日本語の「ラーメン」の語源はネットで検索したらいくつかの説が書いてあるけれども、ラーメン好きの方の興味は言葉よりもラーメンの中身であって、もっともそれは自然なことだと思われるが、「ラーメン」という言葉が入ったメニューの初出はどこなのかという探求はあまりみかけない。それで3年前だったか少し調べてみた。結論を言えば、戦前の文献にはラーメンはほとんど登場しない。戦後も、昭和33年のチキンラーメン以前にラーメンを見つけるのは難しい。写真とか挿絵のようなものにメニューが描かれていないかとも思うけれど、私にはラーメンに対する愛情が足りないのか、今のところそれを探してみる情熱を持ち合わせていない。以下少し調べた過程で気になったことを書いてみよう。
日本で最初にラーメンを食べたのは黄門様というのはクイズ番組などでよく耳にする。もちろん、ラーメンという名前ではなかったし、今調べてみると異説もあり室町時代に中華麺を食べた人がいるとか。しかしラーメンという言葉と関係ないので今回はスルーしよう。一般人が普通に食するということになると明治になってから、東京でまず流行ったのはワンタン屋の屋台のようだ。これは横浜華僑が源だろうか。そして、ワンタン屋の屋台のメニューの中に中華麺があったと思われる。大正15年「裸一貫生活法 : 生活戦話」によると、
「東京では露店の立つ場所に、支那そば、ワンタン屋の屋台の出てゐない處は殆どない。」
「十円の保証金を問屋に納めさへすれば、屋台から材料一切を貸してくれて、要領を教へてくれる。」
と後半は何やらフランチャイズ詐欺みたいなことが書いてあるが、そういう元締めの問屋が複数書いてある。また、大正十四年「食行脚. 東京の巻」には、柳麺に「らあめん」とルビを振ったメニューが出てくる。これは数ページ前を見ると、支那料理五百数十種の中から、日本人向きの数十種を選んだとあり、問題の箇所は雲呑麺の一種として柳麺(たけのこいりそば)に「らあめん」とルビが振ってある。注目すべきは、その2つ前にある麺類ではなく、雲呑麺の中にこれが入っていることだ。チャーシュー麺も雲呑麺の項に入っている。逆に麺類のメニューは今のラーメンからは遠いもののようだ。これは今の焼豚やメンマが入ったラーメンがワンタン屋台から分かれた名残のように思われる。しかしながら、ラーメンという言葉にこだわった時に、当時は支那そばという呼称が圧倒的であって、この「らあめん」を他で見つけるのは困難であった。内容的にはこの柳麺はラーメンの原型としてかなり有力であるけれども、言葉としてのラーメンの語源とは言いにくい。戦後のラーメンに言葉としてつながっていないからだ。
同様に、札幌の中国人店員がラーと返事をしたからラーメンになったというのは大変魅力的な説ではあるけれど、それをきっかけとしてラーメンという言葉が札幌から広まったという形跡は発見できない。戦前において、ラーメンという言葉を見つけるのはとにかく難しい。戦前にラーメンと言ってもわかる人はほとんどいなかったのではないかと思われる。
すると方法論としては、チキンラーメンから遡ればよい、それも終戦からのせいぜい十数年の間に手掛かりがあるはず、ということになる。40年前、私が子供の頃はラーメンと頼むと店主が「うちは中華そばじゃ」と嫌な顔をされることがあった。地方においてはチキンラーメン以前にラーメンという言葉を聞いた人は少なかったと思われる。インスタントの匂いがするラーメンという言葉を嫌がったのだろう。それではチキンラーメンという商品名は、どのラーメンから持ってきたのか。戦後の大阪でどれぐらいラーメンという言葉が広まっていたのか。大陸からの引揚者の中に「拉麺」を持ち帰った人がいたのかいないのか。しかしここも文献から調べるのは難しかった。あるいは今ドラマでやってることだし百福さんのストーリーを読めば出ているのかもしれないが、なぜかそういう本には手が伸びないのだから仕方がない。ラーメンの語源を特定するには戦後の大阪がキーポイントではないかと書くに留めて、他の方の考察を待つことにしたい。
