私がハイスクールで2年を過ごし卒業した頃は丁度朝鮮戦争が未だ激しかった真っ最中でした。私達の年齢の若者は皆徴兵適齢期(?)で登録させられていましたので、皆次々と徴兵させられていました。 私と同年齢の従弟も徴兵の報せを待たずに海軍に一緒に志願をしようと誘ってくれましたが、海軍に志願すれば軍役の年期が4年と長く、其れよりも私は辛い船酔いが尤も苦手なので断りました。その後間も無く彼は独りでさっさと志願して入隊しました。
私も遂にその決断に迫られ、自分の英語の未熟さを少しでも上達させる事が出来ればとの思いで陸軍の通訳学校を志願して3年の軍役期間を勤める事にしたのでした。私が志願してハワイで16週間の厳しい基礎訓練中に私宛の徴兵の通知を受け取りました。 因みに徴兵された場合の軍役は2年間でした。 徴兵された人達は基礎訓練が終ると本人の派遣先の選択資格は無いので殆どの人達は真っ先に朝鮮の戦場地域に派遣されていました。 私は基礎訓練の終了後、直ちにアメリカ本国のカリフォルニア州のモントレー市に有る陸軍通訳学校に送られて其処で1年弱の日本語クラスに所属させられました。 クラスには私を含めて15,6人の生徒からなり、殆どが白人将校や上階級の下士官(軍曹)達で既に日本に駐屯した経験を持ち片言の日本語が話せる程度の者ばかりでした。 勿論日本語の判らない二世達も他のクラスに居りました。教師は勿論皆日本人で女性の教師も含めて2,3人居り私達のクラスを担当していた教師は中年の女性教師でした。
私の場合は日本語クラスで逆に英語を習得する事が目的でした。 この学校に通学している間は軍の厳しい規則は無く、ごく普通の学生生活を営む事が出来、既婚されていた人達は家族と一緒にキャンプ外の市内で住居を持つ事が出来ましたが、独身者は皆キャンプ内に有る兵舎での団体生活でしたが毎朝の点呼だけは決められた時刻の6時までに起床しなければなりませんでした。 クラスが終れば翌日まで自由行動なので大変楽でした。 週末の土、日曜日は勿論休日で点呼も無く自由行動が取れました。モントレーの町はイタリア人が多く住む漁業の町でも有りましたが、この学校があるキャンプはそのこじんまりとした美しい海に面した小高い丘に有りました。 其の町で初めてイタリア人の好むピザと言うものを知りました。日本の小さいレストランも有ったので日本食には困る事無く毎週一度は日本食を楽しむ事が出来ました。
クラスではお互いに日本語と英語の会話ばかりで教えたり、教わったりでとても愉しく各自の階級には全く拘る事無く親しく共に勉強する事が出来ました。 面白い事に日本に駐屯した経験者の殆どが喋る日本語は日本の女性から習った日本語と見えて話し方が当然女性の話し方になり、女々しく優しい話し方をしていました。 其れに益して女性の教師が教える時も当然女性の話し方で教えていますので教わる生徒の話し方は中々直らない訳です。 なので私はしょっちゅう彼らには女性と男性の話し方の違いを教え込んでいました。この学校は可なり大きい規模の陸軍外国語学校で、主に力を入れていたのはロシア語、ドイツ語、中国語などが日本語に続いて多くの生徒が修業させられていました。服装は勿論正式な軍服姿で通学させられていました。 (続く)
私も遂にその決断に迫られ、自分の英語の未熟さを少しでも上達させる事が出来ればとの思いで陸軍の通訳学校を志願して3年の軍役期間を勤める事にしたのでした。私が志願してハワイで16週間の厳しい基礎訓練中に私宛の徴兵の通知を受け取りました。 因みに徴兵された場合の軍役は2年間でした。 徴兵された人達は基礎訓練が終ると本人の派遣先の選択資格は無いので殆どの人達は真っ先に朝鮮の戦場地域に派遣されていました。 私は基礎訓練の終了後、直ちにアメリカ本国のカリフォルニア州のモントレー市に有る陸軍通訳学校に送られて其処で1年弱の日本語クラスに所属させられました。 クラスには私を含めて15,6人の生徒からなり、殆どが白人将校や上階級の下士官(軍曹)達で既に日本に駐屯した経験を持ち片言の日本語が話せる程度の者ばかりでした。 勿論日本語の判らない二世達も他のクラスに居りました。教師は勿論皆日本人で女性の教師も含めて2,3人居り私達のクラスを担当していた教師は中年の女性教師でした。
私の場合は日本語クラスで逆に英語を習得する事が目的でした。 この学校に通学している間は軍の厳しい規則は無く、ごく普通の学生生活を営む事が出来、既婚されていた人達は家族と一緒にキャンプ外の市内で住居を持つ事が出来ましたが、独身者は皆キャンプ内に有る兵舎での団体生活でしたが毎朝の点呼だけは決められた時刻の6時までに起床しなければなりませんでした。 クラスが終れば翌日まで自由行動なので大変楽でした。 週末の土、日曜日は勿論休日で点呼も無く自由行動が取れました。モントレーの町はイタリア人が多く住む漁業の町でも有りましたが、この学校があるキャンプはそのこじんまりとした美しい海に面した小高い丘に有りました。 其の町で初めてイタリア人の好むピザと言うものを知りました。日本の小さいレストランも有ったので日本食には困る事無く毎週一度は日本食を楽しむ事が出来ました。
クラスではお互いに日本語と英語の会話ばかりで教えたり、教わったりでとても愉しく各自の階級には全く拘る事無く親しく共に勉強する事が出来ました。 面白い事に日本に駐屯した経験者の殆どが喋る日本語は日本の女性から習った日本語と見えて話し方が当然女性の話し方になり、女々しく優しい話し方をしていました。 其れに益して女性の教師が教える時も当然女性の話し方で教えていますので教わる生徒の話し方は中々直らない訳です。 なので私はしょっちゅう彼らには女性と男性の話し方の違いを教え込んでいました。この学校は可なり大きい規模の陸軍外国語学校で、主に力を入れていたのはロシア語、ドイツ語、中国語などが日本語に続いて多くの生徒が修業させられていました。服装は勿論正式な軍服姿で通学させられていました。 (続く)