時差ボケからすぐに眠り込んでしまったものと推測されている。
4月30日に行われた葬儀では、スモール・フェイセスの「オール・オア・ナッシング」が演奏された。
マリオットは一男三女をもうけているが、三女のモリー・マリオットもシンガーとして活動している。
1996年には「イギリス音楽への顕著な貢献」により、アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。
2001年、マリオットの没後10年を記念してロンドンで「スティーヴ・マリオット・メモリアル・コンサート」が開催された。このコンサートにフランプトン、リドリー、シャーリー、クレムソンが一時的にハンブル・パイを再結成して出演した。
1997年6月4日、1970年代後半に多発性硬化症を発症して長年闘病生活を続けていたレーンが、肺炎のため51歳で病没。
2014年12月3日、マクレガンが脳卒中の合併症のため69歳で死去。
スモール・フェイセスは、2012年にフェイセズとともに「ロックの殿堂」入りを果たしている。
ピンク・フロイドのアルバム「おせっかい」に収録されている「シーマスのブルース」のシーマスとは、マリオットの愛犬のことで、曲中に聴こえるのがシーマスの鳴き声である。なおシーマスの鳴き声は、スモール・フェイセスの「ユニヴァーサル」でも聴くことができる。
レッド・ツェッペリンのロバート・プラントは、一時期スモール・フェイセスの追っかけをしていた。なかでも「彼になりたい」と羨ましがっていたほどのスティーヴ・マリオットの大ファンであった。
プラントは、ブルースにおける歌唱法についてマリオットから多大な影響を受けている。レッド・ツェッペリンの名曲「胸いっぱいの愛を」は、もともとウィリー・ディクソンが作曲、マディ・ウォーターズがレコーディングした「You Need Lovin'」である。マリオットはそれを独自の解釈で歌っていたが、ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」は、マリオット・ヴァージョンをそのまま踏襲したものである。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ>
1976年 マリオット/Marriott
1989年 30セカンズ・トゥ・ミッドナイト/30 Seconds To Midnight
☆1991年 Dingwalls 6.7.84
☆1998年 All Or Nothing – Live
★2000年 Afterglow
☆2001年 Live at Dingwalls/Voice Of Humple Pie
★2003年 Signed Sealed
★2005年 レイニー・チェンジズ/Rainy Changes ※レア・トラック集
★2006年 Tin Soldier
☆2008年 ザ・ファイナル・パフォーマンス/All Or Nuffin - The Final Performance
☆2010年 Lend Us A Quid
★2013年 アイ・ニード・ユア・ラヴ/I Need Your Love ... (Like A Fish Needs A Raincoat)
★2015年 ミッドナイト・オブ・マイ・ライフ/Midnight Of My Life
<スモール・フェイセス>
*アルバム
1966年 スモール・フェイセス/Small Faces(UK3位)※デッカ盤
★1967年 フロム・ザ・ビギニング/From The Beginning(UK17位)
1967年 スモール・フェイセス/Small Faces(UK12位)※イミディエイト盤
1968年 There Are But For Small Faces(US178位)
1968年 オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク/Ogdens' Nut Gone Flake(UK1位, US159位)
★1969年 イン・メモリアム/In Memoriam
★1969年 ジ・オータム・ストーン/The Autumn Stone
1977年 プレイメイツ/Playmates
1978年 78イン・ザ・シェイド/78 In The Shade
*シングル
1965年 ホワッチャ・ゴナ・ドゥ・アバウト・イット/Whatcha Gonna Do About It(UK14位)
1965年 I've Got Mine
1966年 シャ・ラ・ラ・ラ・リー/Sha-La-La-La-Lee(UK3位)
1966年 ヘイ・ガール/Hey Girl(UK10位)
1966年 オール・オア・ナッシング/All or Nothing(UK1位)
1966年 心のひとみ/My Mind's Eye(UK4位)
1967年 I Can't Make It(UK26位)
1967年 Patterns(UK51位)
1967年 Here Comes the Nice(UK24位)
1967年 サイケデリック・パーク/Itchycoo Park(UK3位, US16位)
1967年 涙の少年兵/Tin Soldier(UK9位, US73位)
1968年 レイジー・サンデー/Lazy Sunday(UK2位, US114位)
1968年 The Universal(UK16位)
1969年 Mad John
1969年 アフターグロウ/Afterglow of Your Love(UK36位)
1975年 イチクー・パーク/Itchycoo Park(UK9位)
1976年 レイジー・サンデー/Lazy Sunday(UK39位)
<ハンブル・パイ>
*アルバム
1969年 アズ・セイフ・アズ・イエスタディ・イズ/As Safe as Yesterday Is(UK32位)
1969年 タウン・アンド・カントリー/Town And Country
1970年 大地と海の歌/Humble Pie
1971年 ロック・オン/Rock On(US118位)
☆1971年 パフォーマンス~ロッキン・ザ・フィルモア/Performance Rockin' the Fillmore(UK32位 US21位)
1972年 スモーキン/Smokin' (UK20位 US6位)
1973年 イート・イット/Eat It(UK34位 US13位)
★1973年 Lost and Found(US Billboard37位 CashBox41位)※「アズ・セイフ・アズ・イエスタディ・イズ」「タウン・アンド・カントリー」を2枚組アルバムとしたもの
