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拉致の解決を願って
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寺越一家を救うぞ東京集会(7)西岡力さん-1

2005-04-14 | 寺越一家を救うぞ東京集会
西岡です。
まず寺越事件について、今安明進さんの証言の話が、寺越さんたちからそして大口事務局長から出ていますが。
実は最近安明進さんが本を出しまして。
「新証言・拉致」と言うこの本の中にその証言が出てきています。
それはすでに私が、これは正論の2003年12月号に書いたんですが。
2003年の10月くらいに詳しく聞き取りをしていまして、それを元に救う会石川が刑事告発をしたと言であります。
その事をまずご報告したいんですが。

2003年の9月にですね、安さんと一緒に石川に行ったんですね。
事故があった現場を見に行ったわけです。
そこに行きますとね、網をかけてた所は100メートルくらい。
海岸から離れている磯なんですね。
たった100メートルしか離れていないんです。
すぐ近くです、見えるんですね。

ハチメ漁ですね。
メバルの事をハチメと言うんだそうですが、私も知らなかったんですけども。
の網をかけていたと。
そして安さんが海の方を見ないで後ろを見るんですね。
なんで後ろを見るのかな?と思ったら
「ここは上陸地点として大変良いんだけども、海から見て何か目印があるはずだ」と。
磯でしてですね、すぐ後ろに道があるわけです。
しかし街灯も無くて寂しいところなんですね。
磯からすぐ上がったら道があってどこかにいけると。
そして寂しいところだと。
大変上がるのに良いところだと。
しかし何か遠くから見て目印があるはずだときょろきょろしてたんですね。

そしたら当時のことを知ってる寺越家の親戚筋の方がですね、実はあの山の上に大きな松が昔あったんだと。
一本松として有名でそこの下にござを敷いて芸者を上げて遊んだもんだと、いうふうに言ってたんですね。
だからつまり入ってくる時に遠くから見えるわけです。
あそこが上陸地点だと。
その松を目標にして工作船から小船が出て来て、それからゴムボートで上がってくるわけです。
あるいは工作船が近づいてくるわけです。
60年代は小船とかゴムボートがあったかどうかちょっと分かりませんが、目印があったということで、大変良い場所だと、言うことが分かってですね。
そして実はと言って、先ほど名前が出てきましたオ・グホという政治軍事大学の自分の担当の教官からこういう話を聞いていたんだと言って、詳しく話をしてくれたわけなんです。

それはですね、1988年のことなんです。
安さんは87年に入学してますから2年のときですね、大学の。
その時に88年の10月にめぐみさんたちを目撃して、チョン教官からあれは俺たちが拉致した女の子だと話を聞いていたので、安さんのクラスは拉致問題について皆関心が高かったわけですね。
そして航海の授業があるんです。
つまり船に乗って航海して進入するための航海術の授業があるんです。
その担当教官がオ・グホだと。
オは呉と書くんだと思うんですけど。
グホはちょっと漢字が分かりませんが、求めるとさんずいに告げる(浩)かなぁ?と。
朝鮮は漢字使わなくなってるので分かりませんけどね。

彼は当時88年に60歳くらいで航海講座の副講座長をしていたと。
61年くらいから17年間、清津連絡所で工作員をやっていたと。
たたき上げの人なんです。
講座長は上から来た幹部らしいんですけど、彼はたたき上げで清津連絡所でずっと60年代から工作員をやってて何度も日本に侵入した事のある男だった。
清津と言えば日本担当ですから。
そのあと17年間工作員をやったあとも連絡所の幹部をやってて、80年代の半ばまで清津にいたというんです。
60年代から80年代の半ばというのはまさに清津連絡所で日本人拉致が行われていたときに、ずーっとそこにいたわけです。
(日本人)拉致のことを知ってる人が、引退して学校の先生をやっていたと。

そしてですね、航海術で授業でですね。
「わが国の海岸線は単純だけど、日本は凹凸が多い。砂浜が多いから地形を見て航海することは容易ではないんだ」と。
「韓国の方は山がすぐ海につながっていて地形を見ながら航海することは簡単だ」と言うような授業をしてたんだそうです。
そしたら学生がですね。
「教官、日本によく侵入したんでしょ?」と聞いたんだそうです。
「そうだ、よく行ってきた」と。
「俺は日本にだけ行ってきて南には行ってないんだ」と言った。

