北野政男さん(寺越昭二さんの次男)のお話
次男の北野政男でございます。
今日こうして寺越事件だけを取り扱って発言させてもらえると言うこと、本当にありがたく思っています。
そして家族会・救う会・一般の方々こうやって多く集まっていただきありがとうございます。
うちの親父のこと兄弟二人で話すと言うとなかなかダブる面も多くあると思うんですけども、それはご理解していただきたいと言うことと、私も何分不慣れなものですから途中で頭の中が真っ白になるかもしれませんがよろしくお願いします。
今日は私は寺越事件の関係者5人。
うちの(兄弟)3人と友枝さんと武志との、「記憶」という面で寺越事件を考えて見たいと思います。
事故があったのはここにも書いてありますとおり、昭和38年ですよね。
記憶と言うのはこの38年を境としてそれ以前・それ以後という事に2分に分けられますよね?
うちら兄弟3人は当然子供ですから親父の記憶は持っております。
しかしながら親父は出稼ぎ漁師といいますか、1年に数ヶ月しかいなかったんです。
あとは大きい船で漁に出てて、それが38年から以前の記憶は4多分~5年しかないと思います。
その4~5年の間の3~4ヶ月親父と一緒に暮らした日で、通算して1年前後しかありません。
でも記憶は生活した記憶やとか、親父の特徴やとか、親父が身に着けてたものとか、と言うものはうちらでも二人は覚えております。
お風呂へ行って3人で行って体を流してもらって、親父のごつい手で頭をが~っとやられるのが痛いもんやから親父が嫌でお袋で。
そういうなんていうか生活感に溢れた記憶は持っております。
13歳前後の前の記憶で持っております。
ところが弟の美津夫は親父の記は一切持っておりません。
うちらの記憶の中の会話には入れないと言うことです。
仮に、ここに名前書いてもらったんですけど、兄貴と俺がゴルフボールかピンポン玉くらいの記憶を持ってると仮定しますと、美津夫は全く無しなんです。
38年以前の友枝さんはもう大人ですよね?
家が隣同士ですので嫁同士話をしていた。
だから親父のことはバレーボールかバスケットボールくらいの大きな記憶を持っているということです。
私たちは12~3歳の子供ですから大人の話には入れませんから。
この船はいくらで誰から買ったとか、いつ買ったとか、それから親父はどこの船に乗っていて何月に帰って何月に出かけたとか?
要するに大人の話は私たちは全く知らん。
それこそ親と子供の記憶しかありません。
武志はと言うと、当然別棟ですので叔父と甥の関係ですわね。
子供ですからしょちゅううちの親父とは会っていません。
船を買ったんも多分事故の半年前後前ですから、そんなに親父とは会ってない。
その中で土曜日・日曜日の休みに一緒に船に乗って何回か出かけた。
それくらいの記憶しかないはずです。
ですから極端な話、武志の(昭二さんの)思い出はビー玉かパチンコ玉それくらいの記憶しかないと思います。
一緒に住んでませんから。
これが38年以前の記憶ですよね?
それで事故後は武志の記憶と言うのは寺越昭二の記憶と言うのは、365日寝食を共にして5年間一緒にいたと言う。
13歳から5年間とすれば18まで、5年間共に生活をしていた。
そこの中に外雄さんもいた、ということですね。
と言うことは、バレーボールくらいの記憶よりももっと大きい、アドバルーンくらいの記憶を持っていなきゃならないということです。
うちらの子供の生活していたそんな細かい記憶も含めて、持っていなきゃならないという事です。
ところが武志のみが知りえる記憶ですよね?事故以後は。
うちらは全く知らないというわけですよね、朝鮮に渡っての記憶というのは。
私らは全く知らない。
友枝もいくら親父の記憶を持っていても、朝鮮へ渡ってからの記憶は当然ありません。
これが記憶の私の考え。
これはちょっと置いておいときまして。
次、ここに年表書いてもらったんですけど、38年に事故が起きた。
それで43年に昭二が死亡、墓を作って。
その後50年に亀城の共同墓地へ墓を入れたと。
多分昭和50年でそのままの墓なのか?