1974年 サンダーボックス/Thunderbox(US52位)
1975年 ストリート・ラッツ/Street Rats(US100位)
★1976年 Back Home Again
★1977年 Greatest Hits
1980年 オン・トゥ・ヴィクトリー/On to Victory(US60位)
1981年 ゴー・フォー・ザ・スロート/Go for the Throat(US154位)
★1982年 Best of Humble Pie
★1987年 ベストCDコレクション/A&M Classics Volume 14
★1993年 A Piece of the Pie
★1994年 Early Years
★1994年 Hot n' Nasty:The Anthology
☆1996年 ライヴ・イン・コンサート/King Biscuit Flower Hour Presents- Humble Pie In Concert ※旧邦題「キング・ビスケット・ライヴ」
★1997年 The Scrubbers Sessions
★1999年 The Immediate Years:Natural Born Boogie
★1999年 Running with the Pack
☆2000年 Extended Versions ※「King Biscuit Flower Hour Presents- Humble Pie In Concert」のリイシュー盤
☆2000年 ナチュラル・ボーン・ブギ/Natural Born Boogie:The BBC Sessions ※旧邦題「BBCセッションズ」
★2000年 Twentieth Century Masters:The Millennium Collection
2002年 バック・オン・トラック/Back on Track
☆2002年 ライヴ・アット・ザ・ウィスキー・ア・ゴー・ゴー ’69/Live At The Whisky A Go-Go '69
★2005年 アトランタ・イヤーズ/Atlanta Years
★2006年 The Definitive Collection
★2006年 One More for the Old Tosser
☆2012年 Live '73
☆2013年 Live '81 ※「King Biscuit Flower Hour Presents- Humble Pie In Concert」のリイシュー盤
☆2013年 パフォーマンス〜ロッキン・ザ・フィルモア コンプリート・レコーディングス/Performance Rockin' the Fillmore: The Complete Recordings
☆2017年 オフィシャル・ブートレッグ・ボックス Vol.1/Official Bootleg Vol. 1 ※3CDボックス・セット
☆2018年 オフィシャル・ブートレッグ・ボックス Vol.2/Official Bootleg Vol. 2 ※5CDボックス・セット
☆2019年 アップ・アワ・スリーヴ~オフィシャル・ブートレッグ・ボックス Vol.3/Up Our Sleeve Official Bootleg Vol. 3 ※5CDボックス・セット
☆2019年 トゥアーリン~オフィシャル・ブートレッグ・ボックス Vol.4/Tourin’ Official Bootleg Vol. 4 ※4CDボックス・セット
2019年 ジョイント・エフォート/Joint Effort
*シングル
1969年 あいつ/Natural Born Bugie(UK4位)
1969年 The Sad Bag of Shaky Jake
1970年 Big Black Dog
1971年 Shine On
1971年 ノー・ドクター/I Don't Need No Doctor(US73位)
1972年 ホット・アンド・ナスティ/Hot 'n' Nasty(US52位)
1972年 ほら穴の30日間/30Days in the Hole
1973年 ブラック・コーヒー/Black Coffee(US113位)
1973年 ゲット・ダウン・トゥ・イット/Get Down to It
1973年 シャット・アップ/Shut Up and Don't Interrupt Me
1974年 ナインティー・ナイン・パウンズ/Ninety-Nine Pounds
1974年 オー・ラ・ディ・ダ/Oh la de Da
1975年 ロックンロール・ミュージック/Rock and Roll Music(US105位)
1980年 Fool for a Pretty Face(US52位)
1981年 Tin Soldier(US58位)
<スティーヴ・マリオッツ・パケット・オブ・スリー/Steve Marriott's Packet of Three>
☆1984年 パケット・オブ・スリー/Packet Of Three Live ※旧邦題『ライヴ'84』
☆1996年 Live At The George Robey 23.10.85
<スティーヴ・マリオッツ・スクルバーズ/Steve Marriott's Scrubbers>
1992年 スクルバーズ/Steve Marriott’s Scrubbers
<スティーヴ・マリオッツ・オール・スターズ/Steve Marriott's All Stars>
1999年 Clear Through The Night
2007年 ワム・バム/Wham Bam
<スティーヴ・マリオット & オフィシャル・レシーヴァーズ/Steve Marriott & Official Receivers>
1999年 オフィシャル・レシーヴァーズ/Steve Marriott And Official Receivers
2006年 サム・カインド・オブ・ワンダフル/Some Kind of Wonderful
<スティーヴ・マリオット & ザ・ネクスト・バンド/Steve Marriott & The Next Band>
☆2000年 Live In Germany 1985
<スティーヴ・マリオット & ロニー・レーン>
2000年 マジック・ミジッツ/The Legendary Majik Mijits
<スティーヴ・マリオット & ザ・D.T.s/Steve Marriott & The D.T.s>
☆2001年 シング・ザ・ブルース:ライヴ1988/Sing The Blues - Live 1988