学生が「チョン教官が拉致したと言ってるんですけども、オ教官の時も拉致がありましたか?」と。
チョン教官も清津ですから。
オ教官よりも後輩ですけども、めぐみさんを拉致したと言ってるからその話をしたわけです。
同じ清津出身ですからね。
そしたら「俺たちもたくさんやった」と。
「俺が元祖だ」と。
「俺たちがやったのが一番先だろ」と。
「1960年能登半島に入って俺たちは3人拉致してきた」と言ったと。

60何年かもその時はっきり言ったというんです。
安さんは今その数字は覚えていない。
ノトだったか?トロだったか?
半島だったか?湾だったか?
とにかくそういう音の地名を言ったと、いうふうに覚えていると。

「その時も拉致をしてたんですか?その話をしてくださいよ」と。
つまり金正日政治軍事大学では76年に金正日の拉致指令が出てその後拉致が本格化したと、安さんたち習ったわけですね。
60年代にも拉致があったと言ったから、「そのときからやってたんですか?だったらその話聞かせてくださいよ」と、学生たちが質問したと。
「駄目だ、授業続けなくちゃいけない」と言ったんだけど「お願いします」と言ったもんで、「それじゃあやってやろうか」となって。

「夜日本の海岸に船の明かりを全く消して低速で侵入して来たんだが、思いがけない場所に小さな船が突然現れて、大声を出して何か言ってきた。
声が聞こえてそれが分かった。
お前たちその場で状況判断をしなきゃならない。
任務は遂行しなきゃならないけれども目の前に誰かいる」
学生たちに「お前たちならどうする?」
授業で言ったそうです。

だいたい雑談の方が人間ってよく覚えてるんですね。
講義はよく覚えてないけど、こういうのはよく覚えているんだと、安さん言ってましたけど。
それで学生の誰かが「殺さなければなりません」と。
つまりそれは上陸地点を守らなくちゃいけないんです。
何回もこれから使わなくちゃならないんで、工作船で見られたと。
そしたら殺さなきゃならないと言うのが工作員学校での正解なわけですね。
そしたらオ教官が「子供がいたらどうする?」
で学生たちは子供も殺すのか?という事になって沈黙をしたというんです。
そしたらオ教官が「子供一人のために革命事業を駄目にするのか?」というふうに言って。
「その時も子供がいたんだ」と。

「子供でも殺さなきゃならない。
しかしその場で殺して遺体を放置すれば次に進入する時に疑われる。
疑われない場所まで乗せていってそこで殺して捨てなければ駄目だ。
それでこちらに乗り移らせようと何回も上がって来いと言ったが、聞かなかった。
小さな子供が怖がって大声で泣いたと。
泣き声が大きかったのでその場で子供をかばっている人を射殺したと。
その後ぶるぶる震えている子供一人、大人一人を乗り移らせ、死体を乗せ上げた。
彼らの船が証拠として残るから、こちらの船を一度後退させてその船をひき潰した」

学生が「死体をなぜ船に乗せたんですか?」と聞いたと。
実は訓練の中で工作員の学校では学生が死ぬんですね。
死ぬことがあると。
死体ってのは重たいんです。
学生たちは死体が重たいと言うことを知っていたから、死体を引き上げるのは大変だったろうと思って聞いたと言うんです。

「死体もひきあげるんですか?」
「船にはロープがたくさん有るだろう、死体一つ持ち上げられなくてどうするんだ?」と。
ロープ術というのを習うわけです。
ロープで荷物を持ったりとか。
「じゃあ清津まで死体を乗せてきたんですか?」と学生が聞いたら
「馬鹿、何キロか行って捨てたんだ」と。
「でも死体はそのままでは沈まないじゃないですか?」
「潜水で使う鉛の錘があるだろう。それをいくつか紐で結び付ければ沈む」
という会話だったと。

具体的ですよね。
そういう言う会話があったわけです。
ただしその話の中で一つだけ矛盾することは、船が証拠として残るからこちらの船を一度後退させて衝突させてそしてひき潰したというけれど、実は清丸はひき潰されてなくて船首の所にぶつかった痕があったと。
そしてそこに緑色のペンキがあったんですね?(隣で昭男さんの「そうです」の声)
ペンキを、つまり日本の漁船と衝突したんじゃないか?ということで海上保安庁がずい分捜査したんですね。
そしたら外国製だと、その塗料がですね。
そしてあたりを操業していた船にそのペンキを塗った船は無かったと、言うところまでは分かってる。