今の兄貴の言った新しく作り変えたのか?その後問題になってきますけど。
1987年に手紙が届いて、(友枝さんの)訪朝が始まりますよね。
友枝さんが訪朝して2回目の時に、友枝さんと(武志さんの)妹の正枝さんが訪朝しております。
遺骨の代わりと言って砂の袋を持って来ております。
その後私たまたまビデオに録ったものがありますけども、骨の代わりと言って砂袋を持ってきました。
その後友枝さんは何回も訪朝しております。
金正日が拉致を認めてその後、友枝さんの武志の戸籍復帰とかそれから武志の一時帰国の事とかありまして、2002年に武志が一時帰国を果たしました。
その時兄貴が言った帰国してから墓の話をしたら、こういう墓が出てきたと言うことですけど。
武志が帰国した時にもちょっといわくがありまして。
うちら家族、拉致を声を上げる上げないと言うことを話していたんですけども。
その時に友枝さんのところへ電話して「私たちも迎えに行きたいんですけども」と話をしたんです。
友枝さんから「警備が厳しくて小松空港へは入れませんから」とお断りでした。
でも一応無駄でも行きましょうということで、家族が行ったんですけども。
警備は厳重でしたけども、まぁ入れました。
入ったんですけども、武志は正面のロビーから出ませんでした。
私たちが迎えに行ってるときにロビーから出なくて横の通路。
まぁ非難通路という何か他の通路か、そこから出て行って友枝さん側の、あの人は旧姓ハタナカって言うんですけども。
ハタナカ一家の出迎えを受けて寺越一家の出迎えは受けずに、小松空港から出て行きました。
歓迎会が色々ある中ですけども、その中で兄貴が仕事の関係で歓迎会出たわけです。
そこで墓の話が出て、(武志さんが北朝鮮に)帰ってからこの墓が出てきたんです。
そういうことで友枝さん側の一家でパーティやら歓迎会やらやって、一週間ほど過ごしたんですかね?
それから何にも言わずに帰ったんです。
私たち寺越一家とは全く一切の面識無し。
手紙来てから寺越の人たちは皆から集めて借財を送って、生活の足しにということで何回か送ってるんです。
当然そういった御礼とか、少なくとも寺越の挨拶くらいはしなきゃいけない。
それなのに全く無かった。
そして帰った。
その前に雑誌の取材の中でうちの親父が手が器用だと言うことで話をした。
その後で出てきたのが確かにこういった折り紙細工。
これも私たちが声を上げてから出てきたことです。
しかしながら、今これ綺麗ですけども。
親父から教えられて作ったと言う紙細工なんですけども、38年当時の北朝鮮の紙質って言うのはこんなようなもんです。(一通の手紙をかざす)
これは向こうから外雄さんたちが送ってきた手紙なんです。
中身はって言いますと、昔のわら半紙のようなものに書いてあるんです。
これが当時の手紙なんです、実際の。
こんな時にこんな綺麗な、ね、なんていいます?折り紙?があったかどうか?です。
これを出してきています。
私たちが声を出してから。
ただ親父に教えられて作られたと持ってきていますけど。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志さんに教えたと」)
いや、親父から教えられて武志が作ったと。
ちょっと待ってください。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志君が教えてもらったやつを武志さんが折ったと)
そうです、で持って来ていますんですけど。
つまり言いたいのは、こんな紙質で昔はあったのかどうか?と言うことと。
それからいつから折り始めて、誰に売って、いくらになって、そのお金を何に使ってということが、生活に密着したことがまず出て来ていない。
(兄の寺越昭男さんがマイクを取る)
ちょっと補足させていただきます。
弟の言いたいことは、実は手紙が来てから17年間。
父に関しての情報っていうのは一切無かったんです。
2002年10月まで。
(友枝さんが)二回目の訪朝をして「外雄さんから託ったよ」と言って、「これは墓の土なんや」と土をあずかった、だけ。
後何回か訪朝してますけど、父に関する情報は一切無いんです。
それで2002年私らが声を上げてから私らが運動する中で、友枝さんが今の墓の写真を出してきたり、父親から武志が習ったいう折り紙細工を北朝鮮から持ってきたり。
いかにも父が生きとったよ、という要するに証明というかアリバイ作りの工作みたいなものをしてくるわけです。
で、これがもし本当なら今までにとっくにそういう話があってもいいんじゃないか?と私らは思ってるんですが。
そういうことを弟は言いたいんじゃないか?と思いますけども。
折り紙細工もそりゃ本当に父親から習ったのかもしれん。
しかし昭和38年、拉致された当時の北朝鮮の経済状態というものを、これは24年後に来たものやからそれ以前はもっともっと悪いわけです。
タバコの空き箱で作ってがって、売ってがって生活の足しにしたというけども、そんなもの折り紙細工の作ったものを、北朝鮮の人が買いますか?
