昭和35年の国鉄線の記事から
昭和35年3月号「さんだんまど」の記事から見つけたものをアップさせていただきます。
現在の貨物輸送は、コンテナ輸送が一般的であり一部石油などで車扱い輸送が残るものの、コンテナ輸送が一般的です。
昭和62年頃には、パルプ輸送などで車扱い輸送が行われていましたが現在は車扱いは石油が6割以上占めています。
紙、パルプ等がコンテナ輸送に移行したことはコンテナ輸送品目内訳からも判別できます。
輸送品目内訳
JR貨物データから引用
URL JR貨物データ
昭和59年に大々的な輸送改変(ヤード系輸送からコンテナ輸送がメインに変更)されるまでは、貨物輸送のメインは車扱いと呼ばれる昔ながらの貨物輸送が一般的でした。
ただし、ヤード系輸送は操車場の広い構内を必要とする上、貨車の入換組成に時間がかかるうえ、構内掛(係)のように連結手が多数必要であり蝕車による死傷事故も後を絶たないなど経営上も有利なものではありませんでした。
昭和30年代から始まったコンテナ輸送
ただ、国鉄もヤード系輸送(車扱い輸送)が優れているとは思っておらず、ヤードの自動化や拠点間直行輸送(地域間急行)の導入など、時間短縮を図る試みは行われていました。
その一つに、コンテナ輸送があったと言えそうです。
初期の国鉄コンテナ輸送は、昭和30年、3トンコンテナで始まりました。
現在のような5tではなく3tが選ばれたかというと、当時のトラック事情など、輸送事情が絡んでたと言われています。
また、3トンコンテナは、無蓋車にそのまま載せることができたからと言われています。
最初に試作車として5両のコンテナが試作され、下の写真のように無蓋車の戸板を外した状態で輸送されていました。
貨車への固定も、コンテナと貨車をボルトで固定するもので決して効率が良いものとは言えません。
国鉄線 昭和31年3月号から引用
その後新幹線の建設が具体化すると新幹線にも載せられる大きさとして現在のコンテナの基礎となる5tコンテナが昭和33年に製作されることになりました。
なお、この際に専用の貨車も製造(チキ5000後のコキ5000)されています。
この時期には、国鉄ではコンテナ輸送以外にも下記のような貨物輸送が検討されました。
残念ながら何れも、国内では実用化されませんでしたが、国内物流における長距離トラックの人員不足を補うためにも今一度検討されるべき時期に来ているかもしれません。
実現しなかったフレキシ・バン&ビギー・バック
バブル期に少しだけ見られたビギーパック
ピギーバックとは、肩や背中に荷物を背負って運ぶさまという意味らしいのですが、鉄道の世界ではトラックがそのまま貨車に乗る方式を指すようです。
フレキシ・バーン方式は、国鉄時代に「クラ9000形」として、超低床式貨車として試作、その後台車を流用する形で、「チサ9000形」に改造され、実際にトラックを乗せて「東京貨物ターミナル駅~浜小倉駅間」で。一般コンテナに連結して長期耐久試験に入りました。
床面高さはわずか40㎝であり、床面を極力下げることにより、道路車両運送法の「(最高限度) 幅-2.5m、高さ-3.8m(ただし、指定道路を走行する車両は車高4.1m)、長さ-12m」をクリアすることが出来ましたが、荷役に手間が掛かることや有蓋形のトラックでは限界に支障するとのことで結局、JR貨物で実現したのは4トントラック2台を積載するクム1000(試作車としてクサ1000形も試作されている)で実用化しましたがバブル崩壊後はトラックドライバーの需要が緩和したことなどから激減してしまいました。
しかし、現行のトラックドライバーの高齢化などを考えると集約輸送ができるビギーパック輸送は今一度考えられても良いのではないでしょうか?