真っ暗な海ですから、小さな船だったので速度を上げて高速で工作船とぶつかった時に、逆に波が起きて潰したと思ったけど、船首だけ当たってくるくる回ったか何かして残ってたんじゃないか?と。
小さな船だからそれで水が入って沈むんじゃないかということじゃないか?と推測されるけど、そこだけ辻褄が若干合わないんですけど、今のような説明を考えると合うと、いうことなんです。

それからもうひとつですね。
実は安さんは寺越武志さんを政治軍事大学で目撃してると言ってるんです。
今の話は88年ですよね。
その後3年後の91年の9月くらいにですね。
オ・グホ教官が引率して実際に工作船に乗って海上訓練ってのをやるんです。
だから安さんもああいう船に乗ってたわけですね。
乗って訓練が終わって学校に戻って来たと。

そして大学の中に倉庫がありましてね。
濡れた装備を乾かして、午後4時から5時くらいに6~7人の学生がオ教官と一緒に装備をトラックに積んで倉庫に行ったわけです。
学校の中の。
装備には武器もあるもんですから管理が厳しくて、倉庫長と教官がちゃんと戻しましたとサインをしなくちゃいけない。
システムになってたから教官もついていった。

安さんは倉庫の中に入って装備を運んで、他の学生は倉庫の外で作業をしていたと。
トラックから降ろしたりして作業をしていたと。
外にいる学生のそばにいる教官がいて、何か日本人について話をしているのが倉庫の中でも分かったと。
装備返却が終わりオ教官と倉庫長が確認作業をいているとき、トラックの荷台に座っていて学生たちがタバコを吸っていたと。
そして安さんが他の学生に「さっき何の話をしてたんだ?」と聞いたと。

丁度その時にですね。
安さんたちが作業をしていた所から10メートルか15メートルくらい離れた所にある通信装備の倉庫の前にトラックが止まっていて、そこで2~3人の私服の男が。
工作員学校の生徒も教官も軍服なんです。
日本人教官は私服なんです、外国人教官は私服なんですね。
私服の男が通信装備を運び込む作業をしていた。
安さんの同僚の学生が「あれをみろ」と言って、「どいつだ?」と安さん聞いたらばですね。
「あの男だ、オ教官が拉致したんだって」と言ったんだそうです。
学生が「小さい時に拉致してあそこまで大きくなったって、自分が育てたかのように自慢してたよ」と。
安さんに言ったと。

顔を見たらですね、寺越武志さん。
今思い出すとですね。
安さんの記憶力というのはかなりの物ですから、こういうことも言えるのだと思いますけど。
顔とよく似ていたと。
髪型も今の武志さんと同じで眼鏡もしていたと。
その安さんの同僚の学生が「教官が自分の家にもよく来る」と言っていたと。
「誕生日にはいつもお祝いを持って来るんだ」と。
別の学生が「教官がここに出入り出来るようにしてやったらしい」
自分が拉致したもんで、政治軍事大学に出入り出来るようにしてやったらしい。

また別の学生が「あの男からも外貨を取ってるんじゃないか?」
オ教官はですね。
実は拉致された日本人を自分の家に出入りさせて、その日本人から外貨をせしめていると言う噂が流れてた。
実は安さんはオ教官の家に、学内にあるんです。
射撃場の下にあったんですけども、そこに何回か言ったことがあって、そこで市川修一さんを目撃してるんです。
そういうこともあってですね、「あの寺越さんからも外貨をせしめてるんじゃないか?」と噂が立ってたと。

教官は学生たちに「学生は自分で持ってくるって教官言ってたぞ」
そういう会話があったと。
そしたらオ教官が話をしている学生たちに近づいてきて。
学生が「あの日本人と挨拶しないで分かれていいんですか?」と聞いたんです。
「俺のうちによく来るんだ」と言って声をかけないでそのまま別れたと。
というやり取りがあったと、安さんは覚えている。
現場の様子からしてもですね、矛盾が無いんですね。

先ほど現場のところで言うのもうひとつ忘れたんですけど、網をかけてるところがありましたよね。
当時網というは高価なんですよね。
その網はですね。
現場で聞いたんですけど、いつも同じ磯にかけるんじゃなくて、移動させるというわけです。
たまたまその日現場にかけたんですね?
たまたまそこが松の木の所だったんです。
何回も上陸地点として利用しているところに、その日網をかけちゃったんです。

