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愉しい触れ合いを目指してゆとりの有る人生を歩みましょう

平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

初めて体験したハワイでの生い立ち

2008-10-06 08:21:46 | Weblog
初めて生後14年半振りに舞い戻って来たホノルルに迎えに来てくれていた伯母は私の父親の姉で何と12人目の子供を最後に生んで間も無く夫に事故で先立たれ、英語に不自由しながら一人で大変な苦労をして育て上げたしっかり者、上の七人の娘と長男息子一人は既に片付き、最後の三人娘と末っ子の息子一人、それに長男夫婦と3人の孫達合わせて10人の大家族で暮らしていたのでした。 末っ子の息子は私と同年齢でした。 その大家族の家に私が加わったのですから尚更大変賑やかになりました。 私は末っ子の息子と同じ部屋で暮らす事になりました。生まれて初めて寝るベッドは上下に組み立てられたベッドでしたが、私がベッドに慣れていないので下のベッドを使用させてくれました。 2日目の明け方に私はそのベッドから床に転げ落ちたのでした。板の間の床でしたので転げ落ちた時に大きい音がして、従兄姉達は目を覚ましたらしく、翌朝起きたら皆からくすくす笑われてひやかされ非常に恥ずかしく思ったもんです。 日本から持参した衣服は総て黒のズボンと白いシャツなので伯母が早速アロハシャツを作ってくれて、それ以後毎日アロハシャツばかりを着て過ごしました。ハワイで初めて過ごしたお正月は暖かく全くお正月気分は湧きませんでしたが、家族揃って日本の昔風の木の臼でお餅をついて頂きました。

日本語が理解出来るのは伯母と長男だけで、若い従姉達は片言の日本語しか理解出来ませんでしたが、珍しがってかとても親切に良く話し掛けてくれました。
末っ子の息子は高等学校の2学年で直ぐに仲良くなり一生懸命に英語の発音を教えてくれました。私の父親は英語も日本語も達者で終戦後は進駐軍の通訳をしていましたが、私には少しも英語に力を入れて教育してくれていませんでしたので学校で習っていた僅かな英語力だけしか理解出来ず殆ど役には立ちませんでした。
然し毎日の英会話で少しづつ理解出来るようになりお陰で割と早く習えた方でした。何はともあれ、先ず英語を早く習わなければ何も出来ませんので早速従姉に連れられて或る教会で外国から来た人達を専門に教える半日の英語のクラスに加えさせて貰い其処で約2ヶ月間英語の基礎を教わりました。生徒の年齢はまちまちで、色んな人種の人達と一緒でした。 先生の中には先ず日本人女性校長の方と白人女性の先生が2,3人居ました。 そのクラスに通学するのにバスの乗り方を従姉に教わり、日本式にバスの席が空いたら直ぐに座り込んだ自分に注意されて男性は絶対に座る前に女性が立っていたら女性に先ず席を譲る事を教えられました。それ以後私は絶対に席に座ることはしませんでした。 

伯母は料理が大変得意でしたので娘二人を従えて小さい「オカズヤ」、現在で知られる[Fast Food]のお店を経営し稲荷寿司、おむすび、天ぷら、おかず等でハイスクールの近くだったので良く繁盛していました。 毎朝3時頃には起きて支度を始め、私も勿論お手伝いをしていました。 暫くして私は自分で生まれて初めて正式に日本人夫婦が経営するパン屋に就職口を見付け其処でも毎朝2時に起きてパン屋で働きケーキの作り方も教わって半年勤めました。 毎日朝と夜の生活が逆で睡眠不足になりがちになり、一緒に住んでいながら伯母や従姉弟達との会話もろくに出来ない日が続き、英語を習う機会も有りませんでした。その内に9月から始まるハイスクールの一学期に2学年から入学出来るように手続きを済ませて晴れて学校に戻る事が出来ました。 

