今日の地震ではあまり大きな被害が無いようなので安心しました。
大きな地震が起きるたびにひやひやします。
原発が有るからです。
原爆と言うと、開発にはあの有名なアインシュタインもかかわりました・・・・
アインシュタインの以下の言葉は、自分が係った原爆開発で裕福にもなり、日本で実験し、多くの名誉、
権威を手にして、キット世界を動かせるほどの政治的権力者の組織から日本の歴史を少なからず聞く機会が
有ったから出た言葉なのでしょう。
「近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。
果たせるかなこの国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという国体を持っていることが、
それこそ今日の日本をあらしめたのである。
私はいつもこの広い世界のどこかに、一ヶ所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた。
なぜならば、世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、最後には闘争に疲れる時が来るだろう。
そのとき人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いない。
その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。
我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたことである。」と言いました。
でも原爆の日本(戦争での)使用を食い止めようとした学者が居ました。
ニールス・ボーワです。
ここから下は良く読んでね!
彼は高潔です。
量子力学の天才ニールス・ボーワ・・・去年の10月7日は誕生127年の祝いでした。
私の大好きなニールス・ボーワはビューテイコ呼吸法で言う、呼吸亢進(こうしん)の理論を
裏付けるボーア効果を発見した、クリスティアン・ボーア(Christian Bohr)の息子さんです。
以下
「量子力学の確立者」より
第二次世界大戦勃発
1939年に第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパの多くの国がドイツによって占領され、
ユダヤ人の多くが次々に収容所へと送られ始めました。ボーア自身もユダヤ系でしたが、
デンマークが中立の立場を守っていたことから、彼はヨーロッパから脱出するユダヤ人や亡命する科学者たちの窓口
として活動するようになります。
その後、デンマークがドイツに占領されてもなお故国を離れようとはせず、
ギリギリまでユダヤ人たちの脱出を手助けしました。
最終的に彼もまたアメリカへ渡りますが、そこで彼は大戦の行方を左右する計画に加わることになります。
それは当時ナチス・ドイツも研究開発を進めていた核兵器の開発でした。ただし、
彼はヨーロッパ戦線が終わりを迎える頃にアメリカに渡ったこともあり、ロス・アラモスで行われていた
「マンハッタン計画」はすでに始まっており、原子爆弾はもう完成間近でした。
しかし、この時彼が知ったのは、この原爆を開発した科学者たちの多くがそのことを後悔し始めているということでした。
それは自分たちが生み出した兵器が、どれほどの被害をもたらし、
その放射能の影響がいかに広範囲、長時間に及ぶかを十分に理解していたからでした。
<核開発のジレンマ>
ボーアもまたその危険の大きさを認識し、すぐにその抑止に向けた活動を始めました。
この選択もまた彼がデンマークという中立的立場の国の出身だったから可能になったことでした。
彼はアメリカの核開発に協力したものの、けっして反ソ連の立場はとらず、さらに自らのノーベル賞受賞者という立場を利用して、
イギリスでチャーチルと会い、核の抑止に向けた取り組みへの協力を求めます。
それは核兵器が実際に使用されその破壊力が世界中に明らかになってしまった後では、
もう核開発に向けた枠組み作りは不可能だと彼は考えたからでした。そのため、
イギリスが仲介者となり、米ソを会議の席に着かせようという筋書きでした。
しかし、そんな彼の思惑はソ連を徹底的に嫌っていたチャーチルによって、あっさりと蹴られてしまいました。
それどころか、チャーチルはボーアを反逆者として逮捕する必要があるとさえ考えていたようです。
こうして、物理学の黄金時代を築いた科学者たちが建てた「バベルの塔」は、世界の破滅という悪夢を人類にもたらし、
21世紀に入ってもその危険は続いているのです。
余談ですが、ボーワは原子力の恐ろしさを伝えるために自費でアメリカまで出向き
チャーチルに危険性と非人間的な兵器になる事を忠告しました。しかし彼(ボーワ)のデンマーク訛りの英語が
チャーチルに良く通じなかったと言う話になっているようですが、嘘だね!!怖さを理解したから日本で使いたかったんです。
<ボーアの残した言葉>
ニールス・ボーアは1962年6月に脳溢血に倒れ、その後一時的に回復したものの同年
11月18日故郷のコペンハーゲンで静かに息を引き取りました。(享年77歳)
彼は以外なことに生前、論文以外の文章をまったく発表していません。
彼の言葉は彼の周りに集まっていた人々の脳裏に焼き付いた記憶としてしか残らなかったことで、
その存在感はしだいに薄くなりつつあるようです。それでもこんな言葉が残されています。
「自然がいかにあるかを見出すことが物理学の任務であると考えることは、誤りである。
物理学は、われわれが自然について何を言い得るかに、関するものである」
彼は科学者であると同時に哲学者でもあったと言った彼の伝記作者ルース・ムーアは、こうも書いています。
「・・・また彼は、自然の法則を少数の基礎的な原理に還元しようと、試みもしなかった。
彼の哲学は、体系ではなくてむしろ
接近のしかた、あるいは姿勢であった」
さらにボーア自身こう語っていたそうです。
「私が述べるすべての文章は、断定ではなく、質問であると理解されるべきである」
なんだか哲学と言うよりも、禅問答のように聞こえます。
彼が多くの科学者たちに慕われたわけも、このあたりにあったのかもしれません。
<締めのお言葉>
「物理学者というものは保守的な革命家である」
H.R.パージェル著「量子の世界」より
「われわれが観測しているのは自然そのものではなく、
われわれの探求方法に映し出された自然の姿だ」
ウェルナー・ハイゼンベルク