全然私らにとっては「なんや?それ?」と言うことでしかないわけです。
私らは友枝さん・武志を批判してるんじゃないんです。
あくまでも北朝鮮側が友枝さん・武志に対してこういう工作をしなさいと。
生きとったという事を証明をしてということを、おそらく言われてると思うんですね。
それに対して私らはいちいちああやこうやと言うて反論はしません。
友枝さん・武志さんは被害者。
本当に逆に言うと本当にかわいそうやな、と。
42年経って武志は本当に日本に帰って生活もしたいやろうと思うけど、子供が出来て孫が出来て家族が大きくなればなるほど、大地に根っこが生えたみたいでどうにもならんわけです。
だから武志のことを考えると、日本政府は救助なら救助でいい。
どうして自由に行ったり来たりさせるように、北朝鮮に要求しないんですか?
そうでしょ?
もちろん前回来た時は、二人の通訳として北朝鮮から来た監視役が24時間付きっぱなしだったと思います。
そうではなくて自由に日本に来たい時に来て、帰りたい時に帰る。
そういうふうな環境に武志をしてやりたい。
もうひとつ忘れていかんのは外雄さんの家族もいるわけなんですね。
外雄さんの家族もやっぱり幸せになっていただきたいと思うし。
やっぱりそういうことを、私らは運動のひとつとして。
これは拉致の被害者全員に言えることやと思うんですね。
おそらく早いうちに拉致された方は武志のような環境になってる人が多いかもしれん。
そうなった場合に日本の政府として本当に自由に日本に帰れるようにするのが、日本の政府の仕事やと思います。
このことも含めてこれから政府に要求していきたいと思います。
(北野政男さんにマイクが戻る)
元に戻って、ちょっと横道にそれましたけど。
これがうちの事件のあらましでしたね。
またちょっと記憶の方に戻っていきたいと思うんですけども。
本来なら武志が北朝鮮での5年間の生活を、大きいアドバルーンくらいの量を覚えていなきゃならない。
逆にうちの(三男の)美津夫は全く記憶がないと言いましたけど。
これは18歳前後の時に養子に行って他の姓に変わって、寺越のうちらの情報を全く受け入れる状態じゃなかった。
それで20年25年経ったら、親父の記憶を全部ポンと飛ばしたと。
思い出そうとしても思い出せないんです。
(兄)二人がやっていても思い出せない。
記憶が飛んでしまった。
もし寺越武志が事故の時に、うちの親父が事故で安明進氏の言うようにして海に捨てられたと。
銃殺されて重りを付けて海に沈められたという事になると、寺越武志はそれ以後の親父の記憶はないわけです。
さっきアドバルーンくらいの大きさの記憶があるといいましたけども、これが本当なら親父の記憶は全く持っていない。
当然。
そして尚、ああいう事件の後ですから、思い出したいと思っても思い出せない記憶ですから。
当然あれだけの出来事であれば忘れてしまいます。
そしてさっき記憶、(武志さんが)ビー玉かパチンコ玉かというくらいの記憶を事故の前の記憶を持ってるけど。
うちの美津夫でさえ石川県・日本に居て出さえ、記憶が飛んでいるのに、ちっさな記憶を武志が持ってるわけが無い。
当然親父が海に沈められた。
外雄さんと武志で二人で北朝鮮に渡ったと。
だから記憶は全く持っていけない。
ゼロだと考えられるわけです。
そのなかからこうやって親父の誕生日、それから器用だったと折り紙を出してくる。
北朝鮮も親父のことをまったく知りませんから、出してくることは不可能。
全てこれは友枝さんが北朝鮮に行って、北朝鮮と協議の上で墓を作り、こういう物を出して来ております。
もしうちの親父が北に向こうに渡ったら、まずこういうものは出てくるわけが無い。
これはちょっと貰ったんですけどもね。
この中で何月何日だ?