私が小学生高学年で食べ盛りに入った昭和40年代後半には、すでに出前一丁やサッポロ一番など鍋で作るタイプのインスタントラーメンが出ていて、チキンラーメンを食べたことはなかった。存在を知ったのは巨人の星のアニメで星一徹が丼に湯をかけてラーメン食ってるのを見てあれは何だと興味を持ったのを覚えている。カップヌードルの登場もオバQの漫画で知った。漫画家がインスタントラーメンの普及に貢献したということはあるかもしれないが、ラーメンの語源を漫画で見つけるのは難しいかな。あるいは誰か背景にメニューを書いてないものだろうか。だらだら書いても仕方ないからそろそろ終わりにしよう。現時点ではラーメンの語源はチキンラーメンと書いても半分は当たってるような気がしているのだけれど、どうだろうか。
【追記1】ワンタンのレシピを探してみたところ、明治の本には中々見つからず、大正十五年「手軽に出来る珍味支那料理法」でやっと見つけた。上に引用した二つの本と同時期であり、この少し前にワンタンの屋台が全盛期を迎えていたのではないかと推測できる。そして、驚くべきことに、このワンタンにはメンマとチャーシューが入っていて、ネギと胡椒をかけて完成となっている。大正期の屋台でワンタンは独自の進化を遂げていて、それがラーメンの具に影響を与えた可能性もある。この時代のワンタンと中華麺は同じ具や薬味で供されて雲呑麺として同居することもあり、極めて近い関係だったとも言えるだろう。
【追記2】ウィキペディアのワンタンの項によると、ワンタン(雲呑)は広東語で、中国の標準語では餛飩(húntun)とある。この餛飩はもちろん日本に伝わって饂飩(うんどん→うどん)になったと思われるが、「拉麺」のふるさとの中国西北部、陝西省の西安語では餛飩は「ホエトエ」という発音で甲斐の「ほうとう」のルーツかもしれないという指摘がある。すると、戦前の東京の屋台の支那そばというのは上記のようにワンタンと密接な関係にあったことから、この中華麺は香港系の華僑が関わって横浜あたりから伝わったと考えるのが自然だろうか。そして戦前の屋台については、「拉麺」の二文字とは関連が薄いように思われる。もっとも、ラーメンの語源ということについては、別に中国西北部の麺打ちの技術やレシピが伝わっている必要はない。ラーメンという呼び方を誰かが伝え聞いてこちらのメニューに取り入れて、それがチキンラーメンにつながっていれば良いわけで、また戦後に語源がある可能性も大いにあることから、まだ拉麺語源説を捨てる必要はない。
【追記3】 「日本めん食文化の一三〇〇年」に、大正末期の支那そば、ワンタン屋台の隆盛は関東大震災の影響が大きかったとあった。ソースは書かれていないが、十分考えられる話だ。江戸の夜鳴きそばからの伝統かと思っていたら江戸時代とは違う理由で屋台が流行り、その主役が支那そばとワンタンであったということだろうか。
【追記4】 太宰治「葉」に、外国人の花売りの少女とワンタン屋台のあるじのエピソードがあり、チャーシューワンタンが出てくる。
女の子は、間もなく帰り仕度をはじめた。花束をゆすぶつて見た。花屋から屑花を払ひさげてもらつて、かうして売りに出てから、もう三日もも経つてゐるのであるから花はいい加減にしをれてゐた。重さうにうなだれた花が、ゆすぶられる度毎に、みんなあたまを顫はせた。
それをそつと小わきにかかへ、ちかくの支那蕎麦の屋台へ、寒さうに肩をすぼめながらはいつて行つた。
三晩つづけてここで雲呑(わんたん)を食べるのである。そこのあるじは、支那のひとであつて、女の子を一人並の客として取扱つた。彼女にはそれが嬉しかつたのである。
あるじは、雲呑(わんたん)の皮を巻きながら尋ねた。
「売レマシタカ。」
眼をまるくして答へた。
「イイエ。・・・・・・カヘリマス。」
この言葉が、あるじの胸を打つた。帰国するのだ。きつとさうだ、と美しく禿げた頭を二三度かるく振つた。自分のふるさとを思ひつつ釜から雲呑の実を掬つてゐた。
「コレ、チガヒマス。」
あるじから受け取つた雲呑の黄色い鉢を覗いて、女の子が当惑さうに呟いた。
「カマヒマセン。チヤシユウワンタン。ワタシノゴチサウデス。」
あるじは固くなつて言つた。
雲呑は十銭であるが、叉焼雲呑(ちやしゆうわんたん)は二十銭なのである。
ここまでの流れで注目すべきはラストの一行であるが、私は太宰も少しファンなので長めに引用させてもらった。もっとも「葉」は私には難解で、この断章も引用部分とその前の部分がどうつながっているのか、よく理解できていない。