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原爆の日です
この日が巡ってくると
必ず思い出す人がいます
私は若い頃 アメリカの大学に留学しました
オクラホマ州というアメリカのど真ん中の田舎町にある
小さな大学で日本人の受け入れは初めてということでした
当時はインターネットどころかファックスもなく
通信手段は電話か手紙という時代
留学にこぎつけるだけでも大変なことでした
その大学に決めたわけは
日本でお世話になっていた先生のご実家が
近くの街にあったからです
一応 形だけでもスポンサーが必要で
スポンサーと言っても金銭的な援助ではなく
いわば身許引き受け人的な存在です
先生のお父様がスポンサーになってくれました
当時 先生のお母さまは大学院に通っていました
53歳から4年間かけて法律家になったスゴイ人でした
遠い街の大きな大学院だったので寮生活で
隔週の週末しか家には戻って来なくて
お父様と先生の妹さんだけが大きな家に暮らしていました
フレッドさん(お父様)は毎週木曜日の晩に
私がいた大学の寮に電話をくれて
週末に予定がないのなら家においでといって
金曜日の夕方に迎えに来てくれました
とても寡黙な優しい人で
多分 趣味ではなかったのだろうけど
私が行くとサイクリングに連れて行ってくれたり
冬ならば近くの池でスケートをしたり
図書館に行って本を借りてきて
広いリビングでそれぞれ静かに読書したり・・・
私がページをなかなかめくらないと
『どこか分からない文章があるのかい?』って声をかけてくれたり。
そんなこんなで2年間の滞在のうち
1/4位はスポンサーファミリーのお家で過ごしました
私が英語に不自由を感じなくなった頃
お父様は職場に私を連れて行ってくれました
彼は科学者でした
マクロの世界の研究者でした
たまに帰ってくるお母さまは
本当に素敵な女性で
でもとってもストイックな人で
"I can't." (出来ません)なんて言おうものなら
"Yes, you can! You just don't want to."
(いいえ、できます。 ただやりたくないだけでしょ)
あれから40年経った今も
この言葉は深く私の心に残っています
そのお母さまが私に
戦争に関するとても深い話をしてくれました
第二次世界大戦の時
アメリカでは科学者たちは戦地に送られず
ニューメキシコにある大きな研究所に缶詰めにされたそうです
フレッドさんも家族を残してそのプラントで
『何か』の研究を日々させられたそうです
それぞれのチームは本当に狭いエリアの研究をし
それぞれの情報を共有することは許されず
何を作っているのか質問は許されなかったそうです
それでもフレッドさんたちは
自分たちがしている作業は
とてつもなく怖ろしいことだろうと察していたそうです
そして広島と長崎に原爆が投下されました
やっぱり・・・という気持ちと共に
フレッドさんは生きる希望を失うほど落ち込んだそうです
虫も殺せないような穏やかな優しい人でしたから・・・
戦後に生まれたフレッドさんのお嬢様が私の先生です
フレッドさんも
まさか自分の娘が日本で仕事をするとは思わなかったでしょう
でも、 娘を通して日本と繋がりが出来て
せめて自分が出来ることで
日本人に償いがしたいと思うようになったそうです
それが私だったのでしょう
自己満足でしかないけれど
フレッドの気持ちだから恩義に感じずに
私たちに甘えてほしい
お母さまのマリーさんの言葉でした
今はもうフレッドさんもマリーさんも
私の先生も天国にいます
私は後に英語教師になって
中学2年生の教科書では
被爆者・佐々木貞子さんの千羽鶴の話を通して
不定詞と動名詞を教え
いろんな形で原爆の日を思いますが
フレッドさんのことも
原爆の別の側面として思い出します
お元気なうちに
もう一度会いたかったです