2002年の10月3日に武志が帰ってきて、小泉首相と面会しております。
その中で「故郷の記憶が出てこない」という発言をしております。
これは、小泉じゃない、森前首相だ。
それなのにうちの親父の記憶を持ってることはありえない、と思います。
それを裏付けるのはこれはちょっと出してもらったんですけども、皆さん報道の方は調べになれば分かると思うんですけども。
(友枝さんの)訪朝回数。
最初の頃は3年に1回とか、2年に1回とかっていうそういう回数でしたけども。
1999年くらいからだんだん多くなってきております。
この年数で3回。
そして2000年に2回。
3回4回とか2回とか、だんだん多くなってきて。
これは武志の書いた「人情の海」と言う本です。
こう言うものを書いたり。
それから友枝さんの本が出たりしてますので、そういった面でだんだん回数が多くなってるんじゃないかと。
ましてや武志が一時帰国を果たした後、5回6回と言う訪朝回数を重ねております。
これは帰国して墓石が出て折り紙が出て、それを製作するために友枝が行ってやってきた。
つまり親父は北朝鮮には全く上陸していないと言う証拠であります。
記憶の面から私はそういった推察が出来ると思っております。
墓が遺骨があるとか無いとか、当然なければ何だかんだ言って出してきません。
出せません。
出してこないんじゃなくて出せないんです。
一回目の帰国の際に私たちに会わなかった。
寺越家に会わなかった。
会わないんじゃないんです。
会えないんです。
寺越家から寺越昭二の質問をされると武志は何一つ答えることは出来ない。
だから、会えない。
この人情の本とか友枝の書いた本とか、島崎(譲 社会党代議士=当時)先生が書いた冊子とか、親父の生活感が溢れるものは何も無い。
これまで私たちは言ってきましたけど、この中にも出てこない。
書かないんじゃなくて書けない。
いくら友枝であっても5年間、向こうの5年間のこれは事故以後のことですよね?
事故以後のことであれば友枝はいくら逆立ちしても書けないんです。
武志でしか書けないんです。
だけども全然載ってない。
武志でも書けないんです。
と言うことが私は言えると思います。
最後にちょっとおかしいことになりましたけど。
私たちが声を上げたその日から、寺越友枝はうちらの声を静めようと色々工作をしております。
それに救う会の方にも色々工作をしております。
最近で私が一番新しく聞いたのは、うちらの家族の子供の仕事場にまであること無いこと電話をかけている、と言うことを私も聞いております。
先ほど兄貴は寺越友枝のことを恨んでないとか何とか話をしましたけど、私は反対なんです。
拉致問題が第一の被害とするならば、私は友枝がそうやって色々工作をしてくる。
これは私「第二の被害」だと思っています。
これは範囲が広いんです。
うちらの子供たちに関わるかもしれん。
それから救う会にも関わるかもしれん。
暴力があるかもしれん。
向こうの出て来方によっては。
物凄く範囲が広い。
それに友枝本人も「第二の被害者」だということです。
本来拉致被害者であるべき人間が、北朝鮮の救助と言うことにしようという工作に乗って、北朝鮮によって動かされている。
それがすでに第二の被害。
進行しているものと私は考えてます。
そしてその工作によって被害がもし出た場合は、誰が責任を取ってくれますか?