普通ですね、こんな小さな船に乗っていて大きな怪船舶が来たら逃げるんです。
声なんかかけない、近寄っていかないんです。
怪船舶を目撃している漁船の情報ってのはたくさんあるんですけど逃げるんです。
自分の網があるもんだから近づいて行ったんです。
真っ暗な中、静かに低速で工作船が入って来たんだけど、網のところにいるわけですから。
真っ暗だけど何か来るのが分かるわけなんです。
網の傍にいて漁をしてたんですからね。
夜中の真夜中ですけどね。
だから大きな声で「ここに網があるんだぞ!」と「近づくな!」と言った。
で見つかった場合は殺さなきゃいけないと言う原理がある。
騒いだんで一人殺したけど子供がいたから、その後言ってませんけどそのまま連れて帰って来た。
状況がぴったり合うわけです。

そして今お話で記憶の問題だとか墓の問題、つまり5年間一緒にいたんであればね。
昭二さんのことについて武志さんは知ってなくちゃいけないのに、今現在その話は一切出て来て無い。
そして誕生日の、この墓の写真も寺越さんたちが家族会に入ってから後出てきたんですね。
新しく作ったわけですから新しいわけですよね。
3月30日となってる。
31日なのに30日となってる。
生まれた日と死んだ日とがなってる。
友枝さんの記憶違いだったのか?
あるいは外雄さんが聞かれたときに、もしかしたら後で昭二さんのことが問題になる時が来るかもしれないと、一日意図的に違えて教えたか?
兄弟ですからね。
兄貴の誕生日をどれくらい覚えているかどうか?ね。

(昭男さん)
それにうちの兄弟は11人と多いですからね、全部は覚えておれないと思います。

(西岡氏)
昔みたいに誕生日祝いとかそういう習慣無かったですからね。
そうすると、もしかしたら友枝さんがうろ覚えでどこかで調べてこうだと、戸籍謄本を調べてなかったと。

(昭男さん)
この写真がこの写真の半年後に撮った写真なんです。(墓の写真を一枚示す)
わずか半年でこれだけ汚れるんですね。

(西岡氏)
ああ、そうですね。
本当に汚れてますね。
人が来る時に磨いてたんなら、このときも磨いてなきゃおかしいですよね。

(昭男さん)
だから本当にこれは武志が帰ってすぐに作って、正枝にこの写真を撮りなさいと。
おそらくそういうことではなかったかなぁ?と
でなければ正枝さんが行く必要はなかったわけです。
わざわざ。
武志が帰って来てわずか2週間でなぜ行く必要がありますか?
わざわざこの写真を撮りに行ったんだ。
こっちの写真をね。

これが叔父の外雄さんの墓らしいんですけど、こうして草っぱらに寝かせてあるっていうか。
こういうふうに傍らに寝かせてあるって言うか。
墓の全景と言うのはこれなんですけど、小高い丘に墓があるそうなんです。(山の風景写真を示す)
北朝鮮では目上の人の墓を上につくって順番に段々下がって来ると。
うちの父親の下に外雄さんの墓があると。
ちなみに武志はうちの親父の息子として向こうで生活しとったと、いうふうに友枝さんが言うとって。
親父の墓の喪主は武志なんだと。
北朝鮮は家族が反対しとるいうのは武志が反対しとるんだと言うことで。
で反対する理由は、本当は無いはずなんだけどね。
そうでしょ?
本当に救助ならば遺骨を持ってくればいいわけです。

前に友枝さんが遺骨を持ってきてやると。
日本政府にも私らにも渡さん。
本願寺に、西本願寺か東本願寺かちょっと私忘れましたけど、本願寺へ持っていくと。
どういうことなんかんぁ?と
本願寺へ持ってって、無縁仏にすれば(他人の骨と)皆一緒になって、私らの親父の遺骨が分からんようになるんやないか?と。
そういうふうに考えたんじゃないか?と。
ということは鑑定をされたくないという思いがおそらく出たんじゃないだろうか?と。
で私らとしては遺骨を確保した時点でもう明らかにそれは偽物であると思ってますので、政府には私らはまだ葬式はしてないので、遺骨はそのままに返還して欲しいと斎木さんにもお話してるんですが。
北朝鮮は出す時にはおそらく火葬して出して来るんじゃないか思っています。

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