国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

関西線が電化された頃のお話 第3話

2016-10-15 22:15:48 | 国鉄思いで夜話
みなさま、こんばんは。

今回は、関西線電化の頃のお話として昭和48年10月の電化開業のお話を中心にさせていただこうと思います。
時刻表にも113系春日塗の写真がアップ

長らく、キハ35による快速運転が行われていましたが、昭和48年10月には関西線は待望の電化が完成し、各地で華々しく開業式が行われました。

天王寺鉄道管理局30年写真史から

関西線は電化完成により、6両編成の快速電車がラッシュ時は12分おきに快速電車が日中帯でも20分に1本快速電車が運転され、普通電車も20分に1本走ることで利便性が大幅に向上して、非電化時代の面影はなくなってしまいました。

大幅に増発された快速電車

普通電車には101系が総武線から転属、ウグイス色に黄色の帯を、113系に関しては阪和線の新快速色に準じた塗装で、青帯を朱色に変えた春日塗と呼ばれた塗装で関西線の113系だけに採用された塗装でした。
ちなみに、113系の朱帯は旧準急色の赤帯と同じ色で急行色の赤より若干赤みが強かったように記憶しています。

画像 wikipedia

関西線電化に関しての車両は新製ではなく関西線電化開業名目で製作した113系を首都圏に投入してその置換え非冷房車をそのまま玉突き配転で関西線に投入したわけで、近鉄と比してもまだまだ見劣りはしていたと言わざる得なかったと思います。

当時の記念入場券

電化開業当初は、平城山電車区が開業しておらず、関西線の電車も鳳電車区(後に新設の日根野電車区に配置され、阪和貨物線を経由して送り込み等が行われていたようです。また113系に関しては、検査時などでは、阪和線の新快速に充当されることがありました。

当時の関西線のダイヤですが、原則113系が快速電車に、101系は普通電車に使われることとなりました。
さらに、この改正では休日だけでしたが、関西線の電車が直接環状線に乗り入れることとなりました。
現在の大和路快速の原型がここで出来上がったと言えます。

ただ、ここで113系は原則として快速電車と書いたのですが、実は開業から3ケ月近く経った12月26日、関西線平野駅で大変大きな事故を起こしてしまったのです。

天王寺鉄道管理局30年写真史から

当時の記録を、鉄道ピクトリアル1974年3月号を参照してみますと、下記のように記されています。

午前8時10分頃、平野駅構内で湊町発奈良行き普通電車722M(113系6連)が脱線1両目が南側へ転覆他の5両も脱線して傾斜、240人中3人死亡、重軽傷19人、軽傷130人、計152人が死傷する大事故で、原因は運転士が快速電車と誤認して待避線に入るべき35km/hを大幅に超過する80㎞/hで進入したことが原因で、当時の新聞記事などでは、運転士は風邪気味で薬を飲んでいて意識がもうろうとしていたとか、113系だったので快速と勘違いしたと言った記事もあったように記憶しています。

ただ、当時のピクトルアルの記事では、気動車と電車用制動弁のハンドル扱いの違いと書かれていました、実際にこの事故以後は101系と113系の運用は厳密に区別されて101系が快速運用に入ることも無ければ、113系が普通運用に入ることもなく、その辺は国鉄時代は厳密に区別されていたので、制動弁の操作誤り云々は希望的観測で書かれたものと思われます。

また、この事故を契機にATS-Pの開発がすすめられ1976(昭和51)年から実用化試験が関西線で行われていたようで運転席の後ろに大型の制御装置を増設して走っていた記憶があります。

もう少しこのお話続きます。

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