当然北朝鮮が悪い。
友枝も北朝鮮に動かされてスパイみたいなことをやらされて、こういうものを出して来てと言うのは友枝も悪い。
しかしながら悪いのは日本政府。
一時被害は当然食い止めることは出来ませんけども、二次被害というのは食い止めることは出来る。
政府が拉致認定をすることで、北朝鮮はこういうことをやっても意味が無いということです。
友枝もこういうことをやっては来れないということです。
そういう意味で、私は日本政府に対して速やかに一日も早く拉致認定をしていただきたい。
二次被害が出ないように、これは政府の責務であります。
これを強く政府に申し上げたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)
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次男の北野政男でございます。
今日こうして寺越事件だけを取り扱って発言させてもらえると言うこと、本当にありがたく思っています。
そして家族会・救う会・一般の方々こうやって多く集まっていただきありがとうございます。
うちの親父のこと兄弟二人で話すと言うとなかなかダブる面も多くあると思うんですけども、それはご理解していただきたいと言うことと、私も何分不慣れなものですから途中で頭の中が真っ白になるかもしれませんがよろしくお願いします。
今日は私は寺越事件の関係者5人。
うちの(兄弟)3人と友枝さんと武志との、「記憶」という面で寺越事件を考えて見たいと思います。
事故があったのはここにも書いてありますとおり、昭和38年ですよね。
記憶と言うのはこの38年を境としてそれ以前・それ以後という事に2分に分けられますよね?
うちら兄弟3人は当然子供ですから親父の記憶は持っております。
しかしながら親父は出稼ぎ漁師といいますか、1年に数ヶ月しかいなかったんです。
あとは大きい船で漁に出てて、それが38年から以前の記憶は4多分~5年しかないと思います。
その4~5年の間の3~4ヶ月親父と一緒に暮らした日で、通算して1年前後しかありません。
でも記憶は生活した記憶やとか、親父の特徴やとか、親父が身に着けてたものとか、と言うものはうちらでも二人は覚えております。
お風呂へ行って3人で行って体を流してもらって、親父のごつい手で頭をが~っとやられるのが痛いもんやから親父が嫌でお袋で。
そういうなんていうか生活感に溢れた記憶は持っております。
13歳前後の前の記憶で持っております。
ところが弟の美津夫は親父の記は一切持っておりません。
うちらの記憶の中の会話には入れないと言うことです。
仮に、ここに名前書いてもらったんですけど、兄貴と俺がゴルフボールかピンポン玉くらいの記憶を持ってると仮定しますと、美津夫は全く無しなんです。
38年以前の友枝さんはもう大人ですよね?
家が隣同士ですので嫁同士話をしていた。
だから親父のことはバレーボールかバスケットボールくらいの大きな記憶を持っているということです。
私たちは12~3歳の子供ですから大人の話には入れませんから。
この船はいくらで誰から買ったとか、いつ買ったとか、それから親父はどこの船に乗っていて何月に帰って何月に出かけたとか?
要するに大人の話は私たちは全く知らん。
それこそ親と子供の記憶しかありません。
武志はと言うと、当然別棟ですので叔父と甥の関係ですわね。
子供ですからしょちゅううちの親父とは会っていません。
船を買ったんも多分事故の半年前後前ですから、そんなに親父とは会ってない。
その中で土曜日・日曜日の休みに一緒に船に乗って何回か出かけた。
それくらいの記憶しかないはずです。
ですから極端な話、武志の(昭二さんの)思い出はビー玉かパチンコ玉それくらいの記憶しかないと思います。
一緒に住んでませんから。
これが38年以前の記憶ですよね?
それで事故後は武志の記憶と言うのは寺越昭二の記憶と言うのは、365日寝食を共にして5年間一緒にいたと言う。
13歳から5年間とすれば18まで、5年間共に生活をしていた。
そこの中に外雄さんもいた、ということですね。
と言うことは、バレーボールくらいの記憶よりももっと大きい、アドバルーンくらいの記憶を持っていなきゃならないということです。
うちらの子供の生活していたそんな細かい記憶も含めて、持っていなきゃならないという事です。
ところが武志のみが知りえる記憶ですよね?事故以後は。
うちらは全く知らないというわけですよね、朝鮮に渡っての記憶というのは。
私らは全く知らない。
友枝もいくら親父の記憶を持っていても、朝鮮へ渡ってからの記憶は当然ありません。
これが記憶の私の考え。
これはちょっと置いておいときまして。
次、ここに年表書いてもらったんですけど、38年に事故が起きた。
それで43年に昭二が死亡、墓を作って。
その後50年に亀城の共同墓地へ墓を入れたと。
多分昭和50年でそのままの墓なのか?
