やがて愉しかった1年弱の学校生活が終わりを告げ、私は待ちに待った憧れの日本に居る父や姉と4年振りに体面出来るであろう事を夢見て日本に向けてカリフォルニアを後にしたのでした。日本に着くまでは次の派遣先の所属部隊は判りませんが、日本に到着して僅か3日以内に勤務する所属部隊が発表され何と私には朝鮮派遣の命令が下されたのでした。私はその時愕然としました。一体何の為に日本語通訳学校に志願したのだろうかとその悔しさは語り尽くせませんでしたが軍隊の命令に背く事は不可能で涙を呑んで従わざるを得ませんでした。
広島に住んでいた父には手紙で通知する以外には無くその悔しさを書いて報せる事しか出来ませんでした。 かくして私の厳しい軍隊生活が朝鮮の38度線の境界線、非武装地帯(DMZ)でのキャンプ生活を余儀なく過ごす事になったのでした。 幸いとその当時には既に朝鮮戦争は終戦を迎えた後でしたので厳しい危険からは免れました。私の目に写った朝鮮の山々は殆ど禿山となっていて赤土の埃を被っての煩わしいキャンプ生活を迎える事になりました。 日夜頑丈な鉄条網に囲まれたキャンプ内で過ごした朝鮮の冬は凄く厳しい寒さでした。キャンプの近くでは毎日何処かで銃声の音が鳴り響いていました。村も町も無い立ち入り禁止の区域なのでずーっとキャンプ内に閉ざされた生活でした。
私は陸軍の通訳として所属部隊の情報部に勤務させらていましたので任務は総て事務関係でした。時折北朝鮮の捕虜が連れて来させられると早速尋問をして情報を聞き出すのですが、若い年代の捕虜の兵士には日本語は通じません。そんな時は現地雇いの日本語の判る朝鮮人の通訳を通じての尋問となりました。敵の捕虜を尋問するのは生まれて始めての事でしたが、穏やかな雰囲気の中での尋問で乱暴な扱い方は一切されませんでした。 そんな或る日、私は夜警の任務に就かされた深夜、勿論独りで実弾を込めた小銃を手にキャンプの片隅で見張りをしていましたら外部から閃光信号の措置が設置されていたにも拘わらず鉄条網を上手く切り開いて、一人、二人と次々に侵入して来る黒い人影に度肝を抜かれ、4,5人入って来た頃を見計らって、先ず他の同僚達に報せる合図の為の銃声を空に向けて一発放ち、その後は連続の射撃で黒い影に向けて無我夢中で撃ちまくったのでした。数人は慌てて侵入した場所に駆け戻って逃げ去りましたが、逃げ切れなかった数人はキャンプ内の何処かに潜んでいる筈でしたが、明かりを点けて皆で探しましたが誰一人姿が見当たりませんでした。幸いに死者は出なかった様ですが、彼方此方に血痕が地面に残されていました。逃げ場を失った数名(不明)は必死で死に物狂いであの鉄条網を潜り抜けていたのでした。その証拠に血だらけになって引き裂かれた衣服や靴等が鉄条網に引っ掛かって残されていたのでした。想像も付かないその光景に皆一同驚きを隠せませんでした。 その逃げ失せた場所の鉄条網には到底人が通り抜けられるほどの隙間は殆ど不可能な状態のままでしたから。私は生まれて初めて銃を人に向けて発砲しましたが、咄嗟の出来事で躊躇している暇は無く私も必死で対応した瞬間の行動でした。私の発砲に驚いて飛び起きて出て来た同僚の兵士達は着の身着のままで銃を手にテントから出て来ましたが皆も始めての怖さに震えて怯えていました。 翌朝、私は長官から私が取った行動は勇敢だったと褒められましが、もう二度と経験したくない出来事に戸惑いを感じずには居れませんでした。然し、たかが此れくらいの出来事で挫ける様では男では無い、又、兵士として訓練を受けた甲斐が有りません。 実際に戦場で戦った兵士達の厳しさを考えればとても比較出来る事では有りません。 そもそも軍隊生活は若者に忍耐力や精神力を補い人間としての磨きを掛ける大変貴重な体験を与えてくれます。生存する事の厳しさ、融通の利かない軍の規律などを体験してこそ初めて強い人間として成長出来るものだと云う事を現代の若者達に思い知らせてやりたい気持ちです。尤も現在の日本は戦争を放棄している国ですから戦争の厳しさを体験する事は最早出来ませんが、平和な生活の中にも規律正しい環境の中で育って欲しいと思います。