ルーフ車との車両限界をクリアするため更なる低床化もしくは発想を変えて完全にトラックのタイヤを落とし込んでレール面上10cm程度まで下げるほか、トラックの有蓋ルーフを鉄道輸送に合わせた形にするなども必要かもしれないですね。
昭和30年代に試作されたフレキシ・バン車両
フレキシ・バーン車両としては昭和30年代に、丸善石油向けの貨車が試作されていますが量産はされなかったのか、その後の増備はみられませんでした。
100年の国鉄車両 交友社から引用
運用区間は、川崎製油所から松山市の三津浜製油所まで輸送するもので、国鉄としても初めての取組有ったそうで。従来はタンク車で輸送していたそうだが、松山の製油所には専用線が無いためフレキシパンによる一貫輸送が考えられ、検討した結果実施に移されたものだそうです。
国鉄におけるフレキシバンの実用化は最初と思われますが、その後は低迷し、昭和41年度の技術課題として、フレキシ・バンの試作が国鉄で行われ、カンガルー方式と呼ばれる完全にタイヤを落とす方式としてクサ9000形が試作された他、貨車自体にターンテーブルを持つコキ9000が試作されました。
コンテナを回転させてそのままトレーラに引っ張らせる。
コキ9000は2012年の記録では沼津に保存されているようですが、詳細ご存じの方ご教示願います。
他にも、カンガルー方式として、クサ9000も試作されています。
こちらも中央部に車輪が入り込む方式であり、自動車との一貫輸送が見込まれていたのですが、コンテナとの一貫輸送が一般化したため実用化はされませんでした。
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日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
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現在の貨物輸送は、コンテナ輸送が一般的であり一部石油などで車扱い輸送が残るものの、コンテナ輸送が一般的です。
昭和62年頃には、パルプ輸送などで車扱い輸送が行われていましたが現在は車扱いは石油が6割以上占めています。
紙、パルプ等がコンテナ輸送に移行したことはコンテナ輸送品目内訳からも判別できます。
輸送品目内訳
JR貨物データから引用
URL JR貨物データ
昭和59年に大々的な輸送改変(ヤード系輸送からコンテナ輸送がメインに変更)されるまでは、貨物輸送のメインは車扱いと呼ばれる昔ながらの貨物輸送が一般的でした。
ただし、ヤード系輸送は操車場の広い構内を必要とする上、貨車の入換組成に時間がかかるうえ、構内掛(係)のように連結手が多数必要であり蝕車による死傷事故も後を絶たないなど経営上も有利なものではありませんでした。
昭和30年代から始まったコンテナ輸送
ただ、国鉄もヤード系輸送(車扱い輸送)が優れているとは思っておらず、ヤードの自動化や拠点間直行輸送(地域間急行)の導入など、時間短縮を図る試みは行われていました。
その一つに、コンテナ輸送があったと言えそうです。
初期の国鉄コンテナ輸送は、昭和30年、3トンコンテナで始まりました。
現在のような5tではなく3tが選ばれたかというと、当時のトラック事情など、輸送事情が絡んでたと言われています。
また、3トンコンテナは、無蓋車にそのまま載せることができたからと言われています。
最初に試作車として5両のコンテナが試作され、下の写真のように無蓋車の戸板を外した状態で輸送されていました。
貨車への固定も、コンテナと貨車をボルトで固定するもので決して効率が良いものとは言えません。
国鉄線 昭和31年3月号から引用
その後新幹線の建設が具体化すると新幹線にも載せられる大きさとして現在のコンテナの基礎となる5tコンテナが昭和33年に製作されることになりました。
なお、この際に専用の貨車も製造(チキ5000後のコキ5000)されています。
この時期には、国鉄ではコンテナ輸送以外にも下記のような貨物輸送が検討されました。
残念ながら何れも、国内では実用化されませんでしたが、国内物流における長距離トラックの人員不足を補うためにも今一度検討されるべき時期に来ているかもしれません。
実現しなかったフレキシ・バン&ビギー・バック
バブル期に少しだけ見られたビギーパック
ピギーバックとは、肩や背中に荷物を背負って運ぶさまという意味らしいのですが、鉄道の世界ではトラックがそのまま貨車に乗る方式を指すようです。
フレキシ・バーン方式は、国鉄時代に「クラ9000形」として、超低床式貨車として試作、その後台車を流用する形で、「チサ9000形」に改造され、実際にトラックを乗せて「東京貨物ターミナル駅~浜小倉駅間」で。一般コンテナに連結して長期耐久試験に入りました。
床面高さはわずか40㎝であり、床面を極力下げることにより、道路車両運送法の「(最高限度) 幅-2.5m、高さ-3.8m(ただし、指定道路を走行する車両は車高4.1m)、長さ-12m」をクリアすることが出来ましたが、荷役に手間が掛かることや有蓋形のトラックでは限界に支障するとのことで結局、JR貨物で実現したのは4トントラック2台を積載するクム1000(試作車としてクサ1000形も試作されている)で実用化しましたがバブル崩壊後はトラックドライバーの需要が緩和したことなどから激減してしまいました。
しかし、現行のトラックドライバーの高齢化などを考えると集約輸送ができるビギーパック輸送は今一度考えられても良いのではないでしょうか?
ルーフ車との車両限界をクリアするため更なる低床化もしくは発想を変えて完全にトラックのタイヤを落とし込んでレール面上10cm程度まで下げるほか、トラックの有蓋ルーフを鉄道輸送に合わせた形にするなども必要かもしれないですね。
昭和30年代に試作されたフレキシ・バン車両
フレキシ・バーン車両としては昭和30年代に、丸善石油向けの貨車が試作されていますが量産はされなかったのか、その後の増備はみられませんでした。
100年の国鉄車両 交友社から引用
運用区間は、川崎製油所から松山市の三津浜製油所まで輸送するもので、国鉄としても初めての取組有ったそうで。従来はタンク車で輸送していたそうだが、松山の製油所には専用線が無いためフレキシパンによる一貫輸送が考えられ、検討した結果実施に移されたものだそうです。
国鉄におけるフレキシバンの実用化は最初と思われますが、その後は低迷し、昭和41年度の技術課題として、フレキシ・バンの試作が国鉄で行われ、カンガルー方式と呼ばれる完全にタイヤを落とす方式としてクサ9000形が試作された他、貨車自体にターンテーブルを持つコキ9000が試作されました。
コンテナを回転させてそのままトレーラに引っ張らせる。
コキ9000は2012年の記録では沼津に保存されているようですが、詳細ご存じの方ご教示願います。
他にも、カンガルー方式として、クサ9000も試作されています。
こちらも中央部に車輪が入り込む方式であり、自動車との一貫輸送が見込まれていたのですが、コンテナとの一貫輸送が一般化したため実用化はされませんでした。
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