今の兄貴の言った新しく作り変えたのか?その後問題になってきますけど。
1987年に手紙が届いて、(友枝さんの)訪朝が始まりますよね。
友枝さんが訪朝して2回目の時に、友枝さんと(武志さんの)妹の正枝さんが訪朝しております。
遺骨の代わりと言って砂の袋を持って来ております。
その後私たまたまビデオに録ったものがありますけども、骨の代わりと言って砂袋を持ってきました。
その後友枝さんは何回も訪朝しております。
金正日が拉致を認めてその後、友枝さんの武志の戸籍復帰とかそれから武志の一時帰国の事とかありまして、2002年に武志が一時帰国を果たしました。
その時兄貴が言った帰国してから墓の話をしたら、こういう墓が出てきたと言うことですけど。
武志が帰国した時にもちょっといわくがありまして。
うちら家族、拉致を声を上げる上げないと言うことを話していたんですけども。
その時に友枝さんのところへ電話して「私たちも迎えに行きたいんですけども」と話をしたんです。
友枝さんから「警備が厳しくて小松空港へは入れませんから」とお断りでした。
でも一応無駄でも行きましょうということで、家族が行ったんですけども。
警備は厳重でしたけども、まぁ入れました。
入ったんですけども、武志は正面のロビーから出ませんでした。
私たちが迎えに行ってるときにロビーから出なくて横の通路。
まぁ非難通路という何か他の通路か、そこから出て行って友枝さん側の、あの人は旧姓ハタナカって言うんですけども。
ハタナカ一家の出迎えを受けて寺越一家の出迎えは受けずに、小松空港から出て行きました。
歓迎会が色々ある中ですけども、その中で兄貴が仕事の関係で歓迎会出たわけです。
そこで墓の話が出て、(武志さんが北朝鮮に)帰ってからこの墓が出てきたんです。
そういうことで友枝さん側の一家でパーティやら歓迎会やらやって、一週間ほど過ごしたんですかね?
それから何にも言わずに帰ったんです。
私たち寺越一家とは全く一切の面識無し。
手紙来てから寺越の人たちは皆から集めて借財を送って、生活の足しにということで何回か送ってるんです。
当然そういった御礼とか、少なくとも寺越の挨拶くらいはしなきゃいけない。
それなのに全く無かった。
そして帰った。
その前に雑誌の取材の中でうちの親父が手が器用だと言うことで話をした。
その後で出てきたのが確かにこういった折り紙細工。
これも私たちが声を上げてから出てきたことです。
しかしながら、今これ綺麗ですけども。
親父から教えられて作ったと言う紙細工なんですけども、38年当時の北朝鮮の紙質って言うのはこんなようなもんです。(一通の手紙をかざす)
これは向こうから外雄さんたちが送ってきた手紙なんです。
中身はって言いますと、昔のわら半紙のようなものに書いてあるんです。
これが当時の手紙なんです、実際の。
こんな時にこんな綺麗な、ね、なんていいます?折り紙?があったかどうか?です。
これを出してきています。
私たちが声を出してから。
ただ親父に教えられて作られたと持ってきていますけど。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志さんに教えたと」)
いや、親父から教えられて武志が作ったと。
ちょっと待ってください。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志君が教えてもらったやつを武志さんが折ったと)
そうです、で持って来ていますんですけど。
つまり言いたいのは、こんな紙質で昔はあったのかどうか?と言うことと。
それからいつから折り始めて、誰に売って、いくらになって、そのお金を何に使ってということが、生活に密着したことがまず出て来ていない。
(兄の寺越昭男さんがマイクを取る)
ちょっと補足させていただきます。
弟の言いたいことは、実は手紙が来てから17年間。
父に関しての情報っていうのは一切無かったんです。
2002年10月まで。
(友枝さんが)二回目の訪朝をして「外雄さんから託ったよ」と言って、「これは墓の土なんや」と土をあずかった、だけ。
後何回か訪朝してますけど、父に関する情報は一切無いんです。
それで2002年私らが声を上げてから私らが運動する中で、友枝さんが今の墓の写真を出してきたり、父親から武志が習ったいう折り紙細工を北朝鮮から持ってきたり。
いかにも父が生きとったよ、という要するに証明というかアリバイ作りの工作みたいなものをしてくるわけです。
で、これがもし本当なら今までにとっくにそういう話があってもいいんじゃないか?と私らは思ってるんですが。
そういうことを弟は言いたいんじゃないか?と思いますけども。
折り紙細工もそりゃ本当に父親から習ったのかもしれん。
しかし昭和38年、拉致された当時の北朝鮮の経済状態というものを、これは24年後に来たものやからそれ以前はもっともっと悪いわけです。
タバコの空き箱で作ってがって、売ってがって生活の足しにしたというけども、そんなもの折り紙細工の作ったものを、北朝鮮の人が買いますか?