私は広島の原爆に生き残り、そして今度はアメリカの軍隊に身を置き朝鮮戦争の動乱に運命を掛け、現在やっと総てから解放され残された運命を頑張っています。
広島に住んでいた父には手紙で通知する以外には無くその悔しさを書いて報せる事しか出来ませんでした。 かくして私の厳しい軍隊生活が朝鮮の38度線の境界線、非武装地帯(DMZ)でのキャンプ生活を余儀なく過ごす事になったのでした。 幸いとその当時には既に朝鮮戦争は終戦を迎えた後でしたので厳しい危険からは免れました。私の目に写った朝鮮の山々は殆ど禿山となっていて赤土の埃を被っての煩わしいキャンプ生活を迎える事になりました。 日夜頑丈な鉄条網に囲まれたキャンプ内で過ごした朝鮮の冬は凄く厳しい寒さでした。キャンプの近くでは毎日何処かで銃声の音が鳴り響いていました。村も町も無い立ち入り禁止の区域なのでずーっとキャンプ内に閉ざされた生活でした。
私は陸軍の通訳として所属部隊の情報部に勤務させらていましたので任務は総て事務関係でした。時折北朝鮮の捕虜が連れて来させられると早速尋問をして情報を聞き出すのですが、若い年代の捕虜の兵士には日本語は通じません。そんな時は現地雇いの日本語の判る朝鮮人の通訳を通じての尋問となりました。敵の捕虜を尋問するのは生まれて始めての事でしたが、穏やかな雰囲気の中での尋問で乱暴な扱い方は一切されませんでした。 そんな或る日、私は夜警の任務に就かされた深夜、勿論独りで実弾を込めた小銃を手にキャンプの片隅で見張りをしていましたら外部から閃光信号の措置が設置されていたにも拘わらず鉄条網を上手く切り開いて、一人、二人と次々に侵入して来る黒い人影に度肝を抜かれ、4,5人入って来た頃を見計らって、先ず他の同僚達に報せる合図の為の銃声を空に向けて一発放ち、その後は連続の射撃で黒い影に向けて無我夢中で撃ちまくったのでした。数人は慌てて侵入した場所に駆け戻って逃げ去りましたが、逃げ切れなかった数人はキャンプ内の何処かに潜んでいる筈でしたが、明かりを点けて皆で探しましたが誰一人姿が見当たりませんでした。幸いに死者は出なかった様ですが、彼方此方に血痕が地面に残されていました。逃げ場を失った数名(不明)は必死で死に物狂いであの鉄条網を潜り抜けていたのでした。その証拠に血だらけになって引き裂かれた衣服や靴等が鉄条網に引っ掛かって残されていたのでした。想像も付かないその光景に皆一同驚きを隠せませんでした。 その逃げ失せた場所の鉄条網には到底人が通り抜けられるほどの隙間は殆ど不可能な状態のままでしたから。私は生まれて初めて銃を人に向けて発砲しましたが、咄嗟の出来事で躊躇している暇は無く私も必死で対応した瞬間の行動でした。私の発砲に驚いて飛び起きて出て来た同僚の兵士達は着の身着のままで銃を手にテントから出て来ましたが皆も始めての怖さに震えて怯えていました。 翌朝、私は長官から私が取った行動は勇敢だったと褒められましが、もう二度と経験したくない出来事に戸惑いを感じずには居れませんでした。然し、たかが此れくらいの出来事で挫ける様では男では無い、又、兵士として訓練を受けた甲斐が有りません。 実際に戦場で戦った兵士達の厳しさを考えればとても比較出来る事では有りません。 そもそも軍隊生活は若者に忍耐力や精神力を補い人間としての磨きを掛ける大変貴重な体験を与えてくれます。生存する事の厳しさ、融通の利かない軍の規律などを体験してこそ初めて強い人間として成長出来るものだと云う事を現代の若者達に思い知らせてやりたい気持ちです。尤も現在の日本は戦争を放棄している国ですから戦争の厳しさを体験する事は最早出来ませんが、平和な生活の中にも規律正しい環境の中で育って欲しいと思います。
私は広島の原爆に生き残り、そして今度はアメリカの軍隊に身を置き朝鮮戦争の動乱に運命を掛け、現在やっと総てから解放され残された運命を頑張っています。