迷狂私酔の日々(再)

明鏡止水とはあまりに遠いこの日々。

[オキナワを歩く]その46・チビチリガマ(c173)

2007年05月30日 | 旅する。
5月30日

チビチリガマへと、再び歩き始める。


62年前、米軍が上陸した時にこの自然壕にこもった人々は、「集団自決」で大半の方々が亡くなった。

若者が老人を、親が子を、手にかけた場所だ。

読谷の人々はいったんは忘れようとし、しかし忘れてはいけないと戦後数十年たってから語りはじめた。

写真集を佐喜真美術館で見た。家族が殺し合った様子を証言する老女の喉には今もなお真一文字の傷が走っていた。

幾度か迷った末にたどり着いたガマの前では、修学旅行の中学生たちがガイドの話を聞いていた。

ここにある慰霊の彫刻は一度破壊された。地面には日の丸をつけたモリが刺さっていた。

明らかに右翼の仕業だった。死者たちは二度殺されたのだ。

「集団自決」が命令されたものでなく、民衆がもし「自発的に」やったものだとしたら、そのような精神構造を作り出したのは何なのか?

沖縄の人々は、いまでも「愛国心」という言葉を聞くと鳥肌が立つという。美名のもとに凄惨な殺し合いを強制された記憶は、今も消えない。



[オキナワを歩く]その45・象の檻が見える城(c172)

2007年05月30日 | 旅する。
5月30日

残波岬から座喜味城跡まで2時間ほど歩く。

熱帯の真昼、このピーカンの天気で外を長時間歩くのは自殺行為である。

なんてバカなんだろう。

それはともかく、順調に東南方向へ向かい、城跡へと上っていく。

琉球のグスク関連で世界遺産に指定された遺跡は本島各地に分散しているが、私はこの座喜味城跡でそのすべてを訪ねたことになるようだ。

ここに来て、プレートの説明を読んで、やっと気づいた。

城跡はアーチ門の上部中央の楔石などに特徴があるそうだが、私の注目は別のところにあった。

海側を眺めたときにイヤでも目に入る巨大な檻だ。

米軍の楚辺通信施設、通称「象のオリ」。

大型ヘリ、戦闘機、輸送機などなどがひっきりなしに飛び交う。嘉手納基地はここからすぐだ。




[オキナワを歩く]その44・「11管区の方ですか?」(c171)

2007年05月30日 | 旅する。
5月30日

MTDさんの車に乗せてもらって、残波岬で落っことしてもらう。

今日もいい天気である。

歩きと自転車ばっかりなので、どうやら顔と腕が黒々と焼けているらしい(本人は自覚していない)。

灯台に上ろうと窓口に行ったら「11管区の方ですか?」と聞かれた。

オレのどこが海上保安庁なのだ?

日焼けしてサングラスをかけているだけではないか?

いずれにせよ、灯台の上からはいい景色が見えた。