全然私らにとっては「なんや?それ?」と言うことでしかないわけです。
私らは友枝さん・武志を批判してるんじゃないんです。
あくまでも北朝鮮側が友枝さん・武志に対してこういう工作をしなさいと。
生きとったという事を証明をしてということを、おそらく言われてると思うんですね。
それに対して私らはいちいちああやこうやと言うて反論はしません。
友枝さん・武志さんは被害者。
本当に逆に言うと本当にかわいそうやな、と。
42年経って武志は本当に日本に帰って生活もしたいやろうと思うけど、子供が出来て孫が出来て家族が大きくなればなるほど、大地に根っこが生えたみたいでどうにもならんわけです。
だから武志のことを考えると、日本政府は救助なら救助でいい。
どうして自由に行ったり来たりさせるように、北朝鮮に要求しないんですか?
そうでしょ?
もちろん前回来た時は、二人の通訳として北朝鮮から来た監視役が24時間付きっぱなしだったと思います。
そうではなくて自由に日本に来たい時に来て、帰りたい時に帰る。
そういうふうな環境に武志をしてやりたい。
もうひとつ忘れていかんのは外雄さんの家族もいるわけなんですね。
外雄さんの家族もやっぱり幸せになっていただきたいと思うし。
やっぱりそういうことを、私らは運動のひとつとして。
これは拉致の被害者全員に言えることやと思うんですね。
おそらく早いうちに拉致された方は武志のような環境になってる人が多いかもしれん。
そうなった場合に日本の政府として本当に自由に日本に帰れるようにするのが、日本の政府の仕事やと思います。
このことも含めてこれから政府に要求していきたいと思います。
(北野政男さんにマイクが戻る)
元に戻って、ちょっと横道にそれましたけど。
これがうちの事件のあらましでしたね。
またちょっと記憶の方に戻っていきたいと思うんですけども。
本来なら武志が北朝鮮での5年間の生活を、大きいアドバルーンくらいの量を覚えていなきゃならない。
逆にうちの(三男の)美津夫は全く記憶がないと言いましたけど。
これは18歳前後の時に養子に行って他の姓に変わって、寺越のうちらの情報を全く受け入れる状態じゃなかった。
それで20年25年経ったら、親父の記憶を全部ポンと飛ばしたと。
思い出そうとしても思い出せないんです。
(兄)二人がやっていても思い出せない。
記憶が飛んでしまった。
もし寺越武志が事故の時に、うちの親父が事故で安明進氏の言うようにして海に捨てられたと。
銃殺されて重りを付けて海に沈められたという事になると、寺越武志はそれ以後の親父の記憶はないわけです。
さっきアドバルーンくらいの大きさの記憶があるといいましたけども、これが本当なら親父の記憶は全く持っていない。
当然。
そして尚、ああいう事件の後ですから、思い出したいと思っても思い出せない記憶ですから。
当然あれだけの出来事であれば忘れてしまいます。
そしてさっき記憶、(武志さんが)ビー玉かパチンコ玉かというくらいの記憶を事故の前の記憶を持ってるけど。
うちの美津夫でさえ石川県・日本に居て出さえ、記憶が飛んでいるのに、ちっさな記憶を武志が持ってるわけが無い。
当然親父が海に沈められた。
外雄さんと武志で二人で北朝鮮に渡ったと。
だから記憶は全く持っていけない。
ゼロだと考えられるわけです。
そのなかからこうやって親父の誕生日、それから器用だったと折り紙を出してくる。
北朝鮮も親父のことをまったく知りませんから、出してくることは不可能。
全てこれは友枝さんが北朝鮮に行って、北朝鮮と協議の上で墓を作り、こういう物を出して来ております。
もしうちの親父が北に向こうに渡ったら、まずこういうものは出てくるわけが無い。
これはちょっと貰ったんですけどもね。
この中で何月何日だ?