アメリカの学校は1年に2学期しかなく、1学期は9月から始まり、2学期が1月から夏休みまでです。 私の英語の学力はやっと英会話だけ話せる程度でしたが、9月から1年ずれて従弟が通っていた同じハイスクールの2学年から入りました。初めてのアメリカのハイスクールにいきなり入学しましたが、総てに慣れるまでは戸惑いの毎日で、その内に日本から来た私同様の数人の学生と知り合い直ぐに親しくなって遂日本語を喋ってしまう始末。でも大変心強くなり学校が愉しくなりました。 そのハイスクールはホノルルでも一番大きい学校で然も日本人(二世)が最も多い事で知られていました。 類は類を呼ぶで、意外と日本から遣って来た私の様な日本人の学生が多く居たのに驚きお互いに親しくなって昼休みなどは何時も一緒に過ごすようになっていました。学校で先ず驚いた事は日本の様に指定された学級の教室で各科目毎に先生が来て教えるのではなく、生徒が選んだ科目の時間表に従って各教室を廻って授業を受ける事でした。それに同じ科目を選んだ学生の中には学級の違う生徒と一緒に教わるのです。 飽くまでも指定された必須科目と選択科目は単位制度なので学年には無関係なのです。どの科目を取っても教科書の内容の半分以上は理解出来ませんでしたが、先生の説明だけでどうにかついて行けました。 教科書は総て学校から貸し出されているので勝手に色々とメモを書き込んだり出来ませんが、毎日辞書を頼りに単語の意味を理解するだけで精一杯でした。理解出来ない英語で知らない事を教わるのですから、自分の想像力だけを頼りの毎日で必要な学力が人並みに付くはずが有りません。

ハイスクールに通い出して間も無く放課後に毎日夕刊紙を配達する仕事を見付け直接新聞印刷会社に出向いて400軒近い数の配達先の家に自分のおんぼろ自動車で配達を終えて帰宅していました。 私がパン屋で働いて貯めたお金で初めて自分の自動車を新聞配達の為に購入したのは1931年型の古いFord車でしたが早速従弟から運転を教わって大変色んな面で便利しました。私が担当していた区域は美しい山の麓に立ち並ぶ住宅地でその古いフォード車でその地区に乗り入れると何時も3,4人の子供達が待ち受けていて古い自動車に物珍しく惹かれてか両側にぶら下がって配達を手伝ってくれていましたので大変助かりました。一軒づつ自動車から降りて配達していたらとても2時間以内では終りません。彼らはてんでに新聞を手に持って小走りに走りながら自動車について来るのです。 新聞は私が予め400軒分の新聞を固く丸めて固定させて有るので各家の玄関先に投げ込んで行くのですが、時には玄関先の窓ガラスを割ったり、屋根の上に投げ上げたり、水に濡らしたりしますが、子供達を叱る事はせず、私が責任を持って弁償したり新たに配達をしたりしていました。 又或る時は飼い犬に子供の足を噛まれたりした事も有りましたが、それでも子供達は愉しく喜んで一緒に走ってくれました。配達の仕事は好きでしたが、月末に各家に集金に廻る時が中々はかどらず完全に集金し終わるのは1週間後になります。 集金した中から会社に支払う金額が出来た時点で支払いを済ませ、その後の残りの集金代は総て自分の収入でした。 
暫く経ってからその自動車に故障が多い事から今度はジープを購入して配達が更に楽になりました。

その頃から私は伯母の家から出て学校で知り合った日本から修行に来ていた浄土宗のお坊さんの計らいで浄土宗のお寺の境内に建てれていたハワイ大学生用の二階建ての寄宿舎に入れて貰う事が出来、一部屋二人の小さい部屋を借りて生活をし始めました。 その寄宿舎には他の島からハワイ大學に通う生徒が殆どで約5,60人位常に居ましたので大変愉しかったです。 朝食と夕食付で大きい日本風呂も付いていました。 食事は勿論総て日本食でしたから大満足でした。 その代り毎週日曜日の朝は早く7時にはお寺の鐘を合図に本堂に入り日本語のお説教を聴かされました。現在でもその浄土宗は新たに建設されたフリーウエイが直ぐ傍に出来ましたが同じ場所で受け継がれているそうです。その知り合ったお坊さんは京都出身のお寺の住職の一人息子さんでしたが、数年後、その人の紹介で現在の家内と縁組と相成ったのでした。 そのお坊さんもハワイ生まれで京都で育った人で私より4歳先輩ですが、住職のお勤めから離れて自らアメリカの陸軍に志願され沖縄にて長年駐屯した後除隊された後も軍属の身で留まりハワイに戻って引退されています。 兄同然に慕って来た彼は現在も病弱ながら夫婦共に健在でハワイで暮らされています。