落ちた天蓋を晒す浦上天主堂
今年の12月8日は大平洋戦争への火蓋が切られた真珠湾攻撃から70年目にあたった訳だが、3年8ヶ月後広島に続き長崎に原爆が落とされることで、大本営は本土決戦の方針を飜し降伏に向った。
写真は落ちた天蓋を晒す浦上天主堂。投下された時間、天主堂内では「許しの儀式」が執り行われており神父を始めとする信者全員が死亡した。
戦後、...長崎市民は鎮魂と原爆資料の意味合いから廃墟保存を要望したが、自国を含む広くキリスト教社会にこの残虐が伝わるのを恐れたアメリカはその保存に強い危機感を示し、原爆の惨状をありのまま伝える道は閉ざされ、浦上天主堂原爆廃墟保存委員会は昭和33年(1958)解散している。
この廃虚が保存されていたなら世界的な核廃絶運動へ大きな力を発揮したであろうことは疑いない。アメリカはそれを恐れた。もっと見る
今年の12月8日は大平洋戦争への火蓋が切られた真珠湾攻撃から70年目にあたった訳だが、3年8ヶ月後広島に続き長崎に原爆が落とされることで、大本営は本土決戦の方針を飜し降伏に向った。
写真は落ちた天蓋を晒す浦上天主堂。投下された時間、天主堂内では「許しの儀式」が執り行われており神父を始めとする信者全員が死亡した。
戦後、...長崎市民は鎮魂と原爆資料の意味合いから廃墟保存を要望したが、自国を含む広くキリスト教社会にこの残虐が伝わるのを恐れたアメリカはその保存に強い危機感を示し、原爆の惨状をありのまま伝える道は閉ざされ、浦上天主堂原爆廃墟保存委員会は昭和33年(1958)解散している。
この廃虚が保存されていたなら世界的な核廃絶運動へ大きな力を発揮したであろうことは疑いない。アメリカはそれを恐れた。もっと見る