2002年の10月3日に武志が帰ってきて、小泉首相と面会しております。
その中で「故郷の記憶が出てこない」という発言をしております。
これは、小泉じゃない、森前首相だ。
それなのにうちの親父の記憶を持ってることはありえない、と思います。
それを裏付けるのはこれはちょっと出してもらったんですけども、皆さん報道の方は調べになれば分かると思うんですけども。
(友枝さんの)訪朝回数。
最初の頃は3年に1回とか、2年に1回とかっていうそういう回数でしたけども。
1999年くらいからだんだん多くなってきております。
この年数で3回。
そして2000年に2回。
3回4回とか2回とか、だんだん多くなってきて。
これは武志の書いた「人情の海」と言う本です。
こう言うものを書いたり。
それから友枝さんの本が出たりしてますので、そういった面でだんだん回数が多くなってるんじゃないかと。
ましてや武志が一時帰国を果たした後、5回6回と言う訪朝回数を重ねております。
これは帰国して墓石が出て折り紙が出て、それを製作するために友枝が行ってやってきた。
つまり親父は北朝鮮には全く上陸していないと言う証拠であります。
記憶の面から私はそういった推察が出来ると思っております。
墓が遺骨があるとか無いとか、当然なければ何だかんだ言って出してきません。
出せません。
出してこないんじゃなくて出せないんです。
一回目の帰国の際に私たちに会わなかった。
寺越家に会わなかった。
会わないんじゃないんです。
会えないんです。
寺越家から寺越昭二の質問をされると武志は何一つ答えることは出来ない。
だから、会えない。
この人情の本とか友枝の書いた本とか、島崎(譲 社会党代議士=当時)先生が書いた冊子とか、親父の生活感が溢れるものは何も無い。
これまで私たちは言ってきましたけど、この中にも出てこない。
書かないんじゃなくて書けない。
いくら友枝であっても5年間、向こうの5年間のこれは事故以後のことですよね?
事故以後のことであれば友枝はいくら逆立ちしても書けないんです。
武志でしか書けないんです。
だけども全然載ってない。
武志でも書けないんです。
と言うことが私は言えると思います。
最後にちょっとおかしいことになりましたけど。
私たちが声を上げたその日から、寺越友枝はうちらの声を静めようと色々工作をしております。
それに救う会の方にも色々工作をしております。
最近で私が一番新しく聞いたのは、うちらの家族の子供の仕事場にまであること無いこと電話をかけている、と言うことを私も聞いております。
先ほど兄貴は寺越友枝のことを恨んでないとか何とか話をしましたけど、私は反対なんです。
拉致問題が第一の被害とするならば、私は友枝がそうやって色々工作をしてくる。
これは私「第二の被害」だと思っています。
これは範囲が広いんです。
うちらの子供たちに関わるかもしれん。
それから救う会にも関わるかもしれん。
暴力があるかもしれん。
向こうの出て来方によっては。
物凄く範囲が広い。
それに友枝本人も「第二の被害者」だということです。
本来拉致被害者であるべき人間が、北朝鮮の救助と言うことにしようという工作に乗って、北朝鮮によって動かされている。
それがすでに第二の被害。
進行しているものと私は考えてます。
そしてその工作によって被害がもし出た場合は、誰が責任を取ってくれますか?
当然北朝鮮が悪い。
友枝も北朝鮮に動かされてスパイみたいなことをやらされて、こういうものを出して来てと言うのは友枝も悪い。
しかしながら悪いのは日本政府。
一時被害は当然食い止めることは出来ませんけども、二次被害というのは食い止めることは出来る。
政府が拉致認定をすることで、北朝鮮はこういうことをやっても意味が無いということです。
友枝もこういうことをやっては来れないということです。
そういう意味で、私は日本政府に対して速やかに一日も早く拉致認定をしていただきたい。
二次被害が出ないように、これは政府の責務であります。
これを強く政府に申し